東都アロエ

asiabaku9.exblog.jp

アジアンエンタメ&お江戸後期。外国奉行や長崎海軍伝習所がご贔屓☆ BYはな。

カテゴリ:幕臣系(目付とか)( 5 )

目付報告書の不思議

どーしても調べなくてはならない事があり、
久々に『井伊家史料』を漁りました。
井伊さん家所蔵の文書なので、安政4~6年ごろの
一橋派はもちろん岩瀬や永井、堀などについても
素敵な悪口といいますか、悪意に満ちた裏情報が垣間見られて
それなりに面白かったりします。
ま、いちばんヒヤヒヤするのは岩瀬肥後守の無防備すぎる、
発言集でしょうか(笑)。目付筆頭となった岩瀬さんですが、
配下の徒目付に井伊派がいるとも知らず(爆)、
まーいろいろ喋っている。
気さくで天真爛漫なアラフォー男はお茶飲みながら、
井伊直弼批判にはじまり、将軍継嗣に決まった慶福のおこちゃま批判
等々、たぶん周囲を爆笑の渦にしながら、ギリギリトークを炸裂しています。
(でそれがみーんな井伊家に筒抜け、みたいな)
・・・・・これを読むと、のちの岩瀬の「御役御免、扶持取り上げ、永蟄居」という
重い罪は少しわかるのですけど、こーゆう爆弾トークをしてない永井はどーして
岩瀬と同罪なのか、どうも釈然としない・・・・・といういつもの疑問はまだまだ未解決(笑)。

さて、今回はその永井玄蕃頭尚志が安政4年当時、まだ目付だったころに
井伊直弼に提出した目付報告書について。

正式には『井伊家史料』5の114、「7月24日 徒目付中野祐之進並黒田節兵衛上申書」
という文書。
この徒目付の報告書を、目付の永井玄蕃頭が自分で書き写したものを井伊直弼に提出し、
それが井伊家に残っているというものです。

内容は、安政2年に建設がきまった「深川越中島調練場」工事に関して、
関係役人に不正があるのではないかという疑惑に関する調査報告です。
(結論からいうと、役人たちは潔白だったのですが)
なぜ井伊家に?かというと、この調練場建設の掛りだったのではないかと。

しかし工事が滞ったようで、そのため役人が疑われたのですが、
原因は工事請負を落札した中川伊兵衛が、その後の江戸地震やなんやらで
損金を出し、当初の計画どおり工事ができない状況になった、よし。
で、工事の計画を一部変更して続行したようで、調練場はその後無事に完成し、
家定将軍の臨幸などもあったり、また明治以降は陸軍に使われてました。

で。内容はさておいて、この報告書なんですけど。

小普請方

 石方
 鍛冶方 請負人

 中川伊兵衛
    巳歳四十二

  宿所 本宅 橋場町
      妾宅 お玉が池



あのですね、工事の不正疑惑事件の報告書なのに、

妾宅 お玉が池

って、あるんですけど、この情報って必要なんでしょうかネ??(笑)
この家で談合とかしたわけでもないから、別にいらないし。
本宅の場所だけ書けば済む話だと、思いませんか??

目付のカタイ文章のなかに「妾宅」とか出てきたものだから、
思わず吹き出してしまいましたです。

いや、それだけ目付の調査は正確を期すものなのでしょうけれど。

しかしです。
こんなに公的文書で妾宅が公表されちゃうものなんですね~~。
江戸時代ってホント、プライバシーないっすっっ。

今回は翻刻を読んだだけですが、井伊家には
永井氏の達筆なる文字で書かれている報告書があると思うだけで
ちょっとおかしい。
だって、キレイな字で「妾宅」ってあるんだろうし(笑)。
[PR]
by aroe-happyq | 2012-03-24 10:53 | 幕臣系(目付とか) | Comments(0)

そろそろ岩瀬の特集を

せっかく不具合がおさまりつつあったのに、
なんでもエキサイトは不具合の発端の「つぶろぐ」機能を再開するとか。
・・・・・・・・フツーのブログじゃダメなのでしょうか・・・・。
このまま余計な機能なんていらないのに~~~~~。

