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アジアンエンタメ&お江戸後期。外国奉行や長崎海軍伝習所がご贔屓☆ BYはな。

カテゴリ:長崎伝習所系( 49 )

出島表門橋、復元される

記事はこちら

たしか2010年ぐらいに完成するはずだった、橋と水路。

ようやく、出来たようです☆

これで、江戸時代の人が出島へ行く気分を存分に味わえます♪

嗚呼、海軍伝習所ごっこしに、長崎へ行きたいわ~~~~~♪




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by aroe-happyq | 2017-02-28 14:28 | 長崎伝習所系 | Comments(5)
※この前の記事は1日前にありますので、そちらからご覧ください☆


小田又蔵が、古賀謹一郎から勝麟太郎を引き離した・・・・・!?

って、私も最初に読んだとき、なんじゃそりゃ!?って、大爆笑したのですけど。
(こういう人間関係のもつれに、いまいち不似合いな、さらり系江戸ッ児・勝海舟(笑)。
とはいえこういう勝さん、どこかの大河とかで見てみたくもある)
とりあえず、続きをごらんください。

小田又蔵という人は、元勘定方につとめていた人であり、川路聖謨の元部下。
ところが、天保の改革中に御役御免になって以来、長いこと無役でした。
この無役のあいだに、蘭学を学んでいたようです。
勘定奉行所に勤めていた時代の元上司川路聖謨はこの間も
小田のことを暖かく見守っていたみたいで、チャンスがあれば、
なんとか官界へのカンバックを後押ししてやろうと思っていたので、
洋学所準備掛りにも推薦したわけです。
小田には、もともと川路という大きなツテがあったわけです。

ではなぜ、小田は古賀から、勝を引き離さねばならなかったか?

彼らのあいだには、洋学所の方針をめぐり意見対立があったといわれております。

そもそも洋学所は「蘭書翻訳御用」ということで、外国の文書を翻訳する機関なのですが、
勝麟太郎と古賀謹一郎はどうせつくるなら、ただ翻訳するだけでなく、
多様なジャンルの洋学を学べるような機関にしよう、という方針だったのに対して、
小田又蔵は、洋学所で学ぶのは現実的に必要な、語学と西洋兵学限定でいいと。
ほかはいらないという方針だったのです。
というのも、小田は勘定方の川路の意向に沿うように動いていました。
この小田が「洋学所で学ぶのは語学と西洋兵学だけでいい」と主張するのも、
慎重開国論で(西洋の余計な知識を学んで耶蘇教にハマッたらどーするんだというご時世でした)、
予算の都合を考えている勘定方の意向を踏襲しているところもあったのです。

これ以外でも、なにかと意見は2(勝・古賀)対1(小田)に別れがちだったよし。
つまり、小田又蔵は、孤立しがちだったようです。

ちなみに、彼ら3人の関係はというと・・・・・。

勝麟太郎はかねてより謹一郎の父・古賀侗庵の開国論にたいへん共鳴
しており、その息子(こちらも開国論)の謹一郎ともウマがあったようです。
謹一郎という人は繊細で神経質な人なので、他者との交流に慎重なところが
あったようですが、勝麟太郎の意見書の内容が自分のそれと合っていたこともあり、
変人の古賀謹一郎としては珍しく勝麟太郎に親しみを感じていたようです。
(勝麟太郎もいささか変人・・・・だし・笑)

勝麟太郎と小田又蔵ですが、その仲は不明です。
ただこの2人、8月4日に浜御殿で開催された将軍上覧のイベントで、
協力しあって例のモールス信号機を動かし、将軍家定に披露しているんです。
でもですね、この信号機の実験は小田又蔵が一人でやってた時期が長く、
本当は小田一人で披露したかったかもしれず、勝麟太郎が邪魔だったかも(爆)。
なにせこの年のうちにこのモールス信号機の動かし方について書いた本、
『和蘭(オランダ)貢献電信機実験顛末(てんまつ)書』というのを著していていますので。
これも「おれの研究だ!」という小田の強いアピールとも解釈できます(笑)。
(ということは、彼らの関係はあまり良好とはいえないな、と)

さて最後に、古賀謹一郎と小田又蔵の間なのですが。
これがもう、ホントに最悪なのです。
古賀のほうが小田をたいそうお嫌いのようでして(汗)。

↑いや、これこそが、まさに今回の勝さん一件の火元なのではないかと思うのです!

再び、小野寺龍太著『古賀謹一郎』(P180)ですが、
謹一郎は小田のことを「骨力とは言い難し。是は呂恵卿、蔡京の流なり」とかなりボロクソです
(呂恵卿、蔡京は宋代の政治家で陰謀の多い人たち。古賀からすると腹黒系という意味)。
さらにこの小田を推している水野&川路両勘定奉行に対しても、どこに眼がついているのだ、と
厳しい言葉が(ちなみに古賀さん、川路のことも俗吏として、すごくお嫌いです・笑)。
そもそも潔癖な古賀はちょろちょろ策を巡らせる小人タイプが大嫌いなのですね。

・・・・・以上のあれこれを鑑みて、大胆な推理を働かせますと!!

ズバリ!!
勝麟太郎の長崎海軍伝習への派遣はですね、
小田又蔵がいろいろ根回しして(おもに勘定系、それも元上司の川路が濃厚!)、
古賀謹一郎の洋学所での勢力を削ぐために、勝麟太郎を長崎へ遣ることにして、
洋学所から追いだしたのではないか・・・?
逆にいうと、勝麟太郎はまったくのとばっちりながら(笑)、小田又蔵によって、
長崎へ追い払われた、というのが真相なのではありませんでしょうか。

3人の艦長候補生ですが、目付系の岩瀬が推しただろう、
矢田堀&永持が目付推薦で2枠使ったとしたら、あとの1枠を勘定系が推した人が入ったとしても
なにも不自然ではありません。
(拙ブログで何度か触れましたが、目付と勘定方というのは、ず~っと前から何かと
対立する不倶戴天の敵同士。3枠あったら、3枠全部に目付の意中の推薦人が採用されるなんて
ことはまずありえません(笑)。かならず、互いに誰かしら別候補を出してきます☆)
しかしそれがなぜ勝麟太郎かっていうのが不思議なところですが、
(川路たち、勝のことあんまり知らないだろうし)
勘定方が小田の推薦をそのまま取り入れたとしたら、成立しそうではありませんか?

小田又蔵が洋学所から勝麟太郎を追い出したいと考えていたところ、
ちょうど長崎伝習所派遣話がふってわいてきた。
小田はこれを利用することにして、川路などの勘定方に勝麟太郎を推薦してみる。
勘定方の川路は小田の悪意など感じず、素直に良き人材として勝さんを推してしまう。
目付の岩瀬たちも、勝なら大賛成なので、誰も異議なし!→決定、というわけです。
(勝麟太郎は、自分の船酔い体質も、数学が苦手で艦長修行ではヤバイこともわかって
いたので、大久保や岩瀬になにかしらアクションを起こしたハズですが、どうやら
そうした苦情は、「長崎行けるんだからガンバレよ」という周囲と同じ反応で終わった?)

