東都アロエ

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アジアンエンタメ&お江戸後期。外国奉行や長崎海軍伝習所がご贔屓☆ BYはな。

千原栄を悼む @「旧幕府」

昨夜のR馬伝。

戦場を三味線片手に流している高杉に笑っちゃいました。

・・・これ、銀魂??

かっこいいのを通り越して、ついつい爆笑っす。


さて長州アゲアゲの世の中に、
思いっきり水を差すためにやってきました☆


最近、『旧幕府』にて「殉難士氏名録」というのを目にしまして。
改めて長州による幕府詰問使中根市之丞一行惨殺事件の悲劇のなかの悲劇を
知りました。

幕府ファンならすでにご存じの有名な事件です。
この事件をとっても簡単に説明しますと、以下のとおり。
文久3年(1863)7月、長州藩による関門海峡外国艦船砲撃事件を詰問するため、
幕府使節中根市之丞・小人目付鈴木八五郎らが幕府艦〈朝陽〉にて長州へと派遣されました。
ところが〈朝陽〉は下関港で砲撃をうけ、奇兵隊に占拠されてしまう。
詰問使一行はさらに旅館にて襲撃にあい、数名が死亡。
中根市之丞ほか従者たちは危険を察知して船にて避難するが、
なおも執拗に追ってきた暗殺者共によりついに惨殺されました。
犯人は「不明」、とされた。
(ま、犯人は奇兵隊なんだけどね)

さて『旧幕府』(4巻3号)「殉難士氏名録」に戻ります。

幕府御使番 中根市之丞 28才

家来用人  千原 栄  44才

同     長谷川勇助 37才

同 給人  浅野利衛門 48才

同 近侍  坂部広兵衛 25才

同 徒士  小山安次郎 43才

同 下部  当摩吉造  40才

文久3亥年7月14日 台命を奉じ御用船朝陽丸に乗し
御使として長州へ被差遣
同年8月19日萩の陣屋に於て暴徒のために殺さる

但し下部安五郎なるもの逃れ帰りて其由を報せり

 


ここには登場しませんが、
小人目付の鈴木もまた、従者とともに19日に殺害されております。
(なんでもこの二人は罪人でもないのに鈴木は梟首されたそうです)

こうして一行のほとんどが殺害されてしまったので、
安五郎が報告しなければ、これ闇から闇へうやむやに
されかねない状況でした。
(長州側は中根以下、船が行方不明とかいいやがってサ)


さて。
そこに千原栄の話が書かれておりました。

又家来千原栄は重役即家老職にして
中根氏の家法に家老は供に連れざる定めなる故
乞うて用人となり随従してこの難に殉ぜりという。


これを読んで泣かない人は鬼ですな(笑)。
私はもう、もう、泣きましたですよ、はい。

千原はなにか今回の役目は危険なものを感じたんでしょうね。
わざわざ家老から用人に降格してまで、主君の御供を願い出たぐらいですから。
そして主君とともに長州人に惨殺されたというわけです。
死出への旅まで御供してしまったんですよね・・・・・・。

中根事件ははじめて知ったときはらわたが煮えくり返ったおぼえがありますが、
まさかこんなせつないドラマが潜んでいたとは~~~~~~っっっ。


それにしても、使者を惨殺とわ・・・。


正義ってなんだろうね。

って思うんですよ。
ハーバードの先生の講演をきかなくても、深く考えてしまいます。

三味線じゃらじゃら鳴らしてカッコイイだけでいいのかな?

