人気ブログランキング | 話題のタグを見る

ブログトップ

東都アロエ

【緊急特集】慶喜さんが攘夷論ではない話

先日、文久3年の生麦償金支払い記事をUPしましたところ、
ちょっと幕末に興味を持ち始めている友人からメールをもらいまして、
慶喜が攘夷論ではないってどっからきてるの~?ということで。
ちょうどいい機会だし、今回はそのお答えを史料を交えながら、しちゃおうと思います☆

いちばん簡単なのは渋沢栄一著の『徳川慶喜公伝』を読むと
出てくるのですが、しかしこの本は明治以降の本です。
もっと同時代的なあたりで、できれば本人やその近々にいる人が語っている
のはないものか・・・・・・というわけで、そちらで紹介します。

岩下哲典「研究ノート 平岡円四郎の『慶喜公言行私記』について」
(『徳川林政史研究所研究紀要』32号 1998年3月)

岩下氏は『徳川慶喜 その人と時代』(岩田書院)というたいへん読み応えのある
慶喜の研究本を書かれた方。この本でも上記の研究ノートについて触れられています。

さてさて。
平岡円四郎という人は嘉永6年12月から一橋家の小性に転属になった旗本。
人付き合いが苦手で学問所のお勤めも辞めてしまっていた「変人」。勘定方に
勤務したかったのに、水戸斉昭と藤田東湖の推薦で慶喜の小性に(笑)。
いざ仕えてみたら(出会った当時は、円四郎32歳、慶喜17歳)、主君の英邁さに
惚れ込んでしまい、気がついたら慶喜が止めているにもかかわらず、率先して
将軍継承問題に首をつっこみ、14代将軍に推すために奔走した人です。

この『慶喜公言行私記』も安政4年ごろ、将軍家御養君決定レースのさなか、
円四郎によってかかれた、
「慶喜公はこういう(素晴らしい)人です」という宣伝の書であります。
ただ、円四郎らしく、誇大広告は一切無く、淡々としているように思います。

どうして宣伝本が必要だったかというと、
一橋慶喜は御三卿という将軍家の親族という特殊な位置におりまして、
親族ゆえに政治的な行動や発言は慎まなくてはならない立場でした。
これは将軍家御養君決定レースではかなり不利。
慶喜という人がどういう人であり、思想哲学を持っているのか、まったく世間には
知られていない状況でした。
そこで平岡が慶喜と話し合った内容を公開したのが、この書でありました。
7つの慶喜に関するエピソードが語られいて、そのほとんどが安政4年にとれたての
ネタばかり(3月の島津斉彬の訪問や5月の遠馬のことなどまさにホヤホヤです)。
なので、慶喜の発言は実に生っぽくて素晴らしいのです(笑)。
側近として重用されていた平岡だからこそ聞けた若き慶喜の言葉がたくさん詰まっています。

で、ありがたくも岩下氏の研究ノートには、この貴重な史料の現代語訳058.gif
ついているので、ここでは読みやすい文で慶喜の政治的な考え方と
「攘夷論」についての部分を紹介します。

一、 (・・・・略・・・・)さらに(慶喜は)儒学をよく学習し、
西洋諸国の風習ははなはだお嫌いであった。
しかしその長所はお捨てにならないで、砲術や航海術は心酔され、
洋学を研究しなくては武備を整えることはできないとのお考えで、
先年より近臣の者に洋学修業を行わせたいとの内々のお考えもあられたが、
いろいろな議論があったので、それはお捨て置きになられていた。
幕府が洋学研究にご着手されたことから、公はこの機会に近臣に洋学修業を
させたいとお考えになった。そのことを幕府の関係筋にお掛け合いになったが、
ご三卿のご家臣は洋学修業の必要なしとの幕府評議があった。
そこで公は重ねて「彼を知り、己を知って、百戦百勝というではないか。
洋学研究もしないで、それは難しい」と厳重にお説きになられた。一同ついに敬服。
(略)・・・・・公からたってお願いになったため、当(安政4年)夏にお願いのどおりに
(近臣の蕃書調所での稽古が)実現した。
またこのころご自分のお手元でも洋学研究のお世話を始めていらっしゃった。


