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東都アロエ

函館戦争五十年物語(16)

函館新聞大正7年5月13日 第16回


◇平定後の函館
官軍の人、幕軍の人、区内より郡部へかけ、
いわゆる古戦場という関係の物語りは多々あるが、
その函館戦争忠魂碑五十年祭も済んだので、また他日機会をみて、
興味ある種々の物語も紹介しようが、
今度はこれをもってひとまず終わりを告ぐると共に、
一老人の物語られた『平定後の函館』にて、この終わりを結ぼう。
◆最初
徳川の一隊がやってきて福山と戦い、
遂に松前志摩守が津軽へ逃れたのであるが、
同時に永井玄蕃を函館奉行、人見勝太郎を松前奉行に、
松岡四郎次郎を江戸奉行として、
また沢太郎左衛門を開拓奉行に政治を執ることにしたが、
◆横暴は
すこぶる凄まじく、まず密売女の運上(課税)を取立て、
その他博奕よりも運上というの為、博奕は公然に途上に開かれた。
函館だけ通用する金を吹きたて、
一般の難渋をいう事を顧みなかったのみではない、
在家(市中の町家)へは
◆田楽
差しの侍入り来たり、押し借り、乱暴は言語に尽くすべからざるものであった。
それが明治二年の春の戦争となり、
数度の戦いに相互幾多の人を傷つけた結果、
五月七日の撃合と同十一日の大激戦によって徳川方の運命決し、
◆五月
晴れの十九日、榎本釜次郎より諸方へ相談の上、
いよいよ降伏を決した願書が官軍方へ来たので徳川方は榎本を始め、
篭城をした都合六百人は、諸藩の千五百人に前後を護衛されて、
函館へ行列が来たが、大将分だけ十名は駕籠にて
◆一同
大小を取り上られ、称名寺へ三百人、会津屋敷へ二百人、
実行寺と淨玄寺へ百人、都合六百人は今日でいう捕虜となったが、
一度津軽落ちをした清水侍従は、五月二十日雨の降る日ながら、
前後を調練で有川より函館へ着されると、
◆碇泊
をし官軍の軍艦を始め、英吉利、亜米利加の軍艦は勝軍の祝儀と
大砲二十一発を打って、人々の喜びの声と相和し、
翌二十一日は晴の上天気、陽春艦が米や石炭を運んだ。
◆船を
回艘港内へ引いて来ると、その時に居合わせた蒸気船は十五艘、
大和船百艘余り居て町中非常の賑わい、二十ニ日は大森浜へ
八幡宮を飾り立て、諸藩の大調練があった。二十三日は榎本等の
六百人を津軽へ送り、その年限り諸運上(諸税)取立て御免という上に
◆六月
に入ってからであったが、市中を騒がせたとあって、
急場の手当てに米百六十石二斗と、金が四万匹下付され、
一軒について一両三朱と米二升宛配付され、また怪我人へ
手当金十一万二千匹下り、特に困る人へ米五升宛交付された。



以上で全16回、終了です。
せっかくの古老の懐古談ですが、この連載担当者と私のツボが合わず、
もどかしい~~~~~ことの多い記事でしたが(笑)、
箱館戦争の側面を地元の言葉で
語っている一史料として、活字にするほどではなくとも、
ブログで扱うくらいでなら有効かなと思い、取り上げてみました。


とはいえ、最後の回までやられました。
「平定後を語る」と始めたのに、なぜか事のはじまりから語るし(笑)、
占領軍がいいとはちっともいいませんが、平定後は新政府の米と金ばら撒きという、
わかりやすい懐柔策の数字をあげるだけで終わるとわ
(物資ばら撒きは古今東西どこの占領軍もがやる当たり前のお話。
脱走軍も箱館入るなり、永井玄蕃がやりましたっけ(笑))。
……それとも他になにも新政府はしてくれなかった?(笑)
50年たっていい具合に中央集権な政府側の教育(洗脳?)が効いている
……そんな大正の日本人が見え隠れして、近代日本の行く先を知っているだけに、
いろいろ考えさせられる連載記事でした。

これで当ブログの戊辰戦争140年企画はとりあえず終了です。
次は、というよりはこちらがメインですが、安政五カ国条約150周年企画です。
現在8月にむけて、複数の史料を検証しながら、準備中です。
こちらのほうは、↑この記事のようにほろ苦い味わいではなく、
ちょっと幸せな気分になれるような、
面白いドキュメントになればいいな♪と思っております。
by aroe-happyq | 2008-05-23 09:51 | 箱館または釜さん | Comments(0)