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東都アロエ

クリスマスよりも、忠臣蔵関連の話が出てくると、ああ・・・年末ねと感じる
はな。でございます(笑)。

というわけで、今年もそういう季節になったようですね♪

ええと、タイトルの内容は、本日の読売新聞(ネット)の記事です。

皇室に代々伝わる古文書や絵巻物などを所蔵する宮内庁図書課図書寮文庫が、
赤穂事件に関する資料を12月2日から初めて一般公開することになった。

とのことです。

読売新聞の記事→こちら

明治元年、江戸へやってきた帝(というか朝廷)は江戸っ子の人気を得ようと、
真っ先に赤穂浪士の名誉回復をした・・・・ということで、実は赤穂浪士とは
浅からぬ縁があるらしい。
でもでも、まさか、宮内庁の図書寮文庫に「浅野内匠頭家来口上書等」とか、
「吉良家日記」や「大石内蔵之助屋敷図」があろうとは。

宮内庁図書課図書寮文庫画像公開システム→こちら



しかし、宮内庁書陵部といえば・・・・・。

井上清直の日記があるんですよねぇぇ


上記のサイトで調べたら出てきたぁぁぁ~~~~~(感涙)

函架番号415・38

井上清直日記 (弘化3年3月4日―嘉永5年8月11日)

自筆  3冊


前にこの日記に関して叫んだ記事→こちら
(函架番号が一致している~~~~♪←と当たり前のことで感激している)

誰か翻刻してくれないでしょうかねぇぇぇ(他力本願)と、もう一度つぶやいてみる(笑)。
(兄貴の川路聖謨関連史料はうなるぐらい、ありますネ。でもそちらは『川路聖謨文書』に
かなりの量が翻刻済です♡)


と、それはさておいて。

忠臣蔵関連の公開もとっても嬉しいです☆

とくに、吉良さんに関する史料が目にとまりやすくなるのは、本当に有り難いです!
(あたくし、120%吉良贔屓でございますゆえ)
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by aroe-happyq | 2013-11-27 17:56 | ちょっと元禄・正徳 | Comments(4)

伊奈忠順、関連の本

昨日放送のNHK歴史ヒストリアで、
宝永噴火の復興に尽力した関東郡代伊奈忠順が取り上げられていました。

元禄~正徳を愛する(その割にいまだ幕末ほど深く掘り下げられていない・汗)
この時代・・・・というよりは家宣ファンのわたしとしては、
いつも忠臣蔵以外取り上げられてもらえない時代なので、
こういう機会に知っていただけたらなにより♪なので、
伊奈さん関連本を紹介します☆
(とはいえ、紹介しますなんて言えるほど詳しいわけではないのですがっっ)


まずはノンフィクションとして知りたい方には・・・・。


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永原慶二 著

富士山宝永大爆発  集英社新書
  

アマゾン→こちら








新書なのでさくっと読めるのではないかと思います♡



続いて、この番組で伊奈代官に興味を持たれた方におススメの小説♪


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新田次郎 著

怒る富士〈上〉(下)  文春文庫


アマゾン→こちら







物語として、伊奈さんに会いたい方はこちらをどうぞ♡


どちらにしても、綱吉政権末期~の政治のダメダメぶりが
読んでいて妙に・・・・・現代人の自分にもリアルに響いて、
二百年以上前の世界とは思えない親近感がありました(涙)。

それと反対に伊奈忠順の不屈の精神の素晴らしさが、
今となっては幻(こんなに立派な心を持つ官吏、見たことないし!)なのが、
さみしく、せつないのであります。
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by aroe-happyq | 2013-03-07 10:47 | ちょっと元禄・正徳 | Comments(0)

前々回の記事で火消し調べているよーと書いたら
「有名どころの面白い話教えて~」とリクエストをいただきましたので、
ちょいとひとつ、書かせていただきます☆

タイトルに登場した、浅野内匠頭長直さん。
この人は播州赤穂初代初代城主さんで、
アノ、討ち入りの原因をつくった浅野内匠頭長矩の祖父にあたる人物。
赤穂といえば塩!とまでいわれる「赤穂塩」の塩田開発&販売促進に大成功、
また山鹿素行を招き、兵学を赤穂に広めたりと名君とされる人です。
ただ、塩田開発や新内裏造営掛りとなって費用がかさんだゆえか、
年貢のとりたてが厳しかったため、地元では人気がなかったとの噂もあったり、なかったり(笑)。
(この影響で、元禄になって浅野家が赤穂城を明け渡した際、
領民のみなさんに「領主が変わって、せいせいした」と赤飯炊かれてお祝いされてしまったという
哀しいエピソードが生まれてしまうわけですな・・・・・・・・(涙))

