東都アロエ

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アジアンエンタメ&お江戸後期。外国奉行や長崎海軍伝習所がご贔屓☆ BYはな。

カテゴリ:旧暦シリーズ( 10 )

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文化13年11月3日は、1816年12月21日になります。

というわけで、今月3人目は永井さんです。


あらためてみると、文化年間生まれ・・・・・・。
江戸後期の最高潮の文化文政期に幼少時代を過ごし、
天保・弘化という不景気へまっしぐらの時代に青春を過ごし、
ようやく腕を振るう壮年期は幕末期真っ只中。
そして晩年は明治を生きたというわけですね。
目立つようで目立たず、静かな人ではありますが、
かなり壮絶な人生を送った永井さんです。

ようやく読める状態にした漢詩集をちょっとずつ読んでおりますが、
・・・・・・そうした壮絶さを感じさせない(笑)、江戸の文人らしさに溢れていて、
実に風流で、美しい世界です。

安政の大獄で岩瀬忠震や川路聖謨などと共に政界を追われ、
「永蟄居」になりますが、この自宅謹慎の数年間に堀織部正、岩瀬忠震という
友人たちを次々に亡くしました。まさにどん底の数年でした。
・・・ふつうなら、病になってしまいそうですが、泣きながらも
この人には大好きなお酒と詩があったため、健康でいられたようです(笑)。

再登用されるのは、文久2年の夏ですが、
漢詩集をみていると、すでにこの年の春には自由に外出できるように
なっていたらしく、どこへいったかと思えば、親友の岩瀬忠震が息を引き取った
向島の「墨荘」こと、岐雲園に通い詰めております(笑)。
友人を偲び、岐雲園で詩作に耽り、
帰りは月の下、ゆっくりと墨堤を歩いたようです(笑)。
(すっかり気にいったようで、晩年ここに住むのも頷けます(笑))
このときすでに50歳。・・・・・時代の最前線に行くなどまったく思っていなかった
節がみえますが、京都町奉行職の話がきてしまいました。
どうも拝命されるまえ、相談という形で話がきていたようで、
そのときの心の揺れが「讀出師表」という漢詩に見え隠れしています。
(三国志をご存知のかたは、ここで思わず「ぷぷっ」ときますでしょう(爆)
諸葛亮の「出師表」を読みかえしたらしいです・・・・つか、京都は
永井にとって敵地???なのか、みたいな)

でもそんな京都でも観光地はほぼ制覇し、壬生の宿舎でも「壬生寓居」という
詩をつくっております。
彼もまたどんなときでもエンジョイしてしまう、江戸旗本ズの一人でした。
そして動乱のなかでも、風雅な心を忘れないマイペースさ。
このマイペースさが永井さんの強さでもあります。
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by aroe-happyq | 2007-12-21 11:36 | 旧暦シリーズ | Comments(0)
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ホントは写真があれば・・・・・、あるにはあるのですが、
顔がほとんど映っていないので、こちらにしました。
岩瀬といえばこの絵しかない、ということで、横浜ではレリーフの原画でも
使われております。



岩瀬忠震は文政元年11月21日に生まれました。
グレゴリウス暦では、1818年12月18日にあたります。



ということで、今月バースデー第二弾登場の岩瀬さんです♪


いろいろこっそり有名人な岩瀬さんですが、
またひとつみつけちゃいました。
 
安政5年9月に外国奉行から、作事奉行に転任(左遷ともいう(笑))になって
すぐに、世界の地理や各国情報の詰まった『地理全志』を出版しました。
これは清国の本からの翻訳本ですが、
当時の最新の世界情勢がよくわかる内容だったらしいです。

どうやら日本で「太平洋」という言葉を使ったのがこの本で、
こっそり地理学史の世界では、

「太平洋という言葉を日本へ紹介したのは、岩瀬忠震」

として知られているのだと聞きました。


誰も知らないところでこっそり有名なのが、マニア心をくすぐる岩瀬らしさです(笑)。
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by aroe-happyq | 2007-12-18 09:58 | 旧暦シリーズ | Comments(1)
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西暦1819年12月3日こと、文政2年10月16日生まれ。


