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東都アロエ

函館戦争五十年物語 (10)

函館新聞大正7年5月7日 第10回


○池田勝右衛門氏談
今は殆んど人家も建ち並んだ、目と鼻の間には住吉学校という大建物も出来た、
程遠からぬ所には函館公園も出来上がって、近年桜の盛りに、
夜は電燈を点じて昼の如く、夜を忘れた花見の人の群に賑わっているが、
五十年前の同所付近は、
◆昼も狐
が徘徊して、至って淋しかったのが、今の春日町天祐寺のツイ隣に、
丸源印目黒と云う鋳物屋が一軒あった。……マア彼の辺ならばと、
そこに少年源太郎主従を匿って貰った。
シカモ昼さえ暗い土牢に等しい穴倉の中で、
砲弾の響きを聞きながら目黒方の者が運び入れる握り飯に腹は出来ても、
◆日光に
浴する事が出来ぬ悲しい境遇にも、後見の治郎吉は命を助かりたい一念に引き代え、
少年源太郎は曰く『斯うして何時までも穴の中で暮らす事は面白くない、
俺は殺されてもいい、穴の中に居てどうなるのだ、
潔く名乗り出て男らしい処置を取ってもらおうと、
明くれば十二歳の少年源太郎は、後見人の治郎吉を説いてその筋へ自首して出た。

◆給仕に
愈々(いよいよ)函館戦争も五月十一日の大激戦で型がつき、
幕府の徒は捜索隊によって、続々とあげられて、
其の取調べをした軍事裁判所と云うような所が、今の支庁の所在地で、
少年源太郎が治郎吉と同道のうえ自首すると、係の役人は品川某と云う人、
素より少年の事、その潔よきにめでて、すぐに給仕に取り立ててくれたのであった。

◆存在か
この少年源太郎によって、命拾いをした者が七八名もあったそうで、
その中に一人金兵衛と云う、ヤハリ幕府の鍛冶工が世間を忍び忍び往来していたのを認め、俺が晴天白日の身にしてやろうと云って、品川氏に其の事を申し入れた。
その少年が函館を引き上げる時、勝右衛門氏の先代に面会を求め、
種々厚意を謝して是非江戸へ出たら立ち寄って貰いたい、
御子息も同伴されるようと云ったそうだが、
ソノ勇敢にして利発なる少年は如何なる人になったであろう、
今尚存在か、その後の消息ようとして聞かずとの事である。



とても11歳とは思えない、利発な源太郎さんです。
明治の世をどのように生きたのか、ちょっと興味があります(笑)。
by aroe-happyq | 2008-04-11 09:58 | 箱館または釜さん | Comments(0)