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アジアンエンタメ&お江戸後期。外国奉行や長崎海軍伝習所がご贔屓☆ BYはな。

立花種恭の老中日記の世界⑪~北へ、いやいや西へ

ついに最終章、激動の慶応4年です。

慶応4年戊辰正月元日
晴 麻上下着用 宅祝 且つ表袍一同に受け 十時登城
下部屋にて 大紋に着替 御用部屋へ出ず


江戸城での最後の元日の様子です。

1月2日
晴 今朝 浅野美作守 シヤノアン 並に 兵隊一大隊を率い 順動丸にて上阪


1月3日
晴 阪地より飛脚着・・・(略)・・・・
慶喜公 朝廷の召により 御入京の途次 伏見に於て 前駆 騒擾起り
為に朝敵の名を蒙らる


こんな最中、なんと立花サンに老中格に昇進の話が・・・・

1月5日
余 老中格 被仰付の義 内論有之 強而 御断り申述 大いに論


世が世なら泣いて喜ぶ老中昇進ですが、立花サンは断る!と上司ともめています(笑)。
しかし抵抗むなしく、11日には正式に老中格にされてしまいました。

そして以前にも紹介した1月11日

晴 ・・・(略)・・・ 今夜九時 余 宅居間に独坐せしに 
品海の方に当たりて 大砲一轟す 
余 何となく 開陽艦には非ざるかとの 感を生せしは 奇なり


翌日、1月12日まずは松平周防守から手紙がきて、増上寺代参のお仕事を
終えると急いで江戸城へ!

開陽艦にて 還御 松平肥後守 松平越中守にも 御同艦の由 極秘に申し来る
余 愕然 あきるる事ひさし
・・・(略)・・・・・・登城 営中 湧くが如し 今夕に至り 御浜庭より 御乗馬にて
還御なり 大議論 徹夜 紛々たり


・・・・ここからの大騒動に関しては日記よりも、『旧幕府』4巻8号の立花サンの談話の
ほうが詳しいです。旧幕府以外では『幕末の武家』にも載っておりますし、
この日記の巻末付録でもありますが、このあたりに興味がある方はぜひご一読ください~。
開戦論者の立花サンは慶喜の前に立ちふさがって「どうそお切り遊ばせ」と抵抗し、
恭順ときまると、榎本たちと松の廊下で一緒に泣く(当ブログでしつこく紹介済み)
・・・・・・等々、談話によると、彼も懸命に戦っておりました。
なぜ開戦しないのかと「どうそお切り遊ばせ」と詰め寄ったときのこと、慶喜は、

其方共は 左様申すが 今日の旗本のようすは どうだ
と 御意になったので 私も黙って退きました


ここはちょっとポイントだと思いますので、、『旧幕府』談話を引用してみました。
徳川家として戦うとして、直参が使えない・・・・というのは、もう負けというのと同じ・・・・。
そして立花サンもそれを否定する言葉もなかったのです。
(これが慶喜の本心かどうかはともかく、ですが(笑))

12日から16日あたりまで江戸城では連日連夜の大激論が繰り返されたのですが、
とうとう16日には、立花の同僚の堀内蔵頭が御用部屋で自害するという
事件がおきます。発見した時には手の施しようもなく、
立花サンは同僚にして友人の最後を看取ってやるのでした。

こうして1月が混乱のなかで過ぎてゆき、立花サンは頭痛で起き上がれなくなり、
2月1日には退職願いを提出しました。

・・・・つまりはここで老中としての日記は終わりのはずなのですが、
しかし日記は続くのでした(笑)。

この瞬間から、立花サンは徳川の行く末のことではなく、自分の藩の明日と
家来と家族の生活を考えることにのみ集中していきます。
徳川直参のみなさんとは違う、元若年寄だった小藩の藩主として、
彼なりに危険な綱渡りをしなければならないのでした。
そこで、いろいろ考えた立花サンは、

2月16日
家老庵原覚兵衛 用人立花鑒二の二人を上京せしむ。


京都の様子を探らせるが、その一方でこの頃大名は次々に江戸を引き払い、
領国へ帰る状況なので、立花もそのことを考える。

立花種恭の領国は、陸奥国の下手渡と九州の三池にあります。
先祖代々の領地は三池だけど、先代のとき下手渡に転封され、種恭の時代に
ようやく三池(全部ではないらしい)を戻してもらった、という経緯があったので、
さてどっちに行こうか・・・・・みたいな(笑)。だけど、

2月20日になって下手渡より使いがやってきた。
仙台が動いていること、会津討伐の勅命が下るとのことで、領内の人々が
不安に思っているので、ぜひとも下手渡へ下向してほしいと要請されたのだった。
悩んだ立花は、26日になって三池に使いを出したが、家臣と大議論の末、

3月6日
陰晴 今朝七時 在所下手渡へ出立


とりあえず、家族と家臣とで下手渡へ旅立った。13日に無事に到着。
と、ところが、

3月15日
晴風 江戸邸より 飛脚着 柳河と共に 此方 天保山御警衛
京都に於て 被仰付 且 余 病気に付 上京延引


朝廷から命令がきてしまうのですた。
日記には書かれていませんが、実は下手渡藩は奥羽越列藩同盟に加盟しておりました。
いつそうしたのかは不明ですが、いつのまにかそういうことになっていたらしい(笑)。
朝廷の命令に従えば、同盟の裏切り者・・・・・・・。
立花サンは奥羽諸藩へ人をやって状況を探らせることにしました。
その探索人たちが戻ってきて、う~~んと悩んだ立花サンは・・・・

