2013年 10月 21日
渋田利右衛門と箱館丸
極貧蘭学研究時代の勝海舟のよき理解者にして後援者として、有名なのではないでしょうか?
(渋田利右衛門に関する基礎情報は→こちら)
箱館弁天町の渋田屋はもとは廻船問屋でしたが、貸船業、金融等々の多角経営に乗りだし、
今回紹介する四代目渋田利右衛門の時代には江戸へ大量に鮭なども売りさばいていたとか。
毎年、春から数ヶ月間、江戸に滞在し千五百両もの大きな商売をしていた、豪商のひとりです。
でも、本当に凄いのはその売り上げのうち、六百両ほど使って、江戸の書店をまわって
蘭書をメイン(それもたいへん貴重な書籍ばかり)にして多くの書籍を買い込み、
これを箱館に持ち帰り、渋田文庫と称して箱館市民に開放していたということ。
弘化嘉永頃に設けられた、この渋田文庫は北海道の図書館のはじまり、とのことです。
というのも、四代目渋田利右衛門は幼い頃から無類の読書癖で、本を読みすぎて病を得てしまった
ほどの学者肌の知識人だったのです。
ホントは学者になりたかったようなのですが、渋田屋を嗣がされてしまった・・・・ようなのでした。
(子供の頃、あんまり本ばかり読んでいるからと、土蔵のなかの柱に縛りつけられたとか。それでも
土蔵に落ちていた草双紙をみつけると足で寄せて、これを夢中で読みふけった。
この姿をみてついに父親も読書を止めさせるのを断念したそうな・笑)
渋田利右衛門の親友で同業者の林儀助はいつも一緒に江戸に出てきて、
深川の止め宿も渋田の真向かいに泊まるのが常だったよし。
渋田は箱館から江戸へ廻船してきた船手からの貸金勘定の所用が済むと、
朝から晩まで宿を留守にしてしまう。儀助が江戸観光に誘うと時間がないという。
訳をたずねると、利右衛門いわく、毎日書林(書店)に出掛け、
また有名な学者を訪ねては説を聞き、理を論じているのだ、とか。
さらに儀助がきくと、その学者とは蘭学者ばかりとか。
弘化嘉永頃は、天保年間にシーボルト事件や蛮社の獄があったため、蘭学といえばかなり
世間の目が厳しい、たいへん危険な学問という扱いでしたので、儀助は利右衛門に
やめるように説得したが、「なあに、話を聞いているだけです。大丈夫ですよ」と感謝しつつも、
やめる気配はなかったようです(笑)。
そういえば、
勝海舟の談話ではすっかり有名な、この渋田利右衛門との出会いも、書店の店先でしたネ。
(勝さんとのお話は有名なので、ここでは割愛いたします。勝さんの談話にいっぱい出てきます。
たいへん肌が白く、背の小さい、物静かな人物だったそうです)
こういうわけで、渋田利右衛門は箱館の豪商でしたが、かなり筋金入りの蘭学研究家でも
あったのでした。
嘘かまことか、ペリーが箱館にやってきた際、通訳にかり出されたという話もあります。
(蘭語はできたかもですが、英語は・・・・。よほど松前藩も慌てたのでしょう)
こういう人物が、開港都市箱館にいて、しかも文庫を開き、
時には江戸から高名な学者を招いて講演してもらうなどなど、
(ご本人もたまに登壇していたようです)
箱館市民の教育にも尽力していた、ということはもっと多くの人に知ってもらいたいお話です。
で、話の途中に出てきた、渋田文庫。これが今回のメインです(笑)。
この渋田文庫といえば、五稜郭を設計・築城した武田斐三郎もここで洋書を借りて
蘭学研究に励んでおりましたぐらい、この図書館は箱館の洋学情報の要であったようでした。
そこで調べたら!!!あの箱館丸の建造時にも、この渋谷文庫の蔵書が一役買ったというのです。
箱館丸といったら、箱館初のメイドインニッポン船・・・・・なので、どーやって設計したのか
参考資料とかどうしていたのか、前から気になっていたんですけど、
これでもう、スッキリ♪
そもそも堀織部正等々の箱館奉行たちが、この文庫を知らないわけがなく、
むしろ真っ先に渋田利右衛門と面会したような気がする(笑)。
この豊富すぎるぐらいの、しかも良書ばかり(なにせ本の見立ては渋田本人だけでなく
勝麟太郎たちも請け負ってましたので・笑)がうなっている文庫があったからこそ、
箱館丸の建造もできたし、ここからは推測ばかりですが、武田の例もありますので、
五稜郭・弁天台場建造、また箱館海軍伝習所構想も、医学所の設立にも、
この文庫が原動力となった可能性はありますネ!
