東都アロエ

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アジアンエンタメ&お江戸後期。外国奉行や長崎海軍伝習所がご贔屓☆ BYはな。

カテゴリ:お宅探訪シリーズ( 28 )

とくに縁もなく、贔屓でもないのですが、
四ッ谷図書館にいったおり、
その1階に四ッ谷の松平摂津守邸の復元ジオラマが展示されて
いたので、急遽(笑)お送りいたします。

松平摂津守(まつだいらつのかみ)は美濃高須藩3万石の藩主です。
下記の切り絵図では範次郎とされていますが、松平義勇(よしたけ)のことです。
兄に会津藩主松平容保、尾張藩主徳川慶勝を、弟に桑名藩主松平定敬を持つ。
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『幕末人物事件散歩』(人文社)によると、
美濃高須藩は尾張藩の支藩とのこと(なので尾張藩邸そばにあるのですね♪)。
この本には「はじめ親幕的な姿勢をとっていたが、鳥羽・伏見の戦い
で幕軍が敗れると立場を一転して朝廷支持にまわり、尾張藩とともに
倒幕軍に参加した」そうな(笑)。
つまりは戊辰戦争当時、旗本御家人に敵よりも(笑)嫌われた「裏切り者」メンバーの
一人というわけです。

で、ジオラマです。

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なにせ上から横から照明やら日光やらがあって、ガラスケースが反射して
まともに撮影できましぇん!(涙)
お見苦しくて、申し訳ない!!

説明にありました、万が一のおりの決壊作戦用の堤防↓
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(うーん。恭順となったので実戦では使うことはありませんでしたけど、
それ以前に屋敷の主人が向こう側に味方しちゃったという、
想定外の結果となり、いやはやなんの意味もなかった土手・・・・・(笑))


さて、ここからがちょっと問題。

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上屋敷にしては、長屋もなく、しかもこんなに母屋が小さくて大丈夫なのか?
藩主と家族の住まいに御広間とか、書院とか、御台所、長屋、土蔵とか・・・・。
いろいろ規定があるので・・・。
3万石なので、赤穂浅野家上屋敷ぐらいの感じでないといけないとは思う。


せっかくの素敵なジオラマだし、
四谷名物のザ・スリバチ地形として名高いむちの池のまわりの庭園とか
すごく良い感じなので、あまりケチはつけなくないのですが、もうひとつっっ。

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上屋敷の正門が、抱え屋敷(別荘)仕様の簡素モードになっているのは・・・。
いや、塀なんかもこれだと抱え屋敷バージョンなのですよね・・・・・(汗)。
やはり御公儀からの使者などもお迎えする上屋敷なので、白漆喰の頑丈な塀と
立派な正門がほしいところです。

なので、若干・・・・残念な感じ????
(でも大名家のジオラマなんて珍しいので、すっごくみていて楽しいのですが!)

ちなみにその庭園は↓こんな感じだったそうです。
(反射がひどくて、うまく撮れず、見づらくてスイマセン)
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今年の桜の季節にむちの池を訪れたときの記事→こちら
(ほかにも撮影した写真があったはずなのに、みつからない~っ)

そして明治になって上屋敷がなくなり、庭園跡は池を中心にして
風光明媚な場所ということで、茶屋が出来、
いつしか周辺は花街になっていったそうです。

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ジオラマの展示のほかに、もひとつ。

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車力門の復元(といっても木で作ったものではない)がありました☆

ちなみに現在の車力門通り↓
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今は美味しいお店がたくさんある、大人の繁華街です♪

ついでに、こちらも(こちらは再録画像です。以前の記事はこちら)。

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屋敷はなくなりましたが、その名前は今もなお、通りと坂の名前として
四谷の地に留められているのであります☆

