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東都アロエ

カテゴリ:箱館または釜さん( 126 )

昭和17年に歌舞伎座で上演された、「洋船事始」についてちょっと検索したら。

嗚呼、織部正の勇姿みつけちゃった!@歌舞伎→こちら

このブロマイド、ほ、欲しひ~~~~~~~っっ

なんと、この歌舞伎台本は一般公募作なのだとか。

いや、平田弘一さん、ありがとうーーーーー!!!

あ、物語はあの箱館丸の建造と、そしていきなり外洋で試運転????!!のつもりで暴風にもめげず、
箱館から江戸まで帰り着くというものだそうです。おお!感動巨編!!!!

で、ほかのブロマイドも紹介しましょう!!!

主人公續豐治 as [6代目] 尾上 菊五郎 →こちら


諸術調所敎授役 武田斐三郎成章 as [4代目] 市川 男女蔵いちかわ おめぞうこちら


武田さん、歌舞伎に出ていたのねーーっ

台本、探してみようと思いますっっ!
(探しあてられたら、またご報告しまーす)



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by aroe-happyq | 2016-09-08 18:44 | 箱館または釜さん | Comments(0)

以前、「侍講成島甲子太郎と家茂 」という記事で、

例の釜さんの「ドロンケン」ですが、横浜英語でdrinker(酔っ払い)を指すらしいです。
(つまり横浜なまりの英語ってわけですね)
原典がまだみつからないので、ほんのメモ程度ということで。
↑みつかったら、また記事にいたしまーす。


と書いたのですが、なんと、偶然みつけました!

『横浜市史稿 風俗編』の606P、

酒にようを   どろんけん  Drinker


これは、『異国ことば 元治元年七月刊』を紹介したなかにあったものなので、
元治元年にはすでに、どろんけんは横浜では話されていたようです。


でも英語読みではなく、がっつりオランダ訛りですよね、どろんけんて(笑)。


というわけで、突然のどろんけん報告でした!

※『横浜市史稿 風俗編』は国会図書館のデジタルライブラリーでみられます♬
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by aroe-happyq | 2016-08-05 19:37 | 箱館または釜さん | Comments(2)

先週の阿部伊勢さまに続き、徳川家臣登場の、知恵泉。
(てか、番組のゲストが阿部の回と同じなので、なんのことはない、2本録りだったのねと(笑))

でも、西国志士ファンには悪いけど(とくに今年は長州てか)、別におなごに育てられずとも(爆)
テロとか暗殺にも一切かかわらず、
そもそも才能があって、自分で運命を切り開いて、講談とかフィクションぬきで
マジで日本の近代化に貢献した幕末の志士こそ、榎本さんですよ!(ここまで長い?)

写真みても男前だし(当然女子にもてて(笑))、人情家で友だちもたっくさんいて、
完璧なナイスガイ!だと思うのですけど、
そのわりに知名度が低く、めったにTVに登場しないのが辛い!!!

だからEテレでも出てよかった!!
・・・・・と心から喜びたいけど、今回は訂正がおおいのだ(笑)。
知名度が充分じゃないからこそ、ちゃんと調べてくれっっ
と、いつもなら、ゆるい知恵泉に寛容なワタクシも釜さんのことになると少し厳しいっすっっ。

せっかく「榎本武揚ってこんな人だったんだ」と興味をもってくれた方に、
正確な情報をお知らせしたい!という拙ブログの方針ゆえ、
以下、バサバサと斬らせていただきまする。

まず。
榎本家ですが、釜次郎武揚の幼いころには、

御家人ではなく、旗本です。


武揚の父圓兵衛武規は、もとは福山の人で箱田良助といい、
番組でも紹介のとおり、あの伊能忠敬の内弟子筆頭で、
かの地図も測量から製作、完成まですべてにかかわっているスゴイ人です。
箱田さんは御家人榎本家へ養子にはいり、のちに御勘定まですすんで、
弘化元年、53歳で旗本になっているのです。

では、武揚のがんばりの原動力はなにか?といいますと、部屋住みの次男坊だからです。
(どこかに婿にはいるか、自立できるほど武芸か学問に身を入れなくてはならないのが次男三男の
宿命。釜さんは婿なんかにはいらず、自分で生きていく!と決めていたのでしょう)
というわけで、御家人だからではありませんので、番組の説明は忘れて下さい(笑)。

そして、
なぜ彼は生き残れたのか。いや、生き残ろうと思ったのか。
というテーマですが、たしかに黒田に海律全書をおくりましたが、
べつに死なせるに惜しい人物だと売り込むつもりで送ったとか、
生き残ろうと思ったのではありません。
黒田に本をおくった彼には悲愴な覚悟があったのです。
それについての顛末は、拙ブログのこの記事へ→こちらへ


