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東都アロエ

タイトルが長っ!

「明治12年明治天皇御下命人物写真帖4500余名の肖像」 展が
1月12日より、旧江戸城跡の三の丸尚蔵館で開催されます。

公式サイト→こちら

西国の「元勲」サマ方のやぼったいぼんやり顔を延々とみせられるのは辛いが、
展示室では100名を紹介、展示図録には373名、総勢4531名の人名一覧を掲載
という一文をみると、
そのなかに誰か徳川家臣ズがいるかも知れないので、
やはり無視はできませぬ(笑)。
サイトに出ていた勝サンの写真も気になるし♪

というわけで記事にしてみました。

この時代に興味がある方はぜひ足を運んでみてくださいね!
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by aroe-happyq | 2013-01-10 09:25 | そして明治 | Comments(2)

江戸瓦解時の江戸市中の民政の移り変わりについて調べようと思って、
町触集成あたりをあたろうかとしていたところ、良い本と出会いました。

『都史紀要2 市中取締沿革 明治初年の警察』(東京都公文書館 編)
という本(1080円なり)。
都庁で売っています(笑)。→詳しい案内は一番下に♪

さすが地元東京都の本だけあって、戊辰(慶応4年→明治元年に改元)の年
の政権移譲期における警察権の移行の流れがわかりやすく書かれています。

今回紹介するのは、
この本のなかから上野戦争時期についての情報。

マニア情報満載の山崎有信『彰義隊戦史』や下母沢寛『彰義隊始末』などに手を出す
前にもう少し基本を押さえておきたいので(笑)、上記2冊はまだ未見。
(彰義隊戦史のほうは国会図書館のデジタル化資料で読めるのでちょこちょこは読んでます)

今のところ、森まゆみ『彰義隊遺聞』は読了済みです。
ただ、遺聞を読んだだけの身としては、この本のなかで、
町人たちは十五日と知っていたらしい」という一文がずっとひっかかっていました。

この本によれば上野戦争開戦日が5月15日だと町人たちは「噂」で知って
いたとのこと。
だがしかし・・・・そんなゆるいものだったのか?
という疑問が頭に浮かんで、数年。

『市中取締沿革』を読んだら、あっけなくこの疑問はスッキリと解決しました♪

えーと、この本によりますと、前日の5月14日に、彰義隊とは名指ししては
いないものの、「旗下末々心得違い之輩」を討伐するぞという、
町触れがしっかり出ていました。
触れで宣言するということは、すぐに実行!ということで
5月15日には始まる・・・・・ということが江戸じゅうに知られることとなりました。
(彰義隊士のなかには不意打ちだ、という輩もいたというけど、それは通らない
ということになります・笑)
一説には17日だという偽情報に惑わされた彰義隊士もいたとか・・・・(汗)。

さて、その御触れの内容は下記のとおり。
※なお、読みやすくカタカナをひらがなに、一部手を加えました。
(このままコピペっても大惨事になりますんでレポート等で利用の場合は
かならず原文に当たってくだされ)

今般徳川慶喜恭順の実効を表するに依り、祖宗之功労思召され家名相続仰せ出され、
城地禄高の儀も追々御沙汰に相成、末々之者に至る迄各其所を得ざる者これなく様
遊ばせられ度との思食にあらせられ候処、豈図んや、
旗下末々心得違い之輩至仁之御趣意を拜載し奉らざるのみならず、
主人慶喜の素志に戻り、謹慎中之身を以て恣(ほしいまま)に脱走に及び、
所々屯集、官軍に相抗し、無辜の民財を掠奪し、兇暴至らざる所なく、
万民塗炭の苦に 陥らんとす。故に今般止む得ず之を誅伐せしむ。
素より其害を除き天下を泰山之安きに置き、億兆之民をして早く安堵之思を
なさしめん為なれば、猥に離散するべからず、篤と御趣意を体認し奉り、
末々之者に至迄聊(いささか)心得違いこれなく屹度(きっと)安堵いたし、
各其成業を営み、其分に安すべき者也。


町奉行所が廃止されるのは5月19日なので、
まだ奉行所→町会所経由で出されているはずなのですが、
言い回しがすでに「新政府」的目線なんだな、これが(笑)。

ただ、どちらかというと「無辜の民財を掠奪し、兇暴至らざる所なく、
万民塗炭の苦に 陥らんと」させていたのは、
官軍側の藩兵という話もあるのですが・・・・・(汗)。

