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東都アロエ

江戸時代の産休~村垣淡路守公務日記6より(追記あり)

いつもの「幕末外国関係文書」ですが、その附録3よりのご紹介です。

附録シリーズの目玉はなんといっても「村垣日記」ですが、
なんだかずっと続きそうでちょっと恐いような気もいたします・・・・・。

さて、今回の公務日記6は安政2年についての記録部分です。
彼は蝦夷地から戻ってきており、この一年は江戸での勤務(ときどき出張あり)日記。
「幕末外国関係文書」での文書のやりとり以上に柳営の勤務体制がわかるし、
たいへんに貴重な公務日記です。

と、そのなかで9月6日のところに、村垣さんの奥様が男の子を出産したとあり、
「産穢御届」を提出しております。

 備後守殿

     産穢御届      御勘定吟味役 村垣與三郎

   妻出産
   一男子
     産穢七日 九月六日より同十二日迄

 右今暁寅刻出産仕候、依之産穢御届申上候、以上


    ※ちなみに備後守とは、この9月の御用番の老中牧野備後守ノコトです☆

江戸時代でも、パパの産休は7日間あったのですね。
産の次に「穢」とくるので、そもそもの産休制度の始まりは
ネガティブな方向の理由かもしれませんが、休みであることに変りはない!(笑)

でも、この6日の当日は勘定方や町奉行関係にご挨拶に行っているので、
休みとはいえないかもですね。
でも7日間であっても、当時は休暇というものが基本的にゼロなので、
ちょっと嬉しい制度だったのではないでしょうか。


・・・・・・・ですが、時代は幕末。のどかな江戸のゆるい勤務状態ではなかったのです。

 村垣の日記は続きます。

 但、三日目、

一、産穢中ニ候ヘ共、御用多ニに付、罷出可相勤旨、昨夜備後守被 仰渡候趣、
  同役衆ヨリ之達文通、飯田藤三郎届方失念、今朝四時頃、持参、
  不調法申聞、・・・・・(以下中略)・・・・・登城不致、四半時頃、出宅、
  備後守ヘ御届相越し申置、尤野服之儘、夫ヨリ鑄立場廻り、八時帰宅


     ※「勤」と「帰」の字など、読みやすいように旧字で表記しておりません。

産休に入って3日目のこと、
その前の日に「忙しいさなかだから、出勤しなさい」旨、老中の「仰渡」があって、
その文書を受け取るのに時間がかかったため、この日は登城はしなかったが、
出勤しますよの届を備後守のもとへ提出し、ラフな格好のままだけど、
「鑄立場」の見廻りをしたそうな。(って結局働いている)

そして翌日から定時出勤して、再びいつものお仕事の日々に戻っていきました・・・・・。

*追記
なぜこうも早期に呼ばれたかと申しますと、
村垣さんが9月の御用番(月ごとの当番で、毎日出勤が必須)
だったため、ということが大きな理由だったと思われます☆


ほとんど休めなかったんだね・・・・。
(泰平の世なら、たぶん丸々お休みをいただけたはずです・・・・・)
そしてこの9月からひと月後の10月2日には安政の大地震が起きてしまうので
正直、このときの産休は貴重だったのに・・・・・。

というわけで、いちおう基本的には江戸時代の産休は7日間あった、
けど村垣は休めなかった、という報告でした(笑)。
Commented by yukisayo62 at 2007-08-07 12:01
産休=産褥休暇。よく考えたら当時としては当たり前のことなんですね。ついつい思考回路の切り替えができずに、「え!そんなに休めたのか」と思っちゃいました。
産褥の考え方は今でも船関係の現場には根強く残っていて、大きな会社は別としても、ウチの兄貴の勤める地元のちびこい造船会社でも産休は1週間ありました。仕事に行きたくても現場から「出てくるな!」と叱られるそうです。
村垣さんは3日目で仕事に呼ばれたんですね。頼りにされて喜んでいるやら嘆いているやら(笑)。
Commented by 入潮 at 2007-08-07 12:17 x
いつもわくわくする史料のご提示、有難うございます。

仰るとおり、「産」が「穢」であるという考え方が興味深いです。
村の獅子舞などの祭りにも、葬式や出産などがある家の子供は、神体を汚す恐れがあるということで、出る事が出来ない決まりだった、という記述が明治の新聞にありました。
「生」と「死」が同じ穢れとしての感覚で捉えられていたということで。超越した事象への畏怖を感じます。

そして、いつの世も、責任と能力のある人間は、私事よりもハレ・ケよりも、まず任務なのですね。
Commented by はな。 at 2007-08-07 14:43 x
>小夜さん

船関係の会社の貴重なお話をありがとうございます!
一週間という期間についても、たいへん興味深いです。
やはりかつては産褥、つまり「ケガレ」とは回避すべきものだったのでしょう。ただ江戸後期になると「ケガレ」という考えも形骸化していたので、上司も出て来いと、呼んでしまうのかも・・・・。
今気がついた事で、うっかり本文に書き忘れておりましたが(追記します☆)、村垣さんは勘定吟味役として、9月の御用番(当番)だったので、たぶん決裁などのサインなどがないと・・・7日の不在は困る!ということだったでしょう(笑)。
Commented by はな。 at 2007-08-07 15:01 x
>入潮さん