前に記事にしましたが、江戸時代では「摂津守」は「つのかみ」
と読みます♪
くどいようですが、最後に付け加えさせていただきました。

それからこのジオラマ&車力門展示は
新宿御苑大木土門入り口そばの
四谷区民センター(東京都新宿区内藤町87番地 )の1階にあります。
いつまで展示しているのかは、とくに期限は書かれていませんでしたので、
まったく不明であります(笑)。
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by aroe-happyq | 2012-11-02 18:22 | お宅探訪シリーズ | Comments(2)
今回は江戸中期のお宅探訪です☆

教科書にも出てくる、六代将軍徳川家宣&七代家継を支えた、
御側用人 間部越前守詮房邸。

父親は甲府家家臣でしたが、この詮房と弟は猿楽師喜多七太夫に
弟子入りさせられ、猿楽師になるべく成長。
それが、猿楽大好きの甲府宰相綱豊(当時二十歳ぐらい。のちの家宣)のもとへ
稽古をつけるために通ううちに「YOU、キレイだし才能ありそうだから仕えない?」
ということで、甲府家家臣に取り立てられました。
輝くばかりの美貌もさることながら、誠実で実直な人柄を見込まれ
どんどん出世。綱豊はよほど気に入ったのか、
甲府家家臣の名家から嫁まで探して縁組を調え、
真鍋をなのっていたのを、「間部」という綱豊オリジナル
の姓までつくって、名乗らせるほど。
まさにまばゆいばかりの寵愛ぶりでした(笑)。
残念なことに妻女には縁組して数年で先立たれてしまい、その後は独身を貫く
ことになるので、おかげで子もいないのです。
(間部家は弟が養子に入って続くことに・・・・・・)
つまり幕末のアノ間部詮勝は弟の子孫です!

さて綱豊が伯父の綱吉将軍の継嗣と決まり、やがて詮房も一万石の大名に
なります。綱豊が家宣となって江戸城に迎えられると、
詮房も江戸城馬場先御門そばに大きな屋敷を与えられますが、
ほとんど屋敷にかえらず、常に家宣の傍で仕事に励んでいたので、
贅沢をする暇もなかったとか。
そんな生活は家宣が将軍になって数年でなくなって、
その遺児家継が七歳で死んでしまうまでずっと続きました。

さて、今回訪れた屋敷は、馬場先御門から移ったあとの屋敷のほうです。

一般に八代将軍吉宗には冷遇されたとか書かれているわけですが、
政権が交代したら側用人が御役御免になるのは当然のこと。
ですが間部詮房の場合、越前鯖江藩五万石を奪われるでもなく、
けっこう好待遇だったのでした。
というのも、尾張ではなく紀州から八代将軍を迎えるために、
間部詮房は家宣未亡人近衛煕子とともに尽力したからです(笑)。
(理由は年齢もちょうどよく、将軍としてのやる気が光っていたからとか)
吉宗が詮房のような家臣を持ちたかったと書簡でぼやいたことは有名ですが、
意外にも吉宗とはそんな感じで、ほどほどな距離感を保っていたようです。

以上長い前置きでしたが、いよいよその屋敷を紹介します。

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(『江戸城下変遷図集 6』 (6)1715年(正徳5年))

【以下3行 追記部分 2012年11月】
もともとは米庫だった土地。元禄12年9月に火災があり、
その後米庫を移転したことから、その空き地に間部邸が建てられたという。
(『日本橋区史』1巻 P198 大正5年)

屋敷は両国橋の南の川沿いにありました。
あんまり大きな屋敷なので、
その脇の大川沿いの道は、江戸時代には間部河岸
と呼ばれていたとか。
※詮房が亡くなると、間部屋敷は4分の1ぐらいに小さくなりました(笑)。

それでも間部河岸という地名だけは残って、『江戸土産』には、
四季ともにいと閑静にして月の勝景地」と紹介され、
酒井抱一は、
夕立や大名走る間部河岸」という一句を残しています。


どれだけ大きかったのか、わかりやすいかと思いますので、
みなさまおなじみの幕末の絵図でみていただきましょう。

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(『江戸切図絵で見る 幕末人物・事件散歩』より)

