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東都アロエ

幕末凶悪男子の育ち方。@長州

今年はじめ、ぶっちゃけ話のできる友人と酒を酌み交わしまして、
そのおり、長州の若者による悪質な犯罪について語ったところ、
「それブログに出さなきゃ! 大河に主役級で出ちゃダメなやつらなんだから!どーせ×××・・・」
(幕末開国派過激発言のため、後半は自主規制しました(笑))
とのせてくれまして、その友人のエールにおこたえして
松陰の門人&関係者による犯罪プチリストを出してみることにしました。

前に赤禰記事のときに「最初で最後の」長州ネタと銘打ったのに、
もう一回だけ、いわばアンコールです(笑)。
(できればやりたくねぇ、アンコールでございました。だって書いてて面白くない)

プチリストということで、即出ネタと初出ネタまぜこぜですが、
この2015年、もう一度、彼らの悪逆非道ぶり(爆)を思い出していただければ幸いです。
※文久以降の京都における事件はあまりにも有名なので今回は除外しております。


①御使番・中根市之丞一行虐殺事件(現場:萩)

これはもう外せませんね。千年先まで語り継がれるべき事件です。
拙ブログではなんども登場している、幕末史史上、もっとも悲惨にして凶悪な虐殺事件!
※ブログ過去記事はこちらこちらなど。
(なぜ知られていないか?そりゃ勝者の歴史ですから、長州は隠しまくりですわな)
犯行はざっくりいえば奇兵隊ですが、もちろん首謀者は松陰の門人であります。

事件の経緯を簡単に書きますと、
文久3年7月、馬関の外国船撃ち払い事件、および小倉藩領田浦不法占拠問題等について、
徳川公儀は御使番中根市之丞を、詰問使として朝暘丸にて長州に派遣した。
中根の持参してきた書翰が将軍直書ではなく、老中書翰だとしった奇兵隊は激昂、
(長州ごときの詰問に家茂が直書なんか出すか!阿保どもめと、すでにここで奇兵隊に理解不能(笑))
馬関に上陸した中根一行だが、乗ってきた朝暘丸を奪われてしまふ。
しかも奇兵隊の陰謀で、毛利家へ取り次いでもらえないため、8月9日小郡に行く。
詰問がなかなか進まないなか、8月19日夜半、小郡の旅館三原屋に宿泊中の中根一行は
襲撃される。たまたま厠に行っていた市之丞は九死に一生を得たが、中根家の従者長谷川勇助、
家宰の須原栄、小人目付鈴木八五郎の三名が惨殺された。
中根市之丞は従者5人とともに長州脱出をはかり(途中1名殺害される)、
小船(朝陽丸は奪われたままのため)で海上へ。
ところが世にも執念ぶかい襲撃者たちは船に乗って追いかけてきたのである。
(想像していただきたい!中根一行、不案内な土地でどんだけ怖かったことかっっ)
そして船をぶつけてきて乗り込んできた敵と乱闘の末、
ついに中根ほか2名は殺害されてしまうのだった。
幸い、従者のなかで吉五郎、安五郎は負傷しながらも生き延び、広島へたどり着いた。
長州側は中根一行は行方不明と言い張るつもりだったが、この生き残った従者たちのおかげで
この世にも希なる恐るべき暗殺事件は、明るみになるにいたるのであった。
ちなみに、実行犯は、石川小五郎、有馬幸次、児玉百助、藤村幾之進、ほか。
そして主導したのは吉田稔麿、とのよしにございます。

当時の徳川公儀は国際的に認められた日本政府ですから、
いわば国から派遣された糺問使を虐殺するってもう発想そのものが野蛮なテロ集団そのものですわな。
同じ本州にそんな奴らが生きていたかと思うと、ゾッとします、マジで。
なぜ正々堂々、糺問の場で弁論によって戦わない?
反論できないほど、頭がスカスカなのか?(だったら学問しやがれ)
こそこそと宿舎を襲って、しかもその場を脱出できた人びとを追いかけてきてまで殺害におよぶ?!
さすが大河の主人公の兄チャンだ。吉田松陰センセイはご立派な門人を育てたものですわいな。

