2016年 05月 07日
シツコク、全権委任状問題について
今回は久々に幕末外交について。
まだまだ誤解(というか無知)が多いのだな、ということで、咆えちゃうぞ!
というような記事です(笑)。
今回とりあげたいのは→こちら※PDFです
外交史料館で2年前に開催された「特別展示 マッサン展」に関するエッセイです。
マッサンの話→スコットランド→エルギン→日英通商条約交渉と話はすすみ、
(まったく驚いてしまうのは、エルギンの日英交渉の話をするのに、外国奉行も、
岩瀬も永井も水野の名も出てこないこと。普通、交渉の話をするのに英国側だけ書きますかね!?
わはは。無視しすぎ。さすが明治新政府の流れを汲む外交史料館!超ヤバイっっ)
で、問題はエルギンが持ってなかった全権委任状問題の箇所(P167下段)。
全権委任状については、エルギン卿の心配は杞憂であった可能性が
高かったと思われる。
二〇〇年以上もの鎖国に慣れ、外圧によって開国したばかりの日本人の中で全権委任状の
意味を知っている者が果たしていたであろうか。
答え:いましたよ。それもかなりの人数。
外交史料館って、外務省関連の施設ですよね。
外交に関わる日本人が、西洋人のことは褒めても、過去の、自らの先祖でもある
昔の日本人をこのようにバカにしてよいものだろうか?
いや、その前にこの人、幕末外交史を知らなすぎる(笑)。
さて、ここからもっとヤバイ。
ここで想起されるのが、後の岩倉使節団である。
使節団が条約改正のために米国を訪れた際、米国側より全権委任状の
提示を求められ、大久保利通と伊藤博文が急きょ帰国したことはよく
知られている。それより十数年前の日本側に全権委任状の重要性が認
識されていたとは思えない。
答え:認識されていましたよ
少なくとも、大久保や伊藤、岩倉のような外交訓練0の山出しより、
明治維新より十数年前の徳川直参のほうが、海外知識ありましたし、
ペリーの初回の交渉で全権委任状というものを知ってからは
その重要性を理解していました。
悲しいですね。現代の日本外交に関わる日本人がこの程度の歴史知識で外国に赴任したり
外交そのものを動かしている。
(どっちかというと、外国の外交関係者のほうが詳しいんじゃないのかしら。江戸のこととか・笑)
それにくらべて、日本外交の汚点ともいわれている岩倉使節団のほうをさりげなく擁護さえしている。
(しかもわざわざ徳川時代を否定したり未開扱いしてまで。短絡的すぎ~~~~~)
これが日本の現実なのかと思うと、
はぁ、おそろしや、おそろしや。
最近は徐々に見直されてきてますが
もっとどんどん発信しないとですね!!
そうそう!!!エルギンといやぁ、円明園焼き討ち&国宝略奪ですよ!!!
中国では「赤鬼」の渾名もあったような???
それから映画「西太后」を思い出すんです~~っ。
条約交渉シーンで、連合軍側にやたら高圧的な西洋人の赤ら顔のおっさんが
いたけど、たぶんあの人がエルギンですよね(爆笑)。
そして交渉中に、エルギンじゃないけど別の西洋人さん、辮髪のごつい役人となぜかプロレスごっこ
して辮髪おっさんにぐるぐる体ごとを振り回されて、池かなにかに投げ込まれた記憶があります。
なんて幼稚な条約談判なんだ、これだからアジアはみたいな、微妙な気持になった思い出も。
(映画の演出ですけどね~~~~~っっ、た、たぶんっっ)
日英条約交渉は相撲レスラーとプロレスごっことかもなかったし、御浜御殿焼かれたり略奪もなかったし(笑)、
外国奉行ゴレンジャーうまくやってくれて助かった……。
(まだあの当時はうっかり英国軍艦が下関海峡通っても砲撃されないご時世だったし。ラッキーでした)
そしてあれから約160年。英中は蜜月と思いきや、エリザベスさんに習近平さん一行は「失礼」と
言われちゃう感じ。相変らずビジネス以外では、やっぱ反りが合わないのかもしれないですね(汗)。