しかし!江戸では大人気のお殿様でした。
というのも、火消しのプロフェッショナルだったからです。

奉書火消(大名火消)に命じられた大名は数名いたわけですが、
ぶっちゃけ江戸城と自分の屋敷が燃えなきゃいいじゃん、というくらいの消防体制
なのがほとんど。あんまり費用もかけたくないしーというのが本音でしょう。

ところが浅野公は、本気で火消しに取り組んだ貴重な人。
江戸初期~中期は、まだ町火消しもなく、ようやく定火消(旗本火消)制度が
立ち上がろうという時代。江戸庶民が頼るのは奉書火消だけという残念な状況でした。
そんななか、浅野長直は日頃から消防訓練をかかさず、
いいかげんに訓練している家臣は処断する!とまで言い渡し、
とても熱心に江戸消防に従事していました。

それにもまして、いざ本番のときのすさましい機動力!
『松雲公御夜話』(国会図書館のデジタルライブラリーからDLできます)
によれば、浅野内匠頭(もちろん長直のほうね!)は
かならず火を消し留める、火消しの上手なので、
内匠頭が出動すれば、江戸の人々は「最早火事が鎮まった」というぐらいであったという。

時には燃えさかる火事現場の屋根に家来たちと共にあがり、
そばの物置が燃え出すと、その屋根へとダイブして押しつぶすという荒技で
消火したという(上記『松雲公・・』より)。
破壊消防というと、後世の町火消しの得意とするところですが、
なんと大名では珍しく率先して自ら破壊消防していたというツワモノです。

ここまで真剣に江戸の消防に尽してくれたら、そりゃもう浅野内匠頭(初代)は
江戸のスーパーヒーローでありました。

黒木喬氏は『江戸の火事』のなかで、
松の廊下で刃傷事件をおこした内匠頭長矩に対する
江戸住民の同情は、祖父の長直の業績があったからではあるまいか。

と触れているのですが、さもありなんとも思えます。

討ち入りの際、火消し装束だったり、吉良家門前で「火事でござる」と
奉書火消しのノウハウを使いまくっているのも、また面白いです(笑)。

そんなわけで、江戸では元禄までは「浅野内匠頭」=火消し上手の長直公
であったと。
一生懸命がんばったのに、
お孫さんたちの騒動で、すっかり忘れさられてしまって、ちょっと気の毒ですっっ。
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by aroe-happyq | 2012-07-08 11:35 | ちょっと元禄・正徳 | Comments(4)

特別展と違って、常設展示会場で開催される企画展ですが、
かつての家茂展のように、特別展よりも充実した内容だったり
することが多いように思います☆

で、6Fで「将軍綱吉と元禄の世」展、5Fで「旗本がみた忠臣蔵
をみてまいりました。
近ごろ、うっかり行くのを忘れていて、最終週に駆けつけるパターン
ばかりですがこれもまたそのクチ。
なんと本日で最終日だったりいたします(汗)。

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by aroe-happyq | 2010-02-07 14:47 | ちょっと元禄・正徳 | Comments(10)

徳川家宣、又の名を綱豊君ファン歴はや20年。

綱吉と吉宗に挟まれ、いまいち地味な将軍なので、
大河の主人公になる予定もゼロ。
ですがそんな彼にも唯一主人公として存在できる演目があるのです。
それが元禄忠臣蔵の御浜御殿綱豊卿の段

というわけでこの公演があると綱豊のキャストがとんでもなく老齢でない
限りは鑑賞に出向いてまいりました。
そんな御浜御殿綱豊卿の段ウォッチャーとして
こちらのブログで好き放題語って参りましたが、
またまた御浜御殿綱豊卿の段が公演されるとことでチェックしましたところ。

新春浅草歌舞伎情報サイト→こちら

ぬわんと今回、

甲州綱豊卿を片岡愛之助さんが演じられると!

かつて2006年9月30日付の記事で、
正直申せば、今回11月国立、出演者のお名前を拝見して、
是非是非、片岡愛之助さんに演じていただきたかったなぁと。
気品、口跡、どれをとっても貴公子綱豊卿にピッタリ。
この人の綱豊になら説得されちゃうだろ、富森も・・・・と(笑)。
実はずっと前に放映していた、「夜桜お染」(フジTV)で愛之助さんを
初めてみたとき、「この人に綱豊卿を演じていただきたい」と勝手に
心の指名をさせていただいておりましたもので(爆)。

と云ったものですが、まさか3年で実現するとは思いませんでした!!!

