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アジアンエンタメ&お江戸後期。外国奉行や長崎海軍伝習所がご贔屓☆ BYはな。

カテゴリ:五カ国条約150年( 27 )

外務省外交史料館 特別展示

日英交流事始―幕末から明治へ―

於: 外務省外交史料館別館展示室

開催期間:平成21年6月2日(火曜日)~9月30日(水曜日)
開館時間:10時~17時30分(土曜日・日曜日・祝日を除く)

料金:入場無料

公式サイト→こちら



エルギン関係があるとのことで、
いっちょ、行ってみるかと思っております☆
明日からでーす!
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by aroe-happyq | 2009-06-01 17:58 | 五カ国条約150年 | Comments(0)
8月26日(1858)
安政5年7月18日 晴天 江戸(品川)

いよいよフィナーレです!
おそらく日英交流史のなかでもっとも幸福だった一日ではないでしょうか。
(日英同盟時代よりも、です(笑))

すっかり日本に酔っ払ったオリファントの筆はますます滑らかです。
『エルギン卿遣日使節録』によれば、英国人たちはすっかり西応寺の僧侶や、
警固の役人たちと親しくなり、いつまでの思い出の品の交換が続いたとか(笑)。
互いに寂しい、また会おうと言い合っていたようです。
(この後の攘夷ブームの世の中を思うと、嘘のような光景であります)

さてオズボーン艦長もこの日のことは、いろいろ書き残しております。

栄之助に言わせれば、イギリス使節団はロシアやオランダ、
アメリカの使節団を、はるかに凌駕する品行ぶりだったそうで、気をよくした。
日本では外国人にお世辞を言うようになったのでなければよいが! 

(新異国叢書4『スポルディング 日本遠征記/オズボーン 日本への航海』(雄松堂)227P)


まったくのお世辞です!(断言)

さて、調印の日ということで、
恒例となった将軍からの饗応料理が西応寺に運ばれました。
こんな賑やかな最中、思いがけないゲストが登場。ジョン万次郎だ。
ところが彼の評判が英国使節に悪いのなんの・・・・。
「ああ!もちろん月だって測れたさ!」といって計測器が使えなかったり、
日本から出たことがないなどなど、オリファントいわく「嘘つき」だとのこと。

出遭った日本人の中でもよりによってただ一人好きになれない人間が、
キリスト教徒の中で生活したことがあったとは、憂鬱に思われることだった。
               (『エルギン卿遣日使節録』230P)

さて調印の様子はというと、以下のとおり。

条約の調印は厳粛にまた慎重に行なわれた。…(略)……
しかも委員たちの中には、とりわけ几帳面にきれいな署名を書き、その名を表わす
象形文字(花押のこと)をきわめて念入りに塗り上げる者もいた。
ある人々は、たとえば友人の肥後のように、
イギリスで誰かが彼の手蹟をそっくりまねて書こうなどという
懸念は全然持たず、筆で書きなぐった。
    
       (『エルギン卿遣日使節録』214P)

性格が出るものです(笑)。
この几帳面な人は水野かはたまた永井だろうか??
この調印の最中、品川沖からなにやら礼砲が発せられておりました。
この日はビクトリア女王の夫アルバート公の誕生日とか。
そのため、英国船はすべて旗で飾られ、それは華やかな様子だったようです。
この正午の礼砲で、江戸の人々が活気づき、これからはじまる贈呈式をひと目
みようと、品川の海岸はとんでもない騒ぎになりました(笑)。

さて調印直後、例の写真が撮影されました。
その様子は、大山瑞代「ナソー・ジョスリン書簡集」
(『横浜開港資料館紀要』17号 1999年)を頼りにみていきたいと思います。