一橋家下屋敷+永井肥前守上屋敷(永井尚志の本家なり)+諏訪因幡守屋敷
の3つ分です!!!
※一橋浜町邸については二十二回お宅探訪で取り上げているので、
参考にしてみてください(笑)


現在でいうと・・・・・・以下のとおり。
浜町公園~明治座もはいるでしょうか。



というわけで、浜町公園にいってきました☆
(ちなみに別件調査のついでです・笑)

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まさか、永井家本家&一橋家下屋敷(12代将軍家慶が慶喜少年と一緒に能を
舞っていたので有名ですね)あたりが、間部邸とは。
何度も行ってたのに(今年少なくとも3回はこのあたり通りました)!!

実は今回、別件で『隅田川とその両岸』シリーズを図書館で読んでいたおりに、
たまたまその中巻に「乙ヶ淵と間部河岸」というのがあって、
「おお!!詮房さまの御名が江戸時代には地名で残っていたのか!」
と感涙にむせんだのがはじまりで、ちょっと調べてみたわけでした。

残念なことに、今は高速道路の下ですが、浜町公園から隅田川の川岸を
歩かれる際には「ここは間部河岸跡なんだ♪」と思い出していただければ幸いです。
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by aroe-happyq | 2012-10-19 17:59 | お宅探訪シリーズ | Comments(6)
たいへんお久しぶりの、お宅探訪シリーズです♪

近くについでがあれば訪れよう・・・・と思って3年!?
ようやく「ついで」ができたので、いってまいりました。

設楽弾正邸、つまりは岩瀬忠震の実家の設楽家!
岩瀬が生まれたところです☆
江戸時代はこのあたり、「芝愛宕下西久保」といったらしいです。

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現代の地図ですと・・・・・・


こんな感じです。

目印はやはり、芝八幡社!

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この八幡社、貝塚がみつかっているそうで。
つまり、この近くの古墳ともども「東京岬」@ブラタモリのひとつだったらしいです。

で、この八幡を芝方面へと通り過ぎて、右の道に入って雁木坂をのぼると。

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雁木坂の柱があります。
写真の左のほうへ細い道を進んで、三年坂へと歩いていきます。

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見えにくいかもですが「三年坂」と石のところに書いてありますネ!

その先を左に曲がって。

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坂を下っていきます。
※この眺め、某スリバチ学会のおすすめビューポイントだそうです。
 ちょうどスリバチへおりていく。その途中、空をみあげると東京にも広い空があるのがわかる!
 ・・・・・とのことです。

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坂の下。この写真の手前から、奥の黒い車の止まっているあたりまでが
おそらくは設楽家。
(で、車の止まっているところまで行ってみました)

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ちなみにこのあたり、住所的には麻布台1丁目7番。

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この駐車場も設楽家の範囲のはずですが、
よくみていただけますでしょうか。
住所はたしかに「麻布台」ですが、設楽家は台の下、崖の下にあります。

つまり、大雨なんか降ると、バシャバシャ水が流れ落ちてくる、
ひじょうに水はけの悪い、厳しい場所にありましたようです(涙)。
正直、いままで訪れた旗本&大名家のなかで、いちばん残念な立地です。

とはいえ、
この場所で生まれ、岩瀬家の長女と縁組する23歳まで、
岩瀬忠震がここで育った、と思うと感慨深いです☆

ちなみに当主の弾正さんというのはうちのブログでもちょくちょく登場する、
岩瀬忠震の兄の息子さんです。
榎本武揚情報によると、岩瀬とは比べものにならない、フツーの人
だったとのことです(笑)。
(伯父さんが幕末の天才カリスマ外交官だと、やたらと期待されたり
がっかりされたり、ぶっちゃけ迷惑ですよね。
あ、そういえば弾正の奥様は堀織部正利煕の娘です)
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by aroe-happyq | 2012-10-01 14:28 | お宅探訪シリーズ | Comments(2)
久々のお宅探訪シリーズの更新です☆

今回は永井尚志の実家、麻布の奥殿藩邸下屋敷&上屋敷跡へ行ってきました。

ずっーと前から都立中央図書館に行くたび、その途中の有栖川宮記念公園交差点
あたりで、六本木の方向から「こっちですよ~」とお誘いを受けていた
ような気がするのですが(笑)、ちゃんと地図とにらめっこして特定する作業を
後回しにしていたおかげで今頃か!?な登場となりました。

しかもこの探訪も、
図書館に調べものに行ったついでだったりして~~~~(汗)。

で、まずは下屋敷から!

