東都アロエ

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アジアンエンタメ&お江戸後期。外国奉行や長崎海軍伝習所がご贔屓☆ BYはな。

日本初「祝砲」と会津藩+α

来年の大河は会津出身の女性主人公ということで、
会津関連本が本屋さんでもたくさんならんでいます。
朝ドラみたいなタイトルからしてドン引きなので(ってもう随分前に書きましたネ)、
来年の大河に触れるのはこの記事が最初で最後だと思います☆
(んー、いちおう視聴予定なのですが、わたしの贔屓筋とはほとんど関わらない
はずなので書くこともなかろうかと。
でもあまりに「おいおい」な事が出てきたら書くかもです(笑))

ただ、ひとつも記事なしでは、同じ東国者として仁義なさすぎ・・・・と
いうことで、今回はドラマでも登場するはずの会津藩の蘭癖さんたちに
ささやかなエールを送りたい!という趣旨の記事であります。

で、いよいよ祝砲のお話です。

祝砲に関しては、wikiで確認いただくとして(笑)。
幕末日本における祝砲についての史料はほとんどありません。
有名なところは咸臨がアメリカに到着した際に「祝砲」をうった
話でしょうか。
そのせいか、このおりの祝砲を日本の最初のものだとする
勝海舟や咸臨スキーの手による本があります。

ところがサンフランシスコ入港時の咸臨丸が最初ではありません。

これよりも数年前、安政5年7月 18日(1858年8月26日)。
日英通商条約調印の日、江戸は品川第二御台場で、
日本初の祝砲が、寸分も違えることなく、完璧に発射されました。

第二御台場というと、会津藩の持ち場。
そうなんです☆
つまり、会津藩のみなさんがこの大役を見事にこなされたのでありました!

といっても残念ながら会津さんだけが目立ったわけではありません。
このときのセレモニーは、日英通商条約調印後、
英国から贈られる王室用遊覧船エンペラー(新造船)の引き渡し式
だったりするので、祝砲+エンペラー号試乗会という
二本柱の大イベントだったのでありました。
(なので「+α」と題しましたです)

しかし!この調印後のセレモニーは、けして失敗は許されない、
日本のプライドがかかった、この日の最大のミッションでした(笑)。
つまり、祝砲担当の会津藩受け持ち台場と、
エンペラー号試乗担当の築地軍艦繰練所が、
互いの持ち場をよく守り、見事にクリアしたわけです☆

このときの英国との交渉は、わが愛する5人の初期外国奉行揃い踏みの
初仕事ということ、英国側の訪日録や書簡記録が
手に入りやすいこともあって、昔からの重要な関心事でありました。
うちのブログでも何度か連続企画をやったりしてまいりました(笑)。
ちなみにその日についての過去の記事→こちら

昨年ごろ、さらに深く調べようと思い立ったところ、
英国側の史料には書かれていなかった祝砲の担い手が誰(藩)なのか
わかった次第です。
(けっこう、いやかなり!!!手間がかかりました~~)
なぜいままで誰も触れてこなかったのか?
やはり幕末外交が明治政府(つか現行の日本政府にもね)により、
不当な評価しか与えられてこなかった弊害でしょうねっっ。
しかし!近年その評価が見直されていることもあり、
これからの幕末外交史研究に期待したいところです。


会津藩はそもそもペリー来航前から江戸湾警備担当藩のひとつで
薩摩や佐賀のような蘭癖藩(爆)ではないですが、
西洋砲術、軍学に触れざるおえない立場にありました。
品川台場ができると、第二台場が持ち場となり、ますます西洋学
の必要性が高まり、安政4年には会津藩校日新館内に蘭学所も設けられました。
日本初の祝砲を担ったのはその1年後ということになります。

この日本初祝砲物語ですが、けっこうドラマチックです。
安政5年の日英通商交渉に詳しい方々(おもに外国奉行ファンだけですが)
は、交渉中にこの祝砲を行なうか行なわないかで、
日英双方のあいだで、けっこう揉めていた経緯はご存じのはず(笑)。

アメリカのハリスとの通商交渉時にも議題にあがりましたが、
日本側は、かなり正確に間をとって空砲を打つ、という未体験の「祝砲」が
万が一失敗したら・・・・ということで難色を示して、
一度もやってこなかったのです。
英国使節エルギン卿はアメリカへの対抗心から、
ひとつでも、ハリスが日本でなし得ていないことを、この交渉中にやりたかった。
なにせペリーよりも江戸湾の奥に停泊したくて、いきなり品川へ乗り込んできたし、
遊覧船を日本側に贈呈するセレモニーを江戸湾でやりたいとか、
ホント、いろいろ言ってきたわけです。
(アメリカよりも遅れて日本に交渉にきた分、江戸湾で派手にイベントをやって
大英帝国の存在をアピールしたかったのですネ)
そのなかでも祝砲は、一説ではイギリス海軍が発祥ということもあってか?!、
とにかく英国側は「日本初」の祝砲にこだわりました。
新造船引き渡しセレモニー開催は早々に決まったのですが、祝砲だけは外国奉行も
うーむむと首を縦にふらない。そこでエルギン伯はあんまり交渉内容にくわしくない、
老中との会見の場でこの「祝砲」問題を持ち出し、老中に承諾させてしまうのでした(笑)。