ところで、日本の交渉委員の写真を送りましたよね。ちょうど条約を締結した
直後に、かれらが出てきたところを撮ったものです。
左側で裃を着けているのが「もりやま」という通訳で、非常に知的な好人物でしたが、
気の毒に突然の呼び出しで体調がすぐれなかったらしく、
じっと座っていられなかったため老けてやつれて見えます。
他の六人はわれわれと交渉に当たった委員で、全員が裃を着けず、
絹で銀色のポプリンでできた乗馬用の衣装を着けていました。
・・・・(略)・・・・写真が英国まで無事であることを願っています。
来年条約批准のために、この連中が渡英しますので、彼らが
写真どおりであるかどうか見ることができるでしょう。
      
      (1858年10月4日 付書簡より)

森山多吉郎は英国使節すべての皆さんのお気に入りでしたが、
ジョスリンは殊のほか、森山が好きだったみたいですね☆
写真を家族のもとへ送ったらしくその写真の解説が語られております。
どうやら裃姿を写真に収めたかったらしく、
交渉委員が羽織だったのでちょっとがっかり?したようです(笑)。
(森山だけ裃だったというのも、さらに好感度↑だったかも)
そして私も「来年条約批准のために、
この連中が渡英」してほしかったです、まったく。
さて、この前の手紙に気になる一文がありました。

私は日本人の交渉委員と宿舎に訪ねてきた日本人の大変貴重な写真を撮りました。
それに使った写真機は例の「若い台風」にやられてひどい状態になったのですが、
江戸で使えるように私がなんとか手入れをして間に合わせました。
                (1858年8月末 付書簡より)

どうやら写真機が台風による浸水で壊れていたらしい。
その写真はこのとおりです
それで岩瀬&水野の顔がぼんやりに???(涙)

なんてこった!

・・・さて、そんなわけで調印&写真撮影も終了。
いよいよ、品川海上でおこなわれる、エンペラー号贈呈式がはじまります。

三時頃、女王陛下のフュリアス号の翔将官艇が、イギリス大使と随員たちを乗せて
陸から離れるのが見られ、同時に日本の舟が正装した委員たちを乗せて、
快走船に向った。後者の紳士たちの衣装は普段にもましてりっぱなもので、
特に、海軍司令官卿(外国使節間での永井のニックネーム)の衣装は
みごとだった。

(新異国叢書4『オズボーン 日本への航海』(雄松堂)232P)

永井の意外な一面です。こういう時に気合いれちゃう人なんだ!みたいな(笑)。
(隠れ伊達男だったりしてっっ(汗))
さて岩瀬愛を貫く(笑)、オリファントの記録では、

肥後はまったくカニに覆われていた。その中には、イギリスの海港の記章に
してもいいくらい大きなものもあった。その衣装は、刺繍を施した絹布で、
そのカニは銀糸を重ねて高く浮き出していた。

    (『エルギン卿遣日使節録』219P)

カニに覆われた岩瀬を想像するのは難しいですが(爆)、
外国奉行はみんな、かなりオシャレをしてきたようです(笑)。
品川海岸には群衆が詰めかけ、海上には屋根船はもちろん、大名の仕立てた
大きな見物船が多数出ていたそうです。
そんなすんごいお祭り騒ぎになってしまったので、
これはもうオシャレしなきゃ彼らも男が立ちませんね!

さて舞台は夕暮れ時の江戸湾、品川沖に移ります。
エンペラー号上でエルギンの挨拶があり、それから引渡しとなりました。
(エルギンたちはここでエンペラー号から離れます)
しかし日本の海軍司令官卿(笑)は緊張のなかにいたはず。
これからいよいよ数日間の特訓の成果が試される、礼砲タイムと
受けとったエンペラー号の試運転がはじまります。
まずはイギリス、日本の双方の国旗が掲げられ礼砲となりました。

この国の砲手は、二十一発の礼砲を、きわめて正確に十秒おきに放った。
それからレトリュビューション号とフュリアス号との六十八ポンド砲から
鋭い響きの答礼が聞こえてきた。
そして快走船は、静かに航行を始めた。
日本人司令官が指揮し、日本人の水夫たちが乗り組み、
その機械も日本人の機関士の手で動かされたのである。
同船の機関には、水平シリンダーをはじめ最新の改良の成果が設備されて
いたにもかかわらず、乗組員たちはよくその学業を習得して、実力に確信を
抱いていた。

