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東都アロエ

成島 柳北と柳橋

成島柳北という人は浅草育ちで儒者の家に生まれた人で、
家定・家茂の侍講をつとめ、彼らに経学を教えていました。
のちに外国奉行(慶応年間ですけど)を勤めた関係で調べたわけですが。

でもこの人ってどちらかというと↑以上の経歴よりも、
万延元年・明治7年と二度にわたって『柳橋新誌』を著した人として、つとに有名です。
(『柳橋新誌』というのは柳橋花街はこういうところですよ、という記録として
たいへん貴重なものです)
または明治元年に徳川の終焉とともに官職を離れ、向島に隠遁し、
その後は鋭く明治の文明開化をみつめ、批判していったジャーナリストとしても
有名かもしれません。

でも、アタシはすっかり『柳橋新誌』をかけるほど、
柳橋界隈にどっぷりな粋な遊び人・柳北(すでにこの号がアヤシイ)サンにはまっちゃいました♪




いやーーー実に柳橋とは盲点でした。
たとえば、安政2~3年のころ。
将軍侍講のお仕事の帰りに23歳柳北(もちろん既婚)は柳橋へいって、
15~16歳のかわゆい組八なる芸者さんを落としていたりとか(笑)。
もちろん、吉原と違って柳橋は女郎でなくて芸者さんですから、
お金を積んでも客に身をまかせたりしません。とくに柳橋に芸者はカタイんです。
(そもそも天保の改革で深川の花街が潰されたあと、形成された花街ということもある)
「芸は売っても身は売らない」が柳橋芸者のモットーなので、
彼女たちを本気にさせて惚れさせるために、客はあの手この手を使って、
振り向かせます。つまりここは「恋」の戦場なのです(笑)。
で、柳北は次々に恋の勝利者となっていくわけです(二股はかけません。いちおう)。

柳橋って豪商の旦那とかその息子のバカ旦那、いえ若旦那たちもさることながら、
旗本や町奉行所の与力連中なんかが遊びに行くところなんですよね。
でも23歳ぐらいの(将軍侍講ですけど)役人がいけるほどラフとは
気がつきませんでした。もっと敷居が高いのかと想像していたもので。

そこでふと気づいたわけです。
立地や費用からいっても、吉原にいくよりもこちらのほうがよいという
徳川官吏は多かったはず。なにより目立たないし(笑)。渋いし。
通好みな遊び場です。
むしろ、恋のかけひきの熟練者にとって、こちらのほうが醍醐味があったかも???

するとですよ。
当ブログ認定「江戸っ子粋なイケメン三傑」こと、岩瀬蟾州、榎本梁川、伊庭八郎などは
吉原派?それとも柳橋派????
(柳橋では暴れてもそもそも記録がないのでわからなーい)
岩瀬教授は・・・というか、昌平坂学問所からわりと近いので儒者関係も多そうだし。
でも、榎本と伊庭なんて、住んでるところから近すぎ(爆)です。

ちょうどもうしばらくしたら浅草橋あたりを散策しようと思っていたので、
歩きながら考えてきたいなーと思います☆

参考文献:
前田愛『成島柳北』朝日選書
成島柳北『柳橋新誌』
永井荷風「成島柳北」『荷風全集16巻
Commented by Aki_1031 at 2009-03-12 12:29 x
ちょ、はな。さんっ!
岩瀬さん釜さんに並んで、ハチを
>江戸っ子粋なイケメン三傑
に加えて頂き、ありがとうございますーーー!(感涙)

…って、話はそこじゃない(泣笑)。
ま、柳橋にも通っていたでしょうね(←あっさり)。
ハチと柳橋を繋ぐ具体的な史料が今のところないので想像の粋を出ませんが、
“色”は男のステイタス~♪的な考えがある当時、ハチが行かない訳がないですもん!(爆)
万延、文久年間あたりで美味しいネタ@柳橋が落ちてないですかねぇ…。
Commented by はな。 at 2009-03-12 14:32 x
勝手ながら天下のイバハチさまを三傑に入れてしまいました☆
いちおう年齢順に並べましたが、遊びの実力のほうでいけば筆頭間違いなし、であります。