というのも討伐目標の彰義隊は
閏4月中は市中警邏をまかされていました(笑)。
つまり治安維持側なんですよねっ、いちおう☆
これが江戸市民にはたいへん歓迎されていました。
この当時、町奉行所が機能しなくなったのをいいことに、
盗賊や辻斬りが跋扈して、治安はないにも等しい状態だったためです。
この頃の吉原では「情人(いろ)に持つなら彰義隊」とたいそう彰義隊士が
モテモテだったのは有名な話ですネ!
そういう評判をみても、彰義隊が江戸市民に迷惑をかけているフシはなし。

では彰義隊が誰に「兇暴至らざる所なく」悪さをしていたか?
答えは官軍に対して、でありました。
(嫌がらせに関しては彰義隊と一緒になって、
町民やそのほかの浪人などもやってたらしい(笑))
これがけっこうシャレにならないバトルを繰り広げていたらしく、
官軍としてはとほとほ手を焼いていたようです。

江戸のいわば占領軍の官軍さんですが、気がつけば江戸湾の制海権は
依然として榎本釜次郎率いる徳川海軍に押さえられ、
陸では彰義隊にちょいちょい官軍藩兵が闇討ちされている始末。
こういう状況が続くと、自然と反官軍抵抗運動の輪が広がりはじめるもので、
「腰抜け」との評判の旗本たちも隙あらば・・・というような、
不穏な空気が漂い始めていたのは事実のようです。

官軍さんは、一旦は彰義隊に委せた市中警邏を5月3日に停止。
官軍側が彰義隊を叩こうと決意したのはこの頃だったらしい(『市中取締沿革』より)。

このように官軍側が寛容路線から強硬路線にかわったのは、
閏四月下旬に江戸へ三条実美が到着して以後のこと。
それまで徳川方寄りで江戸を仕切っていた西郷隆盛をその座から
おろして、三条が木戸孝允プランにそって、徳川方と(小さくてもよいので)戦端をひらき、
勝利して(←これが最優先事項(爆))、これをバネにどーにかして徳川家を70万石に押し込め、
江戸の治安維持権などすべてを手中におさめる完全占領作戦が発動したのでした。
(やっぱり、一度は戦って負かさないと、占領政策しづらいんでしょネ)

こういう魂胆なので、勝海舟に「三条卿以下悪党ばかり」といわれてしまう、
三条であり、その三条が見込んで呼んできた大村益次郎だったりする(笑)。
(まだ詳しい歴史を知らぬ子供の頃から、都内某所にあるデカイ益次郎像をみるたび、
ムカっときて、ひっ倒してやりたいと思ってきたのは都民ゆえの本能か?勝さん(笑))

で、上野戦争を即日で勝利にもっていき、三条のお望みどおりに
なったのですが・・・・。
(これも一日で終わらせないと、旗本たちが決起しかねない状況だったとか。
本所の友人宅にいた田辺太一もあと一日戦争が続けば、
仲間と共に江戸の各地から騒乱を起こすつもりだったそうです)

というあれやこれやの話もあるのですが、それはまた別の機会に(笑)。

さて、再び今回の御触れのテキストに話は戻しますが、
この御触れもけっこうひどいと思いませんか?

ドンパチやるけど「離散するべからず」とか「各其成業を営み、其分に安すべき者也」
とかって随分勝手よねっっ。
この御触れを無視して、自主的に避難した人もかなりいましたが、
『台東区史』などをみますと、焼け出された人もたくさんいたんですよねーっ。
(そうした戦火の被害にあった人々には町会所からお救米や銭が出ましたとさ。
江戸府(5月11日から登場の官軍の役所)は何も出さんのかい(笑))

そんなわけでこの御触れを知って、ひとつの疑問は解消したのですが、
ますます新政府の輩に対する不信感は、増すばかりでありました(笑)。

今回紹介しました『都史紀要2 市中取締沿革 明治初年の警察』のほか、
明治初年の自治体警察制度の流れを知るには
同じシリーズの『都史紀要22 番人制度』(750円)もオススメです♪
この都史紀要シリーズはカバーもなにもないし、
グレー色の表紙で地味な感じですがけっこう使えますヨ!
都民情報ルーム(都庁内にある)で入手可能です☆

都民紀要シリーズの紹介サイト→こちら

都民情報ルームの案内サイト→こちら
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by aroe-happyq | 2012-11-15 09:51 | そして明治 | Comments(2)


友田昌宏著 
 戊辰雪冤~米沢藩士・宮島誠一郎の「明治」

   講談社現代新書 2012  8月20日発売

アマゾン→こちら

当ブログではこちらで登場したことのある宮島誠一郎についての新書が出るそうです!