その覚悟を阻止されて、兵士に監視されつつ、ふて寝したところから
榎本の数奇な第二の人生へのカウントダウンがはじまったのであります。
つまり、生き残るつもりがなかったのに、生き残ることになっちゃったんです。
(素敵な仲間や同志たちがね、彼に死ぬことを許してくれなかったわけで・・・・・。
それぐらい、素晴らしい男なんですよ!)
なので、番組では切腹未遂事件はやりませんでしたが、
好きで生き残ったわけじゃないことだけは、しっかり確認しておきたいところです。
(ここは榎本という人物をみるとき、とても大事なポイントです)

そして海律全書関連ですが、番組ではさも幕末の日本では国際法を誰もしらなかった、
みたいな話をしていますが、知らなかったのは諸藩の不勉強な一部の奴どもで、
そういうのが新政府のお偉いさんなんかになるから、岩倉使節団みたいにですよ、
全権委任状も知らないでアメリカで条約交渉しようとしてド赤っ恥をかくわけです(笑)。
んで教科書じゃ、自分たちの無知をさも日本人全体がそうであるように宣伝しちょるわけですよ。
(薩摩だって島津斉彬とか、福岡なら黒田公などなど、知識人大名はご存じですた)
徳川では、ペリーが江戸湾へ侵入したときにはすでにその一部を理解していたので、
国際法に照らして、公海へ戻るように呼びかけています(無視したペリーのほうが国際法違反)。
その後、徳川公儀では国際法を習得する熱が高まり、将軍家茂などは座右の書として
翻訳本をもっていました(若干、この当時、徳川方では内容はわからんけど、
とりあえず国際法の本をもっているのがオシャレみたいな空気があったようですが(笑))。
・・・・が、さすがにその複雑な内容の極意(笑)にはうとかったので、
西周や榎本釜次郎がオランダでじっくりと学んできて、ようやくその成果が共有されつつあった
慶応3年・・・・。大権返上(明治以降は大政奉還)しちゃったので、ちょっと間に合わず?
なので、誰もしらないわけじゃないなかった国際法、ってこともここで確認しておきたいところですね。
(こういうあたりをさくっと解説するのが、山本氏のお仕事なのではないでしょうか?)

そして、明治期、批判をおそれず、新政府の官員になって輝かしい活躍を
していけたのは、榎本さんの素晴らしき頭脳と豊富な知識があったことはもちろんですが、
たえず、周囲に榎本の胸のうちを理解してくれている友だちや仲間たちがたくさんいたからです。
(こちらも拙ブログの「箱館または釜さん」カテゴリにいろいろ記事がございます☆)
ときには、箱館の仲間+αが向島の榎本邸に集まって、おそろいの浴衣で週末宴会するとか(笑)、
そういう気晴らしがガンガンあったのも、大きかったような??

とまぁ、怒濤の訂正祭りで恐縮ですが、
知恵泉紀行はとってもほっこりしました。
・・・・・・しかし、あれだけ北海道で功績を残しているのに、なにゆえ北海道で
「榎本武揚なまらかっこいい!」」ってブームにはならんのでしょうかねぇぇぇ。
(むむ、東京としては、この人の故郷なのに、すっかり忘れているので、あまりいえないものが・・・)

というわけで、あえて寿ぐ気持ちをかなぐり捨てて、ダメだし記事にしてみました。
タイトルとそぐわない内容ですいません~~っっ☆(笑)
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by aroe-happyq | 2015-01-28 14:29 | 箱館または釜さん | Comments(10)

知恵泉、来週は榎本武揚

1月20日の知恵泉は阿部正弘でした☆

阿部の開国への流れの時系列がやや微妙でしたが、
(水戸斉昭が海防参与になるのは嘉永6年だけど、説明だとなんかもっと早い印象に)
ま、この番組はゆる~いのが売りなので、これはこれでよいかと(笑)。
現状では、地上波のこういう番組にとりあげられるだけでめっけもんですから。

しかしBS含め、こういうときの解説ですが、山本博文氏しかいないのですかね?(笑)
BSの「江戸のススメ」にもしょっちゅう出ておられますが、吉宗の回でしたか、
相当古い俗説を(今の研究ではあきらかに違うとされているものです)まことしやかに
語られており、東京大学史料編纂所の方なのに、ずいぶんTV界の俗世に染まったものだと
嘆いておりましたところです。
今回の阿部さんの番組では、BSのときほどヒドクありませんが、もっと話せることがあったような。
ま、某社長さんがよく話されていたので、なかなかその時間がとれなかったというのもある(笑)。

ホントはこれぞ!常識をひっくりかえした阿部のエピソードとしては、
アメリカの国書の和訳を公表し、意見書を大名だけでなく旗本から一般から募集したところ
をもっと大きく取り上げて欲しいところでしたが、そこが中途半端で、ちと淋しかったです。
(この意見書は、その後登用されて活躍した人がたくさん出たというきっかけでもあり、
阿部政権後半戦の大事なターニングポイントですもの~)

ま。わたしとしては、Eテレじゃなく、早くNHK総合の番組で阿部さんが特集される日を
心待ちにしている次第です。
なにせ、阿部正弘は、それぐらいの価値のある、日本人がもっと知るべき男ですから!