だが浅草歌舞伎は一般じゃチケなんかとれんぞ~~~~(爆)。
いちおーーーチャレンジはしてみようとは思いますが、
おそらく玉砕は覚悟しておりまする(笑)。

いやーそれでも嬉しいですね~~。
愛之助さんですとちょうど年齢もほぼ同じですし、きっと素敵な綱豊卿でしょう☆

家宣ファンとして久々に感激のニュースでした!
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by aroe-happyq | 2009-11-17 14:53 | ちょっと元禄・正徳 | Comments(6)

根津権現

先日、日暮里の本行寺にいったついでに根津神社にいきました。
けっこう何度も行っているのですが、今年は今回がはじめて。

なぜ根津神社かというと、ここはかつて家光の二男、甲府宰相綱重の下屋敷。
そしてここで綱重の長男の綱豊(のちの6代将軍家宣)が生まれた場所だったりします。
もちろん、家宣も祀られている一人。
そんなわけで、神田明神とならんで、
なにかの折りにご挨拶にやってくる神社であります。

厄年にたまたま参ったおりにもなんとなく誰かに注意するよういわれて、
その年内に見事手術にいたるとか(笑)、
幕末の秘境へ導かれた『長崎海軍伝習所の日々』を読むにいたるに関しても、
ほんの少し根津権現の導きがあったように思えることもあったり。
自分にとっては、なにかとご縁のある神社です。

で、その日もご挨拶に・・・・・・・・・・いったのですが・・・・・・・・・・・


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こ・・・・・・工事中でした(笑)


近々、根津へおいでの方はどうぞご注意くださいませね☆(涙)

でも!社殿以外は工事はしておりません。

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きれいでございます♪
(たしか国宝だか、文化財だか。古い建造物だそうです)


神社内にはいろいろ見所があるのですが、
(6月にはあじさいの名所であります←毎年行くの忘れるんですよ~~)
甲府藩下屋敷として、もっともその姿を偲ぶことができる場所というと、

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一番にココでしょう!↑

なにかといいますと・・・・・・・・・・・(説明版、拡大!)

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家宣が母親から出てきたときのおまけ品を埋めた場所です(笑)。
昔はこういう習慣があったようです。
徳川家のほかのものと比べ、形式が素朴・・・
とありますが、それもそのはず。
家宣(綱豊)くんは隠し子。生後まもなく家老の新見家に引き取られていきましたので、
(保科正之パターンでありますね)
こういう塚もこっそり・・・・・つくられたはず(笑)。
そんなこんなで素朴なのでしょう。

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根津神社でもっともお気に入りの場所です。
下屋敷のころには築山だった?場所から池を見下ろすわけですが、
とても気持ちのよい場所であります☆

もちろん、綱豊も9歳で実家に戻されてからこの場所から庭をみていたものと
思われますので、まさに偲ぶにはもってこいの場所です。
都内にはここのほか、浜離宮(旧甲府藩下屋敷)、日比谷公園(旧上屋敷)
など家宣スポット(爆笑)はたくさんありますが、こちらもなかなかオツでありますヨ!
日本にいったい何人おられるかわかりませんが、家宣ファンのみなさま、
社殿がリニューアルの際にはぜひこちらへもお立ち寄りください♪
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by aroe-happyq | 2009-07-07 19:00 | ちょっと元禄・正徳 | Comments(2)

浜離宮公園の入り口そばには、三百年の松というのがあります。


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ライトアップされるとなかなかゴージャス♪
今では都内最大級の黒松だそうです。

この松をみたら、ひさびさに綱豊愛の扉が開いてしまいました☆

この松は元禄時代、甲府中納言(宰相)徳川綱豊がこの海手下屋敷改修のおりに
植えたものだそうです。
それが三百年前。
つまりは、綱豊卿は三百年の人・・・・・なんですよね(笑)。
(綱豊、綱豊いってますが、晩年には6代将軍家宣になる人です)