江戸の福山藩藩邸で生まれたよし。
1度、数ヶ月ほど福山に行ったきり、それ以外の人生を大半を江戸で過ごした人です。


阿部正弘について詳しくは、
渡辺修二郎『阿部正弘事蹟』 (1910年 )をお読みください♪決定版です!
今では国会図書館近代デジタルライブラリーで自宅にいながら閲覧できますので
ぜひごらんください。
美味しいところだけ読みたい、という場合は、最初の章の「幼少時代」、それから
最終章の「逸事」がおすすめです。

日米和親条約を結んでからの苦労は涙なくしては読めません(笑)。
攘夷保守派によって藩邸の門に抗議の落首を貼られ、
お抱え儒者が攘夷思想だったために衝突、その後、儒者には抗議の自殺をされ・・。
そんな空気のなかでも安政の改革を推し進めたというのに、
数年後には10年もやってきた老中筆頭の座を明け渡すハメとなりました。
この後の堀田老中、井伊大老、安藤老中をみれば、この時期の国政の舵取りが
どれほど困難の多いことだったかがよくわかりますが、
阿部伊勢守の頃は、この人の見事な采配で
それがある程度おさまっていたということは、もっと評価してもいいことだと思います。

不思議なことに、これまでどんな歴史的偉人の「誇張のはいっている美しい逸話」に
接しても「またまた、大げさに褒めちゃって」と一刀のもとに切り捨ててきたのですが、
この阿部伊勢守だけはどうも素直に「そうかもしれない」と思えちゃいます・・・・・。
ひどい酒のみですし、女関係のスキャンダルもそこそこあるわけで、
人間離れした高徳の人ではなく、普通のお兄さんなのは百も承知しているのに、
なぜこの人だけそう思えるのかは、
これからじっくりと考えていきたいテーマのひとつです(笑)。
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by aroe-happyq | 2007-12-03 12:00 | 旧暦シリーズ | Comments(2)
最近おサボり気味の旧暦シリーズです。

正確には、昨日が旧暦でいう5月11日。
本日は二日目とあいなります。

昨日といえば土方さんが戦死した日でもありますが、
それは多くの方が追悼されたと思いますので、マイナー一本道の当ブログでは、
官軍(ここではおもに津軽&松前両藩兵)による、箱館病院分院の高龍寺でおきた
虐殺といってよい惨劇で命を失った病院の無抵抗だった患者さん達を
深く心より追悼いたしたく思います。

そして二日目は甲鉄艦による五稜郭への艦砲射撃が始まっておりまして・・・・。
ちょうど堀織部正と五稜郭のはじまりの話を紹介したばかりなので、
もうぶっ壊されたか!と、ちょっとがっくしです。

しかも甲鉄に、というのがまた・・・・・。
(この軍艦というと、友五郎さんの努力を思い出すと共に、そしてなぜか一万円札の顔を指で
デコピンタしたくなるような?(笑)←軽く八つ当たりです)

嘉永7年の史料を読んでいるので、五稜郭だけでなく、
幕末とされる時代のはじまりだらけの世界に浸っていると、
(しかも割と順調なので(笑))
五稜郭で戦うですって? 誰と誰が!?・・・・・とまるで信じられない不思議な感覚です(笑)。
嘉永7年から、明治2年。
わずか15年後のお話なのに、こんなにもあっけなく世の中は変わっていく。
その時生きている人のほとんどがわからないぐらいの、ほんの些細なボタンの掛け違いが
どんどん積もるとこうなるのですよね。
現代に生きていても肝に銘じなくてはならない教訓です。