〈参考文献〉
『維新史料編纂會講演速記録2』「幕府使番中根市之丞長州に於て遭難の始末」
石田恭一『中根市之丞物語 朕が不徳ノ到ス処』
岡崎鎮生編『幕吏中根市之丞暗殺一件』
古川武雄『中根市之丞一行長州遭難の始末』


②御老中安藤対馬守暗殺未遂(坂下門外の変)の黒幕事件
(現場:江戸城付近)

これもかなりヒドイ話。だけどちょっと天罰くらっている、小気味良い事件でもあります(笑)。
坂下門外の変ったら、有名なのでこのあたりはばっさり割愛いたしますが、
そもそもこの安藤公襲撃を考えたのは、長州の桂小五郎、水戸の原市之進だったよし。
ところがそれぞれの御家の事情で、自分たちでは実行できなくなり、
他人にやらせようという話になったわけ。
そこで宇都宮藩儒者の大橋吶庵一派に白羽の矢がたちました。
大橋吶庵は江戸っ子侍なのに、水戸学にどっぷりさん。門人もまたしかり。
しかし彼らも自分たちの犯行にみえないように画策するのですが・・・・・・。
たまたまその頃、外国奉行堀織部正利煕が自刃しまして、大橋たちはこれを利用することに。
堀さんがこれといった遺書を残さなかったことをこれ幸いに、偽の遺書を作成。
(内容はハリスと安藤対馬守が不適切な交流をして、それをとめた堀が命を賭して諫めた的なもの)
この偽遺書は廻し読みされて、当時の若者のいわばベストセラーに(笑)。
そして堀家に縁のある若者もまんまと加わったため、桂小五郎、原市之進はもちろん大橋吶庵さえも
裏に隠れて安藤老中襲撃計画は着々と進んだのですが、ま、徳川公儀もバカじゃないんで、
大橋吶庵は逮捕されてしまいます。しかし計画はすでに実行残すのみというところまで出来ていたため、
逮捕を免れたメンバーで3日後に襲撃を実行するのでした。
文久2年1月15日、坂下門外の変。
で、襲撃メンバーのほとんどは討ち死にするわけですが、
手負いながら仙田彌一郎が現場から逃げのび、
なんと日比谷にある長州萩藩上屋敷へ駆け込んじゃったのです(笑)。
「桂さんに会わせていただきたい」と血まみれの仙田はいい、小五郎は留守だと聞かされると、
「またせてもらおう」と、帰らないわけです。
ちなみに屋敷の外では、安藤公襲撃事件で騒然となっており、目付や町奉行所が血眼になって
下手人を捜しているわけです。長州屋敷ではさぞさぞ困ったことでしょう。
でも桂小五郎の知り合いなので、叩き出すわけにはいかず。
仙田彌一郎は、夜になってかえってきた桂小五郎に会うやいなや、「自害するので見届けてくれ」
という、またまた迷惑なお願いをして(笑)、ホントにそこで死んでしまいました。
これって、桂小五郎が安藤襲撃事件に関与しているって、もうバレバレばわけで、
せっかく大橋吶庵に押しつけたのに、台無しです。
(ま、計画したのだから、やむおえない!?)
で、案の定、後日、町奉行所に桂小五郎は呼び出されて、仙田との関係をねちねち聞かれたのですが、
なんとか襲撃一件に関与していることはバレないで済んだようです。
ま、ちょっとヒヤヒヤしたらしいので、わたしのような桂アンチには楽しい事件でもあります☆

というわけで、松下村塾の門人ではないけれど、関係者として桂小五郎がエントリー。

〈参考文献〉
玉蟲左太夫『官武通紀』
『徳川慶喜公伝』
松本佳子『原市之進』


③御殿山英国公使館焼き討ち事件(現場:品川)


