2007年 04月 16日
立花種恭の老中日記の世界①~14代将軍の時代の外交
前後の時代が重要となれば、この時代についても少しはしらなくちゃ、と思って読んだ、
立花種恭さんの日記。・・・・これが予想外の面白さでして、
『旧幕府』や『史談会速記録』などで、立花さんの語り口のセンスはかなりいい!とは
思っていたのですが、まさか日記まで!読んでいて飽きない~~~。
(以前に釜さん関連で、立花日記について取り上げた回はここ)
ということで、立花さんの案内でほんのちょっとですが家茂将軍の周辺からみた、
文久3年~慶応4年あたりまでを、
数回シリーズ「その時立花は動いた!」(笑)としてお送りします。
まずは簡単な立花さんのプロフィールを(*追記あり)。
天保7年2月28日 葛飾郡海辺大工町の藩邸で生まれる。
嘉永2年家督相続。
嘉永4年陸奥国伊達郡の領地5千石に立花家代々の筑後国三池の旧領5千石が
加増され、1万石に復帰。大名諸侯の列にも再び入る。
大番頭などを経て、
文久3年9月10日 若年寄となる。
慶応4年1月10日 老中格となる。
2月 免職 奥州同盟に加わるも途中離脱。
明治元年 三池の知事になる。
(以下省略・・・・)
・・・・と簡単すぎですが、始めたいと思います。
文久3年9月10日から日記は始まる。 このとき、立花サン27歳。
若年寄研究者にとって、いきなり貴重な若年寄になるための手続きの記述から始まるが、
そこは割愛(笑)。ただ、以下の文章は無視できないので引用すると、
それ老中といい若年寄衆などと称するは、他よりの尊称にして、
本来役名はなきことなるを人これ役名と思う者多きは非なり。
諸奉行、諸役人共徳川政府に於ては一も役名なし。
・・・(略)・・・ 百官名は、朝廷の官ゆえにこれを類似せんことを慎しみ、
わずかにその場所執るところのままをもって名称とせしものなり。
(引用部分を太字から色変えにしてみましたが、見やすいでしょうか???)
・・・・・徳川政府に於ては一も役名なし
ついつい、役職名とか、いっちゃうのですが、目付も奉行もみな、
尊称であって役名ではない、ということを思い出させてくれました。
尊称で禄高がきまるというのも、しかしややこしいぞ、徳川政権・・・・。
(ちなみに立花さんはキッパリ、徳川政府っていっておりますが、現時点では政府であったのかどうかは議論の分かれるところデス)
若年寄となった立花サン、屋敷替え(城の近くにお引越し)や、試用期間中は忙しかったようで日記は、ぽんと10月26日に飛ぶ。なんと外交デビュ~!
若年寄の田沼玄番頭と横浜停泊中のフランス艦「フレガット・スミラミス」へ向かった。
「余、外国人と談話すること此時をはじめとす。」
それなのに、フランス艦のアドミラール(提督)に観音崎に日本が砲台を築いていることに抗議をうけ、
その工事をすみやかに止めんことを望む。しかれども決し恐るるにはあらず。
万々お望みによりては、品川沖砲台といえども、この軍艦一隻をもって、
二十分間に平坦の地となし貴覧に入れるべしと、
・・・・・お、脅された。
玄蕃頭初め微笑して止む。
この微笑がまた、ちと哀しいっっ。
どうもペリーがやってきた当初より、日本に慣れてきた外国人による脅しっぽい
こういう場面が多いような気がする(笑&涙)。
岩瀬たち初期外国奉行が交渉していた頃もそれ相応の脅しはあったが、
それにジョークを使ったりしながら、けっこう対抗していたようなやりとりが多く、
(それは岩瀬たちだから、という個人力に頼っていたところはある)
家茂時代の外交がせつないのは、やり返せる会話力をもった応接掛がいなかった、
ということがいえるのかもしれない。
そのせいか、よくものの本で、家茂時代の外交を「無能」とか書かれてしまうけれど、
彼らは彼らで一生懸命やっているので、無能だなんて思いません。
家定時代に華麗に活躍した外交家がほぼ駆逐されてしまったなかで、
交渉ノウハウの伝達もなく、いきなり外交を任されたわけですから、
彼らを責めてはいけないと思うのです・・・・。
さて話は戻って。
フランスといえば、駐日公使ロッシュ!
徳川とはひじょうに昵懇となった人ですが、さてロッシュの第一印象とは・・・・。
文久4年(元治元年)4月16日に、
板倉周防守らと新任公使「レオンロセス」を招いて、牧野邸にて会食しています。
板倉周防守が、
「・・・・(略)・・・・、日歿にいたれば、浪士等暴挙あらんことを深く懸念す。故に
今日は宿し、帰浜せられ、尚かさねて緩話あらんことを望む」
というと、ロッシュは、
「御親切は辱けなしとと雖も、浪士のごときは、我等、恐るる処にあらず。
唯、恐るるべきものは天なり」
とし、天を指させり。
満座これを聞きて感じ、語り伝えたり。
・・・・かっこいいんですよ、ロセス!(笑)。武士よりも武士らしい!?
で、すっかり徳川閣老はロセスに恋していくわけです(爆)。
その反対に・・・・・英国公使パークスの印象については、明日!
*こちら史料は
『立花種恭公の老中日記』(岡本種一郎 編 三池郷土館 昭和56年)です。