そういう視点から今年は箱館戦争について考えてしまう感じです。
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by aroe-happyq | 2007-06-21 10:48 | 旧暦シリーズ | Comments(2)
本日2007年5月27日は、
旧暦の、慶応4年(のち明治に改元)4月11日。

江戸城明け渡し、とも江戸無血開城の日、とも申します。

徳川の時代が終わった日でもあります。

3月14日に勝安房守が西郷どんと高輪の薩摩屋敷で話し合った結果、
こういうことになった次第。

勝がこの話し合いのために、どれほど準備を重ねていたかは有名な話ですね。
万が一に交渉決裂の際には江戸のやってきた京軍(西軍)もろとも
江戸を火の海にする「ナポレオン作戦」のため、江戸じゅうの火消し・親分、
町名主などなどと打ち合わせをおこない、自ら足を運んで避難の算段まで
きっちりと段取りを決めたり。
また、英国公使パークスからも西郷に圧力をかけさせるように交渉したり。
それらの努力のおかげで江戸城開城に話は運んだのだが、4月11日に
なるまでだって油断はできない状況だった。

と、・・・・有名すぎる4月11日の話をここであらためて紹介してもなぁ、と
いうことで江戸開城の功労者の勝安房守にふりかかった悲劇(笑)
についてちょっと紹介。

ものすごく端折って書きましたが、2月あたりの慶喜恭順決定からこっち、
勝&大久保体制はフル稼働で働いておりました。
とくに勝安房守サンは徳川方からも敵方からも板ばさみになりながら、
困難を乗り越えて、げっそりやつれながら、よく頑張ったと思います。

そしておそらく勝自身も自分でもよくがんばった、と思っていたし、
4月11日の開城の段取りについても完璧!と自信があった。
そうでなければ、その前日の夕方に、わざわざ「大嫌いな」(爆)慶喜に
報告などに行ったりはしなかっただろう。

勝海舟『断腸の記』より、

十日夕刻、池上本門寺先鋒総督に談判し、直ちに上野大慈院に到り、
その顛末を上言す。


西郷と会って最後の詰めを終えて、すぐに上野の慶喜の元へいったわけです。

主公、当正月以来いまだかつて一日も安眠平食せず、面貌枯痩を見る。
余、その胸裏を思い、少隙を見て顛末を述べたり。



主公、すなわち慶喜は心休まることなく「面貌枯痩」の様子。
さすがに勝も哀れに感じて、安心してもらおうと思って
2月、3月そして、明日、4月11日の開城までの顛末と
段取りを話したのだった。
もしかしたら「よくやってくれた」と暖かい言葉のひとつも期待して(笑)

ところが、

主公、余に向いて仰せに曰く、
嗚呼、危うきかな、危うきかな、もしかくの如くならば災害足下に生ぜん、
如何ぞ諸官に告げ、市民に令し、兵隊に警(いまし)め、人選してその不虞に備えざる、
汝が所置はなはだ粗暴にして大胆なり、


「俺ならこうするのに」という、強烈なダメ出しの嵐だった・・・・。
ぐったりしていても慶喜節は健在だったのだ。

かつ談判その順序を得ず、今にしてまた如何せん、
予が心裏を貫かずして斃(たお)れんか、と血涙雨の如し。



あげくに「お前に任せるべきではなかった・・・・」と嘆き泣かれる始末。

考えに考えて積み重ねてきた策を「粗暴」といわれ、
要するに「お前は全部なっちゃいないな」と言われてしまった勝安房守。

余、これを伺いて心胆ともに砕け、腰足痲痺せり。

さすがの勝さんも大ショックだったのだ。

だがここで引き下がる勝ではなかった。ショックの次にブチッと切れた(笑)。
猛然と慶喜さんに(たぶん早口で)まくし立てた。

嗚呼、君上の言誤れり、二月の御決心の際、大事を任ずる人なく、
臣が微力なすあらざるを以て御受けに及ばず、然るに強いて命ぜられ、
終に今日に及ぶ、


二月に恭順を決めたとき、朝廷との交渉等を引き受ける者がいなくて、
自分も断ったのに無理に命じられて、今日に及んだのです、

その時上言、今日より後、大難事、或いは大変に及ぶとも、決して上言御指令を
用いざるなり、と、君上仰せに曰く、
もとより然り、との御言あり


引き受けるからには今後一切口出しは無用ですよといったら、
もちろんだと仰ったじゃないですか!

