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アジアンエンタメ&お江戸後期。外国奉行や長崎海軍伝習所がご贔屓☆ BYはな。

カテゴリ:外国奉行ズ( 128 )

本日は、永井尚志さんの命日(明治24年7月1日没)です。

今年は、没後、126年ですね。

永井さんについては、ほぼ毎年、7月1日前後の記事で、何かしらネタにしてきましたし、
とくに新しいネタはないのですが、「星のとりで」1巻を読んでおりまして、
表紙カバーをとった、中の漫画(こんなところにまで、描き下ろし。なんて愛がいっぱいな作品♪♪)をみていたら、

中島三郎助&永井玄番のところに、「永遠の少年」と書いて、「おやじ」とルビが振ってありまして、

「そうなんです!!!ホントにそうなんです!」と激しく同意しておりました。


中島さんは少し大人だけど、永井さんは、幾つになっても「夢見る少年おじさん(晩年はおじーちゃん)」です(爆)。

学識もあり、かなり高徳な人物にもかかわらず、恐るべきバイタリティと、諦めない心の根幹には、
生涯にわたって、少年が住み続けていたように、思います。

(だから、息子か!?ぐらい歳の離れた、ぶっとんだ個性の若者たちと、いつまでも話が合うんですよね)


少し前に、『昨夢紀事』だったでしょうか、一橋VS紀州の将軍継嗣問題のまっただ中のあたりを読み返していたのですが、
永井さんの暴走が、派手すぎてヤバイです。思い込んだら、まっすぐ、命も顧みず、飛び込む40すぎのおっさんがいました。

当時、勘定奉行になっておりまして、安政5年のはじめの頃です。
盟友の岩瀬忠震が、堀田老中に附いて、上洛中。
永井は、老中衆に、「一刻もはやく、一橋公を御養君と定め、公表してください!!!」と、詰め寄ってしまうのでした。

当たり前ですが、勘定奉行だろうと、こんな話を、老中にしては、切腹モノのアウト行為です。
これを聞いた、井伊掃部頭が(まだ大老ではないのですが)、「なんたる無礼」と切れてまして、
これが、永井の大獄での処分の本当の理由だったよし。

でも永井たちの焦りは、安政~文久年間を調べるほど、よーく理解できてしまいます。
家茂さんの時代に、どんどん京やら西国が強くなってきて、徳川の威勢が弱くなっていきます。
これらは、家茂さんの責任ではありませんが、もしも、彼が25才以上だったら、状況が大きく変わっていました。
だから、一橋派の、「先に慶喜公、その次に家茂公」という将軍の順番の主張は、当を得ていたと。
上洛先で起きた、数々の家茂さんの悲劇を思うと、永井たちの「即戦力求む」の考えは、間違っていなかった……と思う次第です。
(名君の資質がある、家茂少年の成長を待ちたかったので。あんなに若死にさせるなんて、本当に惜しかったです)

いつも、理由あっての大義ある暴走ですが、永井尚志は、けっこう、繰り返していた気がする。
そのパワーの原動力が、「少年魂」かと。これ、岩瀬忠震や、島津斉彬にもありましたね(笑)。

だいたい、50過ぎて、蝦夷に行きます???
このおじさん一人が、箱館脱走軍の平均年齢を上げてるのですよ。
いくら、釜さんにお願いされても、「もうじじいだし」って、ご辞退しそうなものです。

でも、行っちゃう!
そして、脱走軍の保護者として、釜さんと共に、責任をしっかり負おうとする。
この尚志少年おじさんは、なかなか、男気もあります。



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by aroe-happyq | 2017-07-01 19:02 | 外国奉行ズ | Comments(2)
しばしご無沙汰しておりましたっっ。

今回は久々に幕末外交について。
まだまだ誤解(というか無知)が多いのだな、ということで、咆えちゃうぞ!
というような記事です(笑)。

今回とりあげたいのは→こちら※PDFです

外交史料館で2年前に開催された「特別展示 マッサン展」に関するエッセイです。

マッサンの話→スコットランド→エルギン→日英通商条約交渉と話はすすみ、
(まったく驚いてしまうのは、エルギンの日英交渉の話をするのに、外国奉行も、
岩瀬も永井も水野の名も出てこないこと。普通、交渉の話をするのに英国側だけ書きますかね!?
わはは。無視しすぎ。さすが明治新政府の流れを汲む外交史料館!超ヤバイっっ)

で、問題はエルギンが持ってなかった全権委任状問題の箇所(P167下段)。

全権委任状については、エルギン卿の心配は杞憂であった可能性が
高かったと思われる。
二〇〇年以上もの鎖国に慣れ、外圧によって開国したばかりの日本人の中で全権委任状の
意味を知っている者が果たしていたであろうか。


答え:いましたよ。それもかなりの人数。

外交史料館って、外務省関連の施設ですよね。
外交に関わる日本人が、西洋人のことは褒めても、過去の、自らの先祖でもある
昔の日本人をこのようにバカにしてよいものだろうか?
いや、その前にこの人、幕末外交史を知らなすぎる(笑)。

さて、ここからもっとヤバイ。

ここで想起されるのが、後の岩倉使節団である。
使節団が条約改正のために米国を訪れた際、米国側より全権委任状の
提示を求められ、大久保利通と伊藤博文が急きょ帰国したことはよく
知られている。それより十数年前の日本側に全権委任状の重要性が認
識されていたとは思えない。


答え:認識されていましたよ

少なくとも、大久保や伊藤、岩倉のような外交訓練0の山出しより、
明治維新より十数年前の徳川直参のほうが、海外知識ありましたし、
ペリーの初回の交渉で全権委任状というものを知ってからは
その重要性を理解していました。

悲しいですね。現代の日本外交に関わる日本人がこの程度の歴史知識で外国に赴任したり
外交そのものを動かしている。
(どっちかというと、外国の外交関係者のほうが詳しいんじゃないのかしら。江戸のこととか・笑)

それにくらべて、日本外交の汚点ともいわれている岩倉使節団のほうをさりげなく擁護さえしている。
(しかもわざわざ徳川時代を否定したり未開扱いしてまで。短絡的すぎ~~~~~)

これが日本の現実なのかと思うと、
はぁ、おそろしや、おそろしや。
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by aroe-happyq | 2016-05-07 10:15 | 外国奉行ズ | Comments(3)
国会図書館の近代デジタルライブラリーでインターネットでみることのできる、
『現代百家名流奇談』という明治の本があります。

近代デジタルライブラリー『現代百家名流奇談』→こちら


随分前にめぼしいところをダウンロードして保存していたのですが、
ふと読み返したら、田辺がとんでもないアウトなことをやらかしていたのでした(笑)。

田辺太一の基本情報についてはWIKIあたりで確認していただくとして、
幕末には外国方として活躍し、ヨーロッパにも行っています。
明治になると、外務省に出仕して外務少丞など歴任した人物です。
『幕末外交談』などを出版したことでも識られています。
つまり、当時では外国通の知識人で、けっこうちゃんとした人のはずなんですが!!!!

