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東都アロエ

立花種恭の老中日記の世界⑩~慶応3年 事件は現場で起きていた

この年は、能動的ではない立花サンなので、日記にみえた有名人の記録を中心に
たどってまいります。

慶応3年は正月早々から慌しく始まりました。
1月11日には徳川民部大輔卿(慶喜の弟)がフランスへ留学に旅立ち、
(立花はそれを横浜まで見送りに出張)
そして、京からは孝明天皇が病の報が届き、続いて、

1月14日
晴 主上崩御 去る四日被仰出し以来 月代並に髭共
御免無之処 京都表より 御免の御便り着に付 今日髭を剃る


孝明天皇の死でいよいよ波乱と激動の一年が始まったのでした。
とはいえ、江戸にいる立花サンにはまだまだ激動は伝わってまいりません。
なので、知り人ピックアップをいくつか。

3月10日
晴 大目付永井玄蕃頭 先月晦日 阪地に於て 若年寄格 被仰付し旨 申し来る


旗本初の若年寄が誕生し、
しかもそれがあの因縁の(笑)、永井・・・・・・。

3月26日
開陽 御軍艦出来に付 榎本釜二郎乗組今日 横浜へ着港


とうとう帰ってきました!・・・・・あ、でも字間違えられている(笑)。
正しくは釜次郎さんです。

そしてシャノアンが登場です。

4月晦日
晴風 今朝 佛蘭西陸軍教師惣督シヤノアン 余が邸へ来訪す
・・・(略)・・・・・シヤノアン独行して来るこごときは 当時の珍事なり
故に 未だ椅子等の用意ある事なく 困りて 書院床脇の棚を腰掛に
用いんことを云う 彼 諾せず 坐して語る 菓子をすすめ 且つ
此頃 初而全国に於て 出来の 巻煙草をすすむ 彼 太喜んで 是を喫す
余また同人の仮住居を 問はん事を約す


外国人ら老中宅などへやってくると攘夷志士に襲撃されるかもしれないので、
あまり外国人がふらっと閣老宅へはやってこないことになっていたが、
シャノアンは急にやってきたらしい(笑)。
・・・ここで驚いたのはすでに国産の巻き煙草があることです(それだけかい)。

実はこの頃、横須賀製鉄所(造船所のことです)建設中で、そのことがたまに
日記に出てきますが、立花は6月にかけて再び体調を崩し、歯痛も起こしていて
日記が飛び飛び状態。歯痛は6月10日に松本良順の門人で歯科の千葉玄茂の
手で切開手術の上奥歯を抜いて(これって親知らず?)、完治しました。
これが縁となって、

6月19日
今朝 松本良順 内田九一を余が宅へ招く 写眞す 是 写眞の嚆矢なり
内田九一は 皇国写眞師の 創業者にして 松本良順の誘導による也と。


立花ははじめて写真をとりました。松本良順セールスマンの言によれば、
内田九一は日本初の写真師ということらしい。同時期にはほかに鵜飼玉川という人も
いるのでどっちが最初かは??さてさて。

・・・・・こうして、病で寝付きながら、あっという間に運命の秋がやってきます。

9月に長崎で英人が殺傷される事件があって、10月初旬まで立花サンは
パークスへの応接に忙しくしておりました。

10月3日
英公使パークス 応接 長崎殺傷事件の一條に付 彼 暴論


5日にも各国公使とこの件で話し合うも「同公使一人 暴論に付き 如是」・・・パークスはあいかわらずのようです。
こんなことでストレスがたまり、ふたたび立花は病気になってしまいました。
しかし・・・・・。

10月19日
晴 今夕 永井肥前守きたる 余 病臥のまま 面会 京地に於て
王政復古の義に付 将軍慶喜公 御直命をもって 過る十三日
十万石以上家来 京地詰の者共へ 王政え御戻し思召に付 銘々
存慮可申出様 並に 御封書御渡しの由・・・・(略)・・・・・
老中一人 若年寄ニ、三人 上京の義 仰せ越され
よりて廟堂 大議論 ・・・・(略)・・・・


同僚の永井肥前守(永井尚志の本家)が京都の情勢を伝えにきた。
王政が復古する件につき、慶喜が在京の面々に意見を述べるよう
いっているので、江戸からも老中や若年寄を上京させることになったが、
柳営じゅうで大議論になっている
・・・・ということを立花は知った。