今日にして言上するものは、君上の御胸裏を恐察し、
黙止する能わずによるが為なり、
府下百万の民、生死の分る、今一日の臨み、
臣、今日、敢て恐懼の念あらんや、と。


今日わざわざここに来て申し上げたのは苦しい胸中をお察しして、
黙っていられなかったからですよ!
江戸百万の生死のかかった明日を前に、
こんな事を言われるためにこのこのやってきたんじゃない!
(最後、かなり意訳。でもきっとホントはこんな感じのはず)


かつ言い、かつ罵し、席を立ちて城外に向う。
この際の愁苦、誰にか告げ、誰にか語せん。


と啖呵を切って飛び出していたらしい(笑)。
むかっ腹をかかえて、・・・・・
「この際の愁苦、誰にか告げ、誰にか語せん」
ってせつないじゃないですか、とっても(涙)。

日頃の言動からついつい鉄の心臓持ちのように思われがちな勝さんですが、
鉄にみえる薄~いメッキの下にはガラスの心臓が隠れているのです。
(慶喜さんは鋼鉄の心臓ですけど(爆))

それにしても、この二人・・・・たぶん似過ぎて気が合わないのだろうが、
慶応4年の4月10日になってもこのとおりです(爆笑)。

慶喜も、ちょっとでも労いの言葉をかけてやればいいのにね。
それができたらたぶん、上野に籠もるような羽目にはなっていないでしょうが。


4月11日。西郷と共に歴史の立役者になった当事者の勝サンは、
たぶん前日からのむかっ腹をかかえて当日をむかえました。

さらにむかっ腹はおさまるどころか、どんどん膨らむばかり(爆)。
なぜなら、榎本率いる徳川海軍が脱走しちゃったのですから。


勝さんにとって、渋い顔で迎えた、とんでもなく散散な日だったようです。
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by aroe-happyq | 2007-05-27 11:04 | 旧暦シリーズ | Comments(0)
久々の旧暦シリーズです。

今回は元禄14年辛巳3月14日について。
のちに『忠臣蔵』として語りつがれていく大事件の、まさに発端の一日。

忠臣蔵の物語は美しいので、それはそれで置いといて(笑)、
史実とはどういうものだったのでしょう。

『「忠臣蔵事件』の真相』(佐藤孔亮 著 平凡社新書205)に
そのヒントが書かれておりますが、
意外にも松の廊下刃傷事件の史実をさぐるための史料は少なく、
基本的には
『梶川氏日記』と『多門(おかど)伝八郎覚書』の二つなのでした。
(『徳川実記』でさえこれを参考に書いている・・・)

とくに多門のほうは、この人が当日の本番御目付だったため、
描写がこまかい。・・・が、こまかすぎてほとんど小説?のような。
しかも多門本人が大活躍しすぎ(笑)で、ほとんど妄想小説のよう・・・・。
いちばん困るには浅野内匠頭切腹の場面で、辞世などもこの『覚書』に
書かれているけれど、どうも・・・・・・これが多門の創作らしいのです。
(いまだに意見の分かれるところですが、ほかの史料にまったくないので)

風さそふ花よりも猶我ハまた春の名残をいかにとかせん

・・・・映画やドラマですと桜がひらひら・・・なんて素敵な名場面なのですけどね(涙)。
(時期的に桜もむりという話もある・・・・)