基点は南部藩邸(現:公園&図書館)から行くとわかりやすいっす。



江戸の切り絵図ですと↓

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現在は笄小学校とその下の住宅地になっておりますが、
江戸当時の区割りといいますか、道はそのまま残っておりました。

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突き当たりに笄小学校がみえます。この道の向かって左側が下屋敷であったと
思われます。

さて、古地図のほうに話は戻りまして。
なんといっても、ポイントは隣の畑。
麻布といえば、江戸時代は狐や狸が賑やかに暮す森や林だらけのド田舎でして(笑)。
武家屋敷と田畑が隣合わせなんていうのも、かなりアリでした!

でも今は・・・・・。

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すぐそこが六本木ヒルズ~~~~。

で、上屋敷はというとそのヒルズのすぐ近くだったりしまして、
下屋敷を跡にして、ヒルズへと向かいます。

途中、警官があちこちに立っていて、なにを警戒中なのかと思えば、
中国大使館があるのね~~~~~。
ここのあたりにはいろいろな国の大使館があるけど、こんなに警戒中なのは
ここだけっす。

さて、今度は上屋敷。




切り絵図ですと。

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特定するためのポイントは上屋敷上部の角っこ。

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歩いてみたら、角が残っておりました。

というわけで、
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このエリアから大きな道路までのあたりが奥殿藩上屋敷であろうと
思われます。

こちらはヒルズから1分。
江戸当時は麻布龍土町といわれておりました。
(龍の字がついて縁起がいいので、このあたりは田舎であろうとも
人気の町だったようです☆)

奥殿藩出身としては永井尚志が有名ですが、
最後の藩主の松平乗謨(のりたか・明治に大給恒と改名)もなかなか。
江戸末期に25歳にして若年寄として活躍、さらに奥殿から田野口へ居所をうつし、
本州で唯一のプチ五稜郭を築くほど、西洋通でした。
その流れで明治の時代には勲章のデザインを監修するなど
ユニークな活動も。また赤十字発足に尽力しました。
フランス語が堪能だったそうです。

二人ともこの麻布でのびのび育ったのだろうなぁ、と
想像しながら、歩いてきました☆
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by aroe-happyq | 2010-05-02 10:41 | お宅探訪シリーズ | Comments(4)
UPしたつもりがすーーーーーっかり忘れていたという
大笑いな今日の記事です(汗)。

柳橋~秋葉原を歩いた日に寄ったわけですが、
またもや高速道路かよ!と嘆いた覚えがありました。


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だいたい、この神田松永町20番付近?のようです。

江戸時代の切り絵図には柳北の父、成島桓之助名義でのっております。
この高速道路の通っている道は、江戸の頃は御徒町通りとか和泉通りとか
いっていたそうで、けっこうな大通りです。

柳北は大人になって引っ越してしまうので、
この地は生まれ育った場所ということになります。

ちなみにこの場所から柳橋の花街までが実によい頃加減の距離感で(笑)。
遠からず、近からず・・・・・なのです。

柳北は《柳橋新誌》を書き上げるほど柳橋にはまったわけですが、
実のところ若い頃はいたって真面目な青年でした。
転機は二度目の結婚。
本所の旗本永井家当主の妹をめとったのですが、
この永井家の人々が遊びの達人たちで、おいしい料理を食べ歩く、
船遊びをする等々、大江戸ライフを満喫してきた一家だったのです。
義兄の誘いで一緒に柳橋に行くようになった柳北は新しい世界を知ってしまい・・・・。
そしてあれよあれよと転落人生(爆)・・・いえいえ、粋な男に改造されていきました。
なにせ義兄や義母のサポートがあるので、妻に内緒のお泊まりなんかも
「ちょっと本所に挨拶にいったら引き留められてしまって」という口実でOKだし、
そもそも奥方も寛大な人だったらしいです。
(ちなみに天保以来、旗本の花街遊びは原則として禁止でして、上司にバレれば
クビという、リスクの高い危険な遊びでありました)