そして勝麟太郎を洋学所から追いだして、小田は何がしたかったかというと、
洋学所頭取の座を狙うことです。
邪魔な勝さんがいなくなれば、古賀と1対1の戦いになる。
勘定奉行との太いパイプもあるし、充分勝機はあるとみた。
ところが、順当な人事で古賀謹一郎に決定。

頭取になった古賀は、勝の長崎行きの件を(小田の仕業だと)疑っていたので、
学問所教授方だった元同僚の岩瀬修理などの目付衆に相談。
「そういう腹黒い奴を洋学所に置くわけにはゆかぬ」と目付衆が運動して、
かくして、小田又蔵は大坂へ・・・・・。
(なにやら、この期間の、目付と勘定方の激しい対決の火花がみえるような・・・・)

もしそういう流れならば、この8月の時期に小田があちこち運動をしていた内容は、
すでに洋学所から消えた(つか消した・笑)勝のことではなくて(爆)、
洋学所頭取の座を狙っていたためではないか、とわたしなぞは考えちゃうのですが。
(だって、小田さんにだって、正月からずっと洋学所を準備してきたのは自分だという、自負もありますしね)

もしもそうした流れで「同年12月 小田又蔵、大坂の具足奉行に転属」を考えると、
この人事、かなりヘビーであります(笑)。

なにせ、小田又蔵の転属は、蘭学者なら誰しもがあこがれる勝さんの長崎行きと違って、
蘭学とまったく関係のない大坂(緒方洪庵先生はおられるが)、部署も具足って・・・・・。
完全な島流しじゃありませんか。
なにかの罰ゲームみたいな転属なのであります。

この古賀VS小田の対決話。勝さん抜きでまだ続きがあるのです。
文久2年5月5月1日に、外国奉行組頭になっていた小田又蔵が、
蕃書調所組頭として、戻ってきた。
すると、15日後に古賀謹一郎が蕃書調所を退いているのです。
どーですか、この小田の洋学所(蕃書調所)への執念!
これをみるとですね、やはり小田又蔵には、
勝麟太郎などぽーんと長崎へ投げ飛ばすほどの、はげしい野望があったとしか思えないっ。

ここまでだらだらと「考察」してきましたが、つまりなにを言いたいかというと、
幕末当時から、西洋算術が不得意で、船酔い体質の勝麟太郎に対して、
「海軍不適格者」というかなり厳しい意見があったわけですが(今でもある・笑)、
もしも、今回の記事の想像のように、洋学所内の人事事情で(しかも自分のせいとかでなく)、
やむおえず、「不本意」な状態で長崎へ行かされていたとしたら!?
海軍に入れさせられたとしたら?!!
「海軍不適格者」で何が悪い!選んだほうの責任だ、勝のせいじゃない!
ともいってあげたくなったのですよ。

進んで自分で長崎海軍伝習へ行きたいといったのなら、それはもう馬鹿モン!って感じですが、
行かされちゃったものをどうしろというのか、とね。

ひどい船酔い体質(なにせ長崎行きの船旅ですでに露呈していた・笑)と、
西洋算術(数学)が超苦手の勝麟太郎は海軍伝習所で苦しみ続けます。
(しかも、完全無欠のエリート矢田堀景蔵という、すんごいライバルのそばで)
しかしここで敗退したら、勝さんの官吏人生は終わりです。
いきさつはどうあれ、長崎に行ってしまったからには、結果を出さなくてはならない。
3人の艦長「候補」とはいいますが、補欠は用意されていません。
石にかじりついてでも、艦長にならなければならなかったのです。

現代だと「やめちゃえば?」「氷解塾あるじゃん」って簡単にいえるのですが、
この当時の直参のメンタリティでは、無役から役付きになったら、
もう後戻りという選択はなく、走り続けられる限り走って行くというのが、当たり前です。
(それに長崎海軍伝習でしくじった、なんて評判がたったら、塾経営だって危ういっす)

当時の勝麟太郎はまだまだ官吏として、新人選手です。
徒目付として実績のある永持亨次郎みたいに、「艦長って仕事は自分に合わないっす」と
さっさと転属するなど、そんな夢みたいなことはできない立場でした。
(抜けた永持の代わりに、伊沢謹吾が急遽長崎へ派遣されましたのですが。このおかげで
謹吾にくっついて長崎へやってきた榎本釜次郎青年の未来が開けましたネ)
だから、勝麟太郎は第一期伝習ではほぼ落第の成績ながら、二期に居残って、
(一期総監の永井玄蕃頭やペルス・ライケン、カッテンディーケのように彼に優しい人々に
恵まれたのはまさに幸運でした)
その後、スレスレでも艦長合格となっただけでも、
すごい事じゃないかと、褒めてあげたいわけです。

あわせて、海軍というゴールありきで勝さんを考えがちだった自分を反省しました(笑)。

そもそもが台場とか陸側からの防衛をメインにした研究者で陸軍寄りの彼がですよ、
まさかの海軍でよくぞがんばった!おめでとう!!と、
誰か言ってやってもよさそうでしょ(笑)。
(この点では、西洋兵学者でさえなかった矢田堀景蔵も、もっと褒めてあげたいです!!)

二期海軍伝習やアメリカへ行く咸臨丸のなかで「不機嫌で、いつも不満の」勝に
当たり散らされて気の毒な木村摂津守(一期艦長候補にあがった勘助サン。二期海軍伝習総監)が、
勝に対して、友人の福沢諭吉も驚くばかりの寛容さをみせ続けたのも、
兄貴分の岩瀬修理からいろいろ深~い人事事情を聞いていたからカナ?
なんて想像したりして(笑)。


しかし、小田又蔵についても、ただの悪者とは思えません。
小田はたしかに、古賀のいうような小人かもしれませんが、
安政2年にはすでに51歳なんですよね(勝麟太郎は33歳、古賀は40歳デス)。
天保の改革の時代に御役御免になって(蘭学と関わりがあったことが原因か?)、
以来長らく冷や飯を食いながら、コツコツ蘭学を学んできたこの人からすれば、
やっと巡ってきた「復活」のチャンス。まわりのライバルを蹴落としてでも、
より確実なものにしようと・・・・・ちょっと「一所懸命」で必死になっただけ、とも思えなくない。
年齢をみると、そういう焦りがあったとしても、なんか憎めないんです。

結果的には、勝麟太郎は不本意でもなんでも、長崎に行かされたおかげで、
多くの外国人と出会って、おおいに刺激を受けて、江戸で書物に頼って学ぶ蘭学者では
到達できないところまで成長したわけですし、のちにはアメリカまで行くことができました。
勝さんの人生は長崎行きなしには語れない、とも言えます。

ひょっとすると、安政4年に岩瀬伊賀守(まえは修理)が長崎へ出張したので、
小田又蔵の陰謀の顛末について知ったかもしれませんが、
勝麟太郎も長崎での自由な生活になれ、
初の浮気相手のおくまさんとも出逢ったし(おいおい・笑)
それなりに幸せだったので、「小田、ふざけんな!」と怒ることもなかったことでしょう。
(ただ、日記類で小田の名をみないので、記憶から抹殺はしていたかも(笑))

なので、今さら騒ぐことじゃないかもしれませんが(笑)、
晩年の人を食ったような勝じいさんの談話だけを読んでいると、不適で癖のあるオヤジですけど、
そんな勝さんにも、若い頃は人生山あり谷ありで、人事に翻弄されながら、
与えられた役職を必死につとめて歩んだ、けなげでカワイイ時代もあったのだ、
と、そんなことをつらつらと寒い冬の夜長に感じていただけましたら、
このバカ長い記事も、必死になって書いてよかったなと思う次第です。
(大学とかの研究なら、ただの「妄想」でバッサリの、確証のない不馴れな仮定話がメインなもので、
なんやかんやと1週間以上かかっちまいました・笑)

今後、なにか「確証」の史料と出会えたら、改めて報告いたします!
ただ、幕末史って史料がたくさんあるので、
こうして細かい事をああだ、こうだと調べる楽しさが、たまらなく魅力的。
これだから興味が尽きませんネ(笑)☆


《参考文献》※記事のなかで紹介したものは省いています
原平三「蕃書調所の創設」(『歴史学研究』103号 1942年)
二見剛史「蕃書調所の成立事情」(『日本大学精神文化研究所・教育制度研究所紀要』10号1979年)
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by aroe-happyq | 2014-12-24 10:45 | 長崎伝習所系 | Comments(0)
本日の記事は、久々に、
どーでもいいことを激しく突っ込んで調査する、拙ブログらしい内容です(笑)。
長いので、御暇なときにご覧ください♪