でも多門のおかげで仮名手本忠臣蔵が生まれて、美しい物語となりましたので、
それはそれでいいか!みたいな(爆)。

ただ吉良上野介さんだけはなんだか気の毒かもしれません。
というのもどうやら浅野内匠頭をいじめた形跡はなく、
賄賂をとるような強欲な人でもなく、いたって真面目に朝廷と幕府のあいだを
取り持つ役目に励んできた男のようです。

たったひとつ吉良さんが浅野さんに恨まれたとしたら、
それは3月14日当日、この日は朝廷からやってきていた勅使に
将軍綱吉が言葉をかける「勅答の儀」の日だったのですが、
当日朝になって儀式の時間が前倒しになった件を、高家衆(吉良も含む)が
勅使を接待する係の馳走人・浅野内匠頭に伝達ミスしてしまい、
儀式に勅使を送り届ける役目の浅野は儀式に遅刻しそうになったという
・・・・・伝達忘れ?・・・、その一点のようです。

でも間に合った浅野内匠頭は松の大廊下の所定の位置に座り、儀式が
始まるのを待っていたのですが、その廊下で、留守居役の梶川と吉良が
立ち話をし始めた(『梶川氏日記』より)。内容はもちろん時刻は早くなった件。
吉良と梶川は知り合いらしく、話し込んだのち歩き出した。
浅野内匠頭はその歩いている吉良を後ろから斬りつけ、・・・刃傷事件となった。

・・・浅野さんが吉良さんを切ったのはいちおう高家筆頭だったから?
立ち話をきいているうちに、むしょうに腹が立ってきたのかも??

『「忠臣蔵事件』の真相』の佐藤氏は浅野内匠頭は恨んでいたというより、
怒っていたのだといっておりますが、梶川さんの日記を読むと頷けてしまいます。

しかし言ってしまえばこんなことで、浅野家は断絶。藩士は職を失ったのです。
なんだかやるせないお話です。

『多門・・・』も『梶川』の史料もすべて、
『忠臣蔵 3巻』(赤穂市市史編纂室)に収録されております。読みやすいです。
ほかのいくつかの断片的な史料もすべて掲載されておりますので、
物語とは別に、いったい赤穂事件とはなんだったのかを探ってみるのもよいかも。
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by aroe-happyq | 2007-04-30 14:53 | 旧暦シリーズ | Comments(0)
不定期にお届けしている旧暦シリーズです。

本日は慶応4年1月6日、大阪城が舞台。

夜半に及び松平太郎(組頭)は戎服に容を改めて来り余輩一同が悠然として落付き
たるを見て余と西に向ひて君たちは何で落付て居るか(と親指を出して)、
モウ疾にお立退に成りましたぞ早く落る用意を仕たまへと告げたり、
西は此語を聞て怪しめる色を偽したるに余は早く語を発して太郎殿そんな不吉な戯言
は仰せられぬもので御座ると一本やり込て見たれば松平はどつちが戯言だ嘘と思ふ
なら御用部屋なり御座の間へなり往て見たまへ御老若方も奉行衆も皆お供で
立退かれたぜ僕は今遽に陸軍の歩兵頭に転じて是から出陣する所だ君たちは
早く立退たまへと云捨て急ぎ役所を出往きたり。
                
            
                           ~『懐往事談』 福地源一郎 第十七章より

長い引用になってしまいました(笑)。
1月6日、徳川慶喜が内緒で東帰していて、まだそれをしらない福地や西周たち役人が
大阪城の一室でのんびりしているところへ、洋装軍服の松平太郎がやってきた。
(以下、我流現代語訳(爆))
「君たちはなんで落ち着いているんだ。(親指を出して)もうとっくに立ち退かれたのだぞ、
早く落ち延びる準備をしたまえ」
といってきたのだった。親指を立てるのは、旗本のあいだの隠語で「上様」を指す。そのほか、
「旦那」と言ったりする隠語もあるが、このときはチッチキチーで慶喜を示したのだった。
西周は旗本ではないので、なんのことやらさっぱり・・・・だが、福地は(ホントは彼も旗本では
ないがきっと江戸での遊蕩三昧の日々に学習したのだろう)隠語を理解して、
「不吉な冗談はやめてください」
とかえすと、
「どっちが冗談だ。嘘だと思うなら御用部屋(老中執務室)や御座之間(上様の部屋)へいって
見て来りゃいい。老中・若年寄方、奉行衆もみんな上様のお供で立ち退いた後だぜ(以下、訳は略)」
と衝撃的なことをいうのであった。
その後ホントに御用部屋などをみてきたら誰もいなくて(涙)、一同で大騒ぎになったそうな。気の毒に。
(でも若年寄は残ってましたよー(笑))