たいへん残念なことに渋田利右衛門は安政5年12月4日、43歳(41歳説もあり)という
若さでなくなってしまいます。
どうも結核を患っていたそうで、死の予感があったのでしょうか、
勝海舟が安政2年に長崎へ海軍伝習に行く際、自分がいなくなったあと頼れる豪商を
何人か紹介しましょう、といったそうですし。
こういう人にはもっと長生きしていただきたかったですネ。
(勝さんて、彼を深く理解している友人たちが文久前後に相次いで亡くなっていることで
かなり損をしているなぁ、と思います)
で、四代目の死後、養子が五代目を嗣ぎますが、商売がうまくいかず、
渋田屋はだんだんと衰退し、やがて廃業したそうです。
渋田文庫の蔵書は、勝海舟談話によれば、その数、数万冊。明治維新の頃に、箱館奉行所に
買い取らせたということですが、その後、現渡島支庁所在地に保管されていたのですが、
明治12年の大火で焼けてしまったそうです。
・・・・ということは、榎本釜次郎たちが箱館に行った頃、この蔵書は箱館奉行所のなかに
まだあった可能性が???
つまり、榎本はもちろん、大鳥圭介、澤太郎左衛門はもちろん、永井玄蕃やその友人(儒者)
たちも、その蔵書を眼にしたかもしれませんネ。
(てか、そうなったら、彼らのことだから、本気で蔵書を戦火から守ったことでしょう☆)
今もその蔵書が残っていたら、函館に渋田利右衛門記念館が建っていたかもしれません。
これもまた、もったいないお話です。
《参考文献》
白山友正「渋田利右衛門の研究 ー近世函館商人の一典型ー」
(『北海道経済史研究』30輯)
「渋田翁雑録」
(『諸国叢書』9輯 成城大学民俗学研究所)
江藤淳・松浦玲 編『勝海舟 氷川清話」(講談社学術文庫)
※談話はこのほか講談社版の勝海舟全集の22巻『秘録と随想』などなど
あちこちにも収録されています。
廻船問屋…ちょうど菱垣廻船を触ってますから(『なにわの海の時空館』にあった復元船の制作時に模型として作った3分の1の約10メートルの木造船)、ちょっと作業中でも思いを江戸時代に巡らせてみます。
おっしゃるとおり、勿体なかったです。
でも、この文庫が残っていたら、函館の商人といえば!の高田屋さんの地位が脅かされていたことでしょう(笑)。
(銅像も建っていたか・・・・・)
函館旅に行ったころに知っていれば、渋田屋さんのお墓参りできたのに~~~っ。
お墓は高龍寺にあるそうですので、次に行ったときには手を合わせに参りたいと思っています☆
>菱垣廻船
手触り、とっても良さそうです♡
そしたら野外劇の役も変わってしまいそう。(高田屋ではなく…(汗))
渋田さんって函館市民でもあまり知らないですよね。知名度が低いのが切ないです。(実は私も知らなかったです。)
菱垣廻船(名前は菱垣廻船浪華丸ヒガキくん、です)、木の温もりが半端ないです。ちょっと江戸時代の船大工になった気分です。(元々船は本体の部分しかなく、今は菱垣廻船に見せる作業をしてます)
>函館市民でもあまり知らないですよね。知名度が低いのが切ないです。
実はわたしも函館について調べているときに、函館関連の本に
まったく名前が出てこなかったので、勝海舟の談話の上では知っていたものの、
地元で知られていないんじゃねぇ・・・・と完全にスルーしておりました(笑)。
勝海舟が再三、あちこちの談話で話題にしてくれなかったら、一生知らなかったかもですっっ。
函館の地元では、参考文献にあげた白山友正氏の研究だけしかないようですが、
この論文も勝海舟関連の本で知ったような次第・・・・・。
せっかく地元の方が渋田を研究していたのに、うまく幕末箱館史とリンクしていないようで、
寂しいかぎりですねっっ。
>菱垣廻船浪華丸ヒガキくん
なんてプリティなお名前でしょう~~~っっ!!
和船の着ぐるみで、ゆるキャラ化したらいいのにっっ♡