ここでは「砲術や航海術は心酔され、洋学を研究しなくては武備を整えることはできない
とのお考え」
が語られ、洋学研究に熱心な様子がみえます。
ちなみに「儒学をよく学習し、西洋諸国の風習ははなはだお嫌い」なところが気になるかと思いますが、
そのあたりは、拙ブログの過去記事の平謙こと平山謙二郎の記事をご覧ただければと。

ペルリ来航 羅森にみせた平謙の熱い志→こちら

この当時、蘭学者はもちろん砲術や航海術をオランダ人に学んでいる長崎海軍伝習所などの
人々の多くも、西洋の化学や技術を愛してはいるけど、道徳や風習、
弱肉強食的な激しい競争原理などは「ちょっと野蛮よねー」って思っていたので、
慶喜が特別なのではなく、たいへんフツウな考えなのでした。
(西洋のなにもかもがステキとかいう人がいたとしたら、その人は完全にビョーキ扱いです・笑)

さて、いよいよ核心です。

一、公は、古今の成敗(歴史における政事や戦争の当否を論ずること)を
好んで学んだが、攘夷の論では決してあられない。
このことは近臣間でも不審に思い、かつていろいろうわさをしていた。
必ずや老公(斉昭)とご同論で、老公のご建議が採用されないので、公も
(幕府の政事を)お見限りになられているのだろうと申し合わせていた。


近臣までもが「慶喜公は水戸斉昭の子だから、攘夷論に決まっている」と
思っていたとは(爆笑)。
実は慶喜は、父の斉昭そのものは好きでしたが、斉昭の水戸での政策方針にしては
けっこう冷静に分析していて、批判的だったりします。
この『慶喜公言行私記』にもそうしたところが登場しますが、
円四郎としては、大奥や柳営一部に万延しているアンチ斉昭派にむけて、
慶喜が斉昭のコピーではないことを強く訴えたかったみたいです(笑)。
(そのあたりは今回の記事のテーマから外れますので、割愛いたします)

「攘夷の論では決してあられない」慶喜は、対外政策についても語っています。

対外政策に関しては、いろいろと建白するものが少なくないが、実地の論というもの
は少なく、本当に当たっている者は言わないもの、言う者は知らないものだ。
したがって我らが今みだりに私論を言うことは避けねばならない。
対外政策は天下の大事、軍事指揮権はその大なるものの最も大なるものである。
戦闘することは論ずるにも及ばず、交易通商はこれまた国難であり、
交易通商を許可すれば、それで天下泰平だとするのはもってのほかの浅はかな考え方である。
西洋各国と通商交易をおこなうには、皇国の大典を変革したうえで、上下が心を合わせ
「富国強兵之御新政」をしなければならない。
現在の状況でこのまま通商御免となったならば、品物は払底して国内が混乱し、
もし途中で通商を停止したら外国から不信の責めを受けることもあるかもしれない。
お前(円四郎のコト)はどのように考えるか。


安政4年当時なので、慶喜このとき21歳。
本当に当たっている者は言わないもの、言う者は知らないものだ」なんて言い方、
実に実に慶喜らし~~~いじゃありませんか(笑)。

そして内容も、しっかりと「開港開市」推進派です(爆)。
それも徹底するなら、今までの国のしくみをかえなくてはならない、とまで
考えている現実的な人。なかなかの21歳です。
そういえば「富国強兵之御新政」って
慶喜が将軍になってから、実行しようとしていましたネ。
(いろいろ難しくてうまく運んではいなかったけど、しかし軍制改革はやってたなーと)
安政4年当時は、将軍になりたくなかった慶喜なので、この発言をしたときには
誰かやってくれーと客観的に思っていただけかもしれませんが(笑)。

でもこの考え方、安政4年当時一番よく働いていた岩瀬忠震や永井尚志、堀利煕など
「開港開市」積極推進派にかなり近いです。
慶喜と岩瀬、永井が会うのは安政5年正月ですが、まだ出会う前から彼らは
さりげなく「同心」だったようです(爆)。
(で岩瀬も永井も、てっきり攘夷派だと思っていた慶喜が実は・・・で、
嬉しすぎて一橋派になっちゃったんだけど)