  (『エルギン卿遣日使節録』221~222P)

おそらく、この日本司令官は矢田堀景蔵で、中島三郎助などもいたはずですし、
機関士のなかに榎本釜次郎がいたと考えてもよいと思います。
実は機関士などは数日前からエンペラー号に通い、この船の機械のクセを
じっくりと学んでいたようです。
英国海軍士官もとても丁寧にいろいろ教えてくれたとか。
そのせいか?はわかりませんが、釜次郎は英国船について
長崎の勝麟太郎宛書簡にて語っております。

○英船も長崎表より罷越候趣に承候間、御登船被遊候哉。
「エムピロム」の立派なる事は、目撃せざれば其美を尽しがたく候。
六十馬力にて、スクルーフ仕掛、「マシーネ」はトロンマに有之候。
余壱艘は所謂ストームスルップにて八十二番船之趣、英人申候。
其神速は驚入申候。高圧のスクルーフマシーネに有之候。
他二艘は「ヲツシルレーレンデ」マシーネに御座候。

(講談社版『勝海舟全集』別巻「来簡と資料」収録の榎本釜次郎勝宛書簡 143P)

オランダ語読みで、軍艦オタ話全開でなんのこっちゃ……ですが、
「英人申候」ということで
榎本釜次郎と海軍士官の間に会話はあった???

ちなみにこのときイギリスからもらった遊覧快走船エンペラー号が、
長崎で改造されて「播龍」となりました。

さて、いよいよ最後の最後となりました。
外国奉行たちとエルギン、そして英国艦隊の艦長たちとお別れの宴です。

バーガー船長は、レトリビューション号上で、委員たちのために
宴会の準備を整えていた。そしてかれらは、多大の興味を抱いて
この美しい船の造作を検分した。ついに訣別の時が訪れ、
双方で大いに親交を示し合いながら、彼らは最後の別れを告げた。

  (『エルギン卿遣日使節録』222P)

この日の深夜、お騒がせ英国使節一行の船は江戸を離れました。
最後はエルギンの報告書簡から、全権使節本人の言葉で締めとまいりましょう。

当日の行事を祝して日本の要塞(御台場のこと)に掲げた華やかな照明が、
碇を揚げて江戸の海域から出航する前に私の目にしみた最後の光景でした。
それはわが国と日本との間の将来の関係にとって吉兆だと私は信じています。

  (『エルギン卿遣日使節録』275P)

……たぶん、御台場では「礼砲成功大慰労宴会」に盛り上がっていた
ことでしょうね(笑)。
(そのための照明だった、なんてイジワルはこの際いいません)
その明るい光を感慨深く眺めながら、
英国ご一行は再び清国での戦場へと戻っていったのでした。

日本委員たちには安政5年7月18日、御公儀から褒詞が出ました。
そのなかに、岩瀬肥後守の名前だけがないのが気になりましたけど。
(サボッてたの、バレてたのかな???(笑))

以上、「150年の今日」シリーズはとりあえず終了とさせていただきます。


函館にいってきます☆
ときどき携帯からなにか送れればと思いますが、
コメント返しはできそうにもないので、どうかお許しを♪
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by aroe-happyq | 2008-08-26 00:01 | 五カ国条約150年 | Comments(2)
8月25日(1858)
安政5年7月17日 晴天 江戸

通商条約調印を明日にひかえて、本日は午前中に英国使節の老中宅訪問、
それから午後からは西応寺にてエルギン主催のディナーが開催されました。

午後のディナーの前に、日本交渉委員(外国奉行+目付+通訳)たちは早めに
西応寺に現われたのですが、てづま師(手品師)を連れてきました。
エルギン側は相撲をみてみたいと所望していたのですが、それは却下。
「ペリー航海記」に相撲に関して野蛮だの、なんだのと酷評されたのを読んで、
大枚はたいて角界オールスター戦を披露した日本側はすっかり懲りてしまい、
(八百善の正賓と同じです。豚に真珠・猫に小判・ペリーに相撲)
外国使節に相撲をみせるべからず、と閣老衆の決定が出たほどでした(笑)。

