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東都アロエ

最初で最後の長州ネタ 赤禰武人のこと

まさかの長州ネタでございます(笑)。

今年の夏、ひょんなことから知りました、赤禰武人サン。
おそらくわたくしにとって、最初で最後の「やっと居たよ、まともそうな長州の人」です(笑)。
しかし「まとも」ゆえに裏切り者にされ、石持て追われる身となる、不運の人でもあります。

心理学では少しでも知識が深まると、好感度が増すものだそうですが、
今回、赤禰武人を知って、ますます長州とか高杉晋作が嫌いになったことは
最初に書いておきたいと思います(笑)。理由はおいおいに・・・・。
(ほかの人達は・・・・薩摩とか、井伊直弼なんかも、識るたびに可愛く♪思える
ようになって、好感度が増しているのに、ここだけ・・・・どーしてだらう!?)

で、その赤禰(根)武人とは・・・・・。

天保9年、周防桂島の村医松崎三宅の子として生まれる。
(長男説やら、次男説がある。でも他家に養子にいくところをみると次男っぽい?)
通称は門平、幹之丞。
11歳で、僧月性の時習館に学んで、その後、松下村塾に入る。
20歳の時、浦家の臣、赤禰忠右衛門の養子になり、士分となり、赤禰武人と名乗る。
安政の大獄では獄につながれたり、いろいろあって、
江戸では、英国公使館焼き討ちのメンバーになったり、スパイ活動したりとヤバイ橋も渡り、
攘夷血盟には、久坂玄瑞や高杉晋作らとともにその名を連ねた。

その後、奇兵隊結成に加わり、第三代総管に就任(部下は山県有朋)。
翌年、四国連合艦隊による下関砲撃事件を経て、赤禰武人は攘夷は不可能だと悟る。
さらに長州内の正義派(倒幕派)やら俗論派(恭順派)などの醜い対立をみるにつけ、
思う所があって、奇兵隊総管を辞して、故郷に帰ります。
この休暇で、さまざま思い巡らし、開眼したようです。

ところが後任の山県がどうもダメダメで、
赤禰武人は再び奇兵隊に連れ戻されしまうのでした。

奇兵隊に戻った赤禰武人は「開眼」したため、前とは打って変わって、
長州は戦争をしてはならない、と内戦回避のために奔走をはじめる。
するとそこへ、俗論派に命を狙われ他国へ渡っていた高杉が戻ってきて、
赤禰を妨害するわけです。

そのときの高杉の演説ですが、これがすごい(笑)。
奇兵隊の同志を前に正論派の勢力回復は今しかない!、とここまではいいとして、
次に「赤禰に騙されるな」的な演説をぶった・・・・のですが。
その理由に、赤禰はそもそも士分じゃない、とか、弁舌はどんどんヒートアップしていき、
「(赤禰武人は)大嶋郡の土百姓じゃないか」と、
自分(高杉)は毛利家の家臣だ、こんなに高い身分の自分と、
土百姓の赤禰武人の言う事とどちらが信用できるか、おのずとわかるだろう!?
とまぁ、つい本音が出ちゃった。
(正確には赤禰は周防桂島の村医の子なんだけどさ)
これには、演説を聴いていた奇兵隊のお百姓さん達がドン引き・・・・・・。
なんせ、奇兵隊のお偉いさんが隊の創設精神をなにげに否定してしまうという珍事が
起きたわけですから(爆笑)。
(そしてこういう口先だけのぺらい差別男が大嫌いなワタクシのなかで
高杉晋作は永遠にブラックリストに刻まれることになりました(笑))

結局、赤禰武人の努力は水泡に帰してしまい、藩内では正論派が勢力を盛り返す。
このおかげで、高杉一派から裏切り者扱いされ、赤禰は大坂へ落ち延びます。

不幸は重なるもので、赤禰武人は大坂で幕吏に捕まってしまい、
京の六角獄につながれます。八ヶ月も。

その獄中で、再度の長州征伐が行われるときくや、『急務五箇条』という意見書を書き、提出。
幕府と長州の戦いを回避し、内戦を行わないことで、諸外国のつけいる隙を与えないよう、
自分は長州の人々を説得したい、というような内容でしたが
この赤禰の意見書が、大目付永井主水正尚志の目にとまります。
永井は赤禰に「長州との和睦に協力してくれるとは本当か」と問うと、
「自分が長州へ行って説得する」という。
では頼むということになって、
慶応元年、長州尋問のため広島へ向かう永井主水正と新選組近藤勇や
伊東甲子太郎などに随行して、赤禰武人は旅立ちます。
道中、赤禰武人は近藤や伊東と随分交流を深めたのだそうな。

