東都アロエ

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アジアンエンタメ&お江戸後期。外国奉行や長崎海軍伝習所がご贔屓☆ BYはな。

名前をめぐる東西の違い問題。

真田丸、とうとう大坂編が秀吉の死とともに終わろうとしております。

本編も面白いのですが、真田丸の場合、物語の背景に流れる、
長年にわたる戦国史の研究成果の惜しみなき投入がまた、素晴らしい。

昨晩の「終焉」では秀吉の遺言状問題が登場しましたが、
これについて、真田丸の公式サイトでは特集さなイチで、時代考証を担当されている
丸島氏のインタビューをのせています。


さて、そこで目から鱗だったのが、
豊臣時代の西日本では、官名で呼ぶよりも、偉い人に対しては名前を呼ぶ方が
敬意を表していることになっていた、というのです!

つまり徳川家康の場合、「三河守殿」ではなく、「家康殿」って呼んじゃうほうが、
家康を敬っていることになるらしい。

それが逆になるのが、江戸時代だと。

おそらく、漢籍を読んでいた家康からすると、やはり名前より「通称名」とか「官名」
で読んでほしいなぁと思ったのではないかと。
(豊臣時代は、いろいろ我慢していたんだな、この人も(笑))

さて、それで考えたのが明治になったときのこと。ずっと気になっていたのです。

前々から不思議だったのですが、明治になると名前を普段も使うようになりますよね。
通称名とか使わず、ダイレクトにお名前で。

たとえば、勝麟太郎義邦さんなどは、江戸時代では、義邦のほうで呼ぶのは父親ぐらいな
ものだったそうな。そのほかは麟太郎さん、と呼んだのです。
それが明治になると、新政府は勝義邦で通せという政策をおこないました。
(でも勝さんも、いろいろ違う名前にしていましたね)

大久保利通や井上馨など、西国の人はわりとすんなり、名前使いをしていたように
思いますが、江戸の旗本だったみなさんは、どうもそういうのになじめないのか、隠居名とか、
幼名で使っていた名前にしたりして、父からもらった本名を使いたがらない傾向があります。
もちろん、榎本武揚のように、どーんと名前使う人もいましたが。
(でも本人は釜さんて呼ばれるのを好んだらしい)

そこで、話は戦国の名前問題に戻るわけです。

つまり、西国の人はわりと戦国以来、名前で呼ばれるのに抵抗がなかった?

それに対して東国では、ずっと名前で呼ばれたくないなーという伝統があった?

うーむ、東西の文化の違いは、食文化のみならず、名前に関しても、こんなにあるのかと、
そんなことを真田丸のインタビューを読みながら、思ってしまいました。
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Commented by 赤べこ at 2016-08-08 19:03 x
>豊臣時代の西日本では、官名で呼ぶよりも、偉い人に対しては名前を呼ぶ方が敬意を表していることになっていた

えぇー!
ウロコ5枚くらい落ちました。
だって、諱=忌み名は、その人本体に近いものだから、おいそれと口にしてはいけないものなのかと。

ところで、よく「徳川対豊臣」という言い方をしますが、これはまちがいだと、先日ある講座で習いました。
徳川対~だったら、「羽柴」が正解で、豊臣対~だったら、「源」とするべきだと。
たしかに、会津藩御家訓には「源朝臣容保」と署名してあったような気が。

それにしても、「徳川対羽柴」?……これなら徳川の方が全然勝ってませんか♪?
Commented by aroe-happyq at 2016-08-09 19:14
※コメント欄が不調なので、エキサイト内から書き込みます。
aroe-happyqは、はな。のことでございます☆
(ここから下はコメントです)

赤べこさん、そうなのですっっ。
ウロコたくさん落ちますよね~~っっ!

日本のいにしえよりの伝統によれば、
名前はおいそれと他人に呼ばれるものではなかったはずなのに。

うーん、やはり西国と東国との距離は遠いです……。

>「徳川対豊臣」

真田丸の時代考証を担当されている黒田氏によると、
豊臣時代は、叙任にともなってみーんな豊臣姓だったとか。

http://www.surugadai.ac.jp/
gakubu_in/hogaku/news/2016/24-1.html

姓と名字の違いについても、この解説で再認識したのですが、
おっしゃるとおり、正確には「徳川対羽柴」としなくては
ならないのだとか。

たしかに羽柴だったら、なんか徳川のほうが強そうデス♪
by aroe-happyq | 2016-08-08 10:41 | 広く幕末ネタ | Comments(2)

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