今回の手妻(てづま)は、十八番の「胡蝶の舞」。
紙のちょうちょが扇の上でひらひらと舞う、という傑作手妻です☆
英国使節一行(この日は各艦長も揃っていた)はその美しさにかなり
心を奪われたようで、オリファント、オズボーン両者の日本滞在記に
たいへん詳しく書かれました。

その手妻師の口上が面白かったらしい。

その演技を続けている間、奇術師は例の親愛の態度でたえずしゃべり続けていた。
そして委員たちの間に巻き起した爆笑や肥後(岩瀬)を笑わせた限度から
判断して、彼の言葉はよほど滑稽な性質のものだったに違いない。

                 (『エルギン卿遣日使節録』204P)

おそらくあまりの口上の早さにヒュースケンも通訳しきれなかったのか、
日本人だけバカ受けだったみたいですが(笑)。
(彼らは手妻なんて知っているから、口上のほうが楽しいのだ)

そしてディナーがはじまりました。

食事がすむと、エルギン卿は委員たちに向って、忠誠なイギリス人の間では
元首の健康を祝して杯を乾す習慣があるので、
ここでその乾杯を提案したいと告げた。
確かにこのことは、彼らにとってはおよそはじめての慣行だった。
続いて起った騒々しい「敬意(オーナーズ)」の声に耳を驚かされて、
彼らにはすぐにその事の意味が理解できなかった。
しかしわれわれを見習ったので、三度繰り返す唱和が終わらないうちに、
わが客人たちも元気にこれに加わった。
つぎの乾杯は大君陛下の健康を祝うもので、それもやはりにぎやかに答唱された。
このときまでに委員たちは、熱狂もシャンペンも、その極に達していた。


やっぱり最終日のディナーでは酔っぱになっちゃうらしい、日本交渉委員。
(川路さんでさえ、ロシア交渉で、きてましたものね(笑))
仕事終わりで、はじけるのが好きなのだ!

実に謹厳な老人である信濃守が、会話がとぎれて静まり返ったときに、
いきなり立ち上がり、きわめて高い声で歓呼してからおごそかに着席した。
他の参会者はそれを見て耐えきれずにどっと笑い出した。
     
     (『エルギン卿遣日使節録』204~205P)

もうひとり、壊れた人がいた(笑)。

「女王陛下に三、三、の九回」というのが、尊敬すべき津田半三郎の趣味に
大いに適ったので、閣下から適切なスピーチがなされた後で、
「大君陛下のために」同様の乾杯の申し出があると、彼は興奮しきって
胸板が厚いイギリス人のだれにも負けないほどの大声で、万歳、万歳、
万歳のかけ声に加わった。

(『スポルディング 日本遠征記/オズボーン 日本への航海』(雄松堂)221P)

途中で優秀な徒目付の平山が抜けたり、外国奉行職ができたり、
目付の津田にはさまざまな気苦労があったのでしょう。

その後、日本側からエンペラー号のお礼というのはあまりに申し訳ないが、
と前置きして、たくさんの調度や焼き物、着物などが英国使節に贈呈された。
英国使節側としても、日本交渉委員になにかプレゼントしたくなって、
各軍艦からかきあつめてきて、日本側に差し出した(笑)。
チョコレートや石鹸(ホントに船の日用品だ)のなかに、
カービン銃マスケット銃などがみえると、
外国奉行さんたちは目を輝かせてそれを手にとった・・・とのことです(爆)
(前掲『オズボーン 日本への航海』(雄松堂)222P)より。
……いつのまにかミリタリーおたくにも???なっていたらしい。

さて明日が最終日です。
しかし明日の昼間には函館に居たりします(笑)。
そんなわけで、明日の分は今夜じゅうにUPさせていただきますので
どうぞご了承ください♪
明日にみていただけると、いつものような臨場感があるかと思います☆