外務省に勤めていたときの話が『現代百家名流奇談』に出ているのですが、
まさに衝撃の田辺がそこに!!(笑)

先年榎本子と同じ外務省に出ていた時などは、二人とも旧幕の士で互いに交誼が
親密であったが、或る時、榎本は官用で地方へ出張を命ぜられたので、
その時の俸給受取方を田辺に依頼して巡回に出掛けてしまった。

田辺は委細承知と快諾して俸給渡し日には手続き通りに金額を請け取るがいなや、
急に昔の元気に若返って、退省時間を待ちかねて後押し綱曳きの車で
景気よく柳橋へ押しだし、その晩から翌日にかけて大陽気に騒ぎ散らし、
一擲千金の豪遊を極めて平気な顔色。(以下省略)…


これって、訴えられちゃったら犯罪ですよねっっ
だって榎本武揚さんの給料を預かった田辺さんったら、なんとそれを持って、
柳橋へ繰り込んでしまい、つまり勝手に榎本の給料を使っちゃったんですからっ~~~~っ
いくら榎本と親しいとはいえ、これはもうダメすぎっっ(笑)。

この話、続きがあって榎本の留守宅では、待てど暮せど田辺が給料をもってこない。
すると家の者が「もしかして柳橋あたりで使ってしまったんじゃ!?」と察して(大当たりです!)、
田辺家へ書生を行かせると、ご機嫌なままで寝ていた田辺と面会(笑&汗)。
わけのわからないことをべらべら喋って、ついに書生を煙に巻いてしまったとか。
まぁ、金はないのだから、もう誤魔化すしかないわけですね。

田辺といえば、さまざま苦労もしていた人です→こちら

たしかに榎本さんとは仲が良さそうです。
ただ、その友人の給料でドンチャン騒ぎなんて(笑)。

とはいえ、相手が榎本武揚さんなので、「しょうがねーなー」って笑って許してくれそうです。
(だから田辺も「釜さんなら大丈夫♪」ってやったんだろうーなー(爆))

なかなかやってくれるぜ、田辺蓮舟!!
やはり幕末外国方はヘンな人ばっかりってことで、このあたりで幕とさせていただきます☆


ちなみに『現代百家名流奇談』には慶喜さん(明治時代に大阪で盗人と思われちゃった話)、
榎本さん(すごく喧嘩っ早い話)、勝さん(戊辰の瓦解期に新吉原へ行って遊女たちに頭を下げるの話)
などなどのユニークな逸話も出ています。
(勝さんの話はそこそこ感動話ですが、あとの話も田辺話同様「おいおい」とつっこみたくなる話です)

近代デジタルライブラリーで、おひまなおりにでもチェックしてみてくださいまし☆
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by aroe-happyq | 2016-02-15 14:02 | 外国奉行ズ | Comments(4)
久々に、初期外国奉行ゴレンジャーの筆頭、水野癡雲こと忠徳さんの記事です。

ええと、遡ること9年前、うちのブログで書いた安政5年の水野忠徳に関する記事が、こちらこちら

ざっくり振り返ると、ハリスと折り合いが悪かった水野が
勘定奉行海防掛から、田安家家老へ移動したのち、
一橋派を形成中だった、松平慶永の側近中根雪江のリクルートにひっかかり(笑)、
一橋慶喜を将軍家御養君に押し立てる運動に身を投じてしまうわけですが、
結果的には、同じく一橋派の岩瀬忠震や永井尚志らは安政の大獄期に「永蟄居」という
重い処分をくらうますが、水野は保留の身となって、外国奉行に留まります。

真面目な水野なので、「昨夢紀事」をみてもかなり活発に活動していたのに、
よくぞ生き残った、とハラハラしちゃうのですが。

で、今回、ちょいと一部をコピーしてあった「井伊家史料」6~7あたりを
見返していたら、水野さんについて、井伊派の旗本による報告があったのですが、
それがかなりヤバイ!
やっぱり、この人も一途なタイプだから、やるとなったら振り切っちゃうんですな。

どんなふうにヤバイのか、ちょっと抜粋してみました。


水筑抔も五人の内にて、殊外赤門を悪云居候哉

(『井伊家史料7』 5P)

水筑こそが、水野筑後守忠徳のこと。
五人というのは、この文章の報告者徒頭薬師寺元眞の文に出てくる「五人の悪人」のことで、
岩瀬忠震、川路聖謨、鵜殿長鋭、土岐頼旨、永井尚志あたりのことで、
そこに水野も入るぐらい悪い、ということ。
(水野のほか、浅野長祚とかの名も出たり入ったり(笑))。

なぜ悪人呼ばわりかというと、
①この年の正月、鵜殿長鋭、土岐頼旨は条約について直接将軍家定にあう機会があったおり、
なんと!家定にむかって「御養君にはぜひとも慶喜公を」と嘆願しちゃった件で、
このとき家定は「聞かぬふり」をしたとか(なのでこの二人真っ先に飛ばされたっけ)。
②井伊直弼が大老就任に決まった朝、鵜殿と岩瀬と永井は老中部屋へかけつけ、
大老就任に反対し、「井伊掃部頭は大老の器ではない」的な発言もあったとか。
で、①と②をあとで聞いた井伊直弼が激怒して、「悪人」指定に。
川路と浅野は、条約調印勅許の運動で京都にいったおり、不穏な動きをしたと疑われ、
「悪人」指定になったとか。井伊派のなかでは川路さん、「ズル聖」とか呼ばれていたんですって(涙)。