とかも思うんですね。

なにせこの事件、奇兵隊絡んでますしね(笑)。


長州のことを野蛮だ、卑劣だと叫んでみたい気もあるけど、
なんだかそれだけじゃ、中根たちの死は報われない気がする。

とくに千原栄の魂はね、そういう安易なものではないなと。


一人の家老の死に、いろいろ考えさせられました。
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Commented by enokama at 2010-10-03 17:34
普段は討幕派なんで、はな。さんの幕府側から見た記事には
いつも考えさせられることが多いです。
このころ、奇兵隊は「外国船と間違えた」とか理由つけて
薩摩船も沈めてますしね。。。
(これに加え、ドロドロした陰惨な後日談もあるんですが…)
結果的には勝者側からは、こう言った事実も語られることもないし
裏側に隠れてしまうんですよね(もちろん薩摩もタブーにしたでしょう)

詰問使と言えば、西郷隆盛が禁門の変のあとの長州処理の条件で
大宰府に三条実美ら五卿を移したりして
叩きのめすことなく、穏便に済ませたんですが
それに手ぬるいと幕府強硬派が「大坂に五卿を罪人として護送しろ」
と大宰府に送るんですが
今度は薩摩が兵を繰り出して、追い返しています。

幕威の衰えを彼らは、ほんとに実感したでしょうけど
そのあたり要人に伝えられ、生かされたことはなかったのかな
と考えてしまいます。


Commented by はな。 at 2010-10-04 10:12 x
enokamaさん、こんにちは!
討幕派だったのですね~(しかも倒幕でなく討幕!・笑)。徳川方の花形選手のニックネームと同じハンドルネームをお持ちだったのでてっきり・・・なんて勘違いしていました(爆)。
倒幕派の方には申し上げにくいのですが、どうも長州とか薩摩のほうの読み物を読んでいると陰惨な事件が多くて、暗い気持ちになってしまうことばかりです・・・・・・(汗)。
ちょっとラテン系関東人には理解できない遠い世界☆だったりいたします・・・・・・。

>要人に伝えられ、生かされたことはなかったのかな
当時の政局(幕府内)を眺めてみますと、壮絶な内輪もめが繰り広げられ、要人もコロコロ変わってしまいます。どっしり腰を落ち着けて幕府外の問題に対処できる体制とはとても思えません。こんなだから、幕威もへったくれもなくなってしまったわけですネ。完全なる政権の末期症状。逆に幕府はよくぞ瓦解せず持ちこたえているなぁとさえ思ってしまいます。
文久以降、これぞ大物といえる老中の出現がなかったことがこれほどの被害をもたらすものかと、驚くばかりなのですが・・・。
(世界的に大粒の政治家がいない今も、なんだか心配です)
Commented by 会津藩中根家末裔 at 2012-11-25 23:33 x
この記事を昨年発見!!したときには、なんとも複雑な気持ちで読んだのを覚えています。
私の祖先は会津藩で、会津に住む前は高遠でしたから、保科正之公とともに移り住み、鳥羽伏見の戦いで命を絶たれたという家系であります。
はな。さんが、おっしゃるとおりで、歴史は勝者側からみたものがほとんどで、敗者側の歴史の見方は今でも少ないと思っています。
今年の春には、中根坂、夏には会津、先日京都(黒谷光明寺)に行ってまいりましたので、一筆ご報告までと思い、コメントいたしました。
Commented by はな。 at 2012-11-26 18:39 x
会津藩中根家末裔さん、コメントありがとうございます!
「勝てば官軍」という言葉がありますが、
勝者が紡いできた日本の歴史に対する、鋭い皮肉がこもった良い言葉だなとつくづく思う今日この頃です。
当時の日記をみますと、徳川方も慶応4年正月のはじめまでは「官軍」で。京勢が「賊軍」だったようなのですが、いつのまにか反対になってしまったようです(笑)。

幕府詰問使中根市之丞一行が長州へ行った頃は、もちろん中根側が官軍だったはずなのですが、酷い災難に遭わされてしまいました。
本当に気の毒としか言い様がありません。

会津ならびに中根家ゆかりの地をまわられたとのこと。
中根坂は今年に入って何度も通っているのですが、
そろそろわたしも長年ご無沙汰している京都を訪ねてみなくては、とコメントを拝見していて思いました。


by aroe-happyq | 2010-09-27 10:40 | 広く幕末ネタ | Comments(4)

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