おまけでちょっと一言・・・・。
ぺーちん(親雲上ではない)の昨夜の閉まりの会ですが、アンディあれだけかよ!!(笑)
あれ???ニコラスって居た?????(汗)
以上でした。
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by aroe-happyq | 2008-08-25 09:28 | 五カ国条約150年 | Comments(5)
8月24日(1858)
安政5年7月16日 晴天  江戸

享年50歳。
熱中症とも、長崎発九州に拡大し始めていたコレラが原因とも
いわれていますが、いずれにせよ、当時の日本にとって
この人の死は、かなりの痛手でした。


いっぽう本日、英国使節は江戸見物にお出かけです(笑)。
[追記]
実は日本側は態度を軟化させて、エルギンにも
将軍世子慶福との謁見をセッティングしようとしたら、
「将軍以外にはあわない!」
とエルギンが突っぱねたので、
この日は予定ゼロになったのでした(笑)。


・・・・・・なので、今日はこれにておしまい☆

このシリーズも残りあと2日、どうかお付き合いくださいませ♪
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by aroe-happyq | 2008-08-24 09:31 | 五カ国条約150年 | Comments(0)
8月23日(1858)
安政5年7月15日 にわか雨  江戸

日英の公式会見、4回目。
はやくも条約の条項すべてについて合意に達しました。


仕事、はやっ!

結局、天津条約に近い内容にしようとしたエルギンの思惑は外れ、
日本委員の提示した日米通商条約に則した内容になりました。

この件についてちょっとエルギンは本国宛書簡で言い訳しております。

・・・・そこで遅延を避け、また外国人と日本人との間の正式の貿易を
開始するに当っての混乱や紛糾の危険をできるかぎり除くために、
私は大英帝国のために商議した条約の中で、港の開放、貿易の取締り
その他に関する細かい問題については、ハリス氏の条約の規定に、
また多くの場合にその語法さえも、きわめて接近することにしました。
日本側の委員たちは(その名誉のためにいうのですが)
極端に几帳面で、新しい条項を、またはすでに同意したした条項の語句の変更
でさえも、十分に討議し、またそのような変更の意味やそのもたらすべき効果
について熱心に詮索しなければ、それを認めなかったのです。
そのためにこうした方針をとるのがいっそう必要だということがわかりました。
したがって、イギリスの条約に新しい条項をとり入れようとする
私の努力も、貿易上にとりわけ重要と思われるいくつかの点に
制約されてしまったのです。

         (新異国叢書9『エルギン卿遣日使節録』(雄松堂)274P)

主席全権が水野筑後守というのは、英国側にはけっこう厳しかったかも。
几帳面で、細かい・・・・・人で、なおかつ外国人にキツイ。

でもしおらしく書いているエルギンですが、
英国に有益(つまり日本には不利益)な権利はがっつりいただいて
いっちゃいましたので。
十分に満足じゃないのか!というところです(笑)

この日英通商条約がほかの国の条約と違う点は、
税則について五年後に
「もしイギリスまたは日本政府が希望するなら」改訂されるという規定が
盛り込まれたこと、でしょうか。

税制についてド素人な日本交渉委員としては、この5年間に
海外に視察に行き、学んでくるつもりでいたのです。
岩瀬も永井も年内に準備を整えて、条約批准のため欧米にむかうつもり
だったので、そのときにこれらの条約内容が日本にとって不利益か否かを
チェックしてこようと考えていたわけです。
つまりは安政五カ国条約の不平等さはこのときには、
まだまだ改善される余地がたくさんあったのでした。
あーあ、もったいない!