広島へ到着すると、赤禰武人は「釈放」ということで自由の身となります。
それだけではなく、『急務五箇条』の内容が高く買われ、岩国や長府、そして萩の藩主にも
「幕府との戦いを回避するよう、高杉たちを説得してくれ」と期待されるのです。
しかし、すでに藩主の思惑とは違い、藩内では幕府と戦う覚悟を固めており、
赤禰武人は近藤や伊東と岩国への入国を試みるのですが、拒否されてしまう。
拒否されるだけならまだしも、「新選組と交流するなど、お前は幕府のスパイだな」と
いう嫌疑をかけられてしまい、お尋ね者に。

近藤たちと別れ、藩内に潜伏した赤禰武人は、まだ説得できると信じていました。
(こういう流れになったので、近藤たちの作戦も失敗になったわけです(笑))

そこで故郷の親類を頼りますが、追っ手が迫ると、
自刃するよう勧められてしまうのです(トホホ)。
しかし「ここで死んでは誤解されたまま終わってしまう。この上は裁きの場にて、
自らの清明をのべ、我が主張のいずれに間違いがあるのか、問いただしたい」
というと自ら縛につきます。
高杉などの正義派が盛り返している藩内なので、取り調べなどもいわば元仲間と関係
のある人が行うわけです。「話せばわかる」と思ったのでしょう。
なにせ元奇兵隊の第三代総管ですから、仲間はたくさんいただろうし。

ところが、まったく弁明を行う場も与えられず、そのまま処刑と決してしまうのでした。
(昔の仲間じゃねぇか、少しぐらい話を聞いてやりゃいいだろ、と理解不能の呆れた結末(笑)。
てか、まったく聞く耳を持たないという、料簡狭さがこわいよ(汗))

処刑前夜、赤禰武人は悔しさゆえに啜り泣いたそうです(さもありなん)。

赤禰武人処刑の報をきいた藩主毛利元周は馬を飛ばして止めようと
しますが、時既に遅かった、ということです。
(藩主への報告ってそんなに後回しなの?と首を傾げてしまうのですが)
この時、赤禰武人は28歳でした。

しかし、この後がまた酷い・・・・・。

処刑された赤禰武人の遺骸から腸を引きずり出して鳥に喰わせ(鳥葬か!?)、
遺骸そのものは通行人に踏みつけさせるよう、埋めたとか。
晒された首だけは何者かが持ち去ったそうで、行方知れずです。

そして、明治の終わりの頃。
赤禰武人の名誉を回復させようという運動が起ったそうな。
帝国議会で了承されるところまでこぎつけたのですが、
元部下の山県有朋が
「下関砲撃事件で赤禰武人は敵前逃亡した」ゆえ、認めないと発言。
とうとう名誉回復の話は頓挫したそうです。
(赤禰の後任を果たしきれなかったクセに随分と偉そうだよな(笑))

ようやく赤禰武人の墓が建てられたのは平成7年のことだそうです。

長州のなかで、ようやくちゃんと時節を読めていた人がいたことは
すごく嬉しいというか、ああ、同じ日本人らしいぞと安心した次第ですが(笑)、
しっかし奇兵隊内部ってドロドロすぎて怖ひ・・・・・。
青春モノみたいなさわやかなタッチで語れんぞ、こいつら・・・・(汗)。

どうするんだろう、来年の大河(笑)。みないから、どうなってもいいけどサ。
(嗚呼、官兵衛面白いのにもうじき終わっちまうのかよ~~~)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

きっかけはお察しのとおり、永井公の広島行きの調査でした(笑)。
ですが、知れば知るほど赤禰武人さんが気の毒になり、
旗本中根市之丞サマを惨殺した鬼畜・奇兵隊の一員ではありますが、
どうしても紹介したくなった次第。

※御使番中根公や一行の惨殺事件についての記事はこちらこちら

長州ネタは最初で最後だと思いますが、
長州の賢人、赤禰武人さんのお話でした。


【おもな参考文献】
『松下村塾の人びと』 海原徹著 ミネルヴァ書房

この本では、高杉演説のくだり、すごーく書きにくそうに描かれていて
長州ファンにとっても、この現実は厳しいものだったのだな、と納得でした。
(アンチファンのわたしでさえ、初見では対処に困ったもの(笑))