幕末とは反対に、史料が少なくて困りつつ、20年。
徳川実紀も100%信用できないので、
なかなか真の姿が掴めない、だからこそ面白い人です。

綱豊の父、3代将軍家光の弟・綱重は甲州家の当主となりました。
(さらに下の弟が館林家の当主となった綱吉です)
綱重は幼い頃より、家康の娘の千姫(当時はおばあちゃん)に可愛がられて、
屋敷に出入りしておりましたが、そこの女中の保良(ほら)という女性と恋仲に。
やがて綱豊が生まれるのですが、その当時、綱重には京の公家娘との婚儀の話が
あり、泣く泣く・・・・保良と別れ、赤子は甲府家付け家老の新見正信に引き取られることに。
綱豊は新見左近と名づけられ、駿河台の新見家で正信の子としてのびのびと育つのでした。
ところが、綱重は保良とこっそり復縁し、また男子を授かったりするのですが、
正室とのあいだには子ができません。
そこで8歳になった左近は「実はお前は主君の子です」と衝撃の出生の秘密を
明かされ(笑)、甲府家に引き取られます。
(このおり、左近が綱重の実の子かどうか、甲府家内が割れて大騒動になりましたが、
赤子の頃の左近のホクロの場所を幕府にあらかじめ届けでていた新見の一計のおかげで
無事に落着。新見正信は責任をとって甲府に隠居となりました)
この当時は4代家綱の時代でしたが、
幕政は大老酒井雅楽頭が強大な勢力をもっていました。そして甲府綱重はこの酒井と対立。
綱豊が15歳のとき、父の綱重は突然「急死」してしまいます。
ケンペルが長崎から江戸に出てきていたのですが、あくまで噂として「酒井と争い、
綱重は切腹した」という情報をその著書「江戸参府旅行日記」に書いております。
・・・・かくて綱豊は突然、甲府35万石の当主となりました。
ところが、波乱はここで終わりません(笑)。18歳にして、今度は5代将軍をめぐる
後継者争いに巻き込まれてしまうのです。ライバルは叔父の綱吉。そして酒井大老が推す、
京の宮サマ・・・・・。味方はわすか一人、あの水戸黄門こと光圀でした。
結局、堀田老中のクーデターで綱吉が5代将軍と決定し、・・・・・それから30年。
おチビさんでねちこい性格の叔父さまにジメジメといじめられながら、
綱豊は江戸というアウェーのなかで、それなりに幸せをみつけて生きていきます。
綱吉もウザがるご意見番の水戸光圀を父代わりに、
また正室となった近衛煕子とは仲良し夫婦となり、
22歳のころには美貌にして賢い能役者の西田右京、のちの間部詮房という股肱の臣を得て、
30代には侍講に新井白石、侍医に西洋外科の桂川邦教などの面白い人々に囲まれ、
・・・・・・・世を拗ねることもなく、心優しく、ひたすら静かに。

やがて叔父さん綱吉の浪費のツケに苦しめられる6代将軍時代、そして過労死する
たいへんな晩年はさておき、
それまでの30年は猿楽と学問を愛しつづけ、
今の日比谷公園を上屋敷に、浜離宮公園を下屋敷に持ち、優雅に暮らしたとのことです。

なにかどう興味があるかというと、やはりこの30年で捻くれなかったということでしょうか。
一説には6代将軍職をめぐっては、叔父の綱吉に呪詛までされてしまったという綱豊。
そのせいか、一服もられたのかは不明ですが、大病もしましたけど、
妙な逆襲心や野心も滾らせなかったという点も、素晴らしいように思います。

もっとも。この人がなにもしなくても、綱豊の「徳」を慕って、
男顔負けの政治力を持つ妻の煕子や、人を動かす才能に長けていた詮房が
ちゃんといろいろやってくれるのです(笑)。
(ふたりの女房がいるようなもんだし←元禄は衆道上等ワールド!ですからネ)
ちょうどこの松のように、周りの人々にとってはどっしりとしている主君だったのでしょう。
(「俺も詮房のような家臣が欲しかった。家宣公が羨ましい」と8代将軍を
悔しがらせたぐらいですから(笑))

綱吉と吉宗のインパクトには到底適いませんが、
だからこそ惹かれてしまった、6代将軍家宣・・・・・甲府綱豊です☆

(長年の綱豊ウォッチャーとしては、
10代にわけもわからず、将軍後継争いに巻き込まれ、破れるという不幸の痛さが
とてもわかってしまうので、ヘタレ慶喜に対してすんごく甘いワタシであります☆)

ふと三百年の松に導かれ、長々と失礼いたしました♪
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by aroe-happyq | 2009-04-07 19:24 | ちょっと元禄・正徳 | Comments(4)