これは、もうくどくど書くより、ウィキみたほうが早いですよね(笑)。
前の2件はりきったので、この事件の概要は割愛しちゃいます。

というわけで、下手人はまるごと吉田松陰門人ズで構成された、
尊王攘夷結社「御盾組」メンバーで、
そのメンツはというと、上海帰りたてホヤホヤの高杉晋作
以下、久坂玄瑞、井上聞多、伊藤俊輔、寺島忠三郎、品川弥二郎、堀真五郎、
松島剛蔵、赤根武人
などなど。以上!(笑)

どうです、この松下村塾門人プレゼンツぶりは!

ちなみにこの焼き討ちの3日前ぐらいに、公使館(建設中のため無人)の護衛兵がお一人
殺されています。下見にきた↑上記メンバーの誰か、が下手人というのが通説です。
火をつけただけではとどまらず、血を見ないとすまない残虐性。
さすがは、松下村塾!!!


④蘭学者手塚律蔵、白昼堂々暴行事件(現場:江戸城付近)

これは被害者が生還しましたので、大きな事件ではないのですが、
現場がすごい。長州萩藩上屋敷付近なもので、
今の東京日比谷公園付近なのですな。江戸城の堀端です。しかも昼間っすよ。やってくれるわネ(笑)

手塚律蔵さんというのは、長州出身の蘭学者です。
出身は長州ですが、高島秋帆や坪井信道に蘭学を学んで、嘉永4年には佐倉掘田家に仕えたので、
かなり早くに長州を出ていたのです。
江戸本郷で「又新堂塾」なる蘭学塾をひらき、桂小五郎や西周などを教えていました。
その後、安政3年、蛮書調所に出仕したのですが、桂小五郎に乞われて、ときおり長州江戸上屋敷で
蘭学を教えることもしていたのですが・・・・・・。それがトラブルのもとに。
文久2年12月20日のこと、手塚律蔵は長州江戸上屋敷に蘭学を語りにでかけてしまいまして、
そこには尊王攘夷結社御盾組がいたんですねっっ。
しかも御殿山焼き討ち成功して、盛り上がってしまっている彼らが。
そこで開国主義者だなんのとわけのわからん理由で、手塚律蔵は暴行をうけてしまうのです。
手塚は上屋敷から逃げのび、日比谷堀端まで走ったのですが、まだ追いかけてくる。
命の危険を感じたため、冬にもかかわらず、堀へ飛び込んで難をのがれました。
12月25日、なおも命の危険を感じた手塚律蔵は瀬脇旧太郎と名をかえて、
妻子とともに佐倉へ居を移しました。
(調所では翌文久3年末をもって退職となっております)
この蘭学者襲撃事件は洋書調所(蛮書調所より改名)につとめていた杉亨二や福地源一郎、
福沢諭吉たちを震撼させ、蘭学者にはインパクトの大きい事件でした。
ただ、手塚さんは長州人で開国主義者だったことがわざわいしたのであって、杉たちは大丈夫
なんですけどね☆
この事件の下手人は、通説によると、
またもや尊王攘夷結社「御盾組」メンバーで、
高杉晋作久坂玄瑞、井上聞多、伊藤俊輔、寺島忠三郎、品川弥二郎、堀真五郎、
松島剛蔵、赤根武人
の誰か、ということです。

手塚律蔵はたいへん優秀な学者だったにもかかわらず、その後慶応2年まで
佐倉から出る事無く過ごしたそうで、なんだかこの3年がもったいない。
しかも慶応2年に洋学所に戻ってきても、瀬脇良弼という改名のまんまということで、
どれだけ暴行事件がこわかったのか!という、本当に気の毒な話です。

〈参考文献〉
村上一郎「手塚律蔵研究ノート」
(『蘭学資料研究会研究報告 81号』)
ほか。

⑤蘭学者東條英庵宅侵入襲撃事件(現場:小石川)