>「生」と「死」が同じ穢れとしての感覚で捉えられていたということで。超越した事象への畏怖を感じます。
思えば人というものはこういうものへの畏怖があったぐらいのほうが、きっと地球の上でおとなしく慎ましく在り得たような気がします。
恐いものなし、になりつつある現代は暴れ放題、したい放題なので、「死」のみならず、「生」に対してもケガレを畏れる気持ちがあった当時の人々のほうがどれほど可愛らしいか(笑)、と思ってしまいます。
ただ、江戸城などは武士の棟梁たる徳川の城のはずですが、宮廷化しすぎて、血の穢れに対しても内裏の如く、ちょっと敏感すぎるところも無きにしも非ず・・・ですが(爆)。中期までは松の大廊下事件のようにほんの少し血が畳に落ちたというだけで、何枚も畳を張り替えてしまう徹底ぶりでした(もったいない話です)。
後期は村垣さんをみていると、合理主義のほうが勝ったのか?とちょっとホッとしてしまいました(笑)。
Commented by きりゅう at 2007-08-08 00:04 x
ほ~。江戸時代も産褥は7日なんだ!
これは平安時代の産褥による「忌み」の期間と同じですね~。
陰陽道による「忌み」の思想は、鎌倉幕府とともに武家社会に入ってはいるのですが、けっこう無視され続けていたので(戦さのときに日が悪いといってるのに出陣されちゃったり……)江戸時代にまで生きていたとはオドロキです。
ちなみに「死」のほうは、平安時代だと30日ですが、江戸時代はどうだったんだろう?
Commented by はな。 at 2007-08-08 09:57 x
>きりゅうさん
そうですね。平安時代と変らない期間のようです☆
「死」のほうは、どうなのでしょう。村垣さんの身内に不幸があると
わかりやすそうなのですが(爆)。
村垣日記をパラパラみていたら、
安政江戸地震の際(安政2年10月2日)、
屋敷が倒壊し、側室を亡くした阿部伊勢守は翌日、この件で「遠慮」とのことで「夕刻登城」になっています。緊急時ではありますが、半日か!みたいな(笑)。←こちらは特殊例だと思いますが

ちょっと面白そうなので、そのあたりちゃんと調べてみます♪
Commented by きりゅう at 2007-08-08 11:14 x
そうそう。横レスなのですが、「産褥7日間の忌み」は、「生」というより「血の汚れ」への意識ですね。
でも、産婦や乳幼児の死亡率の高かった当時の事情を考えると、産後すぐに外界との接触を遮断するというのは、細菌感染なんかの予防になったんじゃやないかという気がします。
そのへんから始まって、後付で「忌み」が生まれた(あるいは同時進行かもしれないけど)んでしょうね~。
「死」の「忌み」の意味もあるけど、長くなるからまたいつか(^^)
Commented by きりゅう at 2007-08-08 11:22 x
>側室を亡くした阿部伊勢守は翌日、この件で「遠慮」

側室だからかな~?
同時期中国の「清律」なんかじゃ、妾は殺しても「家畜」扱いだから重罪にはならないのよね(ひどい!)
忌引きも正妻と側室で違うのかな~?(だったら、それはそれですごい)
でも、江戸時代って人間力が強くなってしまってて、禁忌は残っているものの、意識的には形骸化してるな~という気がします。
神さまも、ね(^^)
Commented by はな。 at 2007-08-08 14:24 x
村垣日記的表現だと「妾」でした(爆)。
(いちおう、子も生したそうなので、側室と書いてあげたのでした)
子を生した女性だったので、家族扱い?だったかも、とは思うのですが。

>意識的には形骸化してるな~という気がします。
同感です。形だけ、存続しているだけという気がします。
産穢も、ほぼ間違いなく村垣さんにとっては「7日も休みだ、ラッキー♪」程度にしか思っていなかったと・・・・なのに出勤させられてしまったのでした(笑)。
Commented by はな。 at 2007-08-08 14:38 x
あ!レスの順番まつがえてしまいました(爆)。

>「産褥7日間の忌み」は、「生」というより「血の汚れ」への意識ですね。 
そのようですよね。もともとは衛生面の問題かと。

たびたび松の廊下事件関連ですいませんが、吉良さんが怪我の治療をしたのにぐったりしているので、医師の栗崎道有が「腹が減っているらしい」と湯漬けを食べさせようとするのですが、表向御台所では殿中で血を流した人には給仕できないきまりになっていたので、目付の目を盗んで医師が適当な理由をつけて、紙に包んで飯と焼塩を密かに運び、そして茶坊主から湯をもらい、御椀を手に入れ(笑)、即席で湯漬けにして吉良に食わせたという記録(栗崎道有の記録→『忠臣蔵』赤穂市史料本に収録)があります。
畳の取替えにしろ、この吉良に飯を出さない例にしろ、、そしてひいてはお産の問題にしろ、「血」に対する衛生面の問題は、当時としてはとっても大きかったのは事実のようです。
Commented by はな。 at 2007-08-08 14:48 x
↑突っ込み忘れました♪

衛生面でいえば、栗崎道有が差し出した湯漬け。
これって、相当に問題があると思うのですよ(爆)。
(吉良さん、二杯も食べちゃったみたいですけど)
ご飯と焼塩は実は台所から栗崎が「俺が食う」といってもらったらしいのですが、そのぐらいなら、御台所が規則を曲げてでも、フツーに湯漬けを出してあげたほうがよかったのではないかと・・・・(ランチタイムが終わっていた説も無きにしもあらずですが)。
こういうあたりが衛生面でいたらない、江戸時代??

Commented by きりゅう at 2007-08-08 14:54 x
もともと衛生面で「忌」んでるって観念は、もはや失われちゃってたんでしょうね~。
でも御台所方の拒否はブラボーな「御役所仕事」っていう伝統なんだと思います(^^)
by aroe-happyq | 2007-08-07 10:54 | 箱館または釜さん | Comments(12)