よせばいいのに、やっぱり録画しちゃって・・・・みちゃいました。

嗚呼・・・・非道かった(涙)。
6代将軍マニア云々以前に、まずこれ・・・・映画すか???
映画というより、レターボックス仕様で作ったドラマスペシャルにしか
みえないんですけど・・・。
映画というには、スケールがあまりに小さすぎ(涙)。
せっかく大奥シリーズ最後の華・・・・なので、もっとどばーっと、
「おおー」というような壮麗さとか、凄みをみたかったな・・・・・。
(日本映画がせっかく好調なので、もっと野心的な作品お待ちしてます)

そしてマニア的にみても、キャラがみんな、設定が適当で、
この時代のマニア的にはあまりにも非道すぎて、
・・・・憤怒をこえて爆笑につぐ爆笑でした。

いちいちダメだしをはじめても、詮無きことですので、
世間には認められているかは知りませんが、
長きにわたる6代家宣フリークの
かき集めた史料、論文などから史実的公式情報(笑)だけを書きます。


○間部越前守詮房情報

・ 元は喜多流一門の能役者。能好きの甲府綱豊(のちの家宣)に手ほどきした際、
 家臣にならないかとスカウトされた(笑)。『甲子夜話』には眉目秀麗の詮房に
 綱豊が一目惚れしたとの話が載っている。
 生涯、一心同体というような親密なこの主従については、江戸時代のあいだでも、
 噂の的だったらしい(爆)。

・ 学問好きの綱豊だったが、能はもっと好き。
 そのため、将軍になっても演能した。側用人間部詮房はたいてい共演者(笑)。
 踊る将軍&側用人・・・・・だった。
 しかしむやみに能を催す宴会をやっていたのではなく、研究者によれば、
 旧甲州家系家臣団の会合の隠れ蓑として、薪能などを利用したとの話もある。
 (確かに、ただ遊んでいたとは、考えたくないもの・・・です(笑))

・ 間部詮房の滅私奉公ぶりは当時から有名で、家宣、そしてその子の家継を
 補佐した手腕も高く評価されていた。政敵であった紀州吉宗(のちの八代将軍)も
 「できれば自分も間部詮房のような家臣を持ちたいものだ」と知り合いへの手紙に
 書いている。朝廷の重鎮、家宣の岳父である近衛太閤もまた間部詮房を「顔だけ
 じゃなく、よく仕事のできる男」と高く評価していたらしい。
 お仕事ぶりを示す記録をみても、切れ者であったことは事実のようです。

・ 家継に対してはたいへん厳しく、父親の面影を詮房に求めようとする家継には
 距離をおいて接した。
 亡き家宣の遺言にこたえるべく、家継を良き将軍に育てようと教育に力を注いでいた。
 自ら幼少期に能役者として厳しく育てられた経験があるためか、
 けっこうスパルタ式だったらしく、このためか家継は間部詮房をちょっとこわがっていた。

・ 心血注いで尽くした家継が病で死んでしまうと、権勢に執着のない詮房は、
 将軍御養子に、政敵の紀州吉宗を迎え、鯖江に去った。
 本来なら味方筋の尾張公を御養子にすれば、自らも安泰だったのだが、
 尾張公に将軍としての器がないと判断し、すばやく紀州吉宗を選んだ。
 この決断力には政敵一同驚き、間部の政治的才能を再評価している。

・ 若い頃(二十代)主君甲州綱豊の斡旋で、一度妻をもったが死別後はずっと独身。
 妾などいっさいゼロ。晩年失脚後、鯖江に暮らした数年間、身の周りの世話を
 する女が一人いたらしい・・・・という記録以外、女性関係の噂なし。

・ 反間部派は最初、月光院と間部詮房のスキャンダルを吹聴したが、
 誰も信じなかった。この作戦が失敗したため、絵嶋作戦を展開する。
 なぜ誰も信じなかったか・・・。それは側用人として権勢の絶頂にいる男が
 再婚もしない、妾もいない・・・・・という一般常識ではありえない現象に、
 大名・公卿ぜんぶに 「詮房は女嫌い」というスペシャルなレッテルを
 貼られていたため。
 


○月光院情報  

・ 家宣にもっとも愛された側室。芯のしっかりとした江戸女であったらしい。

・ 家宣亡き後は家継を立派な将軍にすることに全力をそそいだ、教育ママだった。

・ 間部とは、共に家宣に寵愛を受けた者同士、実によきコンビネーションを展開。
 ただし、男女の関係にいたるはずも・・・・なし。
 (もしもあったとしても誰も信じないという哀しい状況ですが・・・)

○天英院情報

・ 大奥のドンにして、影の実力者である家宣正室の天英院(近衛煕子)は、
 「男であったらさそかし立派な政治家になったものを」と父(近衛基煕)に
 もったいがられるほどの才女。
 家宣や詮房とも、甲府宰相時代から政治家として協力関係にあった。
 女性という前に、老獪な政治家。江戸の風俗を嫌い、徹底的な京好み。
 (役者買いなんて、ありえないお下品な遊び・・・・という価値観のひと)
 
・ 紀州派と結んでいたが、間部とも協力関係・・・という二枚舌?