とはいえ、永井荷風があこがれるほどモテていたわけではありません。
桂川家に集う友人たちには「お化け」呼ばわりされるほどの顔の長さだったり
したので、芸者衆にもいまいちな人気でして。
お金を積んでもなびかない柳橋流ということもあり、けっこう惨敗の日々だったよし。
それでも成島柳北は柳橋の花街のもつ雰囲気を生涯愛し続け、
明治になって、芋元勲どもを呼び込み、ダサイ男ももOKな新橋勢に押され気味の、
江戸の伝統を守り続けた柳橋をもり立てていきました。
(柳橋にはさらに山内容堂、榎本武揚という強力なサポーターがいましたけどね(爆))

さて、この通り。もう少し北上すると、伊庭本家らしいという情報を知ったので、
いってみました。
次回は成島家ご近所の伊庭家の紹介の予定です☆
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by aroe-happyq | 2009-05-20 10:45 | お宅探訪シリーズ | Comments(0)
いつでもいけると思うとなかなかいかないシリーズ!

今回はかつて、
西ノ丸下とか、辰ノ口といわれ、老中・若年寄の官邸街「大名小路」にあった
阿部正弘邸跡(推定)です。

老中首座の屋敷ということで、弘化~安政2年ごろまでは
毎日のように面会を申し込む人、挨拶にきた人、用談に来た人で
朝から日暮れまでずっーと門の外まで客があふれていたとか。
日米和親条約を結んだ後には、門に抗議の落首を貼られたり、書かれたりで
いいことばかりではありませんでしたが、
それもこれもここが当時の政治の舞台のひとつだったためであります☆
安政の江戸地震のおりには、屋敷が全壊する大きな被害にもあいましたが、
正弘自身は庭へ飛び降りて、難を逃れました。
しかしここの土地は江戸初期の埋立地で、もとはといえば、海でした。
そんなこともあって脆弱な土地なのであります。
東京駅が日夜、地下の奥深くで地下水と戦い、地盤沈下をかろうじて防いでいる
なんてことも、そういう土地ゆえ・・・・・。

正直、ジメジメした土地で、このあたりに住むのはたいへんだったかもですが(笑)、
10年以上、ここを官邸にして(地震のときは別宅に仮住まいでしたが)老中の座にあり、
阿部正弘は39歳でこの場所で、世を去りました。


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丸ビルの裏手あたりが、そうらしい。

さすが阿部伊勢公、便利なところにお住まいです(笑)。

いや、江戸時代は繁華なところではなかったんですけどねっ!
(明治時代に、空き地になった大名小路一帯を、ざっくりと三菱@岩崎弥太郎が買い上げて
土地開発したから、なんですけど)


では江戸時代にはどれだけ便利だったのか?

そこで急遽「阿部さんの出勤はどのくらいかかる?」かを調べてみることにいたしました。
秘密兵器はもちろん、先日購入のストップウォッチ♪

それでは写真の↑地点から、スタート!!!!!