10月21日 
晴 今日 在府万石以上の面々 四つ時登城 王政復古之義
見込みお尋ねある


江戸在府の閣老に不安が広がり、立花の病床に面会してくる同僚が増えた。
24日には、
堀内蔵頭きたる 無二の精神を話し 感慨す


しかし、不安は現実のものとなった。慶喜が大政奉還をしたのだった。

10月26日
今朝 御目付滝沢喜太郎招く 今般 御政権御返上に付 即今
外様大名御取扱向き 且つ 遊撃隊をして 生殺の権を与へ
町人共難義 相抜けざる様御取締向き等の義 申し含め 老衆へ傳言す


大政奉還が成ってしまった今、大暴れする外様(って薩摩ね?)対策として
遊撃隊を投入し、江戸の町の混乱を乗り切るよう目付に伝言を頼んだ。

10月晦日
晴 二三の藩 暴動に及ばんとするの説 一二の藩より 内告ある


まったくの蚊帳の外に置かれながら、
こうした事態に江戸在府諸役人は必死に対応しつつ、また毎日のように激論を
戦わせていた。実はこのあたりさまざまな出来事があるのだけど、ひとつだけとも
ゆかずに、・・・すべて割愛(笑)。

12月14日
大雨 京地 塚原但馬守より 来状 
三条実美はじめ 執政と成り 九門 薩 土 芸 尾 越 の藩に固め
他人一切入れず 大炮いずれも玉込め 薩 悉皆 抜刀
一両日には 必らず 暴発有之べきに付 此の表 兵隊早々上京の様
且つ 迫る八日朝より 薩 長 御所固め 二條御城 遠巻き 甚だ切迫


王政復古のクーデターの情報を手紙で知るのでした。
歴史の大転換だというのに、お江戸も立花も蚊帳の外のまま・・・。

12月17日
晴 遠山修理亮 京地より着 幕府並びに 攝政 御廃絶 被仰出し由申開ける
右に付 諸奉行 諸役人 徹夜大議論


12月20日には岡部肥前守が京より戻ってきて状況を報せてくれた。

実はこの20日のところに「阪地御日記」からの書き写しがあり、
そこになぜか近藤勇が伏見街道で撃たれた一件が詳しく書かれている。

兼而 伏見へ御警衞のため 新撰組 並に 歩兵一中隊 御集合屯置候処
本日近藤勇 用事有之上京 帰路の途中 四條木屋町にて
右左空屋より 薩人小銃にて狙撃す 初発弾丸にて 肩下より 脊通り打抜かれ
続いて七八弾丸連発 従僕 両人即死 勇儀は 深手のまま
伏見へ立ち帰り候処 会藩より申出し 即刻 平塚久海 被遣
療治いたし候ところ 平人に候はば 無論 落命に及ぶべき所
剛強の人物故 療治相届すべき由 久海申聞ける


即時情報なので、いくつか事実と違うところがありますが、これが江戸への第一報
だったのかもしれません。・・・・・最初は薩摩の人が犯人だと思われたのか・・・・とか、
ちょっと興味深いので引用してみました。

12月23日、江戸城二の丸が炎上したり、
江戸じゅうで薩摩がさんざんに暴れまくり、放火、強盗、殺人・・・・・と
収拾のつかない事態へ発展していきます。
同じ、23日には、

今夜 酒井左衛門尉人数 芝屯所へ 薩藩襲う

この件をふまえて、翌日24日は、これまで耐えに耐えてきた柳営ですが。

・・・・(略)・・・大議論 沸騰 営中 戦争の如く 終に薩邸の賊 揖捕の事に定まり

とうとう薩摩にお仕置きをすることが決まり、そして25日

晴 今朝七時 各所の薩邸へ 庄内人数 並に 撤兵歩兵襲撃
余は 堀内蔵頭とともに 早登城 御高屋へいたり 遠望するに
各所に火の手上り 炮声ひびく 昇平ほとんど三百年 今日に至る
この形勢を見ること 概歎止まず


なんだかせつない場面です。
江戸の町のあちこちから火の手が上がり、
炮声が聞こえる様子を城内の火の見櫓からみているなんて。
これが映画のワンシーンならワタシは泣きますね、確実に。号泣です。
(BGMはゴラン・ブレゴヴィッチ『アリゾナドリーム』の「ドリーム」あたりかな(笑))
実はこの頃から堀内蔵頭は神経を痛めてしまい、
やがて悲劇的な最後を迎えてしまうのです。 

しかし12月晦日の項には、

藩邸の賊 逮捕となりしは 江戸市中一般 歓喜の情況なりと云へり

江戸のみなさんが薩摩の横暴のかぎりを尽くす様に、
よほど腹を据えかねていたのですね。
スッキリした気分で慶応3年は過ぎていったようです・・・・。

明日はついに最終回・・・・。運命のの慶応4年こと明治元年の立花サンです。
by aroe-happyq | 2007-04-26 10:49 | 幕臣系(老中など) | Comments(0)