東都アロエ

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アジアンエンタメ&お江戸後期。外国奉行や長崎海軍伝習所がご贔屓☆ BYはな。

150年前の今日 英国使節、下田到着

8月10日(1858)
安政5年7月2日 (晴れ) 下田

エルギン一行のフュリアス号、レトリビューション号、リー号とエンペラー号の4隻は
この日、下田に到着しました。

なぜ一週間もかかったのか!?
長崎から出航し、薩摩附近で台風に遭遇してしまったのでした。
浸水被害を蒙るなど、トラブルが発生したため、下田には予定より遅く着いたもようです。
大山瑞代「ナソー・ジョスリン書簡集」(『横浜開港資料館紀要』17号 1999年)に
よれば、このときエルギン卿の秘書のひとりナソー・ジョスリンの写真機も
横波&浸水被害で壊れてしまったことが家族宛の書簡に書かれておりまして、
かなり、危険な状態にまで追い込まれていたようです。
(この写真機はのちほど再登場)

英国使節一行を出迎えた下田では
日米通商条約調印を果たしたタウンゼント・ハリスが
苦闘の連続だった通商条約交渉を終えて、のんびりと休暇を過ごしておりました。

この時代、西洋世界ではアメリカはまだまだ新興国。
イギリスやフランス・ロシアからみれば「田舎の国」扱いです。
ですがハリスは違います。
すでに通商交渉を為し得た者として、エルギンにアドバイスする優位な立場でした。
正直、かなり余裕↑モードのハリスは「教えてしんぜよう」という感じでいろいろ
日本事情を語ります。
かつてアメリカと交渉をおこない、「アメリカに生まれたならば大統領として
申し分ない」とまで絶賛されたエルギンが、
極東の島国で、なぜかそのアメリカ人に教えを請う…という妙な立場に(笑)。
ハリスのいちばんの自慢は、将軍家定に謁見したこと。
・・・・・これが影響してか、こののち、エルギンは執拗なまでに将軍との
謁見にこだわるのでありました(笑)。
さらにはロンドンっ子のエルギンとニューヨークっ子のハリスの笑顔に隠した攻防も
あったようです(笑)。二人のやりとりを覗いてみたい気がします☆

とりあえず、貴重な日本情報を得て、エルギンは下田を後にします。
その際、清国から連れてきた通訳では心もとなかろうということで、
ハリスはヒュースケンを貸し出します。
これには素直に感謝するエルギンでありました。

ところで先日、
ケーブルで日本語字幕付きで映画「西太后」の
ノーカットバージョン「火焼円明園」(←こちらは一部。二部は「垂簾聴政」)をみていたら、
円明園を炎上させたのが、
誰あろうエルギン卿であることをはじめて知りました。
(なんせカット版「西太后」みたのは、ン10年前・・・・(爆))
1860年、日本ですと万延元年にあたりますから、この来日の2年後になります。
このエルギンの父のほうは、ギリシャのパルテノン神殿の壁をはがして大英博物館に
持ち帰ったことで有名ですが、息子のほうは円明園を燃やして壊しましたようで。
どっちもどっち。恐ろしい父子です(笑)。
円明園は清朝が誇る美しい西洋式庭園。
現存していれば間違いなく世界遺産。もったいないことをしました。

そして、まもなく江戸に現われる、
恐るべき(爆)エルギン卿一行でありました・・・・・・・。


☆参考☆
新異国叢書4『スポルディング 日本遠征記/オズボーン 日本への航海』(雄松堂)
新異国叢書9『エルギン卿遣日使節録』(雄松堂)
大山瑞代「ナソー・ジョスリン書簡集」(『横浜開港資料館紀要』17号 1999年)
『外国新聞に見る日本』(国際ニュース事典出版委員会・毎日コミュニケーションズ編 )1巻
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by aroe-happyq | 2008-08-10 10:31 | 五カ国条約150年 | Comments(0)

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