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東都アロエ

児玉定子著『日本の食事様式』 (中公新書598)にみる本膳料理というもの。

児玉さんの本はほかにも『宮廷柳営豪商町人の食事誌』などいくつかもっているが、
この『日本の食事様式』はとくに興味深く、何度も何度も読み返している本。

日本には中世からはぐくまれてきた伝統的な日本料理があり、
それは支配層が変わるたびに形をかえて、より豊かに継承され改善されていき、江戸時代に
いたって「本膳料理」という最高の姿となった。
今はなき、その本膳料理がどんなものだったかは、史料も乏しく、幕末に日本にやってきた外国の人々の記録、または外国使節への饗応料理の記録によってかろうじてその姿がわかる。
酒で酔って舌が鈍るのを防ぐため、本膳料理を味わう間は酒はなく、白湯のみで、料理を楽しむ。(酒を飲みながらの料理は別につくり、それは「酒膳料理」といった)
西洋のディナーのように前菜に始まって、次々に料理がでてくる趣向で、あまり量をとりすぎないために白飯を絶妙なタイミングで腹におさめていく。献立の料理は医食同源にかなうもので、現代の栄養学からいっても非常にバランスのとれたものであったらしい。
酒を飲まず、料理のおいしさをじっくり楽しむ・・・・・。なんという風流な!と思う。

ペリーに饗応した場合などはお一人様三両というとんでもない値段だが、こうした饗応料理をどこの店に発注するかを応接掛の面々(勘定奉行とか、目付とか外国奉行たち)が決めるあたりをみると、この人たちも三両の最高料理ではなくても、そこそこのお値段で食べにいける本膳料理もあるらしく、ときには自宅に仕出し料理として注文することもあったらしい。旗本の中流クラスなら味わえた日本料理であったとみえる。
そして徳川瓦解とともに、本膳料理は消えてしまった。

明治の新支配層は味オンチが多く(私が言っているのではありませんっ、本に出ているのですっ)、あまり本膳料理には興味がわかず、最初から酒を飲んで食べる(できればそこに芸者もいるとなおうれしい)、酒宴料理、今の料亭料理のような形のものしか欲しなかったというのだ。
またそれまでの政権の移り変わりと違って、明治の支配層は徳川とほとんどかかわりのない人たちであったため、例えば室町の足利将軍から信長、秀吉、家康というような近い関わりの支配者の移行と違って、徳川から明治への政権交代では、日本料理の伝統を継承する流れが途絶えてしまった。
もちろん明治になると西洋料理という新しい文化がはいってきたので、本膳料理の伝統継承はそれだけでもかなり厳しかっただろう。しかしこうした事情で、本膳料理という名の日本料理の伝統は明治をもって消えてしまったのである。

『日本の食事様式』はもちろんその後の日本の食事についても書かれているが、本膳料理などというもの自体を知らなかったので、最初の読んだときは、誰か再現してくださーーい!と叫んだものだが、しっかりとしたレシピがないらしくなかなか難しいものらしい。
でも、ハリスやアーネストサトウやロッシュが知っているのに日本人が知らないのはかなり哀しい。

岩瀬たちが親しんだはずの本膳料理、いつかかならず・・・・せめてテレビ番組で再現した姿をみてみたいものだ。
(もしかすると、長崎の卓袱料理はその流れを受け継いでいるような気がするのだか?)

・・・・永井介堂の、木村宛書簡に書かれていた、岩瀬忠震没後三十年周忌を開催した枕橋の料亭八百松は本膳料理っぽかったのだろうか?参加した木村&永井、そして勝海舟、榎本、荒井、白野・・・・その他諸氏、誰か教えてプリーズ!(笑)
by aroe-happyq | 2007-01-28 14:09 | 江戸東京あれこれ | Comments(0)