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東都アロエ

安政3年8月 長崎よりの目付上申書~交易御開への一歩

幕末外国関係文書をあいかわらず読んでおります☆
(正確にいうと、さっと読んで必要なところをピックアップしている作業中)

今は14巻 安政3月8月までのところです。


のちの外国奉行5人のうち、
いちばんよく働いているのは箱館勤務の堀織部正ですが、
次に働いているのが、長崎に行きっぱなしの永井玄蕃頭(岩之丞改め)です。

岩瀬忠震はようやくハリス&ヒュースケンがやってきて、
井上清直とともに下田掛になったところ。
「開国の星」になるまでにはもうしばらく時が必要です。


そんななか、「開国の星」岩瀬より先に長崎から永井が「交易御開、富国強兵・・・」
と叫んでおります。
それが今回メモっておこうと思った、「長崎在勤目付上申書 交易開否の件」です。


永井玄蕃頭と岡部駿河守の二人の連名によるものですが、
イギリスとシャム(現在のタイ)の修好通商条約が添付されて、江戸へ送られました。

上申書の内容はすごく簡単にいうと、「世界の形勢をみても、交易開始は避けて
通れない。一刻も早く交易開始を布告し、蘭人の協力もあるから各国の交易の調査を
して準備を整えましょうよ」という、
交渉の現場から、開国の結論を延ばしている幕閣へと決断を促すものです。


この当時、いちばん外国人に接しているのは「人数」では堀さんですが、
オランダ商館長という優れた補佐のおかげで、実のある話をじっくり行い、
「質」のほうでいえば、永井のほうが日本でいちばんでした。
長崎に赴任できた彼の幸運としかいいようがありません。

この当時は英国人のアジア担当要人が長崎に滞在しており、
日本側と交易についてもかなり詰めた話し合いがなされていた。
(この当時、日本へやってきていた英人は日本をどうこうしようという野心もないので、
不平等条約を結んでやろう、などという輩は存在しえないことだけは付け加えておきます。
これはハリスにもいえること。もちろん、異国を恐れ圧力をかけられて条約を
結ばされるようなトンチキは日本側にも皆無である事も)

長崎在勤目付として異例に長い勤務である永井は、
つたない日本の外国交渉担当のなかでは、すでにベテランの域に達していたので、
かつてペリー来航のおりに「打ち払い、交易不可」なんて強硬な上申書を出した
面影はないといっていいでしょう(単に、臨機応変な人なので(笑))。
彼は交易開始、富国強兵という、古賀謹一郎たちが再三叫んでいた開国論こそが
日本の近代への道であると、この長崎で結論にいたったらしい。
(しかも永井の近くには、古賀と並び立つ開国論の勝麟太郎もいるのですよね。
伝習所の夜の酒盛りで、そういう話になってもおかしくないし・・・・(笑))
そうした想いがこの上申書に込められています。

この当時だけ、永井さんは「開国の星」だったようです(笑)。
すでに前年の安政2年11月に、長崎製鉄所建設の独断契約なんていう
大それた暴走をやらかしているので、永井のなかの開国論はこのときより
少々前から心にはあったようにも思えますが・・・・。
公文書でおおっぴらにここまで書いたのはこのときが初めてです。

岩瀬がなぜわざわざ、安政4年3月に、
伝習所帰りの永井をどしゃぶりの雨にもかかわらず、
品川港で待っていたのか、これでよくわかります。
・・・・ちょっとおくれて、自らも開国しかない!と思い至った岩瀬さんは
永井とその話をしたかったのね・・・・みたいな(爆)。

そして岩瀬にエンジンがかかれば、あとはもう永井さんは後からついてゆけばいいわけで。
(とことん裏方的な役割が好きみたいですね、永井玄蕃頭氏は(笑))
 

ホントはちゃんと引用して・・・・・メモではなく、紹介をしたいところですが、
暑くてポチポチとキーボードを打つ気力がありません。
どうぞご了承くださいまし。



※この上申書は「幕末外国関係文書 14」 825Pに掲載されております。 

 
by aroe-happyq | 2007-07-26 10:48 | 外国奉行ズ | Comments(0)