最初に、いっちゃいます。
こちらも、手塚さんとほぼ同時期に起きておりまして、
下手人は、今回も、おそらくは、いえほぼほぼ、
吉田松陰門人ズが作った尊王攘夷結社「御盾組」メンバーらしいです(笑)。

東條英庵も長州出身の蘭学者なのですが、
こちらは毛利家一門のひとという、毛並みの良さ。
(つまり、襲撃メンバーは主家につながる蘭学者でも容赦しないらしい(汗))
そして江戸に出て蘭学者として、身を立てたのですが、ペリーがくるよりもずっと前から
江戸ではかなり有名な蘭学者だったそうです。
安政2年、桂小五郎が浦賀におもむき、中島三郎助に造船学を師事する際も、
東條英庵の紹介状あったればこそ、だったとか。
その後、蕃書調所が開設されると、教授方として招聘され、それから徳川家直参となり、
御軍艦繰練所教授方、外国方で西洋軍学、蘭語を教えるかたわら、
重要書類の翻訳でも活躍されておりました。

そして文久2年12月下旬、東條英庵は小石川に屋敷を構えていたのですが、
その屋敷に突然、「浮浪の徒」が侵入。
東條英庵は裏口から逃げて、からくも難をのがれた。
なんとなく、手塚さんとセットみたく、襲われたっぽいですが、
ご無事でホントによかったです。

「浮浪の徒」としているのは、福沢諭吉著『福翁自伝』での表現ですが、
下手人は、時期といい、動機(ほかに東條を襲撃する人びとって?)といい、
どーみても、すっかりイケイケになっていた上記の輩どもだというのが通説です。
(通説どおり、ええ、決めつけてやりますとも!(笑))

〈参考文献〉
原 平三「東條英庵 蕃所調所教授方小傳」
(『伝記』10巻 2号、4号、5号)

以上、かんたんにおさらいしてみましたが、
吉田松陰門下生&関係者、おっそろしいヤカラ揃いですねっっ。
いったい、どういう教育をすると、こういう凶暴性が芽生えるんでしょうか。

はっきりいって、とてもNHKの顔ともいえる大河ドラマで1年間放送すべき
キャラたちではありませんね。
日曜の夜ですよ、ゴールデンタイムでしょ。
もっと正義ある男たちのドラマを放送すべきでしょうね。

どんなに自分たちの主張があろうとも、それと異なる意見の人びとへ暴力を振るったり、
あるいは惨殺するなどという行為はあってはならないことです。
中根のところでも、書きましたので、繰り返しになりますが、
主張があるなら、拳や刀ではなく、脳みそと口を使って、おおいにやりあいなさい。
それすら知らない、哀れな吉田松陰門下生&関係者。トホホ、南無阿弥陀仏。

われわれのこどもの頃、大河ドラマをみて、歴史上の人物にあこがれたものですが、
今年の長州凶悪男子には、良い子はあこがれてはいけません。
イケメンなんつって、顔なんぞでつられてはなりませぬ。
心はたいそうな不細工さんですからね(笑)。

もっと、あこがれてもよい、いえ、あこがれるべきすばらしい人物はほかにたくさんいます。
間違っても、ダマされてはいけませんよ。
Commented by 赤べこ at 2015-06-07 23:43 x
待ってましたーっ!!!
ホントISさながらの凶暴さ=小暇損塾生!
自分と価値観・意見の違うやつらは殺っちゃっていいって…260年の泰平で達した「中庸の精神」とはまさに真逆の考え方。あいつら本当に武士なんでしょうか?
ま、師匠の松陰が、聞かれもしないのにドヤ顔で老中暗殺計画を語って処刑されたわけですから、弟子どもも推して知るべし、ですかね?
(でも、そんな残念な師を幕府転覆のカリスマとして祀り上げ、さんざ利用しまくった弟子の阿漕さはさらに上を行きますが)
個人的には「塙忠宝暗殺事件」も入れていただきたかったです。
Commented by はな。 at 2015-06-08 17:41 x
赤べこさん、ご賛同ありがとうございます!
もしも彼らがみずからを武士というのなら、きっと長州の武士と
そのほかの地域の武士の概念はまったく、ぜんぜん違うのでしょうね(笑)。