・・・・・とぼやきはここまでにして。

ずーーーーっと前に「やる!」と言っていた岩瀬さんをもっと
知ってもらおうキャンペーンですが、
「幕末外国関係文書」でまだ岩瀬が大活躍するトコまで
いたっておらず・・・・・・・なかなか「こんなにさすがの男さ!」
と披露できない状態でして、非常に自分的にもやもやしております(笑)。

今は安政2年春のあたりを読んでいるのですが、
岩瀬氏は下田で川路&水野と一緒にどんどんやってくる西洋の国と
交渉をしているはずなのですが、川路・水野の勘定奉行系が強いのか、
目付系の岩瀬氏、いまいち実力を発揮できておりません。
アメリカ人&ロシア人などとの対話記録でも川路主導で進んでいて、
まだまだ新人扱い?かもしれません。

実はこの目付VS勘定方の対立はすさまじく・・・・・・。
さらに川路聖謨さんは下田奉行の伊澤美作守と個人的に
仲が悪く、江戸からの重要種類を伊澤にわざとみせないという
ような子供のようなイジワルまでしております(笑)。
岩瀬さんは伊澤さんと気が合うようなので、ちょっとマズイです。

もっとも岩瀬さんは下田関係以外で、
たとえば洋学所の立ち上げなどに関わって活躍はしております。
この洋学所(のちの蕃書調所、開成所)の開設頭取は、
勝麟太郎が抜擢されておりました。
その抜擢も、大久保忠寛(一翁)&岩瀬コンビの賜物です☆
しかし、洋学所はじきに昌平坂学問所の開国派儒者の古賀謹堂の
主導に切り替わるので、その弟子&洋学大好き学生がどっと
学問所から洋学所へなだれこみました。
昌平坂学問所とはソリの合わない勝さんは新天地を求めて、
長崎海軍伝習所へと活路を求めて旅立つのでした。
・・・そして、優秀で先見性のある稽古人がどっと去った昌平坂学問所は
ほどなく尊皇攘夷を愛する、のちの天誅派の稽古人の巣窟と
化していくのであります・・・・・・(汗)。

・・・・岩瀬さんに話を戻すと、人材登用はどんどん始めておりますが、
まだ「開国へのエンジン」はかかわっていないようで、
おかげで特集ができましぇん~~~~。
(ピンチヒッターで堀織部が活躍中ですが(爆))

こうなったら・・・・・やっぱり、
井伊家スパイ報告の重箱のスミでも先につつこうかな(笑)、
なんて思ったりしております。
[PR]
by aroe-happyq | 2007-06-26 10:58 | 幕臣系(目付とか) | Comments(2)
已哉(やんぬるかな)時乖(そむ)いて勢已に弧に

力竭きて心摧(くだ)けて窮途に哭く

多年の辛苦皆水泡

万感交(こもご)も集まって念(おもい)欝紆(うつう)

却て思ふ元和業を開くの日、

唐宋の功烈漢の高の模

弓を槖(ふくろ)にし戈を衅(ちぬ)こと三百歳

太平此の如きは中古に無し

 余竜の獄に生くること三年矣。偶秋風の起こるに感じて
 今昔の情を賦す  
                  介堂老人



・・・・意訳してみますと、

もうおしまいだ。時勢が(我らに)そむき、孤立してしまった

力も尽き心も砕けて、この苦境のうちに泣いた

長年の苦労もすべて水の泡となって

あらゆる感情が交じり集まって、心はふさいでしまった

ひるがえって、元和の頃、幕府創業の頃を思うと、

天下泰平の時代を開いた唐や宋の功績や漢の高祖のように後世の
模範となる政治体制に、徳川政権は匹敵する素晴らしさであった

弓も鉾など武器を使うことなく(平和な時代は)三百年に及んだ

こんなに長く太平の世が続いた時代は平安時代以降、徳川の時代まで
なかったのだ。

 竜の口牢獄で生活すること三年。たまたま秋の風が起きたことに
感じて、今と昔の感情を詩によんでみた


介堂というのは永井氏の号です。

最終段は永井氏個人というより、徳川家臣としての叫びでした。
いきなり「元和」に飛んだときはどうなるかと思いきや、
続いて「唐」や「宋」ときました。トドメは漢の高祖ですよ!
何千年を跨ぐのだ~~~っ。


