2008年 10月 02日
お宅探訪 第十八回 堀 邸
その父堀伊豆守邸(笑)でございます。
母親同士が姉妹という間柄の、
岩瀬忠震の屋敷からは歩いて7~8分のところにあります。
堀織部正も「部屋住み」のまま生涯を終えているので、
この屋敷の名義はその父、堀伊豆守利堅から、
文久2年7月に利堅が病気そのうえ老衰のため御役御免を願い出た日に
家督をついだ織部正の子利孟の名義になりました。
堀伊豆守利堅で忘れられないのは、
〈大塩平八郎にあやうく爆殺されるところだった事件〉です。
天保7年に大阪町奉行になった利堅さん、ほどなく大阪へ到着しました。
そして新任町奉行として、大阪の町を初巡回する日に、
大塩一派によって、町にしかけられていた爆薬によってあやうく殺害・・・・という
恐ろしい計画がたてられていたとか。
(痛快時代劇ドラマみたいな話ですが、実際に起りえたというあたりがスゴイ)
計画は大塩の一党のなかから町奉行所へ密告があり、未然に発覚。
大塩一派は奉行所に追手をかけられて・・・ご存知大塩平八郎の乱の顛末となります。
まだ着任早々の大阪で、堀伊豆守はさぞかし驚いたことでしょう。
(と、この話を江戸で聞かされた、若き織部はどんな反応をしたでしょうか。
もうこの頃には「父親に見放されていた」程グレていた時期は過ぎ、学問所で
学んでいた頃だと思うのですが、熱い性格はあいかわらずだと思うので
かなり興味があります(笑))
堀織部正についてはもういろいろな記事で紹介してまいりましたので、
その子の利孟についてなにか・・・と思いましたが、
今のところ、史料不足でとくに逸話もございません(汗)。
ただひとつ、気になる経歴としては、
文久3年1月、目付だった利孟は「浪士取扱懸」を命じられておりますことです(笑)。
どのあたりまで関与したのか、いずれ調べてみたいところです☆
この利孟は、幕末最末期の混乱のなか、紆余曲折を経ながらも、
慶応4年4月まできちんと役目を全うしました。
実の父親の突然の死を乗り越えて、よくがんばったと思います☆
さて、堀屋敷跡とおぼしき建設中のビルの角を歩いておりましたら、
なぜか横断歩道の下に「汐留遺跡」なるものを発見しました。
汐留の江戸時代の上屋敷・・・・・?
かつて汐留に高層ビル群が出来る前、JR汐留貨物基地跡地では
長いあいだ、広大な伊達藩屋敷跡の発掘調査がおこなわれておりましたが、
これはそのあたりのものなのでしょうか。
それにしてもなぜ、こんなさみしいところにポツリと置かれているのか。
あいもかわらず、遺跡、史跡を大切にしない東京砂漠でございますこと(涙)。
よよ・・・嘆かわしい・・・・・。
しかもなぜここに?(笑)。
八丁堀でも大名鳥居家の屋敷跡から金瓦が出土したいう記事が以前ありました。まだ発掘されていない所がたくさんあるのでしょうね。
現存する屋敷の設計図や幕末の写真だけでは物足りないので、
これからもさまざまな大名家、旗本家の屋敷跡が発掘され、
屋敷の構造などがより詳しく判明することを祈っております。
オイレンブルクの滞在記を、読んでおられますか☆
堀さんのことを思うと、せつない本です。
>日本がハンザ同盟の概念を理解できなかった
理解はできても、それをプロイセンとの条約と一緒にはできないぞ、
というのが当時の日本の見解かと存じます♪
オールコックはいささか日本領事に不向きな男なので、
ときどき言ってることにまつがいがありますな(←断言(笑))。
それにしても
>汐留の江戸時代の上屋敷・・・・・?
って唐突な(^^;上屋敷っていろいろあるだろうに。汐留遺跡と書けば言わずもがなってことなんでしょうか?
写真の石は、この3家のいずれかなのでしょうね。せめて市谷の地下遺構の展示のようにシオサイト内の無駄なスペースに展示して欲しかったです。
ちなみに脇坂と堀田は、切っても切れない仲のようですね。
あああ、切ないお言葉です。。。
でもその通りなのが余計悲しい…(泣笑)。
有楽町イトシアのように、当時の石垣を上手く生かしている例もあるのだから
汐留ももう少し考えて欲しいですよね。
折角、某テレビ局などが大きな集客率を集めているスポットなのに。
こうなったら、我らだけでも頑張ってお江戸の江戸を満喫しましょうぞ!
てなわけで、まずは早速、百花園から♪(笑)
ぜひぜひ築地散策やってみてください♪
歌舞伎座~場外市場のあたりは賑やかです。
一歩裏道へはいると、素敵なおそば屋さんや料亭などがたくさんあり、
古き東京・江戸の情緒をかすかに感じられることでしょう(笑)。
>汐留の江戸時代の上屋敷
唐突すぎて、絶句しましたです、はい(笑)。
しかも歩道橋の下・・・・・です。
>写真の石は、この3家のいずれかなのでしょうね。
ほかに置き場がなかったのかもしれませんが、
せめてどこの「上屋敷」とか書いてくださると助かるところですが・・・。
脇坂家は堀田家から養子をもらったことがありましたっけ?
そんな縁があったようななかったような(うろ覚えですいません)。
>こうなったら、我らだけでも頑張ってお江戸の江戸を満喫しましょうぞ!
おおおお、そのとおりですね♪♪
この東京でいかに江戸気分を味わうかは自分の想像力にかかっている(笑)ともいえなくないですが、まずは向島!
雰囲気も含めて、いろいろな意味でもドロンケンいたしましょうね♪♪(爆)
佐倉堀田の租も、彼らと兄弟の堀田正俊で、徳川の血筋が三代で途絶えるところを綱吉にしたという功績がありますよね。殿中で稲葉正休に刺殺されますが。
脇坂家九代目当主安親は、正信の曾孫がなってますね。
系図を追うだけなので、何が起きていて、なにが起きていないのかが分かりませんけれど。
>殿中で稲葉正休に刺殺されますが
堀田というと、実のところ堀田正睦より、この事件の被害者、
堀田正俊のほうが印象が強いです。
6代将軍家宣派としては、この正俊の綱吉擁立劇については
複雑な思いがありますが(笑)、
それはさておき、政庁の奥近くでの刺殺事件というのは
徳川時代史上でも稀にみるショッキングな出来事です。
(この事件以降、政庁の老中の部屋の場所が変更になり、側用人による
取り次ぎ制度になるなど、政治史的にも影響大でした)
・・・・・・つい元禄好きゆえ、脱線しました(失礼しましたっっ)。