>松陰が、聞かれもしないのにドヤ顔で老中暗殺計画を語って処刑されたわけですから

そうなんですよね!松陰て、マジで頭ヤバイです。
もうホント、大志を抱いている男のやることじゃありませんね。
(フツー、大望があるならこういう場合、生き延びようと思って、黙っているものじゃないかと)

>塙忠宝暗殺事件
たしかに!!これも文久2年12月なんですよね!
伊藤博文の犯行ですが、手塚などと同時期・・・・・・。
⑥に入れようかしら・・・・・(笑)
でももう、記事書いてる途中からお腹いっぱいで、
二度と関わり合いたくない連中です(汗)。
(こんなに書いてて辛かった記事、ブログ史上初かもです(爆))

でも、きっかけになった友人もこの記事、よろこんでくれたので、
書いた甲斐はありました☆
Commented by K at 2015-06-09 13:07 x
こちらの記事にものすご~く共感してしまいました。
いま、本屋へ行くと「明治維新のヒーローたち」「志士たちのかっこいい生き様」といった本がズラ~っと。
もう2015年ですよ!?いつまでそんな歴史認識でいるつもり!?というツッコミもなかなか追いつきません。
戦後レジームより、まずは維新レジームから脱却してほしい!と痛切に思っております(笑)
Commented by はな。 at 2015-06-09 17:54 x
Kさん、共感していただきありがとうございます!

今年は吉田松陰を尊敬する首相のせいか、大河もあれもこれも
長州押しばかり。
悪行の数々を知ってしまった以上、
今さら彼らをヒーローとかいわれても・・・・・とついつい愚痴りたくなります(笑)。

>まずは維新レジームから脱却してほしい!
本当にそう思います!!!!
Commented by しゆいしゅ at 2015-06-17 13:12 x
長州ネタ書いててブルーなんですね(見てるこちら側は勉強になって楽しいのですが)

自分の一番衝撃の長州非道犯罪は、支藩ですが長府藩の中山忠光公へのよってたかって殴ってからの絞殺事件を知った時です・・・宮家の方にこういう事やれちゃうのが、この時代の長州の人たちの勤王とか尊王っていうのはお題目の何物でもないなーとしみじみ思いました(やったのは佐幕派らしいとの事ですが、なんかこういう事するのが長州っぽいなと、同じ時代の勤王佐幕入り乱れて暗殺も激しかった土佐藩は、何となくこういう事だけはやらなさそうな感じするんで。もしか土佐で宮家の人がいたら絶対守るか、仮に暗殺されても勤王派がその下手人を皆殺して、その後藩内で佐幕VS勤王の内乱大勃発イメージ。もしかしたら土佐で同じ事件あったのを自分が知らないだけかもしれませんけど)この事件の時の長府藩藩主だった毛利元運氏の死因も暗殺説もあるぐらいですし。

これからも、はなさんの知る世間様があんまり知らない様な良いお話&気分がのらないでありましょうが悪いお話もブログにあげていただけるとうれしいです。


Commented by はな。 at 2015-06-17 17:57 x
しゆいしゅさん、こんばんは!
楽しんでいただけたようで、たいへん嬉しいです☆

中山忠光暗殺事件、なにかの本で読んだことがあります。
身内にも、余所者にも容赦のない、残酷な長州さんらしいなー(汗)という印象でした。

わたしも土佐や薩摩(でさえ)も、さすがに宮サンには手を出したりしない、
そういうモラルはちゃんと持っている人びとのような気がいたします。
(むしろ、長州だけがおかしいんだと思いますっっ)

by aroe-happyq | 2015-06-07 22:56 | 広く幕末ネタ | Comments(6)