○江嶋情報

・ 芝居小屋の二階桟敷から、江嶋一行が酒をこぼしたのは事実。
 どうも久々の外出で奥女中ズはフィーバー(死語)していたらしい。

・ 彼女が犯した罪は、代参で外出したおり、門限に遅れたこと。
 そのときは門を通してくれたのに、数日たってから、急に詮議となった。

・ 江嶋は最後まで生嶋との密通を否定した。

・ 高遠で、かなりの高齢になるまで生き続けた。
 
○生嶋情報

・ 初代團十郎とともに超人気役者だった。

・ 江嶋一行の芝居見物の際、看板役者なので、江嶋に挨拶をし、
 ほんのお付き合いということで、宴席で相伴にあずかっただけ。
 その前もその後も江嶋に会った事はいっさいなし。

・ たったこれだけ↑のことで、遠島。
 あたら役者盛りをむなしくした、彼こそが本当の犠牲者。


・・・・もっとたくさんあるのですが、とりあえずこの映画と
関わりそうなところだけですいません。以上です☆

事件についてはちょうど一年前、
この映画上映の頃、やっぱり心配だったのか、
こんな記事にまとめてありました(笑)。

 
この江嶋事件の背景には反間部派の思惑もありましたが、
5代将軍綱吉以来の贅沢三昧の大奥バブルを潰して、倹約徹底へと
もっていきたかった、閣老の思惑もまた重なりました。
富士山の噴火、大地震・・・と度重なる天災で、柳営の金蔵もカラッポで、
大奥だけが昔のままにまかり通ることは許されなかったはずですが、
幼い将軍は大奥との関係なくして成り立たず、それをいいことに
天英院や月光院の女中たちが好き放題していたのは事実。
こんな荒療治をされる前に、自粛していたら・・・・・よかったのですが。
(でもそんな大奥なんかとまったく関係のない生嶋がいっそう哀れ・・・っす)

実はこの事件は、政治史的にすべて解明されていない、
幕閣のさまざまな力関係もかかわっている、とても複雑な背景をもっているようで、
とんでもない人数が連座と称して、追放されたり、処罰されている不可解さも
いずれ明らかにされていくことを願うばかりです。

つまり、ただの色恋ではすまされない、難しい事件だったのです。

・・・・・・・江戸時代の人々が少ない情報で、講談として面白おかしくフィクションとして
描くのはいっこうに構わないと思うのです。
我々が手にできる柳営の日記や、吉宗の書簡などを見られるはずもないのですから。

ですが、現代の我々はそうはいきません。
膨大な史料を手にすることが出来るし、多くの研究もされております。
そして我々が接する映画にしろ、ドラマにしろ、
こうした江戸時代の物語のなかに、いくつかの史実が組み込まれているので、
どこからフィクションかどうか、その境界線があいまいです。
そういう状況なので、歴史情報をこうした娯楽作品からそのまま受け取ってしまいがちです。

フィクションとして楽しむのはいっこうに構わないのですが、
その娯楽作品をそのままあたかも史実のように、信じないでほしいです。
いっそ、みーんなてたらめのフィクションさ♪とぐらいの気持ちで、
気楽にみてくれれば・・・・・こんな気苦労はありませんのに。
(現実には、これで彼らのイメージが固められてしまうわけで)

いつになったら、顔だけの男から切れ者詮房に復権できるのでしょうね・・・・・。トホホ。


なにを書かれても、なにも声を発することのできない、歴史の彼方の彼らの名誉を
こんな遠く離れた私たちが好き勝手に傷付けることだけはしたくないものです。
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by aroe-happyq | 2007-12-28 11:49 | ちょっと元禄・正徳 | Comments(2)

本日は幕末からちょっと離れて、元禄のお話です。


奥医師で蘭方外科の桂川家については、今泉みね『名ごりの夢』(東洋文庫)で
よく知るようになりましたが、その初代桂川邦教が史料が少なくて
いつも悩んでいたところ、
なんと!六代将軍家宣の侍医だったことがわかり、
どちらかというと幕末のことは置いといて、という状態で(爆)、
図書館へ走り、みねさんの息子さんの今泉源吉が著した『蘭学の家桂川の人々』
をチェックしてしまいました(笑)。

