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東都アロエ

中根市之丞 プチwiki

おととい、図書館に『維新史料編纂会講演速記録』2に収録されている
「徳川慶喜一橋相続の事情」を複写にまいりました。

その際、もくじをみていたら、
「幕府使番中根市之丞長州に於て遭難の始末」江間政発(大正2年)
「中根市之丞遭難の地」中原邦平(大正2年)

・・・・・・偶然にも中根市之丞関連が2項目も登場しました。

これはもう、歴史調査でいうところの「呼ばれている」状態?

千原栄のファン(笑)なのですが主君のこともよく知るべきと
千原さんにテキストを渡された気分です。

ということで、こちらも複写してまいった次第。

内容はもちろんですが、事件の顛末を語ったものです。
たいへん悲惨な内容で、読んでいて凹みます。
中根市之丞は長州の地で、たいへん立派に任務を果たしており、
(やりとりが出てきますが、若くて清々しい人物です)
本人にまったく落ち度はありません。
それなのに「違勅の罪」だとか何とか、中根の仕事と関係のない
いいがかりで長州人に殺されてしまいました。
とても詳細に取り上げる気力が起きない、酷い事件でして
「呼ばれて」いるにしても、辛すぎて真っ向から向き合うのは
どうも憚られますっっ。
(というか腹が立ってきて、どうにもできなくなりそう・汗)

なので、今回は『維新史料編纂会講演速記録』2で拾った、
中根さんのプロフィールを紹介いたします。


中根市之丞 プチwiki

旗本・渡辺肥後守(甲斐守)の七男。
幼名は慶三郎。
通称は市之丞、諱は正聖。
26歳のとき、旗本・中根宮内(6000石)の跡目養子となる。
屋敷は市ヶ谷長延谷。
武芸に長じ、気概に富み、長州には自ら請うて使した。
墓は深川大工町の長善寺。
28歳で市之丞が遭難した際、妻の中根氏は13、4歳の幼女であったという。



公儀が中根の死後、渡辺氏から養子を・・・・・・という流れ
がこれでよくわかりました。
それにしても6000石の旗本だったのですねっっ。
これはすごい名門ではありませんか!
それなのに自ら志願したというのがまたすごい。
名門旗本でこういう気概をみせるパターンは稀なのではありませんか?
・・・・・・生存していたら、後年素晴らしい奉行になったかも(涙)。
(もったいない・・・・・・。有能な旗本は短命なことが多うございます)

そして!
お墓が深川にある!???
・・・・・・ちょっと調べたところではその寺は現存してなさそうです。トホホ。


というわけで、またまた中根さん記事でした!
(いつか気力のみなぎっているときに、事件についても取り上げられたら
と思います・・・・・・)
by aroe-happyq | 2010-10-21 10:37 | 広く幕末ネタ | Comments(0)