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東都アロエ

雑司が谷にいってまいりました

日中36度という、猛暑のなか・・・・・。
昨日、16日。雑司が谷霊園の岩瀬さんに挨拶にいってまいりました。
日中にいったら確実に死んでしまふ・・・・ということで、ちょっと夕暮れを
狙っていたところ、ちょうど家を出ようとした午後3時ぐらいから、
雲が日差しを遮ってくれるようになり、暑いなかでも涼しいという
かなりラッキーな状況になってくれました☆

雑司が谷にいってまいりました_d0080566_10282282.jpg


雑司が谷に行くなら、これに乗るのがオツです♪

なにせ雑司が谷駅の前が霊園入り口なのですからっっ。

広大な霊園のなかで、岩瀬家の場所はというと、1-1-8-6。
以前、こちらの霊園にいらっしゃったきりゅうさんのアドバイスどおり、
トイレの近くを目指していくと、すぐにありました☆

岩瀬家代々の墓と、岩瀬忠震、そして養父岩瀬市兵衛忠正の墓がありました。
まずはご挨拶をさせていただいてから、調査をしてみました。

岩瀬さん自身の墓誌は白野&永井の向島白髭神社のものがあるのですが、
こちらには養父の忠正さんの墓表に注目してみました。
岩瀬忠震の従兄弟の林晃(大学頭林家の人です)の撰です。

雑司が谷にいってまいりました_d0080566_10362672.jpg


真ん中のあたりに、「君 性恬淡温順にして義子忠震と相睦まじく・・・」
と見えるかと思います(見難くてすいません。これでもかなり画像処理したのです~~)

忠正さんがどういうおお舅さんだったかは、以前に井伊家史料の岩瀬探索書にも
あったように、すっかり婿さんに家のことはおまかせ、婿のほうが役職が上でも、
一緒に轡をならべてご出勤という仲良しぶり・・・・・とありましたっけ。
どうやら、本当に仲の良い父と子だったようです(笑)。

たしかに・・・・文久元年、最初に忠震の唯一の男子の忠斌くんが急な病で亡くなり、
そのときすでに病床にあった忠震が息子の死の辛さに耐えかね、その数ヵ月後に
亡くなり、ひとり残された忠正さんも68歳の身にこたえたのか、
二人の後を追うようにその二ヵ月後になくなってしまったのでした。
(その後、木村摂津守の奔走で養子をとるのですが、その人もまもなく亡くなって
とうとう岩瀬家が絶えてしまいました)

忠正さんがいかに養子の忠震を大切にしていたか、その最後をみるだけでも
伝わってくるように思います。

永井家でもそうでしたが、江戸時代は血の繋がりのあるなしに
関わらず、父子、母子が本当に互いを思いやる社会で、
つくづく感心しきりです。
これだけはとても今の日本ではかなわない、と思います。
それもこれも儒教のおかげ?だとしたら、
古い教えというだけで片付けられないものがありますね☆


というわけで、無事に熱中症で倒れることもなく、岩瀬さんご一家に挨拶をし、
またまたついでシリーズということで、1-4-B5-25の小栗上野介さんにも
ご挨拶。
『幕末外交関係文書附録之七』の村垣日記(安政6年)をみていたら、
岩瀬・川路・永井が免職になった日のちょっと前に小栗さんは目付になっていたので、
心意気というあいまいな部分ではありますが、なにかバトンを小栗さんは
しっかり受け取って活躍してくれたのではないか、と勝手に想像した次第(爆)。
つまり、一緒には活躍していないけど小栗さんもまた「なまか」だと(笑)思いました。
(学問所ではほぼ間違いなく、顔を合わせておりますので)

で、小栗さんのところへいく途中・・・・・・・・・・・・。

雑司が谷にいってまいりました_d0080566_11111430.jpg



このあたりは元はお鷹部屋だったとか・・・・・・・・。
この松(やはり徳川あるところ、松だらけ・・・・・・)がその名残を残しているそうです。


蚊がいなかったら、もう少し散策をしたいところでしたが、
小栗さんに挨拶したら、退散してしまいました(笑)。
Commented by yukisayo62 at 2007-08-17 18:18
暑い中をお疲れ様で御座います。こちらは・・・すいません、エアコンの効いた部屋から毎日ちゃっかり楽しませていただいて居ります(笑)。岩瀬のお父上のお墓が見れて嬉しいです。ありがとうございます。
東京は夜間も30度を下らぬ由。熱中症に気をつけてお過ごし下さいー。
Commented by まやこ at 2007-08-17 20:48 x
はな。さん、こんばんは。
猛暑の中のお墓参り、お疲れ様でした。
(わたしも2週間前に綾瀬と南千住に行ってきましたが(笑)

ところで、雑司が谷霊園にも小栗さんのお墓があるのは本当だったんですね。
ご存知だとは思いますが、小栗さんのお墓は群馬県の東善寺というお寺にもあって、こちらにご遺体が葬られています。
小栗さんサイトと化している東善寺のHPには、雑司が谷霊園の小栗さんのお墓について一切触れられていないので、こちらのお墓がどのような経緯で建立されたのか、とても気になります。
Commented by sinsky at 2007-08-18 00:03 x
ほんと暑い中お疲れ様でした。このはな。さんの地道な調査がブログをより一層魅力的なものにしてるのだな、と改めて感じました。