・・・・・とはいえ、岩瀬も永井もすでにこのとき、
井伊派上層部に厳しく監視されていたので、海外になんか出してくれそうも
なかったのですが。
もし井伊大老が優秀な男で、おのれの感情よりも日本の国益を優先
していたとしたら、もう少し幕末の対外的な混乱も少なかったのでは?と思います。

やっぱり国政のトップには今も昔も柔軟でクレバーな人が必要ですね☆
・・・・・という愚痴はさておき、
条約の調印は26日と決まり、これにて談判は終了しました。
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by aroe-happyq | 2008-08-23 10:39 | 五カ国条約150年 | Comments(0)
8月22日(1858)
安政5年7月14日 雨  江戸

本日、日英公式会見3回目。

談判(交渉)中の記録については、オリファント著の
新異国叢書9『エルギン卿遣日使節録』(雄松堂)に詳しいのですが、
岩瀬がお気に入りで、彼のことばっかりかいてくれた(感謝!(笑))
ので、今回は条約談判中バージョンの岩瀬&ほかの日本交渉委員について
の様子をみていきましょう♪

仕事に入る前に、客人たちは嬉々として昼食の席に着き、
ハムに向って驚くべき攻撃をしかけた。
ハムはほかのその皿にもまして彼らの大好物である。
彼らは遠慮なくシャンペンを飲みふけった。実際のところ、
彼らは用件に入る前に一杯やることに伴う危険を十分意識していたので、
肥後(岩瀬のこと)は、
条約にはハムとシャンペンの味がしないようにしたい、と冗談をいった。


岩瀬とくればこの台詞「条約にはハムとシャンペンの味がしないようにしたい」
はあまりにも有名ですが(笑)、条約交渉前に一杯ひっかけてるあたりが
お江戸のおおらかさですね。
不真面目?いいえ、これが彼らの流儀。
いいんです、結果がちゃんと出せてれば!(爆)

昼食の後、われわれは席をエルギン卿の居間に移した。
ここで閣下と委員たちは、テーブルを囲んでたがいに全権委任状を提示した。
この手続きに含まれるいくつかの必要な細目について協議が行われている間に、
ベッドウィル氏がここに付載(『エルギン卿遣日使節録』)した独特の、
正確な画を描く機会を得た。
肥後はそれに気づくと、さっそく鉛筆と紙をとり上げ、その画家の戯画を
描き始めた。そしてたちまちその手を休めると、見事にでき上がった肖像画を
得意になって示した。


・・・・これは不真面目ですな!(笑)ぶっちゃけ、遊んでます。
ただ若い頃、椿椿山なる絵師(当時の江戸では有名ですた)に絵を
習っていた岩瀬肥後守なので、絵の心得がある。
英国の画家をみてちょっと軽い対抗心が出たのかも。
(そのらくがきは、今いずこ・・・)
ちなみに勝手にエルギンの居間と化しているようですが、
これは芝西応寺、英国使節宿舎の一室でございます。
(どうやらテーブルとか椅子とかはフュリアス号から持ち込んだようですね(笑))

さて実際に仕事にとりかかると、一同は煙管または葉巻に火をつけた。
・・・・・(略)・・・・われわれはいよいよ条約の注文に入ることができた。
委員たちが、細目の要旨を議論するのに最大の英智を示し、
提示されたあらゆる疑点の論理的説明を完全に理解するまでは
決して了承しないことがすぐにわかった。
一度だけきわめてむずかしい問題にぶつかって、誰かが気分転換のために
茶を飲むことにしようと提言したことがあった。
それに対してエルギン卿がチャ=パン(茶とシャンペンをかけた洒落)ではいかが、
といった。この修正は限りない喜びをまきおこして、満場一致で支持された。


エルギンが洒落をいっている、というだけで衝撃です。
この人というと、清国での強硬な交渉者というイメージが強いので、
いつもガミガミいっているような、パークスちっくなキャラ系なのに。
陽気でラテンな幕末お江戸の雰囲気のなかで一週間も滞在して、
つい開放的になってしまったのか?(笑)

日本人は滑稽を鋭く感じとる力を持っている。
そして多くの困難な点を秀句で解決する。
まったく彼らがたえまなく耽っている笑いから判断すると、
いつも洒落をつくっているらしい。
肥後は一行の才人だった。その結果しばしば