このほか、国会図書館の検索でひっかかった細かい資料等々。
なかなか赤禰さん情報がなくて、たいへんでした(細かい調査は現在進行形)。
Commented by 奈桜 at 2014-10-08 21:28 x
こんばんは。思わずフフッ…と
読ませて頂きまして、何か一言
残して帰りたくなりまして(笑)
なんだか…分かります。
特に井伊直弼なんか、本当に思うところが多くて…
若き慶喜さんの物考えに凄く影響しちゃったような
気さえしているのに…
政治判断とは別のところで愛くるしいと
思ってしまいます。
(先日『柘榴坂の仇討ち』観て泣きましたし…)
私の場合、どちらかというと長州よりは
薩摩にアレルギーが、ありますが
でも、その薩摩にもこの御方は特別…と思える
人も居ますよね。
ところで国会図書館の企画展示は
ちょっと面白そうかな…と。楽しみにしています。
(新宿歴史博物館の講演会は見事に外れました涙)
Commented by enokama at 2014-10-08 22:12
こんにちは。
僕も最近、初期の奇兵隊を調べたんですが「気に食わないものは殺せ。。。」とにかくむちゃくちゃですね。
中根一行を執拗に追いかけて皆、殺してしまう精神構造ってなんなんだろうと思ってしまいます。

赤禰武人も獄につながれた同志を救おうとしてたとこを高杉にじゃまされて。。。
決起したら、皆殺されてしまったんですよね(中には長崎で学んだ海軍の優秀な人物もいたんですが)
まあ、そんな話はスルーされて「成功」した面だけが美談になってしまうわけですが・・・
Commented by やぶひび at 2014-10-08 22:48 x
こんばんは。
「萩ものがたり~奇兵隊士列伝2」という本に、赤祢武人が紹介されています。
著者は一坂太郎。去年の幕末維新まつり(世田谷区松陰神社)で買いました。

http://www1.city.hagi.lg.jp/book/backnumber.html#38
この本を読んだ時、新選組の近藤勇さんと同じように時代に翻弄された人だと思いました。
Commented by はな。 at 2014-10-10 10:01 x
奈桜さん、こんばんは☆

分かっていただけるだけで、ホントに嬉しいです♪

>政治判断とは別のところで愛くるしいと
>思ってしまいます。
井伊さんは、そうなのですよ。
あの人の不器用で人付き合いの下手さが「人間だもの」感を
漂わせ、憎めなくいのです(笑)。
ただ、映画の『柘榴坂の仇討ち』はキャストが吉右衛門さんというのは
なんだか反則な気がしますケド。ほほほ。
(こういう感じの人なら、暗殺はされまいて、と(爆))

>国会図書館の企画展示
この前、行ったときポスターをみて、
楽しみになりました♡
Commented by はな。 at 2014-10-10 10:03 x
enokamaさん、こんにちは!

>中根一行を執拗に追いかけて皆、殺してしまう精神構造
ワタクシもまったく理解不可能ですっっ。
自分と違うモノはいらないもの、というバッサリ感が
過激な原理主義集団ぽくて、日本人としては異質に感じます。

>長崎で学んだ海軍の優秀な人物もいたんですが
そうなんですよね、すごく優秀な人材が消されたり、
人生を妨害されたり、たいへんな目にあっています。
手塚律蔵という長州出身の洋学者さんは開国論というだけで、
文久2年、洋学調所(蕃書調所)に勤めているおり、白昼に
江戸城の堀端で桂小五郎と伊藤に暴行を受け、お堀に投げ込まれまして。
このショックで佐倉へ行き(佐倉藩士だったので)、8年間も佐倉から
出なかった。あたら逸材が、幕末の大事な時間を無にしてしまったのです。
長州出身ではあるけど、佐倉藩士(で洋学調所勤め)になっていたものを、
こんな仕打ちをする・・・・・。長州人おそるべし、であります(汗)。
Commented by はな。 at 2014-10-10 10:04 x
やぶひびさん、こんにちは!