幕末の勝海舟こと勝麟太郎は、「海軍の人」と言われることが多いです。
これがあまりに有名なので、
この人の人生の流れを、先に海軍というゴールありきでついつい考えがちです。

自分もそう考えてきて、勝さんが海軍の人になるスタートとなった、
安政2年の長崎海軍伝習所行きについて、それほど疑問を持ってこなかったほうでした(笑)。

ところが、数年前に『勝海舟全集』の2の書簡集を読んでいて、ちょっとひっかかりができました。
長崎へ出発する直前、義弟の佐久間象山に
是迄航海之書は読み申さず、今更当惑之仕合に御座候
という愚痴の手紙を送っていたのを読みまして。

勝麟太郎は西洋兵学を学んでいましたが、陸上からの防衛研究がメインでした。
ペリー来航時に提出した建白書でも海軍の創設が海防に大切であることをのべていますが、
それは台場を築くなどの陸側からの海防策のひとつとして挙げただけのことで、
自分が海軍創設にかかわりたいなど、一言も発言したり、意見書に書いたことはありませんでした(笑)。

ただ、航海之書を読んでいないから海軍伝習なんかムリです!・・・・といったところで、
一緒に行く矢田堀景蔵もそのほかの人達も「みんな同じだから!」と宥められて終わってしまう。
しかも勝麟太郎にとって長崎へ行くことで、小普請から小十人組へ「昇格」するのだから、
俸禄も増えたりと、けして悪い話ではなかったのです。

それでも、勝麟太郎にとって長崎行きは不本意だったのか・・・・・・。
というあたりはぼんやりと記憶にとどめて、そのときは終わっていたわけです(笑)。

その後、たまたま洋学所(のちに蕃書調所とか洋書調所などに改名)設立時の流れを
突っ込んで調べることがありまして、なにやら勝さんの長崎行きに洋学所の人事が
かかわっているような、そんな様子がみえてきたので、
再び気になり出して、いろいろ調べてみました次第。
すると、今まで語られたことのない麟太郎と洋学所の人間関係がみえてきて、
長崎へ行くきっかけと思えることが出て来ました。

ただ、これだ!という確実な証拠が残念なことにみつけられなかったので、
以下はあくまでも「一考察」としてお楽しみくださいませ。
(みなさまの思考のヒントのひとつになれば幸いです)

まずは洋学所創設の流れについておさらいします。
洋学所の設立を建白したのは、昌平坂学問所教授方の古賀謹一郎。安政元年のことでした。
それが動き出したのは、年があけて翌年の安政2年の正月。
徳川公儀としては、相次ぐ外国使節の来航で、オランダ語以外の通訳、翻訳機関が
必要とのことで、従来、翻訳を担ってきた天文台蛮書和解御用掛を拡充し、
古賀の提案してきた「洋学所」の設立を決定します。

安政2年正月18日に異国応接掛手付・蘭書翻訳御用として、
市井の蘭学者二人、小田又蔵(小普請・無役)と勝麟太郎(小普請・無役)が、
さらにその準スタッフとして箕作阮甫(天文方出役)、森山栄之助(和蘭通詞)が選ばれました。

ちなみに彼らの上には異国応接掛の筒井肥前守(大目付)、川路左衛門尉(勘定奉行)、
水野筑後守(勘定奉行)、岩瀬修理(目付)、古賀謹一郎(儒者)がいます。

異国応接掛手付・蘭書翻訳御用となった蘭学者の二人ですが、
小田又蔵は元勘定所の上司だった川路が、
勝麟太郎は目付大久保忠寛(のちの一翁)の推挙をいれて岩瀬が、
それぞれ推薦してこの仕事に就いたそうです。
(つまり、勘定方系推薦の小田、目付系推薦の勝、となるわけです)

この勝麟太郎の、異国応接掛手付・蘭書翻訳御用というポストですが、
これは翻訳の専門職です。
実はこの仕事につくにあたって、目付大久保忠寛は老中首座の阿部伊勢守正弘の意向を
うけて、勝にはこの専門職とあわせて徒目付海防掛にならないか、と持ちかけたよし。
(大久保や岩瀬、阿部などは「政治家勝麟太郎」の才能を見出していたのではないかと)
ところが、当時の勝麟太郎は私塾「氷解塾」の経営も順調で出世欲がなく、
「俗吏にはなりたくない」と官界にさほど興味をしめさなかった。
(アノ権勢家阿部の意向を蹴った、という市井の学者でないとできない離れ業デス)
そういうわけで、翻訳の専門職だけでの出仕となりました。

さて。
この小田又蔵、勝麟太郎に古賀謹一郎を加えた三人が中心となって
洋学所の設立が準備されていくのですが、この時点では洋学所という名前さえ
きまっていない、ほんとうにゼロからのスタートでした。

ところが・・・・です。
この安政2年正月ごろは、ロシアからやってきていたプチャーチンへの応接、
日米和親条約の批准にやってきたアメリカ使節のアダムスへの応接などなど、
異国応接掛の古賀謹一郎は筒井肥前守、川路左衛門尉、水野筑後守、岩瀬修理らと共に
フル回転の大忙しで、下田と江戸を行ったり来たりの日々。
勝麟太郎も目付の大久保忠寛とともに、数ヶ月にわたり、上方方面に海防視察へ出掛けてしまう。
勝は連名で洋学所に関する意見書を提出してはいるものの、この年の前半は
小田又蔵がほぼ一人で、せっせと洋学所発足の準備に励んだ形となっていました。

小田&勝にはもうひとつ課題がかせられていて、ペリーが置いていったモールス信号機を
動かせるよう研究もしなくてはならなかったのですが、
これもはじめは小田だけがコツコツやっていました。

勝麟太郎が小田と合流するのは、視察から戻った4月以降で、
言い出しっぺの古賀謹一郎も下田御用があって行ったきりになり、
江戸へ腰を落ち着けたのは6月のことでした。

しかし、こののち、古賀・小田・勝の3人にいろいろ起きていくのです!!!

まず安政2年7月29日 勝麟太郎に長崎海軍伝習所行きの命が下りました。

洋学所の方針がいまだはっきりと決まらないうちに、
安政2年7月、長崎海軍伝習の人選会議がはじまります。
人選選びのメンバーは具体的にはよくわかりませんが、勘定方と目付が中心なのは
意見書、上申書の出し具合からみても、明らかであります。
この後、普請奉行伊沢美作守政義と目付の岩瀬修理等が江戸での伝習所人事の窓口に
なりましたが、この段階からそうだったのかはさだかではありません。

その人選会議で、洋学所創設の準備中で忙しくしていた勝麟太郎の名前が、
矢田堀景蔵、永持亨次郎、木村勘助、平山謙二郎らと共に艦長候補生としてあがりました。
オランダ語が読めて(といっても初歩レベルだったという説もある)、西洋軍学に通じた人材なので、
ここで名前が浮上してもおかしくはありませんが、洋学所創設の掛りなのにいいのか?
という疑問がなきにしもあらず(笑)。

当時、徳川公儀は3隻の洋式軍艦(2隻は購入予定、1隻は贈呈を受取済)の艦長が
必要だったためこのなかから3人を選び、
矢田堀景蔵、永持亨次郎とともに勝麟太郎の名が残ったのでした。

正直申しまして、江戸の柳営有司がオランダ海軍伝習の内容について
どこまで正確に把握していたか、少々心配なところがあります(汗)。
(今なら、海軍士官&艦長候補は若い頃から叩き込むのが常識ですが、このときは
30歳前後のおっさんばかり選んだり。木村勘助などは「若すぎる」ので候補からハズされたっぽい)
二期生募集で是正されるまで、そんなトンチンカンやっていました・笑)