松平太郎がなんともかっこよくて、読んだ人はきっとみんなこのくだりの太郎さんは大好きなのではないでしょうか(笑)。
いや、かっこいいだけでなく、わざわざ知らせにきてくれて、親切!

さて、やはり気になるのは慶喜、どうちしゃったの、という問題でしょうか。
戦いが嫌になって逃げちゃった、とか江戸で軍備を整えて再起をはかったとか
諸説ありますが、いろいろな史料をみていると、このときの慶喜はバリバリ抗戦の構えで
東帰したような気がします。
東帰に関しては、老中の板倉や若年寄の永井、また医者の松本良順の勧めがあったようで
すが、もちろん慶喜は全部自分で決める人だから、自分の意志で東帰したのだと思います。
そして江戸に残している精鋭を率いて小競り合いではなく、ちゃんと戦う気で、板倉や永井と
打ち合わせた結果、さっさと帰る作戦をとったのでしょう(残された人には迷惑な奇策)。
残留組の永井たちが篭城せず、急いで東帰したのも、そういう打ち合わせがあったようにも
みえます。永井は置いてゆかれたというより、ちょっと一枚噛んでいたっぽいし(笑)。
(大政奉還の頃も、その後も、永井の言動をみると、かなり慶喜にハッパをかけまくっている。
彼こそは超抗戦派といえるのでは(笑))
そうして考えると、慶喜は江戸に帰ってからいつ弱気になるのか。恭順派になるのか。
そのほうが問題のような気がします・・・・。

とはいえ、そんな問題は大阪城に取り残されてパニクっている福地や西たちにはどうでもいい
ことで、1月6日時点では、本当に彼らがかわいそうでありますっっ。
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by aroe-happyq | 2007-02-23 10:32 | 旧暦シリーズ | Comments(0)
ちょっと前に行った気がするけれど、ちょうど聖堂に本を購入しにいったついでに
旧暦初詣にいってきました。
やはり、「江戸総鎮守 神田明神」ですので!
(日枝神社とどっちにするか悩んだのだけど)

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*写真は、神田明神から聖堂をのぞむ*

お守りでも買おうかなと思ったら、面白いお守りをみつけました。
勾玉守というもの。腕輪デス。

勾玉好きの自分にはたまらない!ということで、衝動買いしてしまいました。

身につけていると幸福を招くそうです(笑)。
(すいません、笑っちゃって。実はあんまりそういうのを信じないタチでして)

とはいえ、とりあえず、今年はいいことがありますように☆
(あくまで旧暦シリーズですので(爆)。2月の終わりになにほざくと思わないでくださいね)

ところで聖堂の講座受付案内書に、「古文書講座」があった。
江戸文人の文章で古文書(くずし文字など)を学ぶのか・・・・・。
どうしようかな・・・・・・ちょっと、いきたいかもしれません(爆)。
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by aroe-happyq | 2007-02-19 16:43 | 旧暦シリーズ | Comments(0)
謹賀新年!(爆)

恭喜發財!!