なんて壮大なスケールの愚痴なんでしょう(笑)
まったくもう、・・・素敵です☆



たしかにパクス・トクガワーナ(徳川の平和)は、
もっと評価されてもいいほど、泰平の世でした。
おかげで「手仕事・日本」の技術力はとんでもなく進歩しましたし、
現代のわれらは多大な恩恵を被っておりますから♪
永井さんの叫びももっともなことです。

・・・それもよくよく考えたら、この牢獄、目の前が江戸城大手門。
つまり、長年親しんだ職場の入り口前の牢屋で、寒かったり暑かったり、
シラミや蚊(お堀が近くにあるから相当の数のはず)、ねずみに悩まされて
いたらやっていられません。


きっとこの漢詩も書き終えた後、獄中の仲間で回覧して読んで(笑)、
それぞれ思い当たる気持ちを感じて、涙していたのでしょう・・・・・。
(「すぐ大泣きする」らしい榎本さんはきっともらい泣き間違いなし?)

しかしこういう想いを胸に秘めながら、出獄してから三年間、
永井さんは新政府に仕えました。
友人に「どうして(かつての敵なのに)仕えるのか?」と聞かれて、
「恩義があるから」とこたえていたそうです。
命を助けられちゃいましたから、やむおえなかったようです。

しかし彼が勤めている間の、明治6年にはすでに新政府は内輪もめが
高じて内部分裂状態になり、新しい日本の国家作りは暗礁に乗り上げてしまった。
この混乱を政府内で間近でみて、永井さんはどう思ったことでしょう。
想像するに相当、せつないですな。

ようやく明治8年に引退して、漢詩をたくさん詠んだそうなので、
そういう想いもみな詩に込めたことでしょう。



ところで(とちょっと話題はかわる)
獄中の時期で、前から気になっていた、荒井郁之助家からの差し入れは
なぜ多いのか、問題なのですが(爆笑)、
『勝海舟日記』を読んでいたら、郁之助の妻が勝邸に助命の手助けを
申し入れにいったことがきっかけで、
そのときから勝さんからそれなりの大金が荒井家に流れていました。

このお金と差入れはやはり繋がるのか???
・・・・・あいかわらず、素直でない勝さんはわざわざ遠まわしに
獄中の人々の援助をしていたのか???

以上、またまた勝日記のミステリー(爆笑)コーナーでした。
[PR]
by aroe-happyq | 2007-06-09 10:53 | 幕臣系(目付とか) | Comments(0)

* 今日はこれといって企画ものの記事ではありません(笑)。



先日、川島平蔵さんのところでも触れましたが、
(鬼平長谷川平蔵さんと間違えそうだな、川島さんっっ)

『幕末外国関係文書』を読んでいる今日この頃ですが・・・・・・・・・・。

いや、本当に、もう!!!

嘉永7年1月22日に目付海防掛助になったばかりの新米目付の、
岩瀬修理(忠震)さん37歳。
翌日から出張命令はあるわ、28日あたりにどどどどと出された
黒船再来航に関する江戸警固などの通達の文書にガンガン署名しております。

もちろん、

堀織部
永井岩之丞
岩瀬修理

の三人連名の最後ですけどっっ。
(これもまた、たまりません)

堀織部は前年の嘉永6年5月から、永井は嘉永6年10月からそれぞれ目付なので
まだ一週間のペーペーとしては最後で当たり前、いや、フツーはこんなペーペー
はこんなところに署名なんてさせてもらえませんっ。

これにはちょっと事情があります。

ペリーは「3月ぐらいにまた来るね!」といっていったん去ったのですが、
ペリーは新暦の3月を想定しており、
日本側は旧暦の3月を想定したので、
旧暦の1月中旬に黒船が「約束どおり来たよ!」と現れたので、
日本側は「ええええ。準備まだできてないよ」とぶっちゃけ・・・・焦った(爆)。
しかもそんなときに、使える男岩瀬修理が目付になったら、
やっぱり即戦力扱いですねっっ。

それに、どうやら、修理さんは仕事を難なくこなしているようだし。
(堀&永井という頼もしい親友二人がガッチリとサポートしてあげていることも
大きいと思うけど)
この当時は目付筆頭は鵜殿長悦(くどいようですが、浪士組を京まで引率した
あの鵜殿サンです)で、最古参は戸川安鎮。
目付衆は、この二頭体制でした。
どちらも切れ者でかつ後輩に優しい、よき先輩陣ですから、
岩瀬ってラッキーだったと思います。