もし見逃したといいうことでしたら、

1月27日(火)午前5時30分~再放送あります!!


で!!!

なんと、次回も徳川家臣関係者が登場ですって!
(先週番組HPみたときは本田宗一郎だったのだが(笑))

しかも、榎本武揚!

番組サイト→こちら

幕末、この人ほどラッキーボーイはいないんじゃないかというほど、
順風満帆な青年時代を過ごしますでしょ。
なぜか、初期外国奉行ゴレンジャーに愛され、蝦夷につれていってもらい(BY堀)、
長崎海軍伝習所に入れてもらい(BY永井&岩瀬)、
オランダ留学に出してもらいました(BY水野&井上)(笑)。
もちろん榎本釜次郎さんの才能が素晴らしいからというのが第一ですが、
優秀なこの5人の官吏たちにまるでリレーするみたいに目をかけられ、関わったことは
幸運のなにものでもない、と思いますです☆
榎本の場合、熱くてまっすぐな江戸ッ児で、愛されやすい人柄というのも大きいかも。
だけど、オランダから意気揚々と戻ってきたら、その年のうちに大成奉還、王政復古。
明治からの榎本武揚は幕末の幸運から一転、苦労の連続になるわけです。

悲運にして、最後の江戸ッ児といわれた榎本さん、とっても魅力的な人物なので
(この記事のカテゴリーのところをポチとしてもらいますと、たくさん榎本さんの素敵なエピソード
記事が出て来ます(笑))
もっと多くの人に知ってもらいたいし、知恵泉に登場するなんて、とっても嬉しいですね!

放送は、来週の1月27日(火)午後11時~です!



それから、2月には保科正之も登場するそうですヨ♪
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by aroe-happyq | 2015-01-21 10:06 | 箱館または釜さん | Comments(4)

永井尚志の命日の、7月1日に更新しようと思っていた記事です(笑)。

よくあるのですが、国会図書館でコピー待ちの時間に近代デジタルライブラリーを
いじっていて深みにはまるパターンでみつけた、
澤太郎左衛門の息子、澤鑑之丞が著した『海軍70年史談』に書かれていたお話です。

箱館戦争以後、東京大手門の獄舎にいた榎本釜次郎、松平太郎、荒井郁之助、
永井玄蕃、大鳥圭介、澤太郎左衛門は明治5年正月、赦免されて出獄と相成りました。

で、その頃の様子は榎本武揚が家族にあてた書簡や大鳥圭介の談話などでも
伺い知ることができているわけですが、澤さんが息子に語った話ということで、
本人による談話よりは信憑性はアヤシクなるわけですが、
榎本&大鳥両氏の史料の隙間を多少なりとも埋められるのではないかということで、
引用してまいりたいと思います。
(読みやすく、いろいろ工夫しておりますので原文通りではありません)

在監中の面々は、当初から死罪の判決を受けるのは当然であると、何の苦慮する事なく、
却ってその処分の遅延するのをかこっていた。
時々糺問所の白洲に呼び出され、形式的な吟味があるばかりで知らず知らず三ヶ年余を
経過し、明治も壬申五年を迎ふるに至った。
ところが、明治五年壬申正月六日卯快晴、水曜日、この日は、定例一六の日ゆえ、
獄中の者一同は入浴をした。この日ひる七ッ時(午後二時)頃獄吏が来り、
榎本釜次郎外八人御用の筋有之に付、即刻糺問所白洲へ可罷出旨申聞く、
一同駕籠で八代洲川岸兵部省糺問所に出頭した。
意外にも、同所に於いて左の申渡があった。

                       榎本釜次郎
其方儀悔悟伏罪に付揚屋入り被仰付置候処特命を以て親類御預被仰付候事
  壬申正月六日
         糺問正     黒川通軌奉行

                       松平太郎
                       荒井郁之助
                       永井玄蕃
                       大鳥圭介
                       澤太郎左衛門
其方儀悔悟伏罪に付揚屋入り被仰付置候処特命を以て赦免被仰付候事
  壬申正月六日
         糺問正     黒川通軌奉行

