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東都アロエ

お宅探訪 第二十七回 間部越前守詮房邸【追記あり】

今回は江戸中期のお宅探訪です☆

教科書にも出てくる、六代将軍徳川家宣&七代家継を支えた、
御側用人 間部越前守詮房邸。

父親は甲府家家臣でしたが、この詮房と弟は猿楽師喜多七太夫に
弟子入りさせられ、猿楽師になるべく成長。
それが、猿楽大好きの甲府宰相綱豊(当時二十歳ぐらい。のちの家宣)のもとへ
稽古をつけるために通ううちに「YOU、キレイだし才能ありそうだから仕えない?」
ということで、甲府家家臣に取り立てられました。
輝くばかりの美貌もさることながら、誠実で実直な人柄を見込まれ
どんどん出世。綱豊はよほど気に入ったのか、
甲府家家臣の名家から嫁まで探して縁組を調え、
真鍋をなのっていたのを、「間部」という綱豊オリジナル
の姓までつくって、名乗らせるほど。
まさにまばゆいばかりの寵愛ぶりでした(笑)。
残念なことに妻女には縁組して数年で先立たれてしまい、その後は独身を貫く
ことになるので、おかげで子もいないのです。
(間部家は弟が養子に入って続くことに・・・・・・)
つまり幕末のアノ間部詮勝は弟の子孫です!

さて綱豊が伯父の綱吉将軍の継嗣と決まり、やがて詮房も一万石の大名に
なります。綱豊が家宣となって江戸城に迎えられると、
詮房も江戸城馬場先御門そばに大きな屋敷を与えられますが、
ほとんど屋敷にかえらず、常に家宣の傍で仕事に励んでいたので、
贅沢をする暇もなかったとか。
そんな生活は家宣が将軍になって数年でなくなって、
その遺児家継が七歳で死んでしまうまでずっと続きました。

さて、今回訪れた屋敷は、馬場先御門から移ったあとの屋敷のほうです。

一般に八代将軍吉宗には冷遇されたとか書かれているわけですが、
政権が交代したら側用人が御役御免になるのは当然のこと。
ですが間部詮房の場合、越前鯖江藩五万石を奪われるでもなく、
けっこう好待遇だったのでした。
というのも、尾張ではなく紀州から八代将軍を迎えるために、
間部詮房は家宣未亡人近衛煕子とともに尽力したからです(笑)。
(理由は年齢もちょうどよく、将軍としてのやる気が光っていたからとか)
吉宗が詮房のような家臣を持ちたかったと書簡でぼやいたことは有名ですが、
意外にも吉宗とはそんな感じで、ほどほどな距離感を保っていたようです。

以上長い前置きでしたが、いよいよその屋敷を紹介します。

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(『江戸城下変遷図集 6』 (6)1715年(正徳5年))

【以下3行 追記部分 2012年11月】
もともとは米庫だった土地。元禄12年9月に火災があり、
その後米庫を移転したことから、その空き地に間部邸が建てられたという。
(『日本橋区史』1巻 P198 大正5年)

屋敷は両国橋の南の川沿いにありました。
あんまり大きな屋敷なので、
その脇の大川沿いの道は、江戸時代には間部河岸
と呼ばれていたとか。
※詮房が亡くなると、間部屋敷は4分の1ぐらいに小さくなりました(笑)。

それでも間部河岸という地名だけは残って、『江戸土産』には、
四季ともにいと閑静にして月の勝景地」と紹介され、
酒井抱一は、
夕立や大名走る間部河岸」という一句を残しています。


どれだけ大きかったのか、わかりやすいかと思いますので、
みなさまおなじみの幕末の絵図でみていただきましょう。

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(『江戸切図絵で見る 幕末人物・事件散歩』より)

一橋家下屋敷+永井肥前守上屋敷(永井尚志の本家なり)+諏訪因幡守屋敷
の3つ分です!!!
※一橋浜町邸については二十二回お宅探訪で取り上げているので、
参考にしてみてください(笑)


現在でいうと・・・・・・以下のとおり。
浜町公園~明治座もはいるでしょうか。



というわけで、浜町公園にいってきました☆
(ちなみに別件調査のついでです・笑)

d0080566_1718440.jpg


まさか、永井家本家&一橋家下屋敷(12代将軍家慶が慶喜少年と一緒に能を
舞っていたので有名ですね)あたりが、間部邸とは。
何度も行ってたのに(今年少なくとも3回はこのあたり通りました)!!