なので、この3名の選抜理由、また選抜基準などもいまいち微妙だったりします。

しかし人事は発令!
突然ながら、勝麟太郎に長崎海軍伝習所への出張が決定となりました。
洋学所に勤めるものだと思っていた勝麟太郎からすればまさに
「じぇじぇじぇ~!?」(懐かしい)の展開になりました(笑)。
(なので、かなりブツブツ愚痴っていたみたいで。佐久間への手紙以外でも、
箱館商人の渋田利右衛門などにも数学できないのになぜ自分なのだと愚痴って
「ぜひ西洋数学を学んできてください。楽しみにしています」などと励まされています(笑))。
周囲の御祝いムードにいまいち乗れていない、勝麟太郎でした。

・・・・・ところが。
冒頭にも書きましたとおり、今まで読んできた勝海舟の伝記、評伝本などでは
とくにこの「長崎行き」は問題になっておりません。
海軍の男・勝海舟の人生のプロセスとして、「当然」の流れという扱いです。

勝海舟の評伝としては、勝部真長氏と松浦玲氏の本が代表的だと思うのですが、
松浦玲氏の『勝海舟』でも佐久間宛ての手紙に不満を述べていることは挙げていても、
そのまま、幕府に期待されて、いざ長崎へ!という展開。
また勝部真長氏の『勝海舟』のほうでは、
大久保忠寛の引き立てで・・・(略)・・・長崎に赴任することになった」(430P)
と盟友の大久保の後押しで、いってきまーす!と元気に旅立っていることになっています。

でも・・・・大久保さんとは一緒に伊勢や・志摩への視察旅へ行ったばかりで、
勝が陸からの防衛の専門家であることもわかっているのに、
いきなり軍艦の艦長になれ、なんて無茶な事はいわないはず。
ただ、徒目付を振られていることもあり、ちょっとでも勝に官界で活躍してほしいと考える
大久保は、このふってわいた長崎人事、むしろ賛成だったかもしれません(笑)。
(西洋軍艦の船将(艦長)ともなれば、専門職というより、番方(軍人)なので、将来性がある♪)

それからさきほどから登場の岩瀬修理ですが、この時期、大久保とは名コンビでした。
意思疎通はバッチリです。勝麟太郎の意志は大久保から聞いているはずなので、
あえて洋学所掛りの勝を推すことはないのではないかと。
岩瀬はどちらかというと、矢田堀や木村など、学問所以来のかわいい後輩たちを
なんとか盛り立ててやろうと、そっちで忙しかったような?(笑)
なので、3人の艦長候補生のうち、自分の学問所の後輩の
矢田堀景蔵、永持亨次郎が入って、それでもう満足だったような気がします。
ただ、さらにもう1人の候補として、目付系がもともと推薦していた勝麟太郎の名が出たら、
もちろん異論はなさそうです。
(岩瀬は大久保の紹介で、勝麟太郎と何度か会っているし、互いに認め合う仲でした)


じゃあ、誰が、率先して勝さんを推したか、なんですけど。
そこがわからないので「一考察」なわけです(笑)。

ただ、手がかりになりそうな大きなヒントが勝さん去りし後の
洋学所の人事にあるのです!

同年8月30日 古賀謹一郎が洋学所頭取を拝命。

同年12月 小田又蔵、大坂の具足奉行に転属。

結局3人のうち、古賀だけが洋学所に残りました。
言い出しっぺの古賀なので、この人事は至極真っ当です。
(しかもほかの2人のように小普請・無役ではなく、それまで3代にわたって
昌平坂学問所で教授方をつとめてきた実績もあり、頭取はぴったりです)

問題に感じるのは、小田の大坂行き、のほうなのです。

小野寺龍太著『古賀謹一郎』のP206によると、
古賀が安政2年8月の日誌に書いている
褦ネ戴(たいだい)俗子機心恨絶」というのが、
(暑い盛りに礼服を着て真面目くさった様子で伺候している俗吏という意味)
小田又蔵のことを指しており、
小田がこそこそとあちこちに取り入って、勝麟太郎を自分から引き離したのではないか?
と謹一郎が疑っていた・・・・・と小野田氏は指摘しているのです。

・・・・え?

小田又蔵が、古賀謹一郎から勝麟太郎を引き離した・・・・・!?


あまりに長いので、ここで一端、切りますネ☆
続きは、あした!
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by aroe-happyq | 2014-12-23 10:26 | 長崎伝習所系 | Comments(2)
今回の勝さん記事は、なぜか激マイナー人物の登場です。

勝海舟さんの友人(と呼べる人は結構少ない)の紹介は、
かなり前の箱館の豪商・渋田屋利右衛門に続く第2弾ですが、
今回も「誰それ?」系であいすいません(笑)。
・・・・勝さんの友人、面白い人が多くて、一時期かなりマイブームだったもので、
これだけで記事がいろいろ書けちゃうのです♪

ということで、
岡田新五太郎さんについて、今のところまで調べたことを書いてみたいと思います。
(まだまだ調査続行中なので、今後わかったことがありましたら、追加させていただきます☆)

で、岡田新五太郎って、誰?・・・・・・って感じですよね。
幕末ドラマに顔を出さない人なので、この記事で初めて名前を知った人も多いと思います。
確かに岡田さんは、勝海舟関連の書物にしか登場しません。
それも主に長崎に滞在中の勝への書簡情報です(あと海舟日記に数カ所)。
講談社版の勝海舟全集別巻『来簡と史料』に収録されております。
勝のほうから岡田へ出した書簡を合わせて読むと、二人のやりとりがよくわかります。

しかし、岡田が出した勝への手紙に、安政年間の江戸の情報がけっこう満載でして、
岡田さんには感謝しきりだったりいたします。
つまり、この記事も、かなり個人的な新五太郎さんへの恩返し企画の色合いが濃かったり
するのであります(笑)。

ま、とりあえず、書簡やいろいろな情報をもとに作成した、
プロフィールからまいりましょう☆

岡田新五太郎 

年齢不詳 ?-文久2年11月16日
住まい:青山御台所町 
家族は姉ひとり。独身(らしい)。
松崎 慊堂の門人だった。
麟太郎と共に蘭学を学んでいた。

安政2年 小普請組奥田支配
安政2年10月15日 勘定出役 海防掛
安政4年5月 大砲鋳立小筒張立御用 海防兼務
      7月 亜人参府御用取扱
      10月11日ごろより、蕃書調所に詰める
安政5年1月11日 貿易筋御用
        27日 領事官参府御用
安政6年10月 如何之趣 差控

上記の仕事内容をみると、おそらくですが、
安政2年7月末に勝麟太郎が長崎海軍伝習所へ派遣されることがきまり、
そのひと月後に江戸を旅立つ際に、
懇意にしていた目付の大久保忠寛や岩瀬忠震に、友人の岡田を推薦して出掛けた
ように思われます。
岡田はその後、蘭学の素養があったことから、すぐに海防掛(外交と貿易担当)となり、
その後、ハリスの江戸出府の接待掛になっております。
(つまり、岩瀬や川路、永井などと一緒に仕事をしていたのデス♪)

ただ、安政6年ごろから体調を崩したのか、仕事を辞めており、
その後、文久2年11月16日に病で亡くなっております。
この日の海舟の日記には、

今朝、岡田新五太郎、死去の報あり。故に宅を訪う。岡田、学を松崎慊堂に聞く。
博覧強記、わずかに司農局の小吏となり、終に志を得ず。
惜しむべく、歎ずべし。往時二十年前、予と共に憤発して洋書を読む。
中頃病んで終に業をとげず。しかれども、学甚だ博く、幕府中の畸人なりしが、
碌々として鬼籍に入る。吾人またかくの如くなるべし。

(『海舟日記 (一)』 26P 江戸東京博物館)