これをうけての安政5年7月16日付の「老中達」は以下のとおり。
(『續徳川実紀』より)

備後守 大目付江

近々英吉利より献貢之蒸気船御請取相成候につき、
品川御台場ならびに彼国船々にて空砲相放候筈に候事


これが18日のセレモニーの2日前!だったのですが、
会津藩留守居役・外島機兵衛が、
公儀の御目付津田半三郎から正式に祝砲を打つべし(笑)との命を
うけたのは、なんとまぁ、その翌日、つまりセレモニーの前日のことでした。
(ちなみになぜ会津藩の第二台場が選ばれたのかは不明。いちおう砲術の技能が
良かったからだと・・・・思いたいです(笑))

普通ですと前日に祝砲やれっていわれても、そんなものすぐにできるものでは
ないのですが、このときの会津藩江戸チームは事前にこの情報を
キャッチしていたと思われ(こういうときに留守居役の外交力、情報収集力が問われますが、
優秀なる外島機兵衛さんのことなので、そのあたりはバッチリ☆だったかと思われます)、
こっそりと練習していたのではないでしょうか!
でも、品川沖は漁場なもんで、ガンガン空砲訓練すると地元の漁師さんから
苦情が出ちゃって、あんまり練習ができない(←時代劇に出てくる封建社会じゃありえない、
民意優先の世界。でもこれが現実なんです。時代劇っていいかげんなんですのヨ)
・・・・なのでこっそりのつもりがなくても、
ひそかに練習せざるおえない環境だったのです(汗)

いろいろバタバタしたわけですが、会津藩は
公儀の無茶振りに見事にこたえた、というわけです☆
(ね?なかなかドラマチックでございましょ??)

で、どういう手順で行なわれたのか、その記録も探しあてることが
できましたのでここに堂々公開!

・・・(略)・・・・夕7つごろ、公儀御役人外国奉行、
異船乗り込み候節、赤旗を振り、
御台場にて受けすぐさま空砲5発ずつ、3度砲発都合15発に御座候。

(『坐漏紀聞』より)

※読みやすくブログ用に工夫しておりますので、
当然のことですが、このままコピペして大事なレポートやお仕事に
ご使用されると大惨事になりますので、かならず原文に当たって下さいませ。
(原史料に当たると本当に素晴らしい発見があるものだと、
最近改めてその大切さを噛みしめて居る次第です)

ちなみに、『エルギン卿遣日使節録』では21発と書かれています☆(笑)

会津側の史料のどこかに、この日の記録(日記とか書簡)があると
いいですね~~~♪
(って、そこから先は調べるつもりはないらしい自分(笑))

それよりも!!!!(ここからはちょっと「+α」な話題へ)
この赤旗振った人は誰でしょうね~~~?(笑)
「異船」ことエンペラー号へ乗り込んだ「公儀御役人外国奉行」は
外国奉行と目付、通訳だったのですが、
この布陣だとやっぱり外国奉行が担ったと思いませんか?
だとしたら、です。
この日、めちゃめちゃおめかししていたという(笑)、
外国使節に「日本海軍提督」とか「海軍司令官卿」とか
呼ばれていた永井玄蕃頭の可能性が濃厚???
それとも外国奉行筆頭なので、水野筑後守??
とにかくかっこいいですねーー!!!どっちでもいいから、
見てみたいですね!そのお姿!
(誰か~中継してーっ(爆))

日本側の祝砲のあと、英国側の艦船からも祝砲返しが行なわれ、
その後、矢田堀景蔵以下、榎本釜次郎等々の築地軍艦繰練所チーム、
つまり日本人オンリーによるエンペラー号の試乗会となり、こちらも大成功しました☆
(これはもう何回か記事にしたので、ここでは割愛)

それもしても、です。
このときの会津藩祝砲チームのプレッシャーはハンパなかったと思います。
というのも安政5年夏、藩主の容保公は参勤交代のため、国許にいたのです。
つまり留守居役が命令を受けてましたが、
本当にお留守番チームでこのミッションを乗り越えたのです!
主君のいないときだからこそ失敗は許されない、というたいへんな覚悟だったと
思います。
(ならぬものは、ならぬのです!の真面目な会津だけに余計・・・・・・かと)

会津藩というと、京都守護職になってからのイメージが強すぎますが、
実はこうして日本初祝砲をやった優秀な蘭学チームがあるとか、
井伊直弼暗殺後、水戸藩とのあいだを取り持って彦根VS水戸戦争を
防いだとか、いろいろ素敵でワイルドなエピソードがあるんですよねーっ♪♪
(会津藩が上洛後、京都洋学所を設けていたことも、あまり映像作品には出て
こなかったし)
攘夷の牙城の京都に「洋学」所を作ってやったぜ~、って、
御所に洋装で行ってやったぜ~の慶喜とならぶくらいの、
かなりワイルドさんですよね(爆) ←さすが一会桑チーム!!

