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アジアンエンタメ&お江戸後期。外国奉行や長崎海軍伝習所がご贔屓☆ BYはな。

林氏墓地 お邪魔してまいりました

11月1、2日の日のみ公開だった、新宿区の林氏墓地へ行ってきました。

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史跡 林氏墓地

住所は、新宿区市ヶ谷山伏町1番15号。
常敬寺の横をはいって、右折してすぐです☆

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江戸の古地図をみると、この付近に林大学頭の屋敷があるので、
そんな事情もあって、こちらの墓地がここにあるのではないかと思われます。

それほど広くない敷地には、十数人の見学者がいらっしゃっていて、
わりと混雑しておりました。入り口でパンフをいただくのですが、
それを読みながら、みなさん熱心にひとつひとつみておられました。
半分以上の見学者は研究者の方のようでした。

うちのブログにいらしゃるみなさんは、お墓の写真を云々おっしゃるような
方々ではあるまい!と勝手に判断いたしまして、史跡として、
林家のみなさんをお墓とともに紹介していこうと思います!
(苦手な方はこの記事をスルーしてくださいね)




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一世 林羅山 信勝、道春
墓石「文敏先生羅山林君之墓」

徳川家康に朱子学をもって仕えた、林氏の祖です。
教科書でも有名ですね。
上野忍ケ岡に家塾を開きました。
家康以後も、秀忠、家光、家綱まで四代に仕え、政治顧問としても活躍しました。

続いて、一代ずつ紹介していくとたいへんなことになりますので(笑)、
江戸後期の官学・昌平坂学問所に関わった8代林述斎まで飛ばします(笑)。

6代将軍家宣ファンとしては、
学問熱心な若き甲府宰相綱豊卿が林大学頭に学問を教えてほしいと
頼んだところ、将軍綱吉に遠慮して、キッパリすげなく断られまして。
甲府家としては、途方にくれたというニガイ歴史がありまして、
林氏2代、3代にはいささか複雑な思いがあります(笑)。
(こうした経緯があって、綱豊は私学系の新井白石を学問の師として迎えるわけです)
そんなこともあって林家にあまり興味はなかったのでありますが、
8代述斎以降の数代はちょっと特別です(笑)。

というわけで。


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八世 林述斎 信敬
墓石「快烈先生林府君墓」

明和5年(1768)美濃岩村藩主松平能登守の三男として生まれました。
寛政5年、幕命によって林家に入り、大学頭となった。
それまで半官半林家の学校だった昌平校をあらため、私有地を幕府に献上して、
佐藤一斎等と、官学・昌平坂学問所をつくりあげました。
また『徳川実紀』『寛政重修諸家譜』などの編纂にも尽力しました。
天保12年、74歳にて没。

正室は持たず、側室に子女多数。
息子のなかには、かの鳥居耀蔵が、また孫には堀利煕、岩瀬忠震がいる。
(堀と岩瀬は幼少の頃、祖父から学問を学んでいたそうな)

述斎の諡「快烈」は、のちにおなじく述斎の孫、林鴬渓(晃)によって、
堀利煕に「爽烈」、岩瀬忠震に「爽快」として受け継がれた。


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九世 檉宇(ていう) 皝
墓石「靖楽恪先生林府君之墓」

林述斎の三男。天保9年大学頭となる。弘化3年、54歳で没。



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十世 壮軒 健
墓石「昭粛先生林府君之墓」

檉宇の三男。弘化4年、19歳で大学頭となり、12代将軍家慶の侍講をつとめた。
海防に関する公儀からの諮問に対して、交易もありきでは?という柔軟な
答申を出したのはこの人。
嘉永6年6月ペリーがやってきて、翻訳作業に忙殺されるなか、
翌月に、25歳で急死。
継嗣をたてていなかったため、その死は秘され、養継嗣を公儀に許可されて
からようやく喪を発した。
幕末はじまって、最初の犠牲者(労災認定)かもしれない・・・・・。



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十一世 復斎 韑(あきら)
墓石「文穀先生林府君之墓」

述斎の六男。
兄の鳥居耀蔵と同じように、林家を出て、林式部と名乗り、旗本として仕えていたが、
林壮軒の急死にともない、林家に戻り、大学頭となった。
嘉永7年ペリーとの和親条約交渉のおりには全権委員として活躍。
交渉時にはペリーの猛烈な押しに、けっこう負けていたという話もある(笑)。
ペリーの「日本遠征記」では宴会のなか、ひとりクールに酒をたしなむ姿で
登場している。
林式部時代、兄の鳥居耀蔵と同じように西洋嫌いで、
安積艮斎宅の宴席で渡辺崋山が洋学がいかに大事かという演説を行っている
のを「冷笑」しながらみていた、という記録があるそうな。
西洋嫌いの人がアメリカ人と酒を飲むハメに陥るなんて、運命とは皮肉なもの(笑)。
洋学所の創設などで学問所が揺れるなか、安政6年、60歳で没した。



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十二世 学斎 昇
墓石「幕府大学頭従五位下文靖林先生墓銘」

最後の大学頭。安政6年大学頭をついだ。
復斎の子。大政奉還後、寺社奉行、用人となり、その後駿河に住んだ時期もあり、
明治7年司法権大属となり、その後教育界で活躍。
明治21年からは日光東照宮の神官となった。
明治39年、74歳で没しました。


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林鴬渓 晃 夫妻

林復斎の長男。第二林氏を継ぐ。
岩瀬蟾州、木村芥舟、堀有梅、永井介堂などと親しかった。
岩瀬と堀の諡号をえらんだのはこの人。
明治には静岡に移住。明治7年没。

で、おまけ。
墓誌を読んでいたところ、

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永井尚志の名前が・・・・・・・・・・。

↓この題字をかいたらしい。

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まさか林氏の墓地で永井の名をみるとは・・・・・・・・・(笑)。


以上でした!
林氏墓地は、毎年11月初旬の土日に公開しております。
写真では紹介しきれない、たくさんの墓誌がありました。
(羅山関係には、上杉鷹山などビッグネームもちらほら)

興味のある方はぜひ来年行ってみてくださいね!
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Commented by お屋敷 at 2008-11-08 06:49 x
林氏墓地は外側からしか見たことがありません。是非来年は中を参拝したいと思います。参拝すれば学問の家だから頭良くなるかな?頭固くなるかな?鳥居耀蔵氏の日記「鳥居甲斐晩年日録」は几帳面な字でびっしりと当時の世相なども書かれています。さすがに林氏の出ですね。林氏は今で言うと文部科学大臣や東大総長などを兼ねた様な存在と言われていますね。しかも世襲ですね。
鳥居耀蔵氏と岩瀬忠震氏が縁者というのも不思議ですね。
Commented by はな。 at 2008-11-08 09:45 x
ぜひ来年いらっしゃってみてください!
歴代の大学頭のお墓、墓誌をみていると、不思議と身が引き締まります(笑)。

>鳥居耀蔵氏と岩瀬忠震氏が縁者
人間性が正反対のおじとおいです。
堀織部正などはさらに妻が鳥居の娘ですので、より関係が濃い。
『想古録』を読んでいると、鳥居は林氏一門のなかではやや変人扱いだったという情報もありますが、岩瀬や堀はおじさんをどう思っていたのか、気になります。
by aroe-happyq | 2008-11-06 19:13 | 江戸東京あれこれ | Comments(2)

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