天保年間からペリーが来航するまでのあいだ、蘭学者はシーボルト事件や蛮社の獄もあり、
異端者扱いされて、世間の片隅でじっと世間の冷たい目にさらさらながら耐えていました。
勝麟太郎にとって、岡田新五太郎はその時代、共に苦労しながら、懸命に蘭学を研究する
日々を送った、かけがえのない同志だったのでしょう。
かなり強い思い入れのある友人だったように思います。
(談話によると、麟太郎が蘭学をはじめるとそれまで付き合っていた友人はみんな離れていった
とか。そうして孤立したなかで出会った友人岡田は、紛れもなく真の親友だったのではないでしょうか)
岡田さんが勝よりも長生きしてくれていたら、勝の素晴らしい伝記など書いてくれたのでは
ないかと・・・・・。そうしたら、福沢諭吉の「瘦せ我慢」などの悪い評判を吹き飛ばしていたに
違いなさそうなのですけどネ(笑)。

さて、ここから第2章がありまして。

勝海舟は、蘭学の同志である新五太郎に報いようと、亡き後の岡田家を、
なんとか存続させようとしまして、そのための奮闘劇が始まります。

安政初期は独身だった(ハズの)岡田さん、勘定方へ出役後に妻を娶ったのか
不明ですが(実の娘でもいないと養子縁組は面倒なハズ)、
あるいは独身でもかまわず!? とにかく勝マジックの力業によって、
文久3年、奥祐筆の滝村小太郎の末弟を養子として岡田家へ入れ、
岡田斧吉と名乗らせます。

岡田斧吉???
もうピンときた方がいらっしゃるかと存じますが、
そうです、かの遊撃隊の暴れん坊として名を馳せた、あの岡田さんです。

岡田斧吉はつまり、勝海舟の親友・岡田新五太郎の養子だったりします。
ただ・・・・・学者肌の養父とはうってかわって、武闘派のお子さん。
どこからみても、血の繋がりは感じられない、正真正銘のわかりやすい養子縁組関係(笑)。
いやはや、海舟さんも思い切った選択をしました。

ところが・・・・・こんなに苦労して岡田家へ養子に入れた岡田斧吉ですが、
数年ののち、わずか22歳で、箱館戦争で戦死してしまうのです。

しかし勝サンはあきらめません。
今度は自分の男子、四男・七郎義徴を岡田家へ入れるのであります(笑)。
(どうでしょう、この執念!? それとも亡き友への思い入れの暴走??)

・・・・こうして岡田家は続いていくことになったのでした。


というわけで、今回は勝海舟の友人、岡田さんはこんな人という紹介をしてみました。

次回は「岡田書簡にみる安政年間の江戸あれこれ」の予定です☆

岡田新五太郎というフィルターを通した安政年間の江戸情報ですが、
ぽつぽつここだけに出てくるレア情報もあるので、ちょこっとだけご期待ください!!(笑)
(ちなみにそのレア情報、さほど大勢に影響があるネタではありませんのであしからず(爆))
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by aroe-happyq | 2014-08-09 14:25 | 長崎伝習所系 | Comments(2)
勝海舟記事はいろいろ書きためているのですが、
やはり最初に更新するのなら、この「江戸っ子」問題かと(笑)。
というわけで、まずはこちらから書かせていただきます。

※現代では「江戸っ子」と書くことが多いですが、江戸末~明治の本を
読むと「江戸ッ児」とか「江戸ッ子」と表記しているので、
当ブログでは一番目にする「江戸ッ児」を採用したいと思います。

さて、何か問題なのかというと、です。

随分前に紹介した、戸川残花「戊辰の榎本釜次郎」についての記事で、

勝伯は七分の江戸ッ子に三分の外藩を加味し、榎本子は九分九厘まで江戸ッ子なり

と残花が書いている件のことです。

たしかに榎本武揚は、江戸ッ児の鑑のような人です。
それは間違いありません♡

ですが、勝海舟もですね、九分九厘まで江戸ッ児なのですよ☆
ということをだらだら証明できればと思います。

戸川がいう「三分の外藩」というのは、ぶっちゃけ薩長などの西国の人っぽい
ということを指すわけですが、
それは勝海舟の育った環境に、西国の人と気が合う、気持ちがわかる、と
言われても仕方がないという事情があります。

というのも、勝海舟は、
剣術の師匠の島田虎之助が、豊前中津の出身で、
蘭学の師匠の永井青崖が、筑前福岡の人だったわけで、
まったくの偶然(島田と永井が知り合いというわけではない)とはいいながら、
師匠と仰いだ二人が、どちらも九州人だったというのがとても大きいように思います。
(青崖が黒田家に仕えていたため、黒田家中屋敷へも出入りしていたし。嘉永頃の
黒田家当主は黒田斉溥で、島津家からの養子。つまり斉彬の伯父さんという果てしなき
九州蘭癖人脈が勝海舟の周囲には広がっていた・・・・(笑))

しかも、30歳すぎて、海軍伝習で長崎に長期滞在するなど、西国には何かと縁があったのです。
こういう過程を経れば、ふつうの江戸ッ児よりは、西国の友人もいるし、弟子もできる。
(妻以外の最愛のカノジョさんも、長崎の人だし(笑))

さらに、相手の事もよくわかるので、「三分の外藩」成分が勝のなかにあっても
おかしくはありません。

しかし、その多様性もまた、実は江戸ッ児の性分の一部といえるのではないでしょうか。

というのも、江戸人以外で勝海舟が親しいのはなにも外藩の人だけじゃなく、
外国人も大勢います。
伝習所時代にカッテンディーケ(2次伝習の蘭人側トップ)とは、この人が
帰国したあとも文通友だちでしたし、アーネスト・サトウやクラーク博士、
清国の李鴻章などなどいろんな国の人と交流しています。

で、この交際上手成分は、もちろん勝海舟だけのものではありません。
あの江戸ッ児の鑑の、榎本武揚も、そうだったりします。
(ロシア皇帝とまで親しいということで、むしろ榎本のほうが凄いんですけど(爆))
つまりは、誰とでも分け隔てなく、腹を割った話し合いができる、交際好きな江戸ッ児
の特性でもあるわけです。
ということは、勝海舟も榎本武揚と同じ、九分九厘まで江戸ッ児ではないかと思いませんか?(笑)。

このあたりを、勝部真長氏は『勝海舟』でこう語っております。

勝海舟の人間の特質は、単細胞的ではなくて、非常に複雑で矛盾した両面を
同時に備えており、多面的・多角的・複眼的なのである。
江戸育ちの江戸弁で、歯切れのよい語り口は、一見、軽薄な都会児のごとくであるが、
シンは強いのである。
強情で、意地っ張りだが、あるところで妥協し調和する。
頑張り屋で努力忍耐・堅忍不抜でいて、執着心はない。物にこだわらず、洒々落々と
しているが、節操は固く、守るべきところは守り抜く。
人情豊かで。侠気あり、血も涙もあり、他人の貧乏を見過ごしにできず、
気前よく金をバラまくが、口は悪い。いいにくいこともポンポンいって、
人が避けて通る忠告・忠言はあえていう。
"徳をもって怨に報いる"の雅量はあるが、しかし前に受けた不当な非難や辱めには
どこかで必ずお返しするをするというところもある。
田舎者と違って生粋の江戸っ子、都会人であるから「党派性」を嫌う。
他人と肩を組んだり、手をつないだり、団結するとうことは、野暮くさくてイヤなのである。
「一人一党(アンデパンダン)」ということを尊ぶ。・・・・・・(略)・・・・・・・

(勝部真長著『勝海舟』(下)PHP研究所 422P)

↑もうこれ以上の江戸ッ児を説いた文章はみたことがないぐらい完璧ですが、
これがまた勝海舟=江戸ッ児として書かれている点が素晴らしいのです。
(つまり丸ごと、勝さんの性格を示すものと言っても過言ではない!)