この祝砲問題は、初期の日英外交史に華をそえた素敵なエピソード。
もう会津藩が幕末外交と縁遠いなんて、いわせないぜ!ってことです(笑)。

最近の大河ドラマには期待しないようにしていますが、
上記のような、いままで知られていなかった「白虎隊だけじゃない会津藩」(笑)の魅力が
少しでも語られたらいいですね。
だってほら、八重パパって砲術師範(たしか高島流砲術)ですもんね!
蘭学所や京都洋学所がはじめて、日の目をみるはず!!!?
(ずーっとホームドラマだったら、出てこないかも(爆))

というわけで、外国奉行と築地の軍艦繰練所のやつらを追って
いたら、会津藩とばったり出くわした(笑)という、
そんな記事でありました。







実はこの話は随分前から、
周囲の幕末友や歴史スキーのライター友には
ガンガン話してきたのですが、皆が口を揃えて、
「八重大河関連本が出そろうまで記事にしないほうがよい」とアドバイスくれまして(爆)。
今どきのしょうもない売文業者はネットでひょいと検索して、
あまり原文にあたりもしないで文章にしてしまうのだとか。
わたしもしがない売文業者ですけど(笑)、そんな非道な商売の仕方を
したことがないので、驚くばかりなのですが。
現実はそうらしい(涙)。
今回の記事はたいした内容じゃないのでいささか大げさですが、
もしそういう非道に手を貸してしまうことになっては、
なんだか寝覚めが悪いやさぁ、ということで
友人たちの忠告に素直に従った次第です(みなさん、ありがと!)。
ただ、お蔵入りにするのはせつなくて、
もうそろそろいいかしら?と思って、出してみました。
マイナーな東国のホットな話題は、ひとつひとつ大切にしないといけないぜ、
と思っていながら、こういうわけで熟成発酵気味でのお届けとなりました(汗)。

しつこいようですが、歴史のなかの誰かを愛しているなら、
真実を求めているならば、手間を惜しまず史料にあたりましょう!
仕事だったらなおさら、ネット&他人のブログからネタをいただかず、
図書館へ行って面白いネタを探しましょう!
自分の足と目で調べていくと、ちゃんとご褒美があるものです。
思いもよらない、素敵な史実と出会えますよ~~~っっ☆
(わたしはこうして出会えました(笑))
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Commented by きりゅう at 2012-11-24 23:05 x
おそらく、このときの祝砲の成功は、八重さんの兄の覚馬さんの尽力があったゆえではないかと思われます。
この人、ペリー来航直前ごろ江戸に出てきて佐久間象山の砲術塾に入門(ちなみに入門申し込んだのは象山が会津に行ったとき)したんですが、すぐ吉田松陰がらみで象山が伝馬町の牢屋に入ってしまったので、下曽根信敦(筒井翁の二男さんですね)や江川太郎左衛門などに西洋砲術を学んでおります。
その後も、会津屋敷が江川の砲術訓練所(縄武館のあった場所)のお隣だったこともあり、高島流西洋砲術を学びまして、会津に戻って日新館で西洋砲術訓練をはじめるんです。
まあ、イロイロ改革を訴えたものの、財政困難な折から、西洋軍備化はなかなか進まなかったのですが、それでも最新の教育を施すために、自分の禄を割いて教授を招いたりもされております。
実はこの人、明治の京都の救世主といわれていて(^^)京都史上かなり重要な役割を果たした方でもあるんですよね~。
ということで、大河ヒロインの兄だし、活躍してくれないかな~と、ワタクシはかなり期待しておるのです(^^;)
Commented by はな。 at 2012-11-25 10:01 x
>大河ヒロインの兄だし、活躍してくれないかな~
期待したいところですが、
脚本家さんがどれだけ幕末史を知っているか!?
会津藩の洋学派なんてそーとーなマニアわーるどなんで、どうなっちゃうのかそら恐ろしいですし(爆)、下曽根さんとか知らないだろーなーとか思うと、まったく期待できませんね(笑)。

きっと「江」みたいに、八重ちゃんがあーして、こーして、生涯終えました、って話になるんじゃないかと。

その証拠に、もし兄さんが活躍するお話なら、、今頃(八重大河開始2ヶ月前)この祝砲話がネット検索でひっかからないはずが、ございませんもの(涙)。

by aroe-happyq | 2012-11-24 13:59 | 広く幕末ネタ | Comments(2)

アジアンエンタメ&お江戸後期。外国奉行や長崎海軍伝習所がご贔屓☆ BYはな。


by aroe-happyq