桂川という姓のとおり、もとは京都の出身。
同じく京の外科医・嵐山甫安に師事し、13歳のとき師匠に随って、
平戸、そして長崎へと西洋医術を学びにいく。
27歳のとき京に戻り、開業。おもに京の公卿の治療をしていたらしい。
京に戻って9年後の元禄9年、近衛家の推薦のよるものか、
江戸の甲州中納言綱豊に召抱えられました。
(綱豊の正室は近衛煕子。甲州家は近衛家とは昵懇)
この二人、年齢もさほど変らなかったため、とてもよい関係となったようです。
以後、家宣が江戸城にはいると、西洋外科初の奥医師となりました。
(これによって代々、桂川家は奥医師の家として続いていくのでした)

・・・・という簡単な略歴は以上でした。
さてこの桂川さんの記録によって綱豊卿のなぞがいくつか解決されたのでした☆

○「定府」(参勤交代をしなくてよいという大名のこと)である甲府藩藩主の綱豊ですが、
 よくものの本では「公式には一度も甲府に行ったことがない」と書かれて
 おりますが、桂川さんの記録によると、召抱えられて甲府にいったとあります。
いったというのは、もちろん藩主に随行したという意味だったりします。
 つまりは参勤交代はないですが、たまには本国甲府へも綱豊卿は足を運んでいた
 らしいという、確証ではありませんが、とりあえず「アリ」かもしれないことが判明。

○甲府家と赤穂浪士の関係。
 『元禄忠臣蔵』に甲府宰相綱豊卿の段があるぐらい、綱豊卿には、
 まことしやかに語られてきた、
 「将軍綱吉と仲が悪い綱豊は赤穂遺臣をなんらかの形でサポートしていた」
 という江戸の都市伝説(笑)がありました。
 これまでは綱豊の愛妾が赤穂家とかかわりがあった?とか、近衛家が応援していたので、
 自然と甲州家も応援するようになった?、ぐらいしか、その関係性が
 わかりませんでした。それもあくまで「?」だったわけです。
 確かに徳川実記を調べても、赤穂浪士が討ち入る数ヶ月前から、綱豊は「病気」と
 届け出て、登城しなかったり、なぞの行動が多いのです。
 一説には綱吉の母桂昌院に呪詛されて、ホントに病気になったという話もあるし、
 また当時、六代将軍の座をめぐって、綱吉は娘の婿の紀州候をと望んでいたので、
 甲州家と将軍家は「暗戦」の真っ最中で、万が一にも毒でも盛られてはと警戒して
 綱豊は登城を控えていたという説もあります☆
 ・・・・・と少し、話を戻して。
 そんなわけで赤穂浪士の討ち入りをなんらかの関係がありそうな・・・・・・・という
 のが、今までの情報でしたが、桂川さんの記録がまた・・・すごいんです。

 桂川邦教は大石内蔵助と親しかった。

 藩主の信頼する侍医が大石と親しい。
 (桂川家には代々、内蔵助の書が伝えられてきたということです☆)
 ここまであれば、もう甲州家は赤穂浪士をサポートしちゃいますね(爆)。
 とはいえ、いったい何をどのように、サポートしたのかはわかりませんが・・・・・。

○新井白石の宣教師シドッチ(シローテ)尋問
 すごく簡単にいうと、コチコチ頭の新井白石が蘭癖でもなんでもないのに、
 いきなり西洋人にどのように尋問したのか、それがなぞでした。
 ・・・・・・・・・・これもすぐに答えは解決。
 
 長崎経験豊富な桂川さんの強いサポートがあった。

 蘭方外科医桂川さんの存在のおかげで、いろいろな隙間が埋まりました。
 ・・・・・・・・・・最近まで、家宣の侍医が桂川さんとは知りませんでしたので(笑)、
 かなり遠回りをしてしてまいりましたが、ロバのようにのろい家宣探索の旅は
 ちょっとだけ前に進めました。
 
 ・・・・・・こんなに名医がついていて、なぜ家宣があっけなく死んでしまったか?
 その疑問だけは残りますが、過労死には外科医は勝てませんよね・・・・(涙)。
 (15人の将軍で過労死したのは、たぶんこの人と家茂だけでしょう)
 綱吉時代からいる役人と、甲州家から城へ入った役人の対立がいつも家宣の頭痛の
 種で、結局は決裁書なども夜遅くまで残業して、彼自身が行っていたらしい・・・・。
 遺言に「みんな仲良くするのだぞ・・・・」という言葉が入っているのが胸に沁みます。