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和田倉門~大手門コースで進んでおります。

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巽櫓をみながら、堀にでました。

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ちょっと早足できちゃいましたのですが、大手門までだと、こんな感じです。

老中は午前10時の太鼓が鳴り終わるまでに、本丸御殿玄関に入らなくてはならない
きまりでした。
・・・・・老中衆はそれに合わせて自宅を出るのですが(安政地震までは乗物、以後は
乗切といって馬に乗り、供の数も少なくささっと登城スタイルに変ります)、
ときどき遅刻しそうになる人がいたりすると・・・・・・・太鼓がいつまでたっても
鳴り終わらない(笑)、なんてことがあったそうです☆
(遅刻したのが城内にバレバレっっ)

さて、登城する人々は、
大手門はいって乗物(または馬)から降りて、徒歩で玄関を目指します。


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番所を通過し、

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中之門を通過・・・・・・・・・・って、ここからちょっと上り坂です。


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将軍就任の大イベント、江戸の町人(抽選で選ばれた町年寄たち、とその町年寄から
権利を買った見物人たち)と一緒に新将軍が能を観る「町入能」の記録をみると、
すでに前の晩から「祝い酒」で酔っ払った町人たちにとって、この坂はキツかったらしく、
ゴールの御玄関に到着したら、その玄関脇にあった防火用の桶の水を飲んじゃう人
が続出してしまったとか(笑)。
たしかにちょっとキツイ坂です・・・・・。
阿部正弘さんは亡くなる直前まで、ずっと小太り体型を維持していた人なので、
この坂はよい運動になったことでしょう!(笑)

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本丸御殿御玄関付近。


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ゴールのタイムは????

・・・・・・・・・・・ふつーに歩いてくると、こんなものらしいです。

伊勢さんだと途中で乗物から降りる時間とかも考えないといけないので、
20分みとけば、大丈夫だったのでは???(笑)
(もっとのんびりと登城の際は、30分かもですが)

・・・・・・そもそも旧江戸城に梅を観にきたのが、この日の目的でして、
次回はいよいよ本題でーす。
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by aroe-happyq | 2009-02-22 11:21 | お宅探訪シリーズ | Comments(0)
前回の西郷どんに続き、第2回浜町シリーズですが。

またまた推定ですが(いつものことです)、
このあたりは数ある一橋家下屋敷のなかのひとつ、浜町下屋敷跡ではないかと
思われます。

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この一橋邸といえば、12代将軍家慶が慶喜少年をわが子のように可愛がっていた
頃、何度か訪問しているところです。
以前とりあげた記事の・・・・・・、

慎徳公は公の未だ鷹の事に慣れ給わぬを御覧じ、近く寄り来て、
「拳は斯くせよ、肱は斯くあれ」など、親しく御手を添へて羽合せしめ給ひ
又一橋邸臨御の時などは別けて打ち解け給ひ、
謡曲の催あるに当たりは、公に謡はせて躬ら舞ひ、躬ら謡ひて公に
舞はしめらるることも屢(しばしば)にて、常に例外なる寵遇を蒙らせ給ふ。

(『徳川慶喜公伝史料編』1史料番号25 弘化嘉永年間慶公の寵遇に関する談話より)

↑「一橋邸臨御」というのはここのコトです。

旧暦5月末の川開きのおりには
大川筋に屋敷を構える大名家はこぞって、武家花火を打ち上げたとか。
武家の花火は、基本がのろしなので、
地味でひょろひょろとした花火だったそうですが、
それでも他家より大きな花火を・・・・・と競ったそうです。
一橋家がその競争に参加したかはさだかではありませんが、
川開きの夜は、屋敷じゅうが大賑わいだったことは間違いなさそうです☆
もちろん一橋家だけではなく、この夜は東日本橋武家町のどこの屋敷でも
二階の、もっとも川のみえる部屋で宴を催していたようですが。

ご近所といえば、一橋邸に隣接するいくつかの屋敷のなかに、
美濃加納の永井家の上屋敷があります。
慶喜が将軍になると、永井肥前守尚服は若年寄になります。
年齢も尚服が3~4歳上ぐらいで、わりと近い年齢でした。

この永井家といえば、永井尚志の本家筋にあたります。
尚志もまた慶喜の将軍時代に若年寄になりますので、
慶喜の片腕は、なぜか浜町ご近所だらけとなりました(笑)。

偶然にしては(?)ちょっと面白いなと思います。
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by aroe-happyq | 2009-02-15 10:31 | お宅探訪シリーズ | Comments(0)
冬季につきお休み中のこの企画。
久しぶりの登場です!