勝部真長氏は松浦玲氏と共に
勝海舟研究のツートップといえるのではないでしょうか。

最新で、詳細な事実確認が充実しているのは松浦氏の著書ですが、
東京牛込生まれの勝部氏の著書はちょっと古い本ではありますが、
ご本人が「東京っ子」でもあるので、勝海舟の魂を知るにはまさにうってつけです。

で、上記の引用文を、
前に紹介した戸川残花による「江戸ッ児」の定義(つまり榎本さんはこうなのだ!と
いう意味も含んでいる)と照らし合わせてみると。

○流暢の辮、 ○圓滑の交際、 ○洒落の氣風、○侠客風の性、○端的の方法、
○個人的にて黨(党)派心なき、 ○小利口にて器用なる


ほら、一緒じゃん!となります(笑)。

たとえば、「侠客風の性」。
榎本武揚が明治期に旧幕臣、とりわけ箱館戦争で苦労をともにした人々への
手厚いケアはつとに有名ですが(だからといって党派を作っていない点がポイント)、
勝海舟も、わかりにくい感じで、頑張っていたのであります。

旧旗本出身の洋画家・川村清雄へのサポートなどは、
赤坂の氷川邸の一角にアトリエをこしらえてやり、住まわせるだけでなく、
徳川家から歴代将軍の肖像画の仕事をとってきてやったり、
ある年の大晦日に清雄がツケを貯めすぎて困っていると「お前の絵を買ってやる」
と言ってお金を出してくれて
川村の野郎め、ズルイ奴だ、貧乏なおれの金を大晦日に百円持ッて往ッちまいやがった
と笑ったとか(出典:『唾玉集』平凡社東洋文庫592 P158)。
口は悪いですが、勝海舟の「ズルイ奴」とか「悪い奴」というのは好意的な相手に
しか発しません(笑)。

このほか、多くの人々が勝邸に借金を申し込みに来ましたが(三条実美まで!(笑))
旧旗本の瀧村鶴雄によれば「返済等を催促されたことがない」とのことです。
(これに感激したわけではないでしょうが、未完成ながら瀧村鶴雄の書いた『海舟伝稿』
はよくできた海舟伝記だと思います☆)。
貸すと称して、こっそりお金に困っている人(多くは旧幕臣)に援助していたのでした。
勝海舟の父こと勝小吉譲りの、なかなかの侠気でございましょう。
口が悪いし、群れたがらない海舟ですが、弱っている人や動物をみると
放っておけない、見過ごせない、余計なお世話をしたくなるという、
けっこう可愛い人なのです(笑)。

これもまた勝が九分九厘まで江戸ッ児である証ではないでしょうか。

もっとも、江戸ッ児といっても、下谷、浅草、番町・山ノ手(のて)、日本橋、本所・深川など
生まれ育った地域によって、言葉も雰囲気もごく微妙~~に違うので
すべてを一括りにしてしまうのはいささか乱暴なのですけど、
ま、この際ざっくりいかせていただきました(笑)。

ただ、勝海舟さんを調べてきて、たったひとつ気になる点がありまして。

江戸ッ児というと、かつて杉浦日向子氏が唱えておられた、
「江戸っ子はラテン系」説があります。
明日はどうにかなるさ的な楽天家で、よく笑い、よく泣く、
陽気で開放的ということで、それをラテン人のようだとおっしゃったわけです。
杉浦氏はおもに町人を指して言われたと思うのですが、大名旗本にも実は当てはまる人物が
たくさんいます(笑)。
もちろん、戸川がいわなくても、間違いなく、榎本さんは筆頭として、
「心に城壁を築かない」で有名な岩瀬忠震や、永井尚志、川路聖謨、
島津斉彬、阿部正弘、筒井政憲等々がそういう人々といえそうなのです(これはほんの一部)。

ただ、武家の場合、公式の場ではそういう面を出さないようにしているので、
なかなか把握し辛いのではありますが。
私的な場での壊れ方で判断させていただきました(笑)。
(慶喜さんも若干、この兆しがみえるのですが、なかなか判断が難しいデス)

しかし、陽あれば、陰あり。
江戸ッ児にだって、開放的でなく、陰性な人もいるわけです。

陰性といっても、性格が暗いとかそういうものではなく、
物事を慎重に考え、派手な事が嫌いで、
感情をそのまま表情に出さないむっつりタイプのことです。

で、その陰性タイプのなかに、勝海舟さんも入るように思います。

この人物がかなり変わっているのは皆さまもちょいちょいご存じかもしれませんが、
「酒を呑むのも、歌舞音曲の流れる宴席も大嫌い」なのに、
元芸者だったお民さんを妻に迎えている、ヘンな人が勝サンなのです(笑)。
(なので、お民さまは夫の留守を狙って、娘たちに三味線を教えていたとか)
酒は下戸というわけではなくて、大勢でワイワイと呑むのが好きじゃないらしい。
宴席というのが嫌いだったようで、公的な宴席はやむおえないとしても、
私的な宴席は、たとえ旧幕臣の親しい宴席でも出ません(爆)。
(永井介堂達が主催した岩瀬忠震没後30年の追懐会の時には、開始時間前に会場に来て、
漢詩を書いた紙と多少のお金を置いて帰っています(笑)。
仲の良い知り合いばかりの宴席でコレです。いや、この徹底ぶりが勝海舟なのデスが)
若い頃は貧乏蘭学者だったのであまり酒を口にしなかったようですが、
晩年にはひとりでぶらりとハシゴ酒をしていたようです(笑)。
(勝海舟の「酒場放浪記」が見てみたい、ワタシです)

そして『海舟語録』(講談社版勝海舟全集20)11Pにあるように、

人の立派な覚悟、決心、又は憐れむべき事、気の毒なる事、浅ましい事などの談話に到れば
必らず両眼の潤い来る、驟雨のにわかに兆するの状であったが、未だかつて
(勝海舟が)落涙せられたるを見たことはなかった。


海舟は目を潤ませても、涙を流すところをあまり人に見せない人のようです。

これもよく泣く(しかもおいおいと泣きます)江戸ッ児からすると、変わっている点です(笑)。
(いちいち引き合いに出して申し訳ないが、榎本サンはよく泣きまする)

それから戸川のいう「圓滑の交際」の一部にもやや難あり。
江戸ッ児は相手によって言語を使い分けますが
(極端な例でいうと突然、町で将軍とバッタリあえば、ちゃんと敬語スイッチが入る)
超平等主義の勝海舟は、将軍でも誰にでも、タメ口に近い、平易な江戸弁で話します(笑)。

どこかに書いてありましたが(出典を忘れました)、明治になって勝サンは用事のたびに
徳川家に行くわけですが、門のあたりで徳川のお嬢サマと出会ったりしても、
勝は「どうだい近頃の様子は」みたいなタメ口調なので、
勝海舟をよくしらないそのお嬢サマは「なんだこのジジイ」って思ったそうな(爆)。

確かにこういうところ、勝サンは変わっております。
でもこれらの変わった点が、
戸川のいう、「三分の外藩」要素かと言われるとなんだか違います。

まだまだ書こうと思えば書けそうですが、いいかげん更新したいので(汗)、
このあたりでそろそろ結論を書かせていただきたいと思います。

勝海舟も九分九厘まで江戸ッ児なのは間違いありません。
しかし、ちいっと変わっている個性的な、江戸ッ児である点もまた否めない。

どのみち、興味の尽きない「なんだこのジジイ」(笑)こそが勝海舟なのであります。

以上、長々と失礼いたしました(笑)。
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by aroe-happyq | 2014-07-08 19:08 | 長崎伝習所系 | Comments(0)

勝さんをお迎えしました

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某大河の江戸サイドについて細かく愚痴ったら、
それを聞かされた友人が哀れに思ったようで(笑)、
先日、こんなフィギュアをプレゼントしてくれました☆

