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東都アロエ

続 勝麟太郎の長崎行きに関する一考察。

※この前の記事は1日前にありますので、そちらからご覧ください☆


小田又蔵が、古賀謹一郎から勝麟太郎を引き離した・・・・・!?

って、私も最初に読んだとき、なんじゃそりゃ!?って、大爆笑したのですけど。
(こういう人間関係のもつれに、いまいち不似合いな、さらり系江戸ッ児・勝海舟(笑)。
とはいえこういう勝さん、どこかの大河とかで見てみたくもある)
とりあえず、続きをごらんください。

小田又蔵という人は、元勘定方につとめていた人であり、川路聖謨の元部下。
ところが、天保の改革中に御役御免になって以来、長いこと無役でした。
この無役のあいだに、蘭学を学んでいたようです。
勘定奉行所に勤めていた時代の元上司川路聖謨はこの間も
小田のことを暖かく見守っていたみたいで、チャンスがあれば、
なんとか官界へのカンバックを後押ししてやろうと思っていたので、
洋学所準備掛りにも推薦したわけです。
小田には、もともと川路という大きなツテがあったわけです。

ではなぜ、小田は古賀から、勝を引き離さねばならなかったか?

彼らのあいだには、洋学所の方針をめぐり意見対立があったといわれております。

そもそも洋学所は「蘭書翻訳御用」ということで、外国の文書を翻訳する機関なのですが、
勝麟太郎と古賀謹一郎はどうせつくるなら、ただ翻訳するだけでなく、
多様なジャンルの洋学を学べるような機関にしよう、という方針だったのに対して、
小田又蔵は、洋学所で学ぶのは現実的に必要な、語学と西洋兵学限定でいいと。
ほかはいらないという方針だったのです。
というのも、小田は勘定方の川路の意向に沿うように動いていました。
この小田が「洋学所で学ぶのは語学と西洋兵学だけでいい」と主張するのも、
慎重開国論で(西洋の余計な知識を学んで耶蘇教にハマッたらどーするんだというご時世でした)、
予算の都合を考えている勘定方の意向を踏襲しているところもあったのです。

これ以外でも、なにかと意見は2(勝・古賀)対1(小田)に別れがちだったよし。
つまり、小田又蔵は、孤立しがちだったようです。

ちなみに、彼ら3人の関係はというと・・・・・。

勝麟太郎はかねてより謹一郎の父・古賀侗庵の開国論にたいへん共鳴
しており、その息子(こちらも開国論)の謹一郎ともウマがあったようです。
謹一郎という人は繊細で神経質な人なので、他者との交流に慎重なところが
あったようですが、勝麟太郎の意見書の内容が自分のそれと合っていたこともあり、
変人の古賀謹一郎としては珍しく勝麟太郎に親しみを感じていたようです。
(勝麟太郎もいささか変人・・・・だし・笑)

勝麟太郎と小田又蔵ですが、その仲は不明です。
ただこの2人、8月4日に浜御殿で開催された将軍上覧のイベントで、
協力しあって例のモールス信号機を動かし、将軍家定に披露しているんです。
でもですね、この信号機の実験は小田又蔵が一人でやってた時期が長く、
本当は小田一人で披露したかったかもしれず、勝麟太郎が邪魔だったかも(爆)。
なにせこの年のうちにこのモールス信号機の動かし方について書いた本、
『和蘭(オランダ)貢献電信機実験顛末(てんまつ)書』というのを著していていますので。
これも「おれの研究だ!」という小田の強いアピールとも解釈できます(笑)。
(ということは、彼らの関係はあまり良好とはいえないな、と)

さて最後に、古賀謹一郎と小田又蔵の間なのですが。
これがもう、ホントに最悪なのです。
古賀のほうが小田をたいそうお嫌いのようでして(汗)。

↑いや、これこそが、まさに今回の勝さん一件の火元なのではないかと思うのです!

再び、小野寺龍太著『古賀謹一郎』(P180)ですが、
謹一郎は小田のことを「骨力とは言い難し。是は呂恵卿、蔡京の流なり」とかなりボロクソです
(呂恵卿、蔡京は宋代の政治家で陰謀の多い人たち。古賀からすると腹黒系という意味)。
さらにこの小田を推している水野&川路両勘定奉行に対しても、どこに眼がついているのだ、と
厳しい言葉が(ちなみに古賀さん、川路のことも俗吏として、すごくお嫌いです・笑)。
そもそも潔癖な古賀はちょろちょろ策を巡らせる小人タイプが大嫌いなのですね。

・・・・・以上のあれこれを鑑みて、大胆な推理を働かせますと!!