実は今回、別件で『隅田川とその両岸』シリーズを図書館で読んでいたおりに、
たまたまその中巻に「乙ヶ淵と間部河岸」というのがあって、
「おお!!詮房さまの御名が江戸時代には地名で残っていたのか!」
と感涙にむせんだのがはじまりで、ちょっと調べてみたわけでした。

残念なことに、今は高速道路の下ですが、浜町公園から隅田川の川岸を
歩かれる際には「ここは間部河岸跡なんだ♪」と思い出していただければ幸いです。
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Commented by きりゅう at 2012-10-20 21:06 x
こないだ山内容堂の墓参りに行ったついでに(すぐ横だったので)鯖江藩の下屋敷にも寄ってきたのですが、おそらくこちらは、弟の子孫の例の方(^^;)の代になってからのものと思われますので、同じ間部でも、だいぶん違うかも……。
とりあえず、こちらは吉田松陰の暗殺未遂計画の関係で、寄ったものですので……ご先祖も泣いておろうな~~などと思った次第。
Commented by はな。 at 2012-10-21 10:38 x
>ご先祖も泣いておろうな~~などと思った次第。
泣いていると思います(笑)。
たまにネットとかで詮勝について「間部詮房の子孫のくせに」と書かれているのをみて「だから弟だってば」と叫ばずにおれませんっっ。

それにしても、山内容堂の墓参りとはまた風流な♪
(このおっさんだと、墓参りには花より酒!←確定ですね(爆笑))
Commented by at 2012-10-27 01:24 x
八重洲なんかが有名ですが、江戸時代前期の屋敷の名前は、結構東京の地名に残っていますよね。

文京区にも昭和41年頃まで、市兵衛河岸という河岸場から取った地名が残っていましたことを思い出しました。
『江戸砂子』には岩瀬市兵衛家の前の河岸だから、「市兵衛河岸」と書かれている、岩瀬忠震とも縁のある地名だったのですが…

ちなみに岩瀬市兵衛家の場所は、切絵図などでは稲生家の屋敷になっています。
Commented by はな。 at 2012-10-27 10:17 x
8さん、こんにちは!
>文京区にも昭和41年頃まで、市兵衛河岸
岩瀬忠震が暮した幕末の市兵衛邸は築地(中央区)ですので、
もしかしたらその前に割り当てられていたのは文京区なのでしょうか!
貴重な情報をありがとうございます!!

江戸時代の屋敷由来の地名はかなり残っているのに、
いまいち現代の地図に反映されていないのが残念なところですっっ。
(範囲が広いので、間部河岸くらい・・・・地図にあってもいいのにと
思います。東京が観光で生き延びようとしているのであれば(笑))


Commented by at 2012-10-28 19:07 x
以前しらべた限りですが、

便利な「御府内沿革図書」では、享保年間までは岩瀬家があり、延享年間から稲生家の屋敷になっています。

築地には、文化年間から岩瀬市兵衛家がみられますので、その間(100年近くありますねw)に移ったものと思われます。

全国的に住居表示改正事業という名の、地名大虐殺が行われたせいで、良い地名が消えてしまいました。
本当に残念です。
Commented by はな。 at 2012-10-29 09:53 x
8さん、さらに詳細なる情報をありがとうございます!
>享保年間までは岩瀬家があり、延享年間から稲生家の屋敷になっています。
岩瀬家も長いあいだのうちに転々と住居を移ったのですね。
「御府内沿革図書」を自由に閲覧できる図書館が遠いので、
なかなか完全チェックできていない状態なので、
岩瀬家情報、助かりました!

>住居表示改正事業
現在進行形でもあり、本当に困ったことです。
平成の大合併でも随分と由来のある地名が消えていきました。
ですが、一部ですがもとの地名に戻す運動も起きており、
ひょっとしたら今後、復活もありうるのではないかと
ささやかな希望をもっております。
by aroe-happyq | 2012-10-19 17:59 | お宅探訪シリーズ | Comments(6)