2008年 07月 13日
都内開国めぐり 赤羽接遇所~麻布善福寺
増上寺方面はすでに探索済みなので、赤羽橋方面へ。
赤羽橋といえば、赤羽接遇所!
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こちらに書いてあるとおり、安政6年につくられた
外国人宿舎&応接所です。
江戸に領事館や公使館を持たない領事や公使、条約交渉にやってきた
使節などが滞在し、ここで外国奉行と談判(交渉)をおこないました。
一時期、幕府の外交顧問となったシーボルト父子も滞在しておりました。
現在は飯倉公園となっております☆
飯倉公園内にあった説明版の古地図をみると・・・
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どうでもいいミニ情報ですが、この矢印の指す隅っこに「八幡様」と書かれている
のですが、その裏手が岩瀬忠震の生家、設楽家の屋敷です(笑)。
・・・・・と岩瀬の名を出しても、今回の接遇所が出来たころには
すでに外国奉行ではないので、この人は関係者ではありません(汗)。
どちらかというと、この赤羽接遇所といえば、
外国奉行堀織部正とプロイセン使節のオイレンブルグ、そして助っ人通訳として
この交渉の場に立ち会ったヒュースケンなどなどがメイン。
プロイセン+ハンザ同盟での交渉をとつっぱねるオイレンブルグと、
プロイセン一国との交渉しかできないとする堀織部正。
一国との交渉ではないとはどういうことだと驚く老中首座安藤対馬守。
やがて堀織部正はこの交渉途中で自刃し、
それからあまり間をあけず、ヒュースケンも暗殺されてしまう。
一節には堀織部正の死因のまつがった噂を信じた浪士のみなさんが、
プロイセン使節の宿舎から出ていた外国人・・・・ということで、
暗殺したという話もある。それでいくと、本当のとばっちりである・・・・。
結局、オイレンブルグは一国間との条約ということで妥協し、帰国した。
最初から妥協してくれてりゃ、苦労はなかったのだが・・・・。
ふと、ヒュースケンが通っていた道を歩いてみようと考えたので、さっそく実行。
なんで暗いかというと、頭上には高速道路があるんですよー。
つか・・・。ヒュースケン暗殺現場の中之橋・・・。
赤羽接遇所のすぐそばでやんす。
「じゃあね、また明日!」と馬でぽくぽく行きかけたところをバッサリですな。
橋の真ん中あたりにこんな説明版が。
ところで、この中之橋・・・・。錦絵に登場するような風光明媚な場所だったらしい。
今はもうドロ川でございます(涙)。
さて橋を渡って、右に折れまして。麻布へ向かいます。
途中、清河八郎受難の地こと一之橋を通過し、20分もしないうちに
麻布十番へ♪
当時、ヒュースケンの宿泊所というのは、アメリカ公使ハリス滞在中の
麻布善福寺。
さすがアメリカ初代公使館。ふたつも石碑がたってます。
おっと、寺の門も撮影しなくては(笑)。
思ったよりも近かったです。
これなら・・・・・ヒュースケンも通えたことでしょう(笑)。
・・・・帰りはもちろん、麻布十番に寄り、たいやきを買って帰りました(笑)。
(ここのたいやきはあっさりしていて、大好きです♪)
しかしこの先も少し歩くと、永井尚志の実家の奥殿藩屋敷がある。
御宅探訪シリーズ突然開催しようかな・・・とも思ったのですが、
・・・・それはまた今度にします(笑)。