ズバリ!!
勝麟太郎の長崎海軍伝習への派遣はですね、
小田又蔵がいろいろ根回しして(おもに勘定系、それも元上司の川路が濃厚!)、
古賀謹一郎の洋学所での勢力を削ぐために、勝麟太郎を長崎へ遣ることにして、
洋学所から追いだしたのではないか・・・?
逆にいうと、勝麟太郎はまったくのとばっちりながら(笑)、小田又蔵によって、
長崎へ追い払われた、というのが真相なのではありませんでしょうか。

3人の艦長候補生ですが、目付系の岩瀬が推しただろう、
矢田堀&永持が目付推薦で2枠使ったとしたら、あとの1枠を勘定系が推した人が入ったとしても
なにも不自然ではありません。
(拙ブログで何度か触れましたが、目付と勘定方というのは、ず~っと前から何かと
対立する不倶戴天の敵同士。3枠あったら、3枠全部に目付の意中の推薦人が採用されるなんて
ことはまずありえません(笑)。かならず、互いに誰かしら別候補を出してきます☆)
しかしそれがなぜ勝麟太郎かっていうのが不思議なところですが、
(川路たち、勝のことあんまり知らないだろうし)
勘定方が小田の推薦をそのまま取り入れたとしたら、成立しそうではありませんか?

小田又蔵が洋学所から勝麟太郎を追い出したいと考えていたところ、
ちょうど長崎伝習所派遣話がふってわいてきた。
小田はこれを利用することにして、川路などの勘定方に勝麟太郎を推薦してみる。
勘定方の川路は小田の悪意など感じず、素直に良き人材として勝さんを推してしまう。
目付の岩瀬たちも、勝なら大賛成なので、誰も異議なし!→決定、というわけです。
(勝麟太郎は、自分の船酔い体質も、数学が苦手で艦長修行ではヤバイこともわかって
いたので、大久保や岩瀬になにかしらアクションを起こしたハズですが、どうやら
そうした苦情は、「長崎行けるんだからガンバレよ」という周囲と同じ反応で終わった?)

そして勝麟太郎を洋学所から追いだして、小田は何がしたかったかというと、
洋学所頭取の座を狙うことです。
邪魔な勝さんがいなくなれば、古賀と1対1の戦いになる。
勘定奉行との太いパイプもあるし、充分勝機はあるとみた。
ところが、順当な人事で古賀謹一郎に決定。

頭取になった古賀は、勝の長崎行きの件を(小田の仕業だと)疑っていたので、
学問所教授方だった元同僚の岩瀬修理などの目付衆に相談。
「そういう腹黒い奴を洋学所に置くわけにはゆかぬ」と目付衆が運動して、
かくして、小田又蔵は大坂へ・・・・・。
(なにやら、この期間の、目付と勘定方の激しい対決の火花がみえるような・・・・)

もしそういう流れならば、この8月の時期に小田があちこち運動をしていた内容は、
すでに洋学所から消えた(つか消した・笑)勝のことではなくて(爆)、
洋学所頭取の座を狙っていたためではないか、とわたしなぞは考えちゃうのですが。
(だって、小田さんにだって、正月からずっと洋学所を準備してきたのは自分だという、自負もありますしね)

もしもそうした流れで「同年12月 小田又蔵、大坂の具足奉行に転属」を考えると、
この人事、かなりヘビーであります(笑)。

なにせ、小田又蔵の転属は、蘭学者なら誰しもがあこがれる勝さんの長崎行きと違って、
蘭学とまったく関係のない大坂(緒方洪庵先生はおられるが)、部署も具足って・・・・・。
完全な島流しじゃありませんか。
なにかの罰ゲームみたいな転属なのであります。

この古賀VS小田の対決話。勝さん抜きでまだ続きがあるのです。
文久2年5月5月1日に、外国奉行組頭になっていた小田又蔵が、
蕃書調所組頭として、戻ってきた。
すると、15日後に古賀謹一郎が蕃書調所を退いているのです。
どーですか、この小田の洋学所(蕃書調所)への執念!
これをみるとですね、やはり小田又蔵には、
勝麟太郎などぽーんと長崎へ投げ飛ばすほどの、はげしい野望があったとしか思えないっ。

ここまでだらだらと「考察」してきましたが、つまりなにを言いたいかというと、
幕末当時から、西洋算術が不得意で、船酔い体質の勝麟太郎に対して、
「海軍不適格者」というかなり厳しい意見があったわけですが(今でもある・笑)、
もしも、今回の記事の想像のように、洋学所内の人事事情で(しかも自分のせいとかでなく)、
やむおえず、「不本意」な状態で長崎へ行かされていたとしたら!?
海軍に入れさせられたとしたら?!!
「海軍不適格者」で何が悪い!選んだほうの責任だ、勝のせいじゃない!
ともいってあげたくなったのですよ。

進んで自分で長崎海軍伝習へ行きたいといったのなら、それはもう馬鹿モン!って感じですが、
行かされちゃったものをどうしろというのか、とね。

ひどい船酔い体質(なにせ長崎行きの船旅ですでに露呈していた・笑)と、
西洋算術(数学)が超苦手の勝麟太郎は海軍伝習所で苦しみ続けます。
(しかも、完全無欠のエリート矢田堀景蔵という、すんごいライバルのそばで)
しかしここで敗退したら、勝さんの官吏人生は終わりです。
いきさつはどうあれ、長崎に行ってしまったからには、結果を出さなくてはならない。
3人の艦長「候補」とはいいますが、補欠は用意されていません。
石にかじりついてでも、艦長にならなければならなかったのです。