ま、週末の岩瀬~永井ウォーキングの副産物でもあったりします(笑)。

なぜ前回が試衛館なのに、今回がおいどん吉之助なんだ!?
・・・・ではありますが、みつけてしまったものはしょうがない!!!

日本橋小の正門にありました↓


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明治4年に上京し、6年の政変後に下野するまでのあいだに住んでいた屋敷だそうです。
明治5年に大久保たちが海外に行っているあいだの留守政府首班として
大活躍していた当時、西郷さんはここから通勤していたのですね。

屋敷の長屋に15人ほどの書生を住まわせ、下男を7人雇い、
猟犬数頭を所有していた、とこの説明版にあります。
(ひょっとして、住人は犬と野郎どもだけ!? うげげ)

まさか日本橋人形町一丁目に西郷どんが住んでいたとわ、
驚きでした。
(永井邸から・・・・なにげに近い・・・・・)
明治5年当時の政府首班ということは、榎本釜次郎以下箱館戦争降伏幹部メンバー
の釈放にも間違いなく、大きな影響力があった、ということで、
ありがとう!西郷どん♪♪
(そしてこっそり西郷に働きかけていた勝、頭を剃った黒田にも☆)

そして・・・・・東京でも猟犬飼うぐらい、犬好きなのねーということで(笑)、
西郷邸をあとにしました☆
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by aroe-happyq | 2009-02-11 10:30 | お宅探訪シリーズ | Comments(2)
岩瀬邸と同じく、いつでもいけると思うとなかなかいかないシリーズ第二弾。

そこは試衛館!

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今回、林氏墓地と目の鼻の先ということで、探訪しました。
ただ、林氏墓地がすぐに辿りついたのに対して、こちら・・・・・ちょっと迷いました(笑)。



詳しくは知らないのですが、今のところ、ここが試衛館跡ということに
なっているそうです☆

しかし!さすが近藤局長のお住まいです!

探訪シリーズ20回目にしてはじめて、同じように試衛館を訪ねてきた二人連れと
遭遇しました!
私よりちょっとお若い女性の方々です。
こんなことははじめてでした。
(単に、いつも訪れている屋敷跡はなんの印もないほどマイナーなお宅ばかりなだけさ)


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横の道の階段下のお稲荷さん。
なかなかよき、たたずまいでした♪
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by aroe-happyq | 2008-11-07 18:51 | お宅探訪シリーズ | Comments(4)
それほど興味があったわけではないのですが(笑)、
永井介堂漢詩集、明治20年のところに
「十一月徳川公邸観流鏑馬」というのがありまして。

江戸時代の大名屋敷ならわかるのですけど、明治期になって
邸内で流鏑馬かよ!どんだけ広大なのさ、
とものすごく興味が湧いてしまい、さっそく探訪してみました(爆)。



東京体育館裏の千駄ヶ谷1丁目、19.20エリアのほぼ99%が
徳川家達邸だったそうです。


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この写真に映っているあたりは、そのまま徳川公邸でございます。
ぐるっとまわってみましたが、やっぱり広かった・・・・・・・・・・。


徳川家当主家達は、明治11年からこちらにお住まいだったとか。

しかし!ここには家達さんだけが住んでいたのではありませんでした。

まず、本寿院!
さらに、14代将軍生母の実成院!!
(そういえば某大河ではこの人出てきませんね??)

・・・・・・・もちろん、天障院も!!!うぎゃーっっ。

地獄の三婆、揃い踏みじゃありませんか~~~~っっ(笑)
(家達さん、気の毒にっっ←断言)

いろいろと、とても賑やかだったことは間違いなさそうです☆
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by aroe-happyq | 2008-10-24 18:31 | お宅探訪シリーズ | Comments(6)

アジアンエンタメ&お江戸後期。外国奉行や長崎海軍伝習所がご贔屓☆ BYはな。


by aroe-happyq