この報告書では、岡部長常も悪人ランクイン(岡部は開国派だから)らしい。
で、水野が認定されたその理由がこの一文というわけです。

赤門というのは、井伊大老のことでして、
つまり、水野さんはどうやら城内などで、さして小声にもしないで、
堂々と井伊直弼の悪口を言って歩いているらしいのです。
(普段から声が大きくて、よく通るから・・・・・)
ううーむ、さすがツワモノ!水野さんたら、怖いモノ知らず~~~~っっ。

このほか、水野筑後守忠徳は、城内で海防掛の寄合があったおり、
ひそひそと永井尚志と内談している様子も、
同じく徒頭薬師寺元眞による密告レポで井伊派へだだもれです。
(同じく『井伊 7』41P)
でも、内談内容は書かれておらず、それってただの海防掛の相談かもしれないじゃん!
と思うのはわたしだけ?(笑)
もうなんでもかんでも、悪い相談にされてるっぽいんですよ。

ただ、この報告書からちょっとあと、こんな報告書も。→こちら


すでに御養君は紀州侯に決まり、水野も外国奉行筆頭に。
そして、

今度外國奉行の内、筑後を邪魔


にされたおかげで、水野と堀は処分されず、その後も官吏として働くことになりました。

ま、ホントは外国奉行の4人に邪魔扱いされたふうにはみえないんですけどね。
(水野と永井なんか、割と仲良しなのよね(笑))




初期外国奉行5人とちょうど、人数がそろっているから、一言。
SMAPの5人さん、この先どーなっちゃうんでしょうね。
すんごいファンというわけでなないけど、なにせ香取くんは大好き大河「新選組!」の局長だし!!
「いいとも」や「スマスマ」や「27時間テレビ」などでアイドルなのに飾らなすぎる彼ら、
東日本大震災の募金募集スポットを毎回新録してきた真心ある彼らがすごく好きなので、
円満解散ならいいけれど、事務所の権力闘争の割食って、
彼らの25年間の歴史が大人の汚い取引で汚されるのは、みていて辛いです。
もともとジャニーズ事務所ってとこは超ブラックだと思ってきたけど、
(だって所属タレントが表紙をかざるとその雑誌の画像の人影を銀色にくりぬかせるなんて作業を
全通販サイトに強いる暴挙、強権を欲しいままにしているって、何様?って感じでしょ(怒))
今回の件で、確信にかわりましたです。
こんな会社と、はやくSMAPの彼らも縁切れるといいですな。
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by aroe-happyq | 2016-01-20 18:59 | 外国奉行ズ | Comments(4)
パート①から、4ヶ月経っちゃいました~~~~~っ。

ええと、前のは→こちらです

今回も引用させていただくのは、
『幕末のフランス外交官 初代駐日公使ベルクール』
(アラン・コルナイユ著 矢田部厚彦編訳 ミネルヴァ書房)です。

時期は、会談記録から、1863年2月(文久2年12月)。
当時、14代将軍徳川家茂の上洛準備が本格化し、将軍を京で出迎えるべく、
老中小笠原長行や、将軍後見職一橋慶喜があいついで、上洛していました。

そのころ駐日公使ベルクールと外国奉行竹本甲斐守正雅は何度か極秘会談をしていて、
ベルクールは率直にかたる竹本に日本の政治情勢を細かく質問していた。

しかし前回紹介したような「徳川の敵は薩摩と長州です」の率直発言は、
竹本が老中と相談のうえで、おこなった政治的な発言なのですが、
今回のは・・・・竹本の個人的な見解にしか思えず、前回紹介の率直発言と
その性質が異なるようにしか思えません(汗)。

というわけで、ほんのささいな質問からはじまった、竹本さんの暴走をお楽しみください(笑)。
(以下、『幕末のフランス外交官 初代駐日公使ベルクール』165P~)

ベルクール「しかし幕府の役人によれば、京都での一橋の使命は、問題解決のために
       将軍が与えたものであるという。
       とすると彼(慶喜)は、将軍の友、それも心から許せる友ということになる」

ベルクールさんは東洋についてかなり知識を持った人で、知日派といっても過言ではなかった。
なので、この人からすると、日本の情勢の改善を願っておこなった発言だったのですけど、
これが竹本の心のなかの思わぬ地雷を静かに踏んでしまったのでした・・・・・・。

先方(竹本)「一橋は、使命を帯びて上洛するのではない。彼は、将軍から命令されたから上洛
       したのであって、彼は京都滞在を利用して彼自身の利益のための謀略に専念するかもしれない。
       彼は、将軍にとってうわべだけの友だからである」


今どきの流行の言葉でいえば、突然、フランス公使の前で慶喜のことをディスりはじめたのだ!(笑)

たしかに慶喜は家茂の心から許せる友ではないし、うわべだけの友といえるかもしれない。
しかし「使命を帯びて上洛するのではない」とか「京都滞在を利用して彼自身の利益のための謀略に専念」
までいってしまうと、もはや名誉毀損問題ではあるまいか!?

竹本甲斐守は、率直な発言をする人だが、このように誰かを悪くいうことは極めて少ない。
(やや、小笠原長行にも、かな(笑))。
いったいどうしたんだ、竹本!と思ったのだが、
それは彼の経歴をみれば、頷けるものでありました。

竹本正雅プロフィール(号:蘇軒)

文政9年(1826)生まれ。
天保14年 部屋住より小納戸(布衣)。
弘化2年 西丸小性 諸大夫
嘉永6年 本丸小性
嘉永7年 中奥小性
安政5年 小普請組支配 
安政6年 外国奉行 、神奈川奉行兼帯
文久2年 大目付 外国奉行兼帯


と、これをみてお分かりかと思いますが、弘化2年から安政5年まで、
13代将軍家定の小性まっしぐらだったんです!
この人の主君はおそらく永遠に家定公でありましょう!!

