2007年 05月 28日
岩瀬修理から目が離せない!
* 今日はこれといって企画ものの記事ではありません(笑)。
先日、川島平蔵さんのところでも触れましたが、
(鬼平長谷川平蔵さんと間違えそうだな、川島さんっっ)
『幕末外国関係文書』を読んでいる今日この頃ですが・・・・・・・・・・。
いや、本当に、もう!!!
嘉永7年1月22日に目付海防掛助になったばかりの新米目付の、
岩瀬修理(忠震)さん37歳。
翌日から出張命令はあるわ、28日あたりにどどどどと出された
黒船再来航に関する江戸警固などの通達の文書にガンガン署名しております。
もちろん、
堀織部
永井岩之丞
岩瀬修理
の三人連名の最後ですけどっっ。
(これもまた、たまりません)
堀織部は前年の嘉永6年5月から、永井は嘉永6年10月からそれぞれ目付なので
まだ一週間のペーペーとしては最後で当たり前、いや、フツーはこんなペーペー
はこんなところに署名なんてさせてもらえませんっ。
これにはちょっと事情があります。
ペリーは「3月ぐらいにまた来るね!」といっていったん去ったのですが、
ペリーは新暦の3月を想定しており、
日本側は旧暦の3月を想定したので、
旧暦の1月中旬に黒船が「約束どおり来たよ!」と現れたので、
日本側は「ええええ。準備まだできてないよ」とぶっちゃけ・・・・焦った(爆)。
しかもそんなときに、使える男岩瀬修理が目付になったら、
やっぱり即戦力扱いですねっっ。
それに、どうやら、修理さんは仕事を難なくこなしているようだし。
(堀&永井という頼もしい親友二人がガッチリとサポートしてあげていることも
大きいと思うけど)
この当時は目付筆頭は鵜殿長悦(くどいようですが、浪士組を京まで引率した
あの鵜殿サンです)で、最古参は戸川安鎮。
目付衆は、この二頭体制でした。
どちらも切れ者でかつ後輩に優しい、よき先輩陣ですから、
岩瀬ってラッキーだったと思います。
そしてまもなくここに、大久保一翁こと大久保忠寛が加わると、
目付部屋の黄金期が始まるのです。
(もうまもなく堀は蝦夷へ、永井は長崎へ行ってしまいますが)
また阿部伊勢守正弘の安政の改革の始まりであり、
徳川時代、最後の「正しい」政治の数年間ともいうべきか(涙)。
そんなわけで、やっぱり岩瀬ってスゴイかも、と思いつつ、
『幕末外国関係文書』ますます楽しいデス☆