で、「開港開市」推進派の慶喜なりにこっそりと活動はしていました。
当時公儀の対外政策にガミガミ言っていた父の水戸斉昭を、
御三卿は政事には口を出せないので、あくまでも老父の健康問題ということで、
慶喜やその周辺が働きかけて海防参与の職を解く運動をし、
安政4年7月、これを成功させています。
(老父の健康を気遣いつつ、公儀の対外政策に邪魔なものをさりげなく排除したわけです(笑))
このあたりも、円四郎は『慶喜公言行私記』でしっかりと触れています。


というわけで、いかがでしたでしょうか。
慶喜がかなり若い時分から攘夷論ではない、ということ、わかっていただけましたかしら☆


岩下氏の「研究ノート 平岡円四郎の『慶喜公言行私記』について」によれば、
この『慶喜公言行私記』は松平慶永(春嶽)の手にわたり、
その側近の中根雪江(せっこう)によって『橋公略行状』としてアレンジされ、
『昨夢紀事』にも登場。
そして松平慶永は安政4年12月、老中松平忠固にはじめて、
慶喜を将軍世子にと推挙し、また『橋公略行状』を提出したという。
(そして、ドロ沼の将軍継嗣問題に突入していくわけです)
なんだか複雑な使われ方をしていく、シロモノです。
しかし、オリジナルはこういう感じでして、できれば中根のアレンジ版ではなく、
こちらがもっと世間に知られていくと慶喜公のためにも、よいかと存じます。
Commented by 奈桜 at 2013-08-28 14:29 x
こんにちは(⌒0⌒)/

そう、そう。(゚ー゚)(。_。)ウンウン…と
大きく頷きながら読ませて頂きました。
当時、メディアの大半は「人様の噂話」で
あの烈公の子息ってだけで
気の短い江戸っ子は、その後の話なんか
聞いちゃいないぐらいだったでしょうしね。

平岡円四郎の『慶喜公言行 私記』は
大袈裟に書かれた「慶喜神話」なんて
言われ方もしたりしますけど
……そうですよね、実直そうなお人柄だし
大きく外れた事を書くような人じゃ
ないですよね、きっと。

先日、ある会合の懇親会で
会津一筋の方々に取り囲まれ(笑)
「ねぇ、聞かせて!慶喜公のどこが
好きなんですか!?」と、詰め寄られて…。
アワアワ…とパニクりながら
(何、聞いてんの。全部に決まってるじゃん)
と、思いつつも
(いや。ここはかっこよく決めなきゃ、
殿様に叱られるわ…←)と
咄嗟に出た答えが生麦事件の賠償金支払に
ついてでございました(大汗w)
……困った事に、皆様
「何ソレ?ポカーン」状態でしたが。
(マニアック過ぎましたかね…)

いっぱいありますけど
いずれは「慶喜さんカッコいい(〃∇〃)」の
場面を特集したい夢がある私ですwww
Commented by はな。 at 2013-08-28 18:11 x
奈桜さん、こんばんは♡
長い記事を読んでいただき、ありがとうございます♪♪

>あの烈公の子息ってだけで
円四郎としては「これはいけない!」と危機感を感じてこの書を作ったはず(汗)。
神話・・・・と言われるのは、アレンジ版の『橋公略行状』の
書き方が少しアレなんで、そう言われるのかもです・・・・・。
でもこれは円四郎さんではなく、雪江さんの手によるものなので。
やはりオリジナルを見るって大切だなぁ、と岩下氏のこの論文を読んだときに思いました次第です(笑)。

>会津一筋の方々に取り囲まれ
うわーっ、そんなガチでアウェー~~~っっ(怖&震っっ)。
生麦事件の賠償金支払のお話をチョイスされたのは賢明かと!
(会津さんは京都のほうでバタバタ派なのでそんな江戸横浜の大変は知らないかもですが・笑)
わたしなら、つい戊辰の「慶喜は会津を裏切っていない」問題を口にしてしまいそうで、生きて帰れないかもしれません(笑)。

>「慶喜さんカッコいい(〃∇〃)」の場面を特集したい夢
ぜひぜひ!!実現してくださいまし!!!
(おっしゃるとおりたくさんあって、選ぶのたいへんだと思いますけど♡)
by aroe-happyq | 2013-08-25 14:18 | 江戸城の大旦那 | Comments(2)