「幕末維新 其の二」の勝海舟、だそうです。


似ている似ていないはともかくとして、
海軍系の人物がフィギュアになるなんて、良い時代になった・・・・と
嬉しさでいっぱいになりました。

そんなわけで調子にのって撮影会をしてみた次第。


d0080566_9422018.jpg


題して、開陽と勝サン。

咸臨のフィギュアもゲットしとけばよかった・・・・と
思いつつ、ほかには黒船しかないので、
釜さんすいませんネと詫びつつ、
開陽を借りての1枚です。


d0080566_9445554.jpg


題して、御軍艦奉行ズ(爆)。

第三代御軍艦奉行こと、井上信濃守にも登場してもらいました。

軍艦奉行は、初代は永井玄蕃頭、次が水野筑後守と初代外国奉行ズが
歴任した馴染み深い奉行職。
勝海舟も元治元年に半年だけやってます(笑)。
(細かい情報ですが、勝がクビになったあとに引き継いだのは
堀織部正の息子の堀伊豆守利孟だったりします)

この1枚は、わが家にある開明派ワールド大集合ともいえます。

ま、勝さんがやや頭が高い感じで映っているのはご愛嬌ということで。
(井上さんフィギュアが小さいので、どーしてもこうなる・・・・)

今後、この二人と一艘(笑)のほかにどんどん増えていってくれたら
いいけど・・・・・・増えるだろうかなぁ・・・・・。

せめて榎本さんぐらいは増えてほしいなぁぁ・・・・・・・・。

この「幕末維新 其の二」はちょっとかわっていて、
近藤勇、斉藤一、桂小五郎、坂本龍馬、岡田以蔵あたりはいわゆる定番ですが、
勝海舟はさておき、
伊東甲子太郎とか、清水次郎長とか、なにげに変化球。

其の三がでるなら、
ぜひとも榎本釜次郎とか徳川慶喜をよろしく、と言いたいところです。


とはいっても、
ホントは岩瀬のフィギュアが最高最大に欲しいんだけど(笑)
(もしもゲットできたら、祠でもつくって祭ってしまうかも・・って
それじゃ永井さんみたいじゃーん。以上、ボケツッコミおわり)
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by aroe-happyq | 2013-02-17 10:10 | 長崎伝習所系 | Comments(0)
ちょっと調べることがあって『回天艦長甲賀源吾伝』の函館戦記を読み直していました。
(コピーなのでファイルから引っ張り出すのが一苦労・笑)
ふと矢田堀鴻の人となりがみえてきそうな話が出ていたので紹介いたします。

小説の主人公になったぐらいなので、とっくにどこかのブログで紹介されていると
思いきや、そういう形跡が見当たらなかったので、自分で書くことにしました(笑)

宮古湾海戦で命をおとした回天船将甲賀源吾は、
掛川藩江戸藩邸で生まれたのち、佐倉藩士木村軍太郎に蘭学を学び、
さらに築地海軍操練所に入所、同所教授頭矢田堀景蔵(鴻)の塾に入る
などして、矢田堀とは師弟の強い絆で結ばれていた。
矢田堀も甲賀を見込んで、安政5年に長崎へ航海した際に甲賀を同行させて、
長崎海軍伝習に参加させたほどでありました。
(当時、すでに新規稽古人は受け入れていないので、員外稽古人か研修生みたいな?)

と以上は長い前置きでありましたが、ここからが本題。

回天艦長甲賀源吾伝 附函館戦記』の跋 (該当ページ333P~)

そういう経緯があったので、
甲賀が宮古湾で戦死した後、静岡にあった矢田堀景蔵は柴誠一とともに
断絶状態となってしまった甲賀家の再興をはかった。
生前甲賀が目をかけて手元で育てていた二見貴知郎少年(13歳)は掛川藩に
いたが、これを養子にたてることに成功し、
明治4年、甲賀冝政と名乗らせ、静岡藩士とした。

(まだ13歳の少年ということもあり)矢田堀氏は深く博士(冝政のこと)
に同情して、静岡に帰任する際、同伴したのみならず、家族の一員として
良く身辺の世話をして呉れたそうである。
その間、毎日晩酌の席に一歳下であった長男と博士とを侍らしめ、
談笑の間に歴史・風俗・文学等を論じ、時には談論を中止して、
児童に反問を試み、彼等が空聴の弊を矯めるなど、実に親切を極めた。


矢田堀は愛弟子甲賀源吾の養子を我が子と同じように養育したということです。
なんて、いい人なんだ!矢田堀さん!!!(笑)
でもあんまり我が子同様にしていたため、
当時、矢田堀は静岡学問所に関わっていましたが、この頃この学問所に招聘された
クラーク教師は甲賀冝政のことをてっきり矢田堀の実子と思い込み、
リットル矢田堀」と呼んで、自宅に寄宿させて英語を学ばせていたのだとか。

さらに矢田堀さんは親切だった! 続きをみてみましょう☆

又あるときは漢詩吟詠の心得などを教え、殊に貴重なる教訓としては
弱齢の少年に向かって性教育の説明をなし、その利害につき
深く注意を与えられたという。


いや、そこまで教えちゃいますか!(笑)
なんとなく矢田堀さんのイメージからすると意外?!
でも晩酌時なので、舌も滑らかだったでしょうし、
江戸明治のおとうさんは男親として、
しっかりと息子たちに性教育も施していたのでしょう。
・・・・矢田堀さんも例外なしに。
でも真面目な学者肌だから、すごく理論的っぽそうで面白いかも(笑)。
ただ、矢田堀さんはタイトルにもありますように、イケメンさんですので
果たしてモテ男系の自分の経験を下敷きにした場合、
イケメンという表記のない少年たちの役に立ったかはさだかではありません。

なにせ同じ本の「附録第三 荒井郁之助伝略」(326P~)によれば、
(文久ごろ)当時の海軍将校は跅弛の士多く、酒を縦にし妓に狎れ、豪放相尚ぶ
とのことで、荒井氏は酒もやらず(というか、やれず)学問に励んでいたわけですが、
伯父さんのほうの矢田堀さんはこの将校どもの大将なわけで・・・・・(以下自粛)。

この後、甲賀少年は矢田堀家とともに東京へ移ります。尺振八英語塾に入り、
のち開成学校(東京大学)の化学科を首席で卒業し、大蔵省造幣局で
活躍したとか。生涯、矢田堀鴻にうけた恩義に感謝していたという。

あの世の甲賀源吾さんもまた、矢田堀師匠に手を合わせていたことでしょう。

いつの頃からか「青白いインテリ青年」扱いをされている矢田堀さんですが、
それほど青白くもなさそうだし、けっこうこの人なりの熱さを感じます。
熱さの種類が榎本釜次郎副総裁とは違うだけで、どちらも海の男らしい熱さ、
優しさ、それから結束の固さがあるような気がします。

そんなわけで、榎本に比べていまいち知名度はないですが、
(この前久々に『五稜郭』みたら、存在ごと抹殺されていたことに気づいた・・・・・)
これからはマイナーの時代です!
矢田堀総裁、応援していきま~~~~す!!!
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by aroe-happyq | 2012-08-30 19:22 | 長崎伝習所系 | Comments(8)
ちょいちょい騒いできた「天皇の世紀」。
うちのブログではこのドラマに関しては、これが最後の記事になりそうです。
というのも、あっという間に万延元年まできちゃったし、
次回からは攘夷志士がテロでご活躍でしょうから、記事にするほど興味ないし(笑)。

第6回 異国

万延元年、遣米使節として太平洋を航海した軍艦咸臨の物語で、
主人公は木村摂津守喜穀(as 若き日の津川雅彦)。
りりしくて、上品な木村さんです。

太平洋を航海せよという命令書をもらうところからはじまる第6回。
任務を拝命して、家財を売り払って渡航費用を捻出している木村のもとに
蘭方医桂川からの紹介状をもって福沢諭吉(as若すぎて最初わからなかった大出俊)
が尋ねてきて、アメリカへ連れて行ってほしいと懇願される。すると、
「わたしとて、行きたくないんだ!」とちょい切れする、かわいい木村さんです☆

細かい状況説明をいたしますと、そもそもこの遣米使節時の「別船派遣建議」は
水野忠徳&永井尚志から起きたものなのに、この二人が相次いで失脚したので
お鉢が木村さんに回ってきちゃった・・・んです。つまり代役みたいな感じです。
ま、そもそも遣米使節のおもな人々ほとんどが誰かの代役で、もともと
行くはずだった岩瀬忠震たちがみーんな井伊さんのおかげで御役御免に
されちゃったわけですけどね(怒)。

もちろん、この航海で有名な勝麟太郎(as 若き中山仁)も
登場しますが、史実どおり、公開中ほぼ病で臥せっていて
使いものにならない状態(笑)なので、あまり活躍はしないっす。
でもこのあたり、このドラマはエライ!と思いますヨ!!