そしてまもなくここに、大久保一翁こと大久保忠寛が加わると、
目付部屋の黄金期が始まるのです。
(もうまもなく堀は蝦夷へ、永井は長崎へ行ってしまいますが)
また阿部伊勢守正弘の安政の改革の始まりであり、
徳川時代、最後の「正しい」政治の数年間ともいうべきか(涙)。


そんなわけで、やっぱり岩瀬ってスゴイかも、と思いつつ、
『幕末外国関係文書』ますます楽しいデス☆
[PR]
by aroe-happyq | 2007-05-28 10:22 | 幕臣系(目付とか) | Comments(2)
本日は目付好きには周知というか、基本の知識といえそうですがちょっとお付き合いのほどを。

目付は江戸城内で廊下の真ん中を歩く、そういう規則があるのです。
角を曲がるときは、弧を描かずに直角に曲がるのでまるでロボコップのよう?
きっとそんな様子を観たら「ぷっ」と笑ってしまうだろう。
そしたら、「ぶっ」どころか、このネタで「ゲラゲラ」笑った人がいたのです。
その人とは、岩瀬肥後守です(爆)。←やっぱり?

『旧幕府』一号(合本巻一)の木村芥舟「旧幕監察の勤向」より、
(今日は引用をサボりませんっ)

ここに一笑あり、岡部長常(駿河守)本番登城の時
城内内百人番所の邊より俄に雨降出しが、
折悪敷雨傘用意なかりしかば主従皆濡れながら、
例の通り四角に徐歩してやかて部屋に入り、
一應挨拶終りし後岩瀬忠震(修理)云ふ
過刻駿河殿の本番登城を側らより見たりしが、
雨に濡れながら悠々と突袖をして四角に歩行むさま、
其心中如何と思ひやられて、實に笑を忍ぶに堪へざりしとて
彼此大笑となりしことあり。


目付の岡部駿河守が本番(その日の当番のこと。いろいろ役割があってたいへんなのだ)
の目付で、登城してきたら雨が降ってきた。傘の用意がなかったので傘もささず、
主従で玄関まで雨宿りすることもなく濡れながら道の真ん中をしゃきしゃき歩いていた。
その岡部が部屋にたどり着いて同僚に挨拶した・・・・・までを、岩瀬忠震は、
どうやら脇からその様子を観察していたらしく、しゃきしゃき歩く岡部の心中を思うと
笑うのをこらえるのが辛くてさ、と後輩の木村(この人も目付)に語って
二人で爆笑した、という話。

・・・・・・そもそも、岩瀬も同じ御目付なんですけど(笑)。
でもきっと自分が本番のときはおのれに対して笑うのをこらえつつ
四角にしゃきしゃき歩いていそうな男ではある。

この木村さんの目付の記録は、目付研究にはなくてはならない貴重なものなのに、
なぜかこの一文だけ「一笑」ネタだ。
たぶん、目付になった人はみーんな「ヘンだよね」と思っていたけどあえて爆笑
しなかったのに、恐れをしらない岩瀬だけは語ったことが木村には強く印象に残ったのかも。
木村にはお茶目な一面をみせまくる岩瀬なので、このときも気軽に話したのだろう。

これ以外でも、木村が目付に選ばれるにあたっての身辺調査の書類(小人目付の探索書)を
木村本人にみせて「勘助は実に親孝行である」だってさ、
といって二人で大爆笑する場面もある。
もっとすんごいのは目付選任の入れ札というものがあるのだけれど、その最中の速報を
木村に手紙しているし。「難航しているが、呼ばれるのは君一人らしい」とか、機密洩らしすぎ?
そもそも木村と岩瀬が学問所時代から親しく、気心が知れているのでこういうのもアリ
なのだろうけれど・・・・・・・ちょっと読んでいて(バレたらどーするの?)とヒヤヒヤします。

そんなわけで本日は、目付が四角に歩くのは同僚からみてもやっぱりヘンだった、
というお話で終わりまーす。
[PR]
by aroe-happyq | 2007-02-26 14:58 | 幕臣系(目付とか) | Comments(0)

アジアンエンタメ&お江戸後期。外国奉行や長崎海軍伝習所がご贔屓☆ BYはな。


by aroe-happyq