いよいよ新春です。

旧暦の頃の日本では昨夜からずーーーーっと飲んだくれていたらしいです。
商家は元旦はお休みだからよいとして、
武家はそのまま登城しちゃうみたいなので、
たいへんなことになったのではないでしょうか(汗)。

というのはどうでもいいですね。

日本の近隣の国では今日からお休みにはいりますが、
今年はちょっと心配なのは、香港から郵送中のDVDがいつになったら
日本へ届くのか、欧米のクリスマス休暇以上に心配でドキドキです。
毎年この時期は避けているのに、どーしても見たい香港映画のDVDが
先週出ちゃったのです。

はやく届くといいなぁ~~~!
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by aroe-happyq | 2007-02-18 09:56 | 旧暦シリーズ | Comments(0)
本日、2月1日は旧暦の12月14日。
つまり、元禄15年に赤穂浪士が吉良邸に討ち入った日。

たしかその日って大雪の次の日だったはず。

平成の今日は雪の気配ゼロの、かなりの暖冬です!
昨日なんて春かと思っちゃいました。
この気候の違いはなんだ!(笑)

赤穂の浪士の義挙、ということで有名だけど、
吉良さんの事情を思うとちょっと胸がいたい。

賄賂をねだったとか、いじめたとか、こういう有名な話は実のところ、
浅野さんがなぜ吉良さんを襲撃したのか、はっきりしないゆえの憶測にすぎない。
吉良が「まったく、なぜ斬りかかられたのかわからない」
と3月14日の事件後の取調べで証言しているのは本音ではないか。
浅野に賄賂をねだるほど銭に困ってないし、勅使の接待の準備で、
いじめる暇もなかったのだ。
もし浅野さんが怒ったとしたら、ちょっと心あたりがあるのですがそれは旧暦シリーズの
3月14日の日に(爆)。

さて、浅野に斬りつけられてからの吉良はさんざんだった。
将軍の下した吉良への処分が軽すぎたのも、世間の悪い評判に油をそそぎ、
痛くもない腹をさぐられ、高家のトップ的役割からはおろされ、
ついには屋敷を本所に移すことになった。
まさかそんなことになるとは思いもしなかったため、移転前の一等地にあった屋敷は
趣向をこらした素敵な家にリフォームしたばかりだった。
それを捨て、泣く泣く本所へ。
華麗な交友関係の友人ともなんとなく疎遠になり、吉良は気鬱の病で床についてしまう。
やっと床から這い出して12月の初旬には茶会など催して(実は赤穂のみなさんは
茶会とぶつかるのを避けて14日に討ち入り予定日を変更している)
再び家はきれいにしたいと、本所屋敷をリフォーム中に12月14日はやってきた。
改装中だったため女中たちは別の屋敷にいたことで助かったが、どうやら
赤穂浪士に襲撃されるなど露とも思っていなかったらしく、無防備なままで襲われている。
いや、しかし予兆はあったはずだし、幕府の知り合いからは危ないよと警告は受けていたと思うので、それを信じなかったというべきか。
「まさかそんなこと・・・・」
とおもっていたのかもしれない。だって天下泰平の世だもの。

討ち入りされなくても、吉良はすでにしおしおでよれよれで、やはり同情してしまう。
もちろん、主人の一瞬の暴挙で無職になった赤穂の浪士も気の毒だ。
この事件、誰が悪いって、やっぱり松の廊下事件で、
微妙な裁定をくだした綱吉だと思うのだが、どうだろうか?

よくある「裏の裏の歴史」というやつで、実は徳川家康は征夷大将軍になるため、
源氏の系図を吉良家から買ったという話があるとかないとか(笑)。
それゆえ吉良家に頭が上がらず、五代将軍としてはいいかげんなんとかしたかった・・・・
なんて、それはただの噂ですけど(笑)。

でもやっぱり義挙ということになっていますが50人弱で
明け方に屋敷を襲うって、どんなに理由をつけても武士のモラル的にそれって・・・・。
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by aroe-happyq | 2007-02-01 14:56 | 旧暦シリーズ | Comments(0)

アジアンエンタメ&お江戸後期。外国奉行や長崎海軍伝習所がご贔屓☆ BYはな。


by aroe-happyq