現代だと「やめちゃえば?」「氷解塾あるじゃん」って簡単にいえるのですが、
この当時の直参のメンタリティでは、無役から役付きになったら、
もう後戻りという選択はなく、走り続けられる限り走って行くというのが、当たり前です。
(それに長崎海軍伝習でしくじった、なんて評判がたったら、塾経営だって危ういっす)

当時の勝麟太郎はまだまだ官吏として、新人選手です。
徒目付として実績のある永持亨次郎みたいに、「艦長って仕事は自分に合わないっす」と
さっさと転属するなど、そんな夢みたいなことはできない立場でした。
(抜けた永持の代わりに、伊沢謹吾が急遽長崎へ派遣されましたのですが。このおかげで
謹吾にくっついて長崎へやってきた榎本釜次郎青年の未来が開けましたネ)
だから、勝麟太郎は第一期伝習ではほぼ落第の成績ながら、二期に居残って、
(一期総監の永井玄蕃頭やペルス・ライケン、カッテンディーケのように彼に優しい人々に
恵まれたのはまさに幸運でした)
その後、スレスレでも艦長合格となっただけでも、
すごい事じゃないかと、褒めてあげたいわけです。

あわせて、海軍というゴールありきで勝さんを考えがちだった自分を反省しました(笑)。

そもそもが台場とか陸側からの防衛をメインにした研究者で陸軍寄りの彼がですよ、
まさかの海軍でよくぞがんばった!おめでとう!!と、
誰か言ってやってもよさそうでしょ(笑)。
(この点では、西洋兵学者でさえなかった矢田堀景蔵も、もっと褒めてあげたいです!!)

二期海軍伝習やアメリカへ行く咸臨丸のなかで「不機嫌で、いつも不満の」勝に
当たり散らされて気の毒な木村摂津守(一期艦長候補にあがった勘助サン。二期海軍伝習総監)が、
勝に対して、友人の福沢諭吉も驚くばかりの寛容さをみせ続けたのも、
兄貴分の岩瀬修理からいろいろ深~い人事事情を聞いていたからカナ?
なんて想像したりして(笑)。


しかし、小田又蔵についても、ただの悪者とは思えません。
小田はたしかに、古賀のいうような小人かもしれませんが、
安政2年にはすでに51歳なんですよね(勝麟太郎は33歳、古賀は40歳デス)。
天保の改革の時代に御役御免になって(蘭学と関わりがあったことが原因か?)、
以来長らく冷や飯を食いながら、コツコツ蘭学を学んできたこの人からすれば、
やっと巡ってきた「復活」のチャンス。まわりのライバルを蹴落としてでも、
より確実なものにしようと・・・・・ちょっと「一所懸命」で必死になっただけ、とも思えなくない。
年齢をみると、そういう焦りがあったとしても、なんか憎めないんです。

結果的には、勝麟太郎は不本意でもなんでも、長崎に行かされたおかげで、
多くの外国人と出会って、おおいに刺激を受けて、江戸で書物に頼って学ぶ蘭学者では
到達できないところまで成長したわけですし、のちにはアメリカまで行くことができました。
勝さんの人生は長崎行きなしには語れない、とも言えます。

ひょっとすると、安政4年に岩瀬伊賀守(まえは修理)が長崎へ出張したので、
小田又蔵の陰謀の顛末について知ったかもしれませんが、
勝麟太郎も長崎での自由な生活になれ、
初の浮気相手のおくまさんとも出逢ったし(おいおい・笑)
それなりに幸せだったので、「小田、ふざけんな!」と怒ることもなかったことでしょう。
(ただ、日記類で小田の名をみないので、記憶から抹殺はしていたかも(笑))

なので、今さら騒ぐことじゃないかもしれませんが(笑)、
晩年の人を食ったような勝じいさんの談話だけを読んでいると、不適で癖のあるオヤジですけど、
そんな勝さんにも、若い頃は人生山あり谷ありで、人事に翻弄されながら、
与えられた役職を必死につとめて歩んだ、けなげでカワイイ時代もあったのだ、
と、そんなことをつらつらと寒い冬の夜長に感じていただけましたら、
このバカ長い記事も、必死になって書いてよかったなと思う次第です。
(大学とかの研究なら、ただの「妄想」でバッサリの、確証のない不馴れな仮定話がメインなもので、
なんやかんやと1週間以上かかっちまいました・笑)

今後、なにか「確証」の史料と出会えたら、改めて報告いたします!
ただ、幕末史って史料がたくさんあるので、
こうして細かい事をああだ、こうだと調べる楽しさが、たまらなく魅力的。
これだから興味が尽きませんネ(笑)☆


《参考文献》※記事のなかで紹介したものは省いています
原平三「蕃書調所の創設」(『歴史学研究』103号 1942年)
二見剛史「蕃書調所の成立事情」(『日本大学精神文化研究所・教育制度研究所紀要』10号1979年)
by aroe-happyq | 2014-12-24 10:45 | 長崎伝習所系 | Comments(0)