2009年 08月 05日
井上&水野 お墓いってきました
7月の末についに外国奉行残るお二人の墓参にまいったからです(笑)。
いつでもいけるとおもうと、こんなことになってしまうのであります!
永井岩瀬なんて2年前、掘は去年、・・・・・なんと足かけ3年かけてしまいました。
というわけで、
井上清直、水野忠徳、おまけの矢田堀のお墓です。
まずは神楽坂矢来町コース。
井上清直さんの眠る宗柏寺。
墓地はいって右手すぐにあります☆
慶応3年暮れの薩摩との江戸バトルのなかで、
江戸町奉行として戦死に近い最後(過労死ですけど)だった
こともあり、その直後には幕府瓦解もあったので、
碑文のようなものはなく、あっさりとしたお墓なのですが。
みてください!(見づらくてすいまそん)↓
幕府外国奉行信濃守
って刻んであるのですよ~~~~。
どちらかというと役職ランキングでは「町奉行」のほうが名誉なのですが、
井上が誇りに思っていたのは、外国奉行職だったわけです。
くぅ~~泣かせるじゃありませんか!
日本で初めて(公式記録上)「乾杯!」ってやった国際人(笑)は違います☆
で、水野さんのところ(東中野)にいくまえに、わりと傍にあるというので、
矢田堀さん墓も寄ってみました。
宗源寺
こちらも墓地入って右の奥の壁際です。
(たいてい、壁をめざすと間違いありません)
函陵て、矢田堀の号です。
もともと墓誌のようなものがあったようで(永井介堂が書いたのでしたっけ)
それがない今となっては実に簡素なお墓になってしまっております。
ここへきてふと思い至りました。
「やば・・・釜ちゃん墓もいってない」←都内に生息しているとこんなものなのであります(汗)
さて、中野に移動です。
最後は、初代外国奉行 水野忠徳さんです。
東中野の宗清寺です。
こちらは墓地はいって右手そのままつきあたり。
これではわかりませんね、ズームしてみます。
こちらも墓誌、墓碑などもなし。
戊辰になくなったこともあり、井上さん同様そんな余裕はなかったのでしょう。
・・・・・結局、外国奉行ゴレンジャーで、目印になる立て札、看板のあるのは
永井尚志と掘利煕の二人のみ。
あとの三人+矢田堀にも、看板の立つ日を願ってやみませんっっ。
縁の下の力持ちらしいよいお墓ですね~(行きたかったぜぃ!)
外国奉行……最後まで泣かせますな~~。くうぅ~~!
外国奉行のみなさんのお墓はみんな、
ホントにもうね、簡素というか・・・・ちょっと寂しいぐらいの感じです。
>外国奉行
5人ちゅうでもっとも感動してしまいました、井上さん♪
こんなお墓の正面に堂々と刻んでいるのは井上だけだし。
感慨ひとしおでした☆
旗本のお墓の場所に関しては本がでてますし、ネットでもひろえますヨ!
>史実に関する知識が伴わないのでまだ無理なようです。
ツアーを実行するにしても、あんまり難しいこともなく、
まずは五人を知っていただく程度に考えておりますので
(いつかは熱く外国奉行を語り合えるところまでいけたらいいな♪ぐらいの感じです)よかったらご一考くださいまし☆
近くに住んでいる自分がこんな感じですので、東中野は近いようで遠いです(笑)。ですが水野忠徳さんのお墓の隣には旗本水野家代々の墓もありましたので、いずれ ∞ヘロン さんの墓参が叶うことをお祈りしております☆
重厚な趣の筑後守さんのお墓に比べ、信濃守さんの簡素なこと(:;)。
というか、戒名じゃないのは何故なんでございましょう?「幕府外国奉行信濃守」の文字も後付で彫ったような印象を受けるのは私だけでしょうか?すみません、井上かわゆさ故の僻み根性丸出しで・・・。
井上は戒名は側面に彫られていて、なぜか前面がコレでした(笑)。
ちょっと不思議なお墓ですよね。
・・・・ただ水野&井上どちらも、碑文がほしいっっーところでした。
永井ファミリーのように墓地いったら家族関係がオールクリアになるほどの情報を残してくれると有り難かったのに・・・なんてわがままをいってみたりして・・・(笑)。