・・・・・(略)・・・・右の申渡相済み、一同を糺問司応接所に通し、兵部省の掛役人から
慰労の挨拶があって、不自由の物は何でも調達可相渡旨申聞あった。
一同三ヶ年以上、獄中にあって、火気に觸るることがなかったが、
この日俄に大火鉢三個へ、炭火を多分に入れて出してもらったから、さすが二十余畳敷の
広間ながら何れも逆上の気味で少々気持ちが悪かった。
 食事は兵部省の賄掛で料理の膳部を供してくれ、久々で丁寧な馳走を受けた。
(三ヶ年余、普通物相飯を供せられたるに比して実に天地の相違だったと云う)
此の夜は広間で久方振りで深更迄四方山の話をし、なんとも云い難い愉快を覚えた。
夜具はかなり綺麗なものを供せられ、その他慰労の注意は最も行き届き、
却って恐縮の外なく、翌正月七日辰快晴、木曜日、糺問司役人から各自引取方を
担当すべき親族に関して尋問があった。夫々から申し出て退出の用意をした。
この夜も糺問司の広間に宿泊した。
正月八日巳快晴 金曜日、糺問司からの通達に依って、各親族続々糺問所応接所へ
来集した。その時、対面の有様はどうしても筆舌に尽くせぬものがあった。
そして駕籠の用意など出来、いづれも糺問司を退辞して、
久方振りに夫々無事自宅へ引き取った次第である。


実は、榎本たちの赦免については、結構前から話が出ていたようです。
例えば明治4年10月頃、勝海舟はしきりと黒田了介に接触しているのですが、
(勝なりに榎本たちの救出運動をしていたのであります)、

明治4年11月9日 榎本釜次郎已下近々御免之趣内話有之

 (『勝海舟関係資料 海舟日記』 (5) 105P)

などとすでに11月に出ている所をみると、むしろ年明けまで待たされたみたいで気の毒・・・・。
(理由はいろいろありますが、赦免に反対している木戸たちが外国へ出掛けるのを待っていた
というスケジュールによる事情が大きいようですが。ちなみにこの11月9日、勝の日記には
大久保利通が海外へ出掛けるために御所へ暇乞いにいった話が出ている(笑)。早く
出掛けろ、おっと!ダサい事に全権委任状を取りに戻ってくるんだっけか(爆))

榎本釜次郎たちは、『榎本武揚未公開書簡集』によると、明治4年12月朔日の書簡(68)Pに
出獄が近いというような雰囲気が出ているので、このあたりからワクワクして
待っていたのではないでしょうか。
はっきりと赦免がわかったのは、明治5年1月2日の書簡(69P)によると、
元旦に届いた大晦日の新聞に、赦免についての記事があったようで、
一同大悦」で、
しかも差し入れでビールが届いて「少々ドロンケン
になっていた模様です(笑)。

さて、『海軍70年史談』に戻ります。
細かい突っ込みとしては、獄中生活は3ヶ年余ではなく、2ヶ年余・・・・ということぐらいにして、
私が思わずほろりときたのは、
大火鉢三個へ、炭火を多分に入れて出してもらったから、さすが二十余畳敷の
広間ながら何れも逆上の気味で少々気持ちが悪かった
」という箇所。
2ヶ年余ものあいだ、火気のない暮らしをしてしまったため、火鉢の暖房で
逆上(のぼせちゃったわけですな)するなんて、皆さんがおいたわしい~~~~っ。
それにつけても、
此の夜は広間で久方振りで深更迄四方山の話をし、なんとも云い難い愉快を覚えた」とは、
どこまで仲がいいんだ、この人達は!
せっかくふかふかの夜具なんだから、早く寝ればいいのにっっ(笑)。
・・・・・そこで2泊しているのも、なんだか楽しそう。
ううむ、彼らの四方山話を聞いてみたいものです♪

あと、少々捕捉ですが、彼等はそのまま自宅に帰ったのではなく、
確か一端、糺問所のそばの旅館へ入り、湯につかって垢やら、髪のシラミやら
残らず取り去ってさっぱりしてから自宅へ戻った・・・・・・という話を何処かで
読んだのですが、出典をド忘れしたので、思い出したら書き加えます(笑)。

ちなみに、この『海軍70年史談』はネットで閲覧できます☆→こちら
    

                   
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by aroe-happyq | 2014-07-11 17:59 | 箱館または釜さん | Comments(0)

渋田利右衛門と箱館丸

渋田利右衛門というのは、幕末箱館の豪商です。
極貧蘭学研究時代の勝海舟のよき理解者にして後援者として、有名なのではないでしょうか?
(渋田利右衛門に関する基礎情報は→こちら

箱館弁天町の渋田屋はもとは廻船問屋でしたが、貸船業、金融等々の多角経営に乗りだし、
今回紹介する四代目渋田利右衛門の時代には江戸へ大量に鮭なども売りさばいていたとか。
毎年、春から数ヶ月間、江戸に滞在し千五百両もの大きな商売をしていた、豪商のひとりです。
でも、本当に凄いのはその売り上げのうち、六百両ほど使って、江戸の書店をまわって
蘭書をメイン(それもたいへん貴重な書籍ばかり)にして多くの書籍を買い込み、
これを箱館に持ち帰り、渋田文庫と称して箱館市民に開放していたということ。
弘化嘉永頃に設けられた、この渋田文庫は北海道の図書館のはじまり、とのことです。

