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東都アロエ

明治5年正月、赦免の様子 @海軍70年史談

永井尚志の命日の、7月1日に更新しようと思っていた記事です(笑)。

よくあるのですが、国会図書館でコピー待ちの時間に近代デジタルライブラリーを
いじっていて深みにはまるパターンでみつけた、
澤太郎左衛門の息子、澤鑑之丞が著した『海軍70年史談』に書かれていたお話です。

箱館戦争以後、東京大手門の獄舎にいた榎本釜次郎、松平太郎、荒井郁之助、
永井玄蕃、大鳥圭介、澤太郎左衛門は明治5年正月、赦免されて出獄と相成りました。

で、その頃の様子は榎本武揚が家族にあてた書簡や大鳥圭介の談話などでも
伺い知ることができているわけですが、澤さんが息子に語った話ということで、
本人による談話よりは信憑性はアヤシクなるわけですが、
榎本&大鳥両氏の史料の隙間を多少なりとも埋められるのではないかということで、
引用してまいりたいと思います。
(読みやすく、いろいろ工夫しておりますので原文通りではありません)

在監中の面々は、当初から死罪の判決を受けるのは当然であると、何の苦慮する事なく、
却ってその処分の遅延するのをかこっていた。
時々糺問所の白洲に呼び出され、形式的な吟味があるばかりで知らず知らず三ヶ年余を
経過し、明治も壬申五年を迎ふるに至った。
ところが、明治五年壬申正月六日卯快晴、水曜日、この日は、定例一六の日ゆえ、
獄中の者一同は入浴をした。この日ひる七ッ時(午後二時)頃獄吏が来り、
榎本釜次郎外八人御用の筋有之に付、即刻糺問所白洲へ可罷出旨申聞く、
一同駕籠で八代洲川岸兵部省糺問所に出頭した。
意外にも、同所に於いて左の申渡があった。

                       榎本釜次郎
其方儀悔悟伏罪に付揚屋入り被仰付置候処特命を以て親類御預被仰付候事
  壬申正月六日
         糺問正     黒川通軌奉行

                       松平太郎
                       荒井郁之助
                       永井玄蕃
                       大鳥圭介
                       澤太郎左衛門
其方儀悔悟伏罪に付揚屋入り被仰付置候処特命を以て赦免被仰付候事
  壬申正月六日
         糺問正     黒川通軌奉行

・・・・・(略)・・・・右の申渡相済み、一同を糺問司応接所に通し、兵部省の掛役人から
慰労の挨拶があって、不自由の物は何でも調達可相渡旨申聞あった。
一同三ヶ年以上、獄中にあって、火気に觸るることがなかったが、
この日俄に大火鉢三個へ、炭火を多分に入れて出してもらったから、さすが二十余畳敷の
広間ながら何れも逆上の気味で少々気持ちが悪かった。
 食事は兵部省の賄掛で料理の膳部を供してくれ、久々で丁寧な馳走を受けた。
(三ヶ年余、普通物相飯を供せられたるに比して実に天地の相違だったと云う)
此の夜は広間で久方振りで深更迄四方山の話をし、なんとも云い難い愉快を覚えた。
夜具はかなり綺麗なものを供せられ、その他慰労の注意は最も行き届き、
却って恐縮の外なく、翌正月七日辰快晴、木曜日、糺問司役人から各自引取方を
担当すべき親族に関して尋問があった。夫々から申し出て退出の用意をした。
この夜も糺問司の広間に宿泊した。
正月八日巳快晴 金曜日、糺問司からの通達に依って、各親族続々糺問所応接所へ
来集した。その時、対面の有様はどうしても筆舌に尽くせぬものがあった。
そして駕籠の用意など出来、いづれも糺問司を退辞して、
久方振りに夫々無事自宅へ引き取った次第である。


実は、榎本たちの赦免については、結構前から話が出ていたようです。
例えば明治4年10月頃、勝海舟はしきりと黒田了介に接触しているのですが、
(勝なりに榎本たちの救出運動をしていたのであります)、

明治4年11月9日 榎本釜次郎已下近々御免之趣内話有之

 (『勝海舟関係資料 海舟日記』 (5) 105P)

などとすでに11月に出ている所をみると、むしろ年明けまで待たされたみたいで気の毒・・・・。
(理由はいろいろありますが、赦免に反対している木戸たちが外国へ出掛けるのを待っていた
というスケジュールによる事情が大きいようですが。ちなみにこの11月9日、勝の日記には
大久保利通が海外へ出掛けるために御所へ暇乞いにいった話が出ている(笑)。早く
出掛けろ、おっと!ダサい事に全権委任状を取りに戻ってくるんだっけか(爆))

榎本釜次郎たちは、『榎本武揚未公開書簡集』によると、明治4年12月朔日の書簡(68)Pに
出獄が近いというような雰囲気が出ているので、このあたりからワクワクして
待っていたのではないでしょうか。
はっきりと赦免がわかったのは、明治5年1月2日の書簡(69P)によると、
元旦に届いた大晦日の新聞に、赦免についての記事があったようで、
一同大悦」で、
しかも差し入れでビールが届いて「少々ドロンケン
になっていた模様です(笑)。

さて、『海軍70年史談』に戻ります。
細かい突っ込みとしては、獄中生活は3ヶ年余ではなく、2ヶ年余・・・・ということぐらいにして、
私が思わずほろりときたのは、
大火鉢三個へ、炭火を多分に入れて出してもらったから、さすが二十余畳敷の
広間ながら何れも逆上の気味で少々気持ちが悪かった
」という箇所。
2ヶ年余ものあいだ、火気のない暮らしをしてしまったため、火鉢の暖房で
逆上(のぼせちゃったわけですな)するなんて、皆さんがおいたわしい~~~~っ。
それにつけても、
此の夜は広間で久方振りで深更迄四方山の話をし、なんとも云い難い愉快を覚えた」とは、
どこまで仲がいいんだ、この人達は!
せっかくふかふかの夜具なんだから、早く寝ればいいのにっっ(笑)。
・・・・・そこで2泊しているのも、なんだか楽しそう。
ううむ、彼らの四方山話を聞いてみたいものです♪

あと、少々捕捉ですが、彼等はそのまま自宅に帰ったのではなく、
確か一端、糺問所のそばの旅館へ入り、湯につかって垢やら、髪のシラミやら
残らず取り去ってさっぱりしてから自宅へ戻った・・・・・・という話を何処かで
読んだのですが、出典をド忘れしたので、思い出したら書き加えます(笑)。

ちなみに、この『海軍70年史談』はネットで閲覧できます☆→こちら
    

                   
by aroe-happyq | 2014-07-11 17:59 | 箱館または釜さん | Comments(0)