>「萩ものがたり~奇兵隊士列伝2」
列伝に加えてもらえているなんて、本当によかった。

時代に翻弄されたともいえますし、長州に翻弄されたともいえそうな
人物でした。


Commented by 赤べこ at 2014-10-10 11:37 x
赤根さん、わたしも以前このひとのことを知り、なんとも言えない気持ちになりました。
そもそも、『俗論派』と称されますが、当時の国際情勢・日本の軍容(火器類が数世紀前の装備)的なことを考えれば、ふつうの常識あるひとがたどりつく一般論だったはず。
なのに『俗』って…なんでしょう?
おまえらこそ『族』(ヤン的な意味で)じゃろーがーっ!と怒鳴ってやりたいですね。
Commented by はな。 at 2014-10-10 17:32 x
赤べこさん、こんばんは☆

>『俗論派』と称されますが、当時の国際情勢・日本の軍容(火器類が数世紀前の装備)的なことを考えれば、
ふつうの常識あるひとがたどりつく一般論だったはず。

そうなのですよ~~っ
どっちが俗論?!かって思いますよねっっ!!

赤禰武人も江戸では相当にワルさをやらかした、元ヤン的な人ですが、
人生の途中で「あ!違う」と気がついただけ凄い!
ほかの明治の元勲に名を連ねたアイツやソイツは悔い改めることなく、
「族」でもあり、「賊」のような脳ミソのままジイさんになっています(笑)。
そう考えると恐ろしいですね、近代日本って・・・・・。
Commented by しゆいしゅ at 2014-10-17 12:59 x
初めてコメントさせていただきます。
赤禰さんの事ブログにあげてくださってうれしいです。
自分は特別ファンという事ではありせんが、この人の事を知ってから、その壮絶な死と、幕末史の中でも指折りのすごい人物なのになぜあまり世間に知られず、評価されないんだろうっと常々思っておりました(中岡慎太郎氏もこれに入りますが、龍馬セットで知られるだけ、まだましかなっと思っております、龍馬も知れば知るほど・・・なとこ自分にはありますので)てか、長州の歴史に名を知られてる方々でマシな方っているのでしょうか(松陰氏のいう事はごりっぱだけど、すべてにおぼっちゃ的行動で無計画ないい加減さが、綿密な計画で無事渡航成功した新島さんと比べると本気度合に疑問を感じております、わたしの中では、万年、周りの人と肩を組んだ後、先頭に立って夕日に向かって雄叫びを上げて涙を流しながら走っているイメージの人)
自分も井伊さん好きな方です。知れば知るほど好感持ちますね。

これからもブログ拝見させていただきますね。
Commented by はな。 at 2014-10-18 10:15 x
しゆいしゅさん、初めまして☆
コメントを寄せていただきありがとうございます。
ここでもサッと紹介した御使番中根市之丞惨殺事件や手塚律蔵暴行事件等々、
日本人にはありえない残虐性をむき出しにする「長州」は、まったくもって理解不能の宇宙人みたいな
人びとなのですが、そのなかでようやく「わかる」人こと赤禰武人に出会えてホッとしたのが本音です。
吉田松陰など、ただのおっちょこちょい男にしか見えません私からすると、
赤禰さんはたいへん立派な人物です。

土佐では中岡慎太郎氏が本当に気の毒です。
正直、龍馬は世間が持ち上げるほどたいした奴ではない
(でも人物を見極める眼は評価しております)のに、中岡よりも有名で・・・・。

長年、徳川家臣を調べてきた身からすると、本当に優秀で、仕事が出来て、時代の先がみえる俊才たちは
日本じゃあんまり有名にならないし、評価もされないのだなぁと思ってしまいます(笑)。
そういうわけで、マイナーな人物ばかりが登場するブログですが、
よろしかったら、また覗いてやってくださいませ。
Commented by やぶひび at 2014-11-17 19:27 x
手持ち資料です。
一坂 太郎 「司馬遼太郎が描かなかった幕末」集英社文庫 154-158pより下記2冊紹介されています。
 村上盤太郎「赤根武人の冤罪」柳井市立図書館
 司馬遼太郎「十一番目の志士(下)」文春文庫

武光 誠「主役になり損ねた歴史人物100」祥伝社黄金文庫 162-165p
※山県が自分の出世のために、赤根を策を用いて除いたとあります。    
Commented by はな。 at 2014-11-18 17:22 x
やぶひび さん、赤禰武人情報ありがとうございます。