というのも、四代目渋田利右衛門は幼い頃から無類の読書癖で、本を読みすぎて病を得てしまった
ほどの学者肌の知識人だったのです。
ホントは学者になりたかったようなのですが、渋田屋を嗣がされてしまった・・・・ようなのでした。
(子供の頃、あんまり本ばかり読んでいるからと、土蔵のなかの柱に縛りつけられたとか。それでも
土蔵に落ちていた草双紙をみつけると足で寄せて、これを夢中で読みふけった。
この姿をみてついに父親も読書を止めさせるのを断念したそうな・笑)

渋田利右衛門の親友で同業者の林儀助はいつも一緒に江戸に出てきて、
深川の止め宿も渋田の真向かいに泊まるのが常だったよし。
渋田は箱館から江戸へ廻船してきた船手からの貸金勘定の所用が済むと、
朝から晩まで宿を留守にしてしまう。儀助が江戸観光に誘うと時間がないという。
訳をたずねると、利右衛門いわく、毎日書林(書店)に出掛け、
また有名な学者を訪ねては説を聞き、理を論じているのだ、とか。
さらに儀助がきくと、その学者とは蘭学者ばかりとか。
弘化嘉永頃は、天保年間にシーボルト事件や蛮社の獄があったため、蘭学といえばかなり
世間の目が厳しい、たいへん危険な学問という扱いでしたので、儀助は利右衛門に
やめるように説得したが、「なあに、話を聞いているだけです。大丈夫ですよ」と感謝しつつも、
やめる気配はなかったようです(笑)。
そういえば、
勝海舟の談話ではすっかり有名な、この渋田利右衛門との出会いも、書店の店先でしたネ。
(勝さんとのお話は有名なので、ここでは割愛いたします。勝さんの談話にいっぱい出てきます。
たいへん肌が白く、背の小さい、物静かな人物だったそうです)

こういうわけで、渋田利右衛門は箱館の豪商でしたが、かなり筋金入りの蘭学研究家でも
あったのでした。
嘘かまことか、ペリーが箱館にやってきた際、通訳にかり出されたという話もあります。
(蘭語はできたかもですが、英語は・・・・。よほど松前藩も慌てたのでしょう)

こういう人物が、開港都市箱館にいて、しかも文庫を開き、
時には江戸から高名な学者を招いて講演してもらうなどなど、
(ご本人もたまに登壇していたようです)
箱館市民の教育にも尽力していた、ということはもっと多くの人に知ってもらいたいお話です。


で、話の途中に出てきた、渋田文庫。これが今回のメインです(笑)。


この渋田文庫といえば、五稜郭を設計・築城した武田斐三郎もここで洋書を借りて
蘭学研究に励んでおりましたぐらい、この図書館は箱館の洋学情報の要であったようでした。

そこで調べたら!!!あの箱館丸の建造時にも、この渋谷文庫の蔵書が一役買ったというのです。

箱館丸といったら、箱館初のメイドインニッポン船・・・・・なので、どーやって設計したのか
参考資料とかどうしていたのか、前から気になっていたんですけど、
これでもう、スッキリ♪

そもそも堀織部正等々の箱館奉行たちが、この文庫を知らないわけがなく、
むしろ真っ先に渋田利右衛門と面会したような気がする(笑)。

この豊富すぎるぐらいの、しかも良書ばかり(なにせ本の見立ては渋田本人だけでなく
勝麟太郎たちも請け負ってましたので・笑)がうなっている文庫があったからこそ、
箱館丸の建造もできたし、ここからは推測ばかりですが、武田の例もありますので、
五稜郭・弁天台場建造、また箱館海軍伝習所構想も、医学所の設立にも、
この文庫が原動力となった可能性はありますネ!

たいへん残念なことに渋田利右衛門は安政5年12月4日、43歳(41歳説もあり)という
若さでなくなってしまいます。
どうも結核を患っていたそうで、死の予感があったのでしょうか、
勝海舟が安政2年に長崎へ海軍伝習に行く際、自分がいなくなったあと頼れる豪商を
何人か紹介しましょう、といったそうですし。
こういう人にはもっと長生きしていただきたかったですネ。
(勝さんて、彼を深く理解している友人たちが文久前後に相次いで亡くなっていることで
かなり損をしているなぁ、と思います)

