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アジアンエンタメ&お江戸後期。外国奉行や長崎海軍伝習所がご贔屓☆ BYはな。

これもひとつの順聖公伝説 その一

順聖公というのは、島津薩摩守斉彬のことです。

明治になると「伝説」話があちこちに出始め、
『史談会速記録』などでは政府主体の本なので、正直ウッざい!くらい(笑)の
褒めちぎり話が登場します。
そんな積み重ねの先には、司馬作品に登場する神々しいまでに「最適化」(笑)された
順聖公像が出来上がっていくわけです。
あの口のわるい勝安芳までが談話で、文章で褒めるくらい、
確かに立派な人だと思います。
正直、島津の人ですが(琉球ファンなもんで)、エライ人です。
でもそれじゃつまらない(笑)・・・・と思ってしまう「偏りがちな」探究心の持ち主の
私としては、ファンゆえにあえて「ぶっこわし」をいたしたく思います。
(興味がなかったり、苦手な御仁に対してはいっさい起こさない、愛情ある行動です♪)

『史談会速記録』・・・・・あんまり面白い話は少ないのですが、
そのわりにはたんまりコピーを溜め込んでいたりしておりまして。
今回は別の調べもので読み返していたら「あれ、こんなのコピったっけ?」なものが
出てきまして(笑)。己の管理不行き届きを恥じつつ、あたかも新発見の如き勢いで
紹介させていただきます。

『史談会速記録』269号(合本37 P53~)
談話者は本田孫右衛門さん。
嘉永5年~慶応まで、江戸薩摩屋敷で「君側勤仕」だった人です。
斉彬公の近くで働いていたので、「人間・島津斉彬公」をよく知っているわけです。
そのおかげでほかの談話にはでないお話がたくさん♪登場します。

以下、対話形式なので省略しつつ、再構成してまいります。
(読みやすい文章にあらためてございます☆)

○交友関係について

本田君 御大名には珍しいほどの御交際家でありました。
     ふだんのお付き合いはまず、黒田侯、それと鍋島侯、それと因幡池田家二軒、
     それから宇和島の伊達様、細川家もあれもチョイチョイ御出でありました。
     久留米の有馬様、越前様(松平慶永)、まずこんな御方でございました。
     私等は御供の方を致しましたから、その御出懸といえば
     ヒドイものでありました。
     その時分の御老中の筆頭は阿部候で始終阿部家へは朝御登城前に
     いらっしゃる。そうすると御登城の時間になると阿部候はそのまま御登城に
     なると、公(斉彬)は後に残って御居てのことが多うござりました。
     その時分の阿部候というと、大変利けて居られまして、世間の評判には
     幕府の政治の事も半分は島津公のご意見であるという事を、
     話しておりました。



交際家の主君をもつと、「御出懸(係)」はたしかにたいへんそうです(笑)。
それにしてもちょっと挙げただけでこの交遊録。江戸じゅうの屋敷を行ったり、
来たり。お供のみなさん、ご苦労様です。
さてそんななか、異色なのが阿部伊勢守とのおつきあい。
老中の登城は基本的に午前10時なので、斉彬さんはかなり早朝にお出かけです。
しかも「じゃ、いってきます」って阿部さんが出勤すると「いってらっしゃい」って
見送り・・・・・そのまま居残り・・・っすか(笑)。帰ってくるまで待っている日もあった
のだろうか(笑)。大名のおつきあいって面白いですね☆
阿部伊勢守という人は自分の意見をムリに押し通して失敗した前老中首座水野さん
のテツは踏まない主義だったようで、アイデアを他人から受けて、
それを吟味して優れたものを選択する事こそ上に立つものの役目であると
心得て、ガンガン実践していた人だったので(伝記などからの印象ですが)、
アイデアの宝庫の斉彬さんはかなりそれを吸い取られて(爆)いたようです。
(お互いさま♪という大人のおつきあいですなぁ)