実は、自分の知り合いで、東京在住の方(大牟田市出身)が先週帰郷された際、三池(下手渡)藩江戸藩邸の場所(江東区深川)のリサーチをお願いしたところ、本日、メールに写真を添付して送っていただきました。暑い中、歩き回って様々な写真を撮ってきてもらい、大変恐縮したのですが、その気持ちだけでも本当に心に沁みます。。
同じ日に、同じような気持ちで江戸の町を散策していたであろう友人と、はな。さんがダブってしまい、ついつい書き込んでしまいました。
すいません、関係ない話で。。。
Commented by はな。 at 2007-08-18 09:34 x
>小夜さん
この16日前後の日でしたら、絶対に断念しておりましたが、この日の午後は奇跡的に暑い中でも涼風が吹き、ポカリをコンビニで買わなくても(笑)歩けました。行くのやめようかな、なんて思っていたら、出かける時間あたりから曇るなんて、まるで「来るんでしょ?」と岩瀬家に誘われてしまったようでした(笑)。
Commented by はな。 at 2007-08-18 09:40 x
>まやこさん
この雑司が谷霊園の小栗さんのお墓は、小栗さんと奥様、養子の夫妻の四人の名前が刻まれていて、小栗さんご家族の墓という趣でした。しかも建っている方向が他のお墓と違っており、何処の方向を向いているのか(おおざっぱに言うとたぶん北東方向?)やや変った感じでした。
どういう経緯で建てられたのか、ちょっと興味があります☆
Commented by はな。 at 2007-08-18 09:47 x
> sinsky さん
おおおお!深川の立花さんの藩邸ですか!
今はどういう感じになっているのでしょうか♪
それにしても、御友人は立派でございます。わたしなぞ、今はとても町歩きはできません(汗)。16日は命日なのではずせない・・・ということで、やむおえず、出かけた次第ですからっっ(笑)。

Commented by まやこ at 2007-08-18 23:35 x
はな。さん、たびたび失礼します。

雑司が谷霊園の小栗さんのお墓について、教えてくださってありがとうございます。
奥方も一緒ということは、こちらは小栗「家」のお墓のようですね。
他のお墓と違った方向を向いて建っているそうですが、もしかしたら小栗さんが亡くなられた上州権田村の方角を向いているのかもしれませんね。(そうだとしたら、北西方向なんですが…)
雑司が谷霊園は東善寺よりもずっとわたしの家に近いので、もう少し涼しくなったら、こちらの小栗さんのお墓にお参りしたいです。

>sinsky さん
初めまして&横レス失礼いたします。
深川の三池藩藩邸跡の詳しい場所(住所)はお聞き及びしていませんか?
実は昨年まで深川にある会社に勤務していて、深川界隈は仕事帰りによく散策したので、三池藩藩邸が深川のどの辺りにあったのか気になります。
Commented by sinsky at 2007-08-20 12:41 x
>>まやこさん
はじめまして。

コメントいただきありがとうございます。

一応わたしの手元には『江東区登録文化財一覧(十四)』(平成7年3月31日)という報告書がありまして、この中に史跡「下手渡藩上屋敷跡」として紹介してあります。簡単な解説とともに、所在地が「白河2-1・2・10・11・12」と記されていますが、深川はおろか、東京にも不案内なわたしは、それがどのあたりに位置するかなど皆目見当がつきません。

当時の江戸切絵図と現代の地図を対比させてみたいな~という野望は持っているのですが…
ご教示よろしくお願いします。
Commented by まやこ at 2007-08-21 00:25 x
>sinskyさん
下手渡藩上屋敷跡の現住所を教えていただき、ありがとうございます。
地図サイトで調べて、すぐにどの辺りかわかりました。
わたしの名前をクリックすると、Yahoo!地図情報の「江東区白河2丁目の周辺地図」のページに飛べます。
その地図をご覧いただけるとおわかりでしょうが、十字型のアイコンが藩邸跡の位置です。
また、左側の「れいがん寺幼」の表示がある一帯が、「霊巌寺」というお寺です。
桑名藩の菩提寺で、松平定信のお墓がある由緒ある寺です。
手持ちの『嘉永・慶応 江戸切絵図』に収録されている「本所深川絵図」には、霊巌寺の隣に下手渡藩上屋敷は「立花出雲守」として載っています。
深川にあった藩邸はほとんどが下屋敷なので、この地に上屋敷があるのは不思議に感じられます。
ちなみに、以前は霊巌寺の境内だった場所にある「深川江戸資料館」は、天保年間の江戸の街並みが再現されていて、見学していて楽しい場所です。
Commented by sinsky at 2007-08-21 02:11 x
>>まやこさん

ご教示いただきありがとうございました。

やはりこういうときの必需品は、人文社の『嘉永・慶応 江戸切絵図』ですね。自分も買おう買おうと思いながら、先延ばしにしておりましたのでこれを機会に購入したいと思います。
また自分も「上屋敷」という表示には違和感を覚えております。これも継続調査です。そして「深川江戸資料館」、噂には聞いております(笑)。
今後ともご指導よろしくお願いします。
取り急ぎお礼まで。
Commented by なな at 2013-05-30 06:44 x
【参照】
小栗忠順殺害の真相について
http://m.ameba.jp/m/blogArticle.do?unm=yageki&articleId=11537516120&frm_src=article_articleList
本当にお気の毒でした。合掌
Commented by はな。 at 2013-05-30 17:25 x
>小栗忠順殺害
本当に可哀相ですし、下手人ども(って官軍ですけど)はホントにとんでもない奴らですっ(怒)。
by aroe-happyq | 2007-08-17 11:17 | 外国奉行ズ | Comments(12)