で、四代目の死後、養子が五代目を嗣ぎますが、商売がうまくいかず、
渋田屋はだんだんと衰退し、やがて廃業したそうです。
渋田文庫の蔵書は、勝海舟談話によれば、その数、数万冊。明治維新の頃に、箱館奉行所に
買い取らせたということですが、その後、現渡島支庁所在地に保管されていたのですが、
明治12年の大火で焼けてしまったそうです。

・・・・ということは、榎本釜次郎たちが箱館に行った頃、この蔵書は箱館奉行所のなかに
まだあった可能性が???
つまり、榎本はもちろん、大鳥圭介、澤太郎左衛門はもちろん、永井玄蕃やその友人(儒者)
たちも、その蔵書を眼にしたかもしれませんネ。
(てか、そうなったら、彼らのことだから、本気で蔵書を戦火から守ったことでしょう☆)

今もその蔵書が残っていたら、函館に渋田利右衛門記念館が建っていたかもしれません。
これもまた、もったいないお話です。


《参考文献》

白山友正「渋田利右衛門の研究 ー近世函館商人の一典型ー」
(『北海道経済史研究』30輯)

「渋田翁雑録」
(『諸国叢書』9輯 成城大学民俗学研究所)

江藤淳・松浦玲 編『勝海舟 氷川清話」(講談社学術文庫)
※談話はこのほか講談社版の勝海舟全集の22巻『秘録と随想』などなど
あちこちにも収録されています。
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by aroe-happyq | 2013-10-21 18:53 | 箱館または釜さん | Comments(4)

書けるうちにUPしなくちゃ、ということで今日も2本目。
(またまたジャンル違いすぎ・爆)

かの有名な土方写真、榎本総裁写真等々、
箱館脱走連のみなさんの写真を多数撮影した、田本研造さん。

そのほか明治初年の函館港のパノラマ写真、軍艦回天の写真等々、
箱館戦争当時の貴重な写真も撮影し、今に伝えております。

その田本さん、箱館脱走連の写真をどういう経緯で撮影したのか、
気になってました。
箱館戦争モノの小説などでさらっと田本の写真館で撮影した・・・・
みたいなことを読んだり、あるいは、

田本が、本格的に写真場を開いた年として、
早いものでは1868年(慶応4年/明治元)に叶同館附近、
現在の東本願寺函館別院(函館市元町)で開業、程なく
会所町、現在の八幡坂のあたりに写場を移したと伝えられている。

(「田本研造 その生涯と業績」大下智一 
  『photographer's garallery press No.8 田本研造』より)

というように、慶応4年(明治元年)には写真場を開業し、
この年の12月には会所町の写場で榎本釜次郎写真を撮影したという。
(上記の本に掲載の田本研造年譜より)

ちなみに田本研造はもとは紀州の人で、長崎へ遊学していたのですが
そこで親友となった通詞の松本喜四郎という人が箱館奉行所へ転勤になった際、
一緒に箱館へ来ちゃったという人であります☆

で、話を戻すと、
もともと箱館で写真館をやっていて、そこへ脱走ズが客としてやってきた、
と今まで認識してきたのですが・・・・・・・。
どうもそうじゃないらしいんです。

先日行きました、「夜明けまえ 北海道・東北編 」の図録(正式名称は研究報告)
の巻末にあった資料編によりますと。

田本研造は横山松三郎に就いて学び、自らも研究を行って、
最初は写真器械製造の工夫に力を注ぎ、しばらくして玉鏡及び箱を製造すること
ができた。そして、業未だ半ばの時に、旧幕府軍の榎本武揚の部下が
田本研造の家の前を通り過ぎ、その時たまたま写真器材を製造しているのをみて
撮影を求めた。
田本研造は器機の不整備を理由に撮影は出来ないと固辞したが、
是非にと頼まれて、やむなく懇意にしている医師のもとで薬品を揃え、
ここに始めて写真撮影を行った。

(「北海道立志編」『夜明けまえ 北海道・東北編 研究報告』P96)

偶然にも五稜郭の役があって、徳川の兵らが、先生が写真の技を思いのままに
操るのを見て、珍しく思い、争ってその場所へ訪問しました。
榎本武揚以下、緒名士の当時の肖像写真が今日あちこちで
見られるのも、全て先生の神技の賜物であります。

(「逝ける田本研造翁 (上) 函館毎日新聞大正元年10月24日」の現代訳
 上記研究報告P90)

・・・翌慶応3(※これは4の間違い)年9月に榎本武揚および大鳥圭介等が箱館を
奪取し、五稜郭を占拠し、次々と江刺・福山を落とし、箱館の情勢が物騒になったので
当時の人々はそれぞれの仕事に安心して取り組むことができなかった。
しかし、独り写真を生業とするものについては、これに反して、
榎本・大鳥以下旧幕府軍の諸士が来て撮影を求め、門前に常に
列をつくる盛況であった。ここにおいて、田本研造はこれまでおこなってきた
器機製造から目的を一変させ、遂に写真師として立つことにしたのである。