3月25日
・・・・(略)・・・仙台は 大藩なりといえども藩内議論四分五裂にして 
一定の確見なく 而して 慢りに大藩を頼み 奥羽探台の見識を有し
内露にて 論ずるに足らず
・・・・・・(略
・各藩の名を挙げてダメだししている)・・・・羽州の藩々に於けるも
更にみるべきものなし。
余 思慮する処ありて 下手渡に来りしも 如是にては 何のなすべきことやあらん
止みなん やみなん 然る時は徒らに 此地へ止まるべきにあらず
速やかに家族を携帯し上京し 家族は筑後三池御領分に 住せしむるに如かずと
爰(ここ)に思慮を決せり


どうにも奥羽越列藩同盟が信用できなかったらしい。
もうやめたやめた、となかば開き直って、上京することに決めちゃいました。
つまり、朝廷側についちゃおうと(笑)。

天保山御警衛を同じく命じられた柳河藩とも話がついて、事はとんとん拍子に進み、
江戸邸家臣一同議決」・・・大議論にもならず、三月晦日にははやくも江戸へ向けて、出発。

ところが行きと違って、帰りは・・・・・ではないですが、わずか一ヶ月のあいだに、
下手渡と江戸の間といえば、すっかり戦闘地域となっていたのでした。
数々の障害を越えて旅は進むのに、なぜか立花サンも家臣もうきうきなのです。
日記の筆も踊る踊る・・・・・・。
立花サンも家来の多くも、ふるさとは江戸なのですよね。だから?明るいのです。

4月6日
当所より江戸まで十六里。高瀬舟二艘を雇い入れ 之れに乗して
夕三時出船す。 関宿藩 船改め番所あり
惣同勢の名前認め 出すべき由なれば これを出さしめ申し 通過す
舟人等番所を恐るること甚だしく 家臣等大いにこれを笑えり
近臣 若者等 各々船頭を助け 艪を押したり 故に舟足大いに早し


久しぶりに日記に笑い声が戻ってきました。
そしてみんなで心が急くのか、船頭を手伝ってどんどん舟の速度を上げていきます。
翌日7日には江戸へ到着です(笑)。
そして3日ほど深川大工町邸でゆっくりしてから(江戸は江戸城開城間近で緊迫して
おりますが)、数日後、品川から照宝丸にて西へと向かいました。
(ちなみに立花サンの江戸屋敷は仙台藩によって報復的に焼き討ちされたそうです(汗))

その旅の途中、逆風で下田港で足止めをくっていた、4月20日のこと。

余 船上に出て 大洋を見るに 二艘の軍艦東西に分れて戦う勢なり
雷のごとく炮声つらなって 雲の如く弾丸飛びて海水上る
炮発およそ百四五十 やがて 西なる艦は方向を転じて西へ走り
東の艦は これを追うこと急なりしも 程なく艦影 山に隠れて見えずなりぬ
追て 聞く処によれば 西に逃れしは 春日艦にして
追い行きし方は 開陽艦なりしとなり


貴重な、開陽が戦闘している姿です。

立花サン、レアなものをごらんになりました(笑)。
・・・なんとなく開陽とは相性いいかも?


さて、長く続けてまいりました立花種恭の老中日記。

最後に開陽の雄姿をみた、ということでこのあたりでお開きとさせていただきます。


というのも、この後の日記は京都で朝廷側につく手続き、謹慎、、また手続き・・・・・と、
(なんですっけ、勤皇書?とかいう誓書を書かされたりたいへんなのデス)
あまり動きがありません。筆のいきおいもなく、淡々と記録していくような感じでして、
これといって取り上げるネタがございません。

日記は明治2年1月30日・・・・・で終わりますが、
これより少し後に、三池知事になったということで、
立花種恭サンも無事に激動の幕末を乗り切りました。

そしてこの日記と、晩年にはすばらしい談話を残してくださいました。
率直な言葉でつづってくれた立花サンの記録は本当に貴重なものばかり。
ありがとう、立花出雲守!!!!

・・・・・11日もかけてどうしてマイナーな家茂側近の日記をとりあげたかというと、
幕末は、少なくとも幕府側は、ぜんぜん暗くないということを、
知ってもらいたかったということもありますが(笑)、
なによりも、歴史は表舞台だけで動いているのではなく、たくさんの裏方さんが、
支えていて、ともに動かしているということをちょっとでも紹介したかったのでした。
そういう意味ではまさに幕末バックステージもの・・・・・といった感がありますが、
彼らのようなまったく無名の面々がいるからこそ、有名なあの人やこの人が輝くわけです。
(超有名な人はほとんど登場しませんでしたけど(汗))

とはいえ、立花サン、かなりはじけたお方でした!!!(爆)


*提供の史料は、
『立花種恭公の老中日記』(岡本種一郎 編 三池郷土館 昭和56年)でした。
(こちらの巻末に史談会、旧幕府の談話すべて収録されております☆)

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by aroe-happyq | 2007-04-27 10:50 | 幕臣系(老中など) | Comments(0)

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