おぼえておりますでしょうか、拙ブログのこの記事→こちら

御美麗ではなかった家定は、「超・超・超」御美麗の慶喜の姿に、
キャーキャー騒ぐ大奥女中たちを眺めて、
「言わなくてよいことを口にする」と苦々しくつぶやいておりましたそうですが、
竹本正雅は、まさにその家定のそばで、主君とともに悔しさに耐えていたわけです。
主君が慶喜嫌いなのに、小性の竹本が好感を抱くわけありませんね(汗)。

こうした経歴から「反一橋派」でしょうし、家茂将軍の心から許せる友なんて言われると、
つい昔の恨めしき想いがぶり返してしまったのでしょう。

なので、竹本はなお暴走します(笑)。

ベルクール「一橋が長い行列と大量の武器を従えて東海道を行くのを見たが、
       衛兵の数は三千ないし四千で、その大半は洋装していた」

ベルクールの住んでいる、フランス公使館は神奈川宿の甚行寺にあったので、
公使は東海道を行く慶喜の上洛行列を見物したらしい。

洋装していたネ、ってそんな軽い好奇心での発言だったのだが、
これがまた竹本の地雷を踏んだらしく、思いも寄らない返答がかえってくることになる。

先方(竹本)「一橋の行列が通るのをご覧になったというのはそのとおりかもしれない。
       しかし彼は、わが国の一般原則に倣って大名行列するよりも、海路を好むと言われている。
       同じ日、老中小笠原が京都へ行くために蒸気船で大坂へ向かったのを思い出していただき
       たい。小笠原の側近の人々のなかに大きな外衣を着た人物が確認されており、
       その人物に対して、小笠原が特別丁寧に敬意を払っていた。そこから、この人物は
       一橋慶喜だったのであり、彼はその宿敵である井伊掃部頭の家領を陸路通過するのを
       避けたのだろうと言われている」


たしかに慶喜の海路上洛話は噂ではあったみたいなんですけど、
今のところ、陸路で行ったことになっていますよね。
つまり、竹本は正確な情報ではないことを、外国公使に話してしまっているわけです。
(普段は冷静沈着で、たいへん優秀な外国奉行なんですよ!竹本さんって!)
しかもこの竹本情報での慶喜は、ついに井伊さん(故人)と宿敵に
されちゃっていますが、大丈夫なんでしょうか??
ちなみに、ここで確認のとれている正しい情報は、
慶喜さんが、海路好き、というか蒸気軍艦に乗りたい人という情報だけな気がするのですが、
竹本さん、本当に大丈夫なのでしょうか(笑)。
(これでいくと、ベルクールのみた行列にいた慶喜は影武者になっちゃうってことですよね?
・・・・まぁ、乗物に乗ってたら誰が乗っていても、わからないけど)

ここでベルクールさんは、なにか察したのか、ちょっと話をかえてみようと「小笠原も京都に行った
のですよね」と竹本に振ってみた。

しかし、これもなんだかいけなかったようなのです・・・・・(笑)。

先方(竹本)「彼も天皇に呼び出されたのである。彼は大名でもないのに、
        身分の低い地位から外国事務総裁という要職に取り立てられた人物である。
        朝廷は、京都に到着した将軍に浴びせる訊問の基礎になる情報を
        小笠原から嗅ぎ出せると思っているのだろう」


うわーっ、小笠原さんも、竹本さんにディスられちゃいました。
これじゃ完全に朝廷の犬扱いです(笑)。
文久2年6月に、島津久光が勅使の大原と江戸へやってきて、家茂に対して
政治改革を迫りましたが、それによって政事総裁職になった一橋慶喜はもちろん、
外国事務総裁になった小笠原も、
竹本さんはどうやら、お気に召さないようであります(笑)。

ベルクール「ということは、将軍は自分の蒸気船を使って、多分京都で彼を裏切るだろう、
       一橋に老中を随行させたことになる」

ちょっとびっくりしつつも、ベルクールはヘンなスイッチの入った竹本から、
思わぬ日本の裏情報が聞けて、それはそれでラッキーと判断したのか、
そこから攘夷大名について、たくさん質問攻めにしていった。
(でも、慶喜から話題が離れたので、いつもの竹本に戻りました)

このやりとりを読むまで、
文久2年12月のはじめ、上洛御用、そして一橋刑部卿随行員として京へ行く支度を
していたはずの大目付竹本甲斐守が突如、上洛御用御免となり、外国事務に復帰した一件は、
いろいろな本に出ているように「対英交渉に手練れの竹本を今後の生麦賠償問題のために
江戸に残すことにした」という説を信じていたのですが、
それならそもそも上洛御用にしないだろうし、急遽大目付岡部駿河守が代役で
慶喜の世話役として上洛することになるものおかしい。
慶喜が嫌いな竹本さんは、上洛御用に決まってからの数週間、上洛御免になるように
なにかしらの運動をして、どーにか江戸に留まるようにもっていったのか、
あるいは一橋家のほうから、竹本じゃなくて慶喜さんと意見の合う(ともに開港開市派)の岡部
にかえて、と老中筋にかけあったのか、いずれにせよ、そういう理由のような気がしてきました。
(でも慶喜ファンとしては、岡部に代わってよかったです。だって、岡部だったからこそ、
上洛して神経衰弱になった慶喜に、江戸から旧知の松本良順を呼んで大胆な方法で早期治療
をやってのけましたでしょ。竹本だったら、・・・・・・うーむ、ノーコメント(笑))

そして、こののち、生麦賠償問題で大活躍する竹本甲斐守ですが、
賠償交渉の全権委員として、京から小笠原図書頭が江戸へやってくると、
とたんに、生麦交渉の場から姿を消し、イギリス公使たちに心配をかけたのでした。
(イギリス公使たちは、数年前に外国奉行の堀織部正がプロイセンとの交渉から消えたとたん、
切腹してしまった例を思い出して、竹本の身を心配した次第)
でも、これも、いろいろな本で、小笠原と賠償金の支払い方法で対立し、それきり竹本は交渉委員を
クビになった・・・・・という説がありましたが、さてはてそれもどうでしょうか。

竹本甲斐守、ひょっとしたら、嫌いな人と一緒に仕事なんかできないので転属させてもらえますか、
といえる、当時では珍しく、老中たちにNOと言える男だったのかもしれません。
(ちなみに、竹本はこののち京へ行きますが、小笠原があの率兵上京事件で御役御免になると、
さっそうと外交交渉の場に、復帰するのです(笑))

竹本甲斐守は、外国奉行としてたいへん優秀な人で、このあとも
長らく外交を担うことになります。
ひとつの役職に長くいると、とかく出る杭として、良い評価をもらえないらしく、
竹本のことも、当時の人物評でけっこう賛否両論ですが、
とにかく激務で体調をこわしても、働き続ける姿は実に立派で素晴らしい方です。