元米沢藩士の宮島氏についてはまだまだ不勉強で
明治期に永井関係の記録に登場する人以外にはよく知らないのですが、
永井氏と親しい人は皆さん不思議と実力&人格共に素晴らしい人物ばかり
なので(笑)、きっとこの人も知って損のないお人だと密かに思っておりました。
ただ膨大な「宮島誠一郎文書」にチャレンジするほどの情熱はなかったので、
ちょーっとこの本は楽しみですっっ☆
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by aroe-happyq | 2009-08-18 18:22 | そして明治 | Comments(0)

ちかごろ国会図書館にいき、オンライン複写がたくさんある日は、
その時間を使って明治の官員録(マイクロ)を眺めるのですが、これが楽しくって。
(ま、たまに「なんでこんな幕末でバカやってたヤツが上等な位置にいるんだよッ、
とチッとか舌打ちしますけど(笑))

で、ふと明治7年の太政官職員録を眺めていたら、
『群青』主人公、矢田堀鴻さんの名がありました。

このあたりの矢田堀さんの事情にはまだまだ疎くて、
『群青』の矢田堀さんをみてみますと、はじめ工部少丞として出仕した
ようですが、その後法制関連の課に移動とありますので、その頃の職員録だと
思われます。

法制関連て、どこかなーと思ったら、左院だったのです。


う・・・・んーっと、この時期の左院てゆーと。

太政官職員録 明治七年十一月五日改

○左院

議長  参議正四位 伊地知正治

副議長 従四位   佐々木高行


一等議官 
 三等出仕正五位  松岡時敏

二等議官
 正五位        伊丹重賢
 同           岩村通俊
 従五位        西岡逾明
 同           細川潤次郎
 同           高崎五六

三等議官        
 兼式部寮五等出仕従四位
              大給 恒
 正六位        高崎正風
 同           生田 精
 同           宮島誠一郎
 同           永井尚志


四等議官       
 従五位        海江田信義
 従六位        牟田口通照
 同           藤澤次謙
 同           三浦 安
 同           尾崎三郎
 同           井上 廉
 正七位        横山由清
 同           北澤正誠
 同           増田長雄
 同           長森敬斐
   (このあたりで3名ほど割愛させていただきました)
 同           中金正衡
 同           矢田堀 鴻
 同           原忠順
・・・・・(以下、略)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
  



矢田堀をこんな気の毒に思ったことはありません。
な・・なぜ、

三等議官 
 正六位     永井尚志


↑この人がまたもや近々の上司にいるわけ??(爆&涙)

運命の再会、はたまた地獄の腐れ縁・・・・・・・・・・・・・・。
明治になっても続くのかーーー???

永井関連でいえば、わりと楽しい職場なのですけど(笑)。
副議長の佐々木高行とは土佐藩ルートの人脈で知り合いだし、
同じ三等議官の大給 恒は『大給亀崖伝』でもご存知、
本州で五稜郭をつくったハイカラ藩主にして、永井尚志の実家の当主。
永井からすると、大給さんのとんでもないやんちゃ坊主時代も熟知しておりますほどで。
また同じく同僚の旧米沢藩士の宮島誠一郎は明治期には外交交渉で活躍した人ですが、
永井氏関係の記録によるとこの人とは隠居後も親しかったようです。

こうして永井のまわりは和気あいあいっぽい左院の職場ですが、
矢田堀さん的にはどーだったのでしょうか。
この環境、いささか心配です(笑)。
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by aroe-happyq | 2008-09-23 10:46 | そして明治 | Comments(0)

遅まきながら、BS特集「世界からみたニッポン~明治編1」をみた。

・・・・このシリーズって幕末編ってないのでしょうか?
たぶんそこから話を始めたほうが、外国との関わり方が
わかりやすいような気がするのです。
徳川ジャパンと一度は交流をもった列強諸国からすると、
明治新政権はその誕生のプロセスからして世界の評判的に、
微妙な位置に立たされていたという解説がないと
いきなり日本そのものが外国に「侮り」を受けている風にみえてしまう。
(それから英国、米国、仏国などとの関係も戊辰戦争前後の薩長と徳川との
関係性を説明したほうがもっとわかりやすかったかも・・・・・)