でもです。
「異国」というタイトルにわりにはアメリカに到着するところで
終わってしまい、ずっと悪天候の航海の話なので30分ぐらい、
登場人物は咸臨のなかで船酔いのため、ゲロゲロりんな状態という
微妙に残念な展開・・・・・・・。
(冒頭、「揺れる映像が多い」から鑑賞についてご注意書きが出たぐらい!)
咸臨が苦労して、同乗していたアメリカ人船乗り(彼等はどんなに船が揺れても
ピンピンしているのだ・笑)のサポートを受けつつ、太平洋を渡りきった話は十二分に
ドラマティックですけど、アメリカで木村や勝が大歓迎のなかで異文化と
ふれあう、という物語のほうが「天皇の世紀」というタイトルにふさわしい
エピソードになりえるのではないかと思いますけどネ。

しかし!
数少ない、幕末の徳川ジャパン(笑)海軍についての映像としては、
細かく萌えポイントがあちこちにありました☆

まず、咸臨の艦内のあちこちにあった「海軍御用」提灯♪
いいな~~~~こういうグッズほしいなぁ~~~~~~(笑)

そして、蒸気方の肥田浜五郎!(as 若き加藤武)
勝さんがヨレヨレなので覇気がない分、肥田浜さんが快活な江戸弁で
船酔いでレロレロになりつつも元気印!!!
(肥田浜さんがこんなにキレの良い江戸弁かは謎ですが、江戸っ子加藤武さんなので
もうここは独壇場!!)
カッテンディーケ著『長崎海軍伝習所の日々』では蒸気方の榎本釜次郎が
顔を真っ黒にして蒸気機器と格闘している姿が描かれてますが、
なんでしょう、蒸気方はこういう伝法調の男が似合いますね(笑)。

そして!このドラマの木村摂津守と勝麟太郎はけっこう仲が良い!(爆)
なにせまったく悪態をつかない勝麟太郎なんで、
海軍提督木村とは、命をかけて難事業に取り組む同士の絆アリって感じ?
こうだったら、どんなに素敵かわかりませんけどネ(たまにこういうこともあったかも、ですが)!

そして飲み水が足りなくなって殺気立って対峙するアメリカ船乗りVS日本船乗り!
石炭も不足(天候が悪くて、帆走より機走(蒸気で航行すること)が多くなってしまい、
使いすぎちゃったのだ)して、本当にギリギリのところでアメリカに到着したんですねーっ

このドラマは咸臨丸に同乗したブルック海軍大尉の日記が随所に登場しますが、
ちょっと読んでみたくなりました(笑)。

え?幕末海軍好きなのにこの日記をなぜ読んでいないって!?
それはですね、岩瀬や永井たち、この使節に入れなかった組を愛するわたしは
なんかもう、木村も勝のアメリカ行きは羨ましすぎて、あんまり触りたくないんです(笑)。
咸臨の航海はたいへんだったでしょうけれど、アメリカに着いてからめちゃめちゃ
楽しそうなんですもの~~~~~っっ!!! 
永井&水野みたいに一緒に渡航する人選の作業まで終えていたのにいきなりクビとかね、
そういう行けなかった組の心中を察すると、わたしもこの楽しい経験をしてはいけない気が
するんですよねーーっっ(嗚呼、マニアすぎる発言・・・・・)


そういう事情もあって、このドラマ、たいへん新鮮でした☆

ラスト、アメリカがみえるぞーという声をきいて、
船室で平服から裃へ着替えてから甲板に出てくる木村摂津守、たいへん素敵でした!
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by aroe-happyq | 2012-07-24 10:37 | 長崎伝習所系 | Comments(2)
長崎海軍伝習所といい、軍艦繰練所といい、
意外な人物が登場するものですが、この人もそのひとり。

土佐の俊才、細川潤次郎サンです。
幼名は熊太郎、諱は元、十洲と号す。

・・・・・・・・なんか、幕末の土佐スキー方面でもあまり名前を
おみかけしないのですが、この人はかなりホンモノ!(笑)

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by aroe-happyq | 2012-05-14 11:02 | 長崎伝習所系 | Comments(6)

逓信省と矢田堀さん

今年は桜がなかなか咲きませんね~~っっ
梅さえめちゃめちゃ遅かったので、仕方がないのかもしれませんが
それにしても今日現在、まだ蕾ですよっっ~~ソメイヨシノなんて!
・・・・実は今年こそお花見の宴など開催しようかと、思っていたのですが
満開時期が読めずに、準備がぜんぜんできない~~~っっ(汗)


あ、さて。

前にジャーナリストだった矢田堀さんの記事を書きましたが、
その続編です。

郵便報知新聞の仕事を辞めて、再び官職の道へ戻った矢田堀さんですが、
官員録をながめてましたところ、
もうモロに、初代逓信大臣に榎本武揚さんが任命されて、
逓信省が出来た明治19年2月から、矢田堀さんはお勤めになってました。
つまり逓信省発足時からのメンバーというわけです。
ま、どーみてもこれは榎本さんのほうから「人手が足りないから」とヘルプ
をお願いしたとしか思えないのですけど・・・・・(笑)。

明治19年2月 管船局 御用掛准奏任
(3月なし)
      4月  管船局 司検官

      5月  管船局 司検官 四等下級俸 
                     神田佐久間町2丁目10番地
←矢田堀さんの住所

というような記載の変遷がありつつ(以下変化なし)、
明治20年1月の官員録までその名前があります。

とても短い逓信省時代でありました☆

こんなにあっさりと記事にしてますが、官員録・・・・なかなか手強いです。
今は便利で国会図書館のサイトの近代デジタルライブラリーでみることが
できるので、暇な時間をみつけては眺めていたのですが、
これが・・・・・月刊なのですけど、
目次がなかったり、いろいろ毎回違うので矢田堀さんを探すのが
たいへんでした(笑)。
(で、官員録での陸軍関係の占めるページが多すぎ。
海軍も多いけど陸軍ハンパないっす。
文官と武官のバランスが悪い!いびつな組織形態が
すでに明治10年代の官員録でありありとわかりますた)

ついでに大審院にお勤めの判事さんこと永井岩之丞(永井尚志の養子)についても
調べたのですが、なんか・・・・途中わけのわからないひと月があり、
(一ヶ月だけ大坂勤務になっている。誤植か!?誤植だよなぁ・・・・みたいな)
図書館で調べなきゃいけなくなりそうです。
でも官報が発行される前なので、新聞を地道に探すか・・・・・・(遠い目)。

官員録も、関わると実に厄介です(笑)。
はっきりいって、武鑑のほうがみていて楽しいし(爆)。
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by aroe-happyq | 2012-03-29 10:26 | 長崎伝習所系 | Comments(0)

アジアンエンタメ&お江戸後期。外国奉行や長崎海軍伝習所がご贔屓☆ BYはな。


by aroe-happyq