>山県が自分の出世のために、赤根を策を用いて除いたとあります。
山県にはやりかねないダークさがあります(笑)。
困った部下をもったものだ、赤禰さんも・・・・・。

Commented by 赤根 修 at 2018-03-11 19:47 x
赤禰武人氏のことを 話題に選んでくださり同じ姓を持つものとして嬉しいです。恥ずかしながら 数年前まで「赤禰武人」氏のこと知りませんでした。長州でも新選組等の幕府側からも裏切り者、面倒くさい奴、身分もわきまえない狼藉者的に思われてきた次第。総理大臣であった伊藤博文からも密告を高杉晋作にされまだ奇兵隊のトップであったおりに 身分の低いアホな奴と多くの兵士の前で罵倒され 後の山県有朋総理に死して尚貶められるという・・。しかし、吉田松陰先生の亡骸を小塚原から運び 拭い 埋葬した一人で長州の仲間を救おうと最後まで走り回った。家族が病気と聞くと駆けつけ、僧月性の亡き後を訪れ 梅田雲浜が捕まると必死に救出をと悩んだのです。総理大臣に睨まれていたら復権は難しかったのかもしれませんし、政治的な何かあったのかもわかりません。けれどその後松崎家 中富家 赤禰家の方々の身近で彼を知っていた方々が何年も願いでたり岩国や柳井の人々が「冤罪」!と叫び続けてくださっていたことを見れば「赤禰武人」氏を私は同じ苗字を使わせてもらって一人として「誇り」に思うのです。後の世のみなさん・・戦争は・・いけません。命を大切に、差別や偏見は終わりにしてください!・・そう彼が言っているように感じるのです。
Commented by はな。 at 2018-03-12 10:02 x
拙ブログにお越しいただき、ありがとうございます。
赤禰武人と、同じ姓の方に、読んでいただけて光栄にございます!

今年は、折しも、明治維新より150年。
そろそろ、明治維新前後に、理不尽に、不当に、命を落とし、
死後も、明治政府のもとで、貶められて、忘れられた人びとについて、
正確に語られても、良い時期だと思うのです。
内閣府のサイトで、明治維新記念の特集みたいなものもやっていますが、
従来どおりの価値観を、なお押し付けているだけで、
なんの目新しさもありません。これは悲しむべきことだと感じています。

伊藤博文とか、山縣有朋ぐらいの能力で、総理大臣になれるのなら(笑)、
赤禰武人が、もし、生き続けていたら、もちろん総理大臣にも、
なれたのでは?とさえ、思えるほど、赤禰武人さんは、真っ当な人物です。
(ただ、真っ当なだけに、能力に欠ける集団には、警戒され排除されやすい
マイナスポイントもありますが)
毛利家も、こういう人材を大事にしておけば……。
実に、勿体なかったの一言に尽きる、赤禰武人の一生でした。

もうひとつの記事にも、コメントを寄せていただきましたが、
こちらに纏めさせていただきました☆
こちらこそ、ありがとうございました!
Commented by 赤根 修 at 2022-07-03 03:22 x
赤禰武人氏の松下村塾や松陰先生と過ごした期間、時間は少ないものであったと思います。けれど一瞬でも、一語のことばであっても彼の中では輝き続ける・問い続ける内容と実行に繋がったものと確信してます。生真面目すぎるのかもしれませんがそれが彼の心に正直に 素直に従った人生であり まず奇兵隊の着物生地で差別される事があれば封建社会、差別蔑みの世は変わらないと感じただろうし 故郷柱島に戻ったことも潜伏が第一の目的ではなく愛しい島、風景、奥さんに幼子に会うためだったように思います。
Commented by はな。 at 2022-07-07 19:03 x
赤根さん、お久しぶりでございます。
また拙ブログにお越しいただき、ありがとうございます!!

桂島に帰る理由。故郷の土を懐かしみ、家族に会いたい気持ちだったという
お話、深く納得しております。

それに付け加えるなら、やはり仲間だった人達と話がしたかったのでは、
ないかとも思います。説得などという強いものでなくても、
じっくりと腹を割って話し合えば、わかりあえると信じていた。
でも、話すことさえ拒絶されて、彼は無念に啜り泣いた。
どれだけ胸が苦しく、辛かったことかと。

こうした真っ直ぐな人が不当に扱われない世の中であってほしいと、本気で考えてしまいます。

by aroe-happyq | 2014-10-08 11:39 | 広く幕末ネタ | Comments(16)