岩倉使節団INアメリカで受けた対応も、約10年前の万延元年に
裃のサムライ風俗の徳川代表がやってきたことがある前提で話をすすめないと、
いきなり世界の田舎から出てきて「なに、あんたたち全権でもないの?」
と軽いいじめに遭ってしまう日本代表使節団の姿に映ってしまふ。
そうではない。
条約改正をやりたい岩倉たちだったが、彼らは全権使節ではなかった。
(もともとただの使節として行ったので全権委任など持ってこなかったのだが)
ちょっと世界の外交ルールの基本を知らなかっただけなのだが。
なぜ知らないかといえば、前政権から外交のいろはを教わらなかったし、
新政府と仲良しの英国は教えてくれるほど親切ではなかった。

で、アメリカ側は「前(10年前)のときはちゃんとわかってたのに、どうしたの?」
とか、「外交ノウハウを前政権から引き継いでいないの?」といいたいのだ。
(事情はよく知っているくせに意地悪ね、めりけんも)
で、この番組をみているとやはり彼らはよくわかっていなかったらしい。
大久保や木戸や岩倉はアメリカ側にこういわれて、
「おれたち条約交渉できる全権じゃないみたい?」
「アメリカがいうにはうちらのもってきた国書に全権って言葉はないってさ」
「わかった、日本へ戻ってもらってくる!」
と、大久保たちは急いでワシントンから日本へ戻り四ヶ月かけて「全権」委任を
とってきたが、すでに条約交渉そのものが終わっていた(涙)。
(木戸は地団駄踏んだらしいが、たしかにかわいそうだ)

徳川を倒して新しい政府を作ったとしても、前政権も明治政権も外国からすれば
日本であることは同じ。
岩倉使節団は旅立つ前にかつての外国奉行とか(中心にいた人はほとんど亡くなって
ますけどね)勘定奉行とか(小栗もいません)に外交のいろはぐらい聞いていけば
よかったわけで。
辰の口の牢獄には永井玄蕃さんもいることだし(笑)。←安政五カ国条約といえば!
牢屋では漢詩作ったり、榎本さんから英語習ったり、米粒と木片を加工してそろばんを作って
町人の罪人から算術を学んでいたみたいだしで、つまり暇そうだから、
「幕末外交についてどんな交渉をしたのか、教えて」と聞けば、
日本のためなら永井さんは教えてくれたはず。
(少しはおいちゃんに頼ってもいいんじゃないの。なんでも若いモンだけでできると思っちゃ
いけねぇよ BY寅さん(笑))
人材は活用しなくちゃ! 
そうすれば取って返しの四ヶ月なんて無駄はなかったはずだ。

徳川政権と新政府との政権交代にはこうしたノウハウの断絶があるが、
これは日本にとってとてつもなく大きなマイナスだったと思う。
(話は脱線するが古代中国には「禅譲」革命ってズルくて賢い王朝交代方式がある。
王朝は新しくなるが、旧王朝の官僚組織、ノウハウは刷新しつつ、そのまま頂戴するのだ。
ゼロから作るのは時間の浪費だということを古代の人はよくわかっていたわけ)

さて番組に戻ると、そのあとはちょっとグレた?モードで、
「世界は弱肉強食だ。大国になればなんでもできる」みたいな
すごい魔法の言葉をビスマルクにもらい、
そのあと新政府のとった政策は「がむしゃらに西洋化」作戦だった(涙)。
悪評高い鹿鳴館、軍備拡張・・・・・・そして、まるで自分たちがペリーになったのか?
のような勢いで鎖国の朝鮮を開国し(アメリカで岩倉使節団がいじめられた鬱憤をなぜかここで晴らす愚かさよ)、やがて日清戦争へと、傲慢なる強国への道へとひた走る。
(で、ここで1回目は終わり)

とくに鹿鳴館は何度みても読んでも、ホントに恥ずかしい・・・・。
だって似合わないんだもの(涙)。
かつて露西亜全権委員の川路聖謨が、
「我々は軍艦や西洋の化学や技術は必要だか、オルゴールはいらないのだ」
のようなことをいってましたっけ。
(露西亜側にプレゼントされて、ま、ホントに個人的にいらなかったらしいという説もある(爆))
文化は日本にあるからいらない、って。
この日本文化を誇れた江戸の心意気も、「攘夷」を愛したメンバーが作った新政府には受け継いでほしかったなぁ(あ、それがいちばん無理か!?)。
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by aroe-happyq | 2007-02-13 11:10 | そして明治 | Comments(0)