成島いわく、理想の柳原芸者とは気前好く振るい舞い、自尊の気概を見せつつ、その場その場に相応しい身の置きかたをしながら、当意即応の応対が出来、惚れた男にとことん尽くす・・・・という頼もしく賢い女性なのだとか(笑)。
武家出身の女性も多いようなので、凛としたかっこいい人が多かったようです。
伊庭さんほどの素敵な剣士なら、そんな粋な江戸っ子芸者が放っておきませんヨ!

Akiさんのおっしゃるとおり、どこかに柳橋ネタが落ちてないでしょうか~~~っっ。
マジで伊庭+柳橋恋ネタ、みてみたいですっっ。
Commented by さぼ郎 at 2009-03-12 18:50 x
張り付いてる地図の北側に「柳北スポーツプラザ」と言うのがありますが、元は柳北小学校でした。定説では柳橋の北にあるからといわれていますが、不明です。いまは、フランス人子弟の小中学校となっています。
「左衛門橋通り」という通りがありますが、一時、フランス人学校が来ることで「ボンジュール通り」となるようなうわさもありましたが未だに「左衛門橋通り」のままです。
柳北プラザのすぐ向かいに日向亭という饂飩屋がありますが、昔は旨かった。その隣のブロックに「医学館跡」という史跡がありますが、この医学館は台東にあった医学所に併合されます。
この医学所は松本良順が頭取になり、沖田を始め続々と新選組などが収容されています。後に新政府軍が引き取り、東京帝大の医学部になります。この辺は司馬遼太郎の「胡蝶の夢」に詳しい。
吉原であからさまな売春が始まるのは、ずいぶん後のことで、一応格式が売りだったようです(ブロックによって異なる)。そのことが、幕末期の衰退に繋がったと「新吉原史考(台東区役所)」に詳しく書かれています。
Commented by yukisayo62 at 2009-03-13 11:45
成島柳北、いいですねぇ♪イイと言いつつあまり勉強はしてないので、是非、はな。さんの解説で詳しく知りたいですv期待してます。

>吉原派?それとも柳橋派????
については、「筆下ろしは吉原で。ラヴアフェアは柳橋」っていうのに1票(笑)。
でも、接待?は吉原で身銭切って遊ぶ時は柳橋~とか、そういう使い分け、ありそうですよね?どっちかというと吉原の方が野暮ったいイメージがあります。
Commented by はな。 at 2009-03-13 14:28 x
さぼ郎さん、興味深いお話ありがとうございました。
Commented by はな。 at 2009-03-13 14:39 x
小夜さん、
>「筆下ろしは吉原で。ラヴアフェアは柳橋」っていうのに1票(笑)。
なるほど!これは王道(笑)ですね♪♪
おっしゃるとおり吉原のほうが観光地化しているので、野暮ったいイメージがあります。柳橋ですと江戸初めてなんです藩士御用達は梅川・青柳という特定の店ばかりだったようなので、粋に遊びたければこの2店を避ければ大丈夫だったよし(@『柳橋新誌』)。
成島はかの桂川家とも昵懇で今泉みね『名ごりの夢』にも登場します。桂川家でオフの日の芸者さんたちと天ぷらパーティを開催しているのですが、そのときのあだ名が「おばけ」(爆)。写真をみると顔が茄子のような長い顔なのですが、あだ名も長い顔からきているそうで・・・。あだ名がおばけでも芸者衆には人気だったようです(爆)。顔よりも恋の巧者こそが勝利者となれる、それが柳橋なのかもしれません。
by aroe-happyq | 2009-03-12 11:40 | 外国奉行ズ | Comments(6)