(「逝ける田本研造翁 (下) 函館毎日新聞大正元年10月26日」の現代訳
 上記研究報告P88)

つまり、これら3つの資料をみていると、
もともとタモケンさんは(田本研造と打つのが面倒になったので・笑)、
箱館で写真器機の研究をしていたのを、榎本の部下に家を覗かれ(爆)、
写真できる人いました、というような報告を上司にしたため、
脱走ズの人々がタモケン宅を訪れるようになり、薬がないとか固辞したけど、
結局撮影することになり、それじゃ写真館やるか、ということになった・・・・・・
というようなことらしい。

つまりタモケンさんを写真師にさせてしまったのは、旧幕府軍のみなさんだった
というわけでしょうか(笑)。

写真館を出すきっかけも、つまりは榎本たちってことで。
(よく考えれば、大鳥圭介さんも優秀な写真技術をもっておられるし、
榎本以下の面々も西洋器機に詳しい。
彼らがさりげなくサポートした可能性もなきにしもあらず)

で、その年の12月には会所町に写真館を開いていたと。
会所町といえば、近くには旧箱館奉行所(裁判所もこっちでしたよネ)
もあったり、新選組屯所もあったりなので、土方さんも撮影にやってきた
のでありましょう(笑)。

・・・・・箱館奉行の永井玄蕃は撮らなかったのかな???
(職場のすぐそばなのにな~~~(笑))

というわけで、タモケンと榎本たちの出会いのきっかけに
なんとなくドラマがあったので、紹介してみました☆

それにしても、箱館へいっても、辰之口の監獄にいても、
榎本や大鳥たちは溢れんばかりのマニアックな知識をいかんなく発揮して
なんだかんだいって楽しく過ごしていたようですね♪
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by aroe-happyq | 2013-03-09 20:20 | 箱館または釜さん | Comments(2)

数年前から東京都写真美術館で開催されてきた、
夜明け前 知られざる日本写真開拓史」シリーズですが、
今年はいよいよ北海道・東北編です!

北海道といえば、田本研造の写真が有名ですが、
今回の展覧会でももちろん、田本写真が登場するということです♪

公式サイト→こちら

上記サイトのメインお写真も、土方氏です!

《開催期間》
前期 3月5日~4月7日
後期 4月9日~5月6日
(休館日などは公式サイトで確認してくださいまし)

たとえば、
田本写真のなかで榎本釜次郎&榎本対馬ことW榎本ズは前期、
土方歳三は後期なので、
(一緒にセットで展示してくれよーっっ)
公式サイトの展示リスト(PDF)をばっちりチェックして
自分のお目当てを逃さないようにしてくださいね!

わたしは上記の3人のほか、全期登場の大槻盤渓さんが楽しみ!
(ただ大槻3代集合写真とかほかの大槻家は後期前期とバラバラなんですよね~~)
それから、函館全景写真が多数登場なのも嬉しいです☆

結局、前期&後期と2回に行くことになりそうです(笑)
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by aroe-happyq | 2013-02-27 18:03 | 箱館または釜さん | Comments(0)

アジアネタですっかり浮かれて、UPし忘れるところでした(笑)。

箱館戦争は有名ですが、今回はその前のおはなし。
キャラ好きの歴女サマには箱館戦争のスターがほとんどでてこない
「なんのこっちゃ」な渋~い内容ですが(笑)、
どうぞお付き合いくださいまし☆

榎本釜次郎(武揚)は江戸湾から開陽ほかを率いて北へと「脱走」するのは、
慶応戊辰4年8月19日のことですが、
それより数ヶ月前、軍艦回天は甲賀源吾&荒井郁之助を乗せて箱館へ
行っています。

たいていは榎本釜次郎が命じて、
箱館の様子を見にいかせたという「状況視察」説が多く(例えば『函館市史』など)、
箱館戦争の前段階、あるいは準備の一貫として語られてきました。

そうではない説をわたしがはじめて読んだのは、
松浦玲著『勝海舟』(P387)でした。
最後の箱館奉行こと杉浦兵庫頭、号は梅潭の『箱館奉行日記』からの読み解き
とのことですが、それによると(以下ざっくりダイジェスト)、
回天は勘定方田中彦八を乗せてきて、持参してきた勘定奉行の書状を
杉浦に渡した。そして「箱館奉行所の管理する金や米を回天で持ち帰らせてほしい」
と要請してきた。しかしすでに官軍の清水谷公考がやってきており閏4月24日には
箱館府もできていることから、杉浦は五稜郭およびすべての奉行所の財産は
引き渡した後なので、それは無理であると断ったのだという。
そういうわけで滞在わずか3晩、甲賀源吾&荒井郁之助は江戸へ帰府したいと
いう奉行所の役人数名を回天に乗せて、箱館を離れた。