・・・・さて、続けます。

寺師君(聞き手) 幕府の出入りの人はどういう人がおもな人々でありました
           岩瀬肥後守などというひとが始終来られたという事を聞きますが

本田君  それはそうでありましょう
      平生の御出入りは極まっていて、旗本もたくさんござりました。



寺師さん・・・なぜ岩瀬を名指し?(爆)。
川路聖謨とか、筒井肥前守なんかも出入りしていたはずですぞっっ。
しかし、岩瀬が斉彬さんの屋敷に「始終来られた」とは、びっくりです。
・・・・・いや、たしかに行きそうだし、話していても意見が合いそうですけど(笑)。


さて続きはまた次回!
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Commented by M子 at 2008-03-05 15:43 x
去年薩摩に行ったですよ。中村半次郎さんを調べに。
そのとき地元の大学の教授と島津家の墓所で話しこみまして、斎彬公のことを褒めちぎりましたらすごい勢いで反論されまして目が点になってしまいました。
どうして実像が伝わらないのかじくじたる思いを抱いてらっしゃるようで、斎彬公は自分の国をほっぽいて日本国に熱心すぎたのが仇になってるのか、地元のかたが抱くイメージというのは外部の人間にはわからないもんだなーと思いました。
斎彬公ネガテイブキャンペーン(笑)を展開してたその先生は今大河をどのようにご覧になってるか懐かしく思いだす日曜夜8時です。
Commented by はな。 at 2008-03-05 18:04 x
M子さん、貴重なお話をありがとうございます☆
その地元の教授の思う「実像」にすごく興味があります(笑)。

斉彬公ってとても薩摩の利益を守っていたように思いますが、
(実は琉球密貿易のヒミツを公儀から守り抜きましたし)
その熱意が地元には・・・・残らなかったようですね。
(薩摩のために造った施設もその死後、ことごとくオヤジさんに破壊されてしまったこともありましたっけ)
とはいえ薩摩守ではありながら、
江戸生まれ江戸育ちの斉彬さんのことをいまいち薩摩の人、
と思えず、その気質などを知るにつけ、江戸っ子大名に認定!
というような人でもあり(爆)、地元の方からすれば複雑なものが
あるもかもしれませんっっ。
そしてその先生には今回の大河の、ときおりキュートさのある
斉彬公はどう映っているのでしょう・・・・・。

Commented by M子 at 2008-03-05 20:29 x
島津家の墓所にある斎彬公のお墓と久光公のお墓じゃあきらかに大きさも違うんですね。
久光公のほうが倍近く大きくりっぱで、墓石の位置も墓所の入り口真正面からまっすぐ見えるところにあって、藩主と無冠の国父の立場逆転な構図になっております。
島津家がふたりをどのように見ていたかここから汲み取ってほしい、と教授先生はおっしゃってました。
あと教授先生的には、斎彬公が自分の趣味に藩の金を相当つぎこんだのもよろしくないようですよ。
あの勢いなら、たぶん今回の大河ではテレビの前でじだんだ踏んでらっしゃるんじゃないかな〜と想像に固くないです(笑)
Commented by はな。 at 2008-03-06 00:48 x
>教授先生的には、斎彬公が自分の趣味に藩の金を相当つぎこんだのもよろしくないようですよ。
なるほどー!
すると明治以降の西郷どん信仰と密接な斉彬信仰というのは
地元では通じていなかったりしたのですね。
(『史談会・・・』などの褒めちぎりさえも西の地には届かなかったのでございましょうね)

ふと思ったのですが、今回の大河はさておき、
「翔ぶが如く」なんてどうすればよいでしょう(爆)。
あのドラマの斉彬はまさに「神」のごとく・・・でした(笑)。
私でさえ思わず西郷どんと一緒にひれ伏して
しまいましたもの~~~~っっ。
きっとそんな設定を、先生的には
MAXで苦々しく思われていたのかもしれませんね(滝汗)。

by aroe-happyq | 2008-03-05 11:36 | 広く幕末ネタ | Comments(4)

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