 というわけで、初代桂川さんと家宣の関係から、家宣の謎解きをしてみました次第♪
 がむしゃらに側用人ルートからそういう謎を解こうとしていたわけですが、
 侍医というルートもあるのだよ、と桂川さんには教わりました(汗)。
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by aroe-happyq | 2007-08-05 10:57 | ちょっと元禄・正徳 | Comments(2)

さっき地震がありました。
どうも甲信越のほうで大きい揺れだったようです。
こちらはそれほどゆれなかったのですが、日本で暮らしていれば
大きい地震はけして他人事ではありません。
被害に遭われた方々の事を思うと、こんなルポしてていいのか、
と胸が痛いのでありますが、一日も早い復旧を願いながら、
このまま書きかけたものを、続けてまいりたいと思います。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

昨日は大河ドラマで板垣&甘利が舞台より去ってしまい、
ひじょうに寂しい思いをしました。

・・・・・・それとはまったく、関連のない
先日、増上寺にいったレポの番外編です(笑)。

増上寺の公式サイト(霊廟解説ページ)は→こちら

増上寺には徳川家霊廟(御霊屋)というのものがあり、秀忠公、甲州宰相綱重公(家光次男)、
家宣公、家継公、家重公、家慶公、家茂公とその妻&側室が眠っております。

かつては広大な敷地を誇った増上寺ですが、周辺の開発などで
敷地はどんどん切り取られ、霊廟もまた寄せ集められ現在はコンパクトに
一箇所にまとめられております。かなり狭いです。

d0080566_10255164.jpg


これが霊廟全体の門なのですが・・・・・・・・・・・この門て、

家宣さんの霊廟の門だったりするんです。

増上寺でもらった冊子によると「霊廟 中門」だそうです。

使いまわしか!みたいな(笑)。

しかも、旧国宝って、
国宝じゃなくなっちゃったんですか!?(爆)


ええと、かつてはどんな感じだったか、家宣廟の在りし日の姿を・・・・

d0080566_10274550.jpg


                             『骨は語る徳川将軍・大名家の人びと』より

これで一人分ですぞ!!!

この門から入って、その内側も・・・・・・・・・

d0080566_1028335.jpg


広~~~~い!!!


え?今ですか?もう一回見せましょうか?


d0080566_10295716.jpg



これで将軍6人+奥様&側室分です。
ぎゅう詰めですねっっ~~(汗)。

で、なんとなく塀の外を歩いていたら、なんだか中がみえちゃうんです(笑)。
なので、激写してしまいました。

d0080566_10335937.jpg


手前が秀忠公、丸で囲ったのが、門のあるじ、家宣公です。

すんごく狭い感じのところでみなさんで長屋暮らしのような有様です。
将軍家の雑居状態・・・・・・って(涙)。

そのなかでも、家宣ファミリーの扱いはこれでいいのか!?状態です。

家宣の父、綱重さんの霊廟「水盤舎」はというと、


d0080566_10393268.jpg


今では立派に増上寺正門はいってすぐのところで、
皆さまのお手を清める場所の雨よけとして、活躍中です。

そして、家宣の息子の家継の門「ニ天門」はというと、


d0080566_10412692.jpg


増上寺の外塀の一角で、ドライバーの皆さんに江戸の匠の技を
紹介しております。
こちら重要文化財のようです(ホッ)。←君の父上は旧国宝デス


たしかに家宣三代よりもっと過酷な御勤めをなさっておいでの方も
おられます・・・・・・・・・。

d0080566_1182832.jpg


お隣の新しいホテルの門となった秀忠公の「惣門」です。
こっちも重要文化財。


別に徳川家臣でもなんでもありませんけど、おいたわしや~~~~~(涙)。

ま、御威光がすたるというのはこういうこと、なのでしょう。
(にしても、すたりすぎ!?)


徳川さんだけでなく、浅野内匠頭の石碑にしても、
あんまりじゃなーい?の扱いに、あらためてここが
東京砂漠だということを実感しました・・・・・・・・・。ひゅるるるる・・・・・。

観光都市宣言なんて撤回しろーー!



それにしても思い切った使いまわしの数々に、ホントに驚きました。

*唯一例外は、家茂がプレゼントした和宮の茶室で、境内に普通にありました(笑)
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by aroe-happyq | 2007-07-16 11:19 | ちょっと元禄・正徳 | Comments(4)