・・・・・というわけで、勘定所のお使いで行ったので、
結果的にはのちの脱走の「下見」になったが、そのときはまだそこまでの深謀遠慮
があっての行動ではなかった、という説でありました。

なるほど、と思ったので、その後しばらくして
『杉浦梅潭 箱館奉行日記』(翻刻)のくだんの箇所を読んでみました。

すると・・・・・それだけ(金米)ではなかったのでありました(笑)。

五月四日
○ 回天入港、・・・・・(略)
一 薄暮、帰宅之處、回天船将甲賀源吾、開陽船将二而乗組候由、
  荒井郁之助入来・御勘定彦八等来ル、
  壬四月廿日附御用状並橋本(悌蔵)内状・御勘定奉行より之表内状等来ル
 ○御用状・橋本内状共別事なし、橋本より中外新報その他右類到来
 ○御勘定奉行より之表内状は、則即今御勝手向殊ニ御切迫ニ付、
  当地御有合之米金相廻し可申との云々より其実御軍艦御廻し相成候事也
 ○昨今之場合ニ付最早壱粒壱厘も出来難クニ
  右之次第、田中彦八並荒井・甲賀両氏江も及説得

(『杉浦梅潭 箱館奉行日記』 P536より)
  ※一部読みやすくしてありますし、杉浦さんの人名間違いも訂正しました。


気になるのは、

其実御軍艦御廻し相成候事也

ですネ(笑)。
四月に官軍側にいくつか軍艦を引き渡したので、
徳川海軍としては箱館丸ほか箱館奉行所にある数隻の軍艦を
回収したかった・・・・ようです。
表向きは御勘定奉行の使いの仕事ではありましたが、
甲賀と荒井が榎本からの使いとして与えられた役目は
どうもコレだったようです。

でも回天は江戸を出航したまさに閏4月27日に、
杉浦奉行は清水谷に対して、五稜郭の引き渡し式をやってたわけで、
あとちょっと早かったら・・・・・・・・・・・・・よかったのですが(笑)。

結局、杉浦の説得で勘定方の田中も、甲賀や荒井も納得し、
勘定奉行への返書をうけとると、早々に箱館を発ちました。

どうして『勝海舟』で軍艦云々が触れられなかったのかは不思議ですが、
やはり、こうして原文(っても翻刻ですけどね~~~~・笑)に当たってみると
自分が欲しいと思う情報が待っていてくれるものです☆

というわけで、
細かい情報ですが、混迷を極める慶応戊辰4年の徳川江戸史、
または榎本と徳川海軍の脱走にいたる流れをたどるお役に立てれば幸いです☆
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by aroe-happyq | 2012-12-13 14:33 | 箱館または釜さん | Comments(0)

前々から、日本橋高島屋そばに気になる地図屋がありました。

地図愛好家のあいだではたいへん有名なお店です☆

d0080566_9235716.jpg



で、この店名漢字で書くと・・・・・・・・・・・・・・・。

d0080566_9245747.jpg


ってことになる。

武揚堂ったら、
榎本釜さんのことしか、浮かばない幕臣ファンとしては、
ずっとずっと気になっていたのですが、
まさかいきなりお店にいって、「榎本さんとどのような関係が?」
と聞くのはかなり恥ずかしいので、やめていたのでした。

そしたら、こんな記事が!

毎日新聞サイト→こちら

ぶよお堂の由来である「武揚」の名前は、創業時に名付けられた。
武は「戈(ほこ)」を「止める」から平和という意味。
これと「揚げる」とを合わせて、「平和を促進する」との願いを込めた。
幕臣で明治になって農商務相などを務めた榎本武揚の名にも通じることから、
同社に伝わる歴史は、存命だった本人に願い出て快諾されたと伝える。


おおっと!榎本さん公認だったとわ!!!!

は~~~長年の疑問がスッキリ(笑)。

でも武は「戈(ほこ)」を「止める」から平和という意味
ということは、
「武士」って平和の士ってことですね♪
徳川の旗本さんで、幕末外交を担っていた人々が外国との交渉で
「非戦」を掲げたのは、武人であるからこそ、戦争の恐ろしさ・無意味さを
知っているため、他国とむやみに戦争にいたることのないよう、
平和外交をめざした・・・・となにかの本で書いてありましたが、
そういう意味では彼らはまさに平和の士(笑)でした。

ホント、漢字って奥深いわ~~~~~。


そして、地図の店と榎本さんという組み合わせも、
たいへんしっくりきますね!!

地図の店ぶよお堂
サイトは→こちら
東京都中央区日本橋3の8の16
午前10時〜午後7時。
定休日は土曜、日曜、祝日。


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by aroe-happyq | 2012-11-21 09:44 | 箱館または釜さん | Comments(0)