慶応4年まで留守居をつとめて、徳川瓦解ののち、江戸で隠居生活をするわけですが、
最期がお気の毒。
明治元年10月、治安が悪かったせいでしょうか、
にわかに自宅に押しいった強盗によって、殺害されてしまうのでした。享年43歳。

この竹本正雅については、論文ですが、
竹本正尚「外国奉行 竹本淡路守」(『古文幻想』1号)
松平千秋「旗本こぼれ話 外国奉行竹本正雅と幕末外交1~3」(『大日光』72~74号)
に詳しく書かれております。
興味をもたれた方はぜひチェックしてみてくださいませ。

わたしは初期外国奉行ファンですが、後期外国奉行では、浅野氏祐とともに、
この竹本正雅のファンです☆
浅野は史料を読んでいても、けっこう喜怒哀楽をみせてくれるのですが、
竹本はいつも隙のないほど完璧な人で、いまいち人柄がみえなかったのでした。
でも、このフランス公使とのやりとりで、慶喜嫌い、小笠原もついでに嫌いらしい!?
そしてその件では我を忘れて暴走するんだ♪かわゆい、という竹本の一部分を覗くことができて、
なんとも嬉しくて(笑)、ついつい記事してしまいました。

なので、どうかこの記事だけを読んで、竹本を判断しないでくださいね!
いつもはこんなに感情的に語るタイプじゃなんですよ~~~っ
すごくきっちりとお仕事する人なんです☆
(ううむ、これでフォローできているといえるのだろうかっっ)


ただ、いきなり慶喜について思いがけない返答をくらったときの、ベルクールの表情がどんなだったか、
かなり興味津津です(笑)。
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by aroe-happyq | 2015-12-23 14:30 | 外国奉行ズ | Comments(8)

永井尚志の評伝!!

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 高村直助 著

 「永井尚志 
 皇国のため徳川家のため 」

 ミネルヴァ書房


 出版社公式ページ→こちら

 アマゾン→こちら








師匠から発売を教えていただき、無事に本日発売日に読むことができました☆

といいますか、やっと評伝が出た!!!!!

いや、もともと伝記はあるのですが、私家版ということで書店店頭でお目にかかれぬものでした。
なのでアマゾンでポチれる、そんな手にとりやすいかたちでの評伝の出現が待たれるところでした!

ミネルヴァ評伝シリーズでは、すでに「古賀謹一郎」とか「栗本鋤雲」「塚本明穀」など
永井尚志周辺の人物の評伝が次々と刊行されているなか、ようやく・・・・・・ですが(汗)。
(前者ふたりはさておき、塚本さんのあとか・・・・・というのは、少しある(笑))

さっそく読んでみましたが、
そもそも著者の方は「小松帯刀」の評伝を書いたおりに永井を知って、興味をもたれたとかで、
どっぷり徳川愛まみれというわけではないのですが(笑)、
しかし永井の調査は身を以てその苦労を知っているので(現在進行中)、
本当に苦労されての執筆だったと勝手に想像しております。
にもかかわらず、たいへんに誠実に調査されていらっしゃり、
永井の人生を一冊でさくっとわかる本になっていました。

永井尚志に興味をお持ちになったら、ぜひぜひまずはこの本を手にとってください!
オススメです!

誰からも慕われる温厚な人物であること、そして素晴らしい功績の数々に関してはもちろんですが、
永井のもうひとつの魅力こと、
酒を愛し(ホントは煙草もね)、漢詩をよむ、江戸の風流人の部分もしっかり紹介されていて、
永井ファンとしては、嬉しいかぎりです。

この評伝を読まれて、さらにコアな永井情報を知りたいな、という方は、
うちのブログのカテゴリー「外国奉行ズ」をチェックしてみてくださいネ(笑)。
(しょーもない小ネタはマニアにおまかせあれ(爆))


ただね・・・・・ひとつだけ、どーしてもひっかかったんです。
この評伝の宣伝ワードなんですが、

龍馬とは「ヒタ同心」、変革と共鳴した異色の幕臣。


って、やっぱり永井でも坂本龍馬出さないとダメなんですか!?
せめて、側近なんだから、徳川慶喜出してくださいよぉぉぉお
(百歩譲って勝海舟とか!榎本釜次郎とか!いるじゃありませんか!西国人使わなくてもさ)
とこれだけは、本を手にとった瞬間、
「嗚呼・・・・・ミネルヴァさんあなたもですか」と肩をおとした次第。
そう考えると、坂本龍馬出さなかった大河「徳川慶喜」はなんて偉大な幕末ドラマだったことか!(笑)

というのはさておき、

次こそは評伝「岩瀬忠震」、待っています!!!

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by aroe-happyq | 2015-09-10 18:16 | 外国奉行ズ | Comments(6)
UPするのが、すっかり遅くなってしまいました(汗)。
(数日間、非公開にしてせっせと打ってましたっっ)

ちょっと前に、攘夷について真面目に調べてみようと思い立ち、
やっぱり、基本の藤田東湖さんにきいてみよう!ということで、
東湖祭りをしていた時期がありました(笑)。
東湖はたくさん苦労もしていて、なかなか素敵な人物でありました。
ただ、攘夷発言となると、頭がかたくて、困ったちゃんで。
で、この東湖祭りのストレス(だってあたくしは開国派なので)発散として、
文久あたりの外国奉行についても同時並行して読みあさっておりました。

今回は、その途中でみつけた、とある外国奉行の率直すぎて外国公使を感動させて、
そしてわたしは読んでいてたまげたという(笑)、
そんなやりとりについてシリーズでお送りします☆

その外国奉行とは、俊才の宝庫とされて有名な5人の初期外国奉行のあと、
後期外国奉行とでも申しましょうか、そうした時期に活躍した「できる」外国奉行
の双璧とされる松平石見守と竹本甲斐守(図書頭などのときもある)。
そのなかの、竹本甲斐守のほうを紹介します。
(松平石見守はこのとき、遣欧使節としてヨーロッパへ行き、江戸を留守にしていました)

時は、文久2年12月9日。

この数日前まで朝廷からの勅使(三条実美ら)がやってきており、
攘夷の決行をふたたび家茂将軍に迫っていた、そんなおりでございました。

竹本甲斐守はこのとき、大目付兼外国奉行。
もともとずっと外国奉行でしたが、二ヶ月ほど前に大目付になって一旦は外国事務から
ちょっと引いていました。
朝廷勅使がきて、いよいよ家茂将軍が上洛することが決定すると、
大目付竹本甲斐守は一橋慶喜とともに先乗り隊として京へ入ることになっていたのですが、
(もう指令書も出ていたぐらいにほぼ決定だった)
のが突然、12月8日、上洛御用が解かれ、ふたたび外国奉行兼任となりました。
(竹本の代わりに、大目付岡部駿河守が一橋公とともに上洛することになります)

この当時、上洛チームと留守チームとで人事のいろいろなやりとりがあったようで、
「竹本は江戸に残して貰おう」と留守チームの外国局ががんばったのかもしれません。
この年、文久2年8月には例の生麦事件も発生しており、その場面でも
英国側との交渉で竹本が大活躍しておりました。
京都へ行って攘夷ボケの朝廷を説得する役割よりも、外交交渉ですでに場数を踏んでいる
竹本には留守番チームのほうが合っていたのかもしれませんが、
・・・・・・それだけではないかもしれません(笑)。→その事情は②のほうで

さて、前日に外国奉行に復帰した竹本甲斐守は
同僚の竹本隼人正(竹本甲斐守とはいとこ同志)とともに、
さっそく9日、横浜へ出張します。
それは老中からの密命を帯びた大切な出張でした。
(細かい情報ですが、乗った軍艦は咸臨で船将は矢田堀景蔵でした(笑))

彼ら二人の訪問先はイギリス代理公使&フランス公使。
どちらでも、ほぼ同じ内容の話をしているので、
より詳しく記録が残っているフランスバージョンのほうで話をすすめます。

ちなみに今回引用させていただくのは、
『幕末のフランス外交官 初代駐日公使ベルクール』
(アラン・コルナイユ著 矢田部厚彦編訳 ミネルヴァ書房)
です。

会見場所は神奈川沖に停泊中のフランス艦「デュプレックス」号。
竹本は、再び外国事務にたずさわることになった挨拶をベルクールにおこなうと
さっそく本題に入った。
この日のホントのテーマは、御殿山に公使館街をつくる計画を止めるようにという、
勅命がくだったため、要するにフランス公使館を別の場所にしますよという
そういうお話でした。
ベルクールは西洋的な建物の御殿山フランス公使館の建設を楽しみに
しており、日本側としては説得が難しいと考えていた。
そこで、この日の作戦は「日本国内の現状をありのままに語り、苦しい徳川公儀の
立場を理解してもらおう」というものでした。

竹本「これまで外国代表と幕閣との会談において、日本側は常に不幸な事件の発生の原因は
   輿論の不満にあるとだけ申し上げてきたが、これまでのところ、漠然とお話するだけで詳細を
   ご説明することはしなかった。そのため外国側は常に不審を抱いておられることになった」

ベルクール「外国の常駐代表だけでなく、本国政府も同様である。相互関係に信頼を築く上に
   最善の方法は相互的率直である」

竹本「これまでその率直さが日本に欠けていたので、貴公使は日本の情勢の現実に
   疑問を抱いておられた。そのことを知った将軍は、貴公使を往訪して、明瞭かつ率直に
   状況をご説明することを命じたのである」

と前置きがあって、本題に突入する。

竹本「ただいまから、いわゆる国民的感情なるものがどこから来るかを貴公使にご説明する。
  (・・・略・・・・)大名たちがすべて外国人の敵であるわけではなく、そのうちの数人だけである。
  それは外国との条約を結んだ幕府が友好関係の増進を図るうえでの障害とはならないだろう。
  ただ、
島津毛利のような藩主は、その家臣のなかに外国を敵視する者がおり、
  彼らは外国との友好関係を結んだ幕府の非を唱えて、しばしば朝廷に不満を呈している。
  外国人にあったこともない天皇は事態について何も知らず、いったい幕府が外国と関係を
  結んだことが良いことなのか悪いことなのかも分かっていない。
  しかし天皇は、反対派大名たちのたび重なる苦情を信用してしまった。
  そこで天皇は、将軍に書簡を送り、何故幕府は外国と通商条約を結び、
  外国人の日本滞在を許したのかを詰問して、幕府のとった行為に抗議した」
(・・・・略・・・・)
ベルクール「反対派大名は、さきほどの二人だけか? 土佐公もそうではないのか?」
竹本「反対派はほかにもいるかもしれない。しかし土佐公はわれわれの味方で、ただ
その家臣のなかに反対派がいるだけである」
(上記『幕末のフランス外交官 初代駐日公使ベルクール』148P~149P)


ちなみにイギリス代理公使ニール中佐には、アーネスト・サトウの記録によると、

竹本は朝廷およびその背後にある攘夷派の大名との関係で、幕府が置かれている
苦境を正確にニールに伝えるため、老中の命によって横浜に派遣されたと説明し、
その攘夷派とは誰かとニールに問いただされて、
薩摩長州の名をあげた。
(『遠い崖 アーネストサトウ日記抄 1』213P)

なかなか率直な発言でございましょ???
これ竹本の独断の発言ではなく、この日は老中の使者だったりするのです。
(なので、竹本というよりは、徳川の率直な発言といえるかもですネ)

文久2年末の時点で、徳川として、こんなにはっきりと薩摩&長州のことを敵として
みていたことにも驚きましたが(まだ薩摩や長州が「討幕」とか言い出す前だし)、

それにしても、こんなに名指しか!(笑)

って感じです。
(この発言の約8ヶ月後に、糺問使中根市之丞一行は長州で奇兵隊に虐殺されるわけですから、
ううむ、たしかに敵だな!(爆)・・・・・・だが薩摩とは京で一緒に戦っていましたが・・・)

これを聞かされたベルクールも、ニールも、
それまで日本の国内情報は適当に誤魔化され続けていたため、
あまりにも率直な竹本の発言に、素直に感動したらしい(笑)。

もちろん、これも作戦のひとつで、英仏から家茂のために軍事的援助を
引き出すためだったりしました(笑)。

外交交渉はなかなか、虚々実々の世界であります。
(ちなみに御殿山公使館問題は、フランス側としては別の場所は嫌だという回答でした(笑)。
ところが、数日後に御殿山に建設中のイギリス公使館が長州人に焼き討ちされてしまうので
嫌もなにもなく、英仏ともに横浜に公使館を作ることになります)

さて、竹本甲斐守については次回の②で書くとして、
今回はベルクールについて、ちょっと紹介しちゃいます♡

というのも、親日的なフランス公使といえば、ロッシュが有名だと思うのですが、
いやいやいやいや、実はこの初代駐日公使のベルクールの功績あってのロッシュの活躍
に繋がるのです。

安政以来、ハリスの活躍で、日本政府(徳川公儀)の外交顧問的役割は
アメリカがやってきていたのですが、この文久当時は南北戦争のために東アジアへ
軍艦を派遣する余裕がなく、「軍事的優位=発言権の強さ」の時代でもあり、
日本におけるアメリカに立場は弱まり、
かわって、軍事力でも、また日本の対外輸出80%を占めるようになった
大英帝国が、いってしまえば、大きな顔のできる立場となると、アメリカを排除するように。
たとえば生麦事件の外国交渉(薩摩じゃなくて、徳川とのね)では、アメリカ公使プリュインは
なんら仲介役を果たせなくなっていました。
そこに登場したのが、知的で冷静なのにたまに熱い魂がみなぎる、ベルクールさん。
彼はクリミア戦争以来、イギリスと軍事同盟関係であるフランスの立場もあり、
生麦賠償金交渉が難航するなか、
ニールに対して、アドバイスできる立場であり、また徳川方の外国奉行などとも友好な関係を
築いて、イギリスとの橋渡しに尽力しました。
正直、生麦交渉が暗礁に乗り上げ、日英は戦争寸前までいきましたが、
ベルクールさんが昼夜を問わず(だって、夜中の12時とか、朝の7時とかに
神奈川奉行が駆け込んでくるんですよ。よく相手してたと思いますでしょ?)対応したおかげ。
その功績もあって、横浜の治安維持隊の指揮権を得たりと、チャント見返りも得ましたが、
元治元年に任期を終えて、帰国することになったら、徳川公儀から留任運動が起きたぐらい、
ベルクールは日本において、信頼を勝ち得るわけです。

留任運動については、以下の論文の5Pめにあります☆↓
西堀昭「初代フランス特命全権公使ギュスターヴ・デュシェーヌ・ド・ベルクールについて(2)」
PDFはこちら

今回引用させていただいた『幕末のフランス外交官 初代駐日公使ベルクール』を読んでも、
日本(というか徳川ね)への想いが熱いです。ロッシュと良い勝負かもしれません(笑)。
なので、こののち、徳川がフランスと接近するきっかけを作ったのは、ベルクールということで、
ちょっと知名度ないので、ここでこの人物のことを宣伝しておきたいと思います。

あ!(1)のほうも、紹介しておきましょう。
西堀昭「初代フランス特命全権公使ギュスターヴ・デュシェーヌ・ド・ベルクールについて(1)」
PDFはこちら


というわけで、外国奉行の率直すぎる発言②に続きます!
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by aroe-happyq | 2015-08-06 18:34 | 外国奉行ズ | Comments(8)
パート1にあたる記事は、こちら

一年以上も前の記事に突如、続きができたのは、まったくの偶然にもうひとつ史料と
めぐりあったからであります(笑)。

1のほうは浅野側の談話ですが、2のほうは同じことを慶喜が伝えた書簡でして、
びみょうに両者の描写が違うので、これはおもしろい!と思いまして紹介する次第です。

今回の書簡史料は、『小笠原壱岐守長行』(近代デジタルライブラリーで公開中→こちら
この本の201Pに、その書簡が載せられております。

宛先は在京の板倉&水野老中。
慶喜としては東帰したときの様子を伝えようと思って書いたようです。
(ただ、こののちほどなく、将軍後見職を辞めるという流れがあることを頭に置いて読んだ
ほうがいいかもしれない書簡です(笑))

そのなかで、
(文久3年5月)八日八時前、金川(神奈川)へ着、其より同所奉行を呼出、

イギリスとの生麦賠償問題の経緯をたずねたりして、
その後慶喜が(それが使命なので)賠償金支払い拒否、そして鎖港談判実行の話に及んだところ、

両人大に怒気を含、如何成訳に而攘夷の御請致し帰府いたし候哉と種々及議論候故、
京師の御模様委細に相話、此度は是非とも攘夷不被遊而は御請の証も難相立、
御職掌へ被対御済不被遊候旨段々及説得候処、
たとへ上(家茂)の御身は如何様被為成候とも皇国の御ためにはかへられずと
更に取敢不申、猶及議論候処、此上強而攘夷被遊候に於而は
小子(慶喜)を差殺候もの必出来可申旨申聞候


となったという。

ポイント①は、浅野談話では語られていませんが、


両人大に怒気を含


となんだか最初からブチ切れていた様子だったこと。

浅野談話では、部屋の外には攘夷派の猛者で溢れかえっているので、
あまり大きな声を出さないほうがいいと慶喜に注意されていたにもかかわらず、
開港開市への熱い想いとこの数ヶ月に及ぶ賠償談判のストレスからか、
ついつい大きな声になってしまったのかも??

そしてポイント②は、
たとへ上(家茂)の御身は如何様被為成候とも皇国の御ためにはかへられず

これは浅野談話では「君家の禍害は君家の禍害にとどまりて、
日本不実・不信の名実は、わが皇国の安危存亡に関わるものなり

にあたる所だと思いますが、
慶喜書簡だと、「日本のためなら家茂の御身がどうなってもいい」という、
さらにセンセーショナルな言い回しになっています(笑)。

そして最大のポイントはその③。

此上強而攘夷被遊候に於而は
小子(慶喜)を差殺候もの必出来可申旨申聞候


これ以上、攘夷をすすめるならば、あなた(慶喜)を刺し殺そうとする者が
必ず現れる、とはっきりと脅迫された、というのです(笑)。

いろいろ慶喜の本とか史料をみてきましたが、
こんなに露骨に慶喜と対面している状態で、暗殺をほのめかすような脅迫をやらかした場面を
みたことがありません。神奈川奉行たち、なかなかツワモノであります。

それにしても、
浅野談話とは随分と違う雰囲気だったことが慶喜書簡では語られております。

慶喜書簡のほうが5月17日の書簡ということで、生々しいわけであり、
浅野さんは明治以後、公爵徳川家の家令となって、そのあとの談話でもあり、
まさか徳川家の人をブチ切れ状態で、脅迫しましたとは語れないし、
ひょっとしたら数十年たって、浅野のなかでは美しい思い出になっていて、
そういう都合の悪い記憶はなくなっていたのかもしれません(笑)。

ただ、慶喜もほうもこののち、後見職を辞めるわけ(20日に辞表提出)で、
「関東でこんなたいへんな目にあっているのだ」調の書簡演出がなかったかというと
さてさて、そのあたりは疑問だらけでございます。

どっちの言い分をとるというよりも、どちらの言い分の中庸をとっておけば、
このあとの厠へ立つ慶喜公のかっこいい演技(笑)はそのままいけそうなので、
(やはりこの部分は本当であってほしい一番のポイントかと(爆))
今のところは、そういうことにしておこうかと思います。
ただこれはわたしのただの私見ですので、みなさまそれぞれに、
解釈なさっていただければ幸いです☆
なにせ、解釈の自由こそが、こういう史料と接する醍醐味でありますから♪

(以下余談)
実は、浅野談話では神奈川奉行が浅野&竹本になっていますが、
慶喜の書簡だと浅野&山口になっています。

で、いろいろ調べた結果、山口信濃守が同行したことがわかりました。
『横浜市史』資料編5 260Pをみると、
この日、神奈川にいるのは浅野&山口なんです☆

とはいえ、『慶喜公伝』には浅野しか登場せず、もうひとりの神奈川奉行は出て来ません(笑)
だって、ずっと一人で喋り続けていたので・・・・・。
山口の影はめちゃめちゃ薄い・・・・・。
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by aroe-happyq | 2015-02-17 14:34 | 外国奉行ズ | Comments(4)
本年は公式の届け出書類の日付のほう、
文久元年7月11日(1861年8月16日)バージョン
として、行ってきました。
(昨年は岩瀬忠震の弟分の木村摂津守の日記にある、
7月10日(西暦だと8月15日)バージョンですた)


今年は、岩瀬の命日に墓参へ行くようになって初めて!!!!
涼しかった~~~~~っっ(感涙)


毎年、なぜかお盆の季節、35度以上当たり前で、
初めていったときなんか、38度!!!
毎回、死にかけます。

それが今年は曇り空で、30度ちょい。
往復、歩きでしたが、
嗚呼・・・・・快適でした(笑)。

なので、いつもよりちょっぴり長くいられました。

先日、横浜にいったので、「岩瀬さんが強硬に主張しなければ横浜港なんか存在せず、
神奈川宿の狭いエリアが開港地になったはず。ハマっ子はそうした地元の恩人を知らず、
繁栄を謳歌しております。あまり良いことではありません。一日も早く県庁の横にでも、
岩瀬像がどーんと立つ日が来ることを願っておりますデス」
と報告しましたところ、とくに反応なし(笑)。
自分の銅像がどうとか、そういうのはあんまし、興味なさそうだな、岩瀬蟾州殿(笑)。
(ファンとしては、同じく横浜に立つ、エセ開国大老・井伊直弼像よりデカイのが、見たい。
それも横浜の海がみえる場所にネ←欧米を訪ねてみたかった岩瀬公へのせめてもの供養に)


さて、毎年のことなので、特に変化のない時は命日の記事はUPしないわけですが、
(たとえば昨年とか(笑))
今年は大きな変化が!!


d0080566_933379.jpg


岩瀬家のお墓へ通じる道にこれが立っているわけですが、
やけに周囲がスッキリ!!!

どうも後ろの木を切ったようです。

お陰で、「岩瀬肥後守墓通」が実にわかりやすくなりました☆

皆さんも雑司ヶ谷霊園へお運びの際には、ちょいと岩瀬さんところへも
寄ってやっておくんなさいまし。
結構寂しがり屋さんだと思うので、歓迎してくれると思いますヨ♡
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by aroe-happyq | 2014-08-17 09:54 | 外国奉行ズ | Comments(2)
中根香亭の『零砕雑筆』を読んだら、
かの初代外国奉行筆頭こと水野忠徳の詩が載っていたので、
紹介いたします☆

ただし、漢文を横に並べるといふ、暴挙に及びますが
そこはどうかご容赦くだされ(笑)。

○ 水野復斎の詩

  下田港漫吟

海鶻呼 風送 暮潮。 松声稷々沸  中霄。
   レ  二         二

夜来便有  清明月  。 独上 高厓  坐 寂寥  。
    二    一    二   一  二  一

忠徳初め復斎と号し、後痴雲と改む。嘉永の末、任官として筑後守と称す。
在職中の功績諸書に精しければ玆(ここ)に書せず。


               (『続日本随筆大成』4 308p)

水野サン、プチャーチンが下田にいた頃、勘定奉行でして、
川路聖謨や岩瀬忠震などなどと下田出張されておりましたので、
こういう漢詩を詠まれたのでしょう♪


さて、同じ本の中根香亭の『零砕雑筆』には筒井政憲の狂歌も収録されて
おりました。こちらはどこかで見かけた気もするのですが、
ブログで紹介したか憶えがないので、あわせて紹介(笑)。

○筒井鑾渓の狂歌

いぎりすもふらんすも皆里なまり度々来るはいやでありんす

鑾渓は政憲の号なり。若き頃赤坂鈴振稲荷の側に住みける故此の号ありと聞けり。

                   (『続日本随筆大成』4 269p)

さすが、筒井サン(爆笑)。やってくれてます♡
(筒井の息子さんの印象では堅物の親父サンだったらしいのだが、この狂歌をみると
とても柔らか頭で面白い人物にしか思えないのに・・・・(汗))
20年ものあいだ、江戸町奉行として活躍、その後は役職は別として、
阿部正弘のブレーンのひとりとして、外交を支えた冴えた官吏の代表ですが、
一方では長崎でロシア使節プチャーチン一行に「好々爺」として愛された、
魅力あるおじいさま♪しかしてその実体は・・・・!?

ま、いずれにしても、水野といい、筒井といい、才能豊かな人々です♪
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by aroe-happyq | 2014-07-31 18:07 | 外国奉行ズ | Comments(0)

アジアンエンタメ&お江戸後期。外国奉行や長崎海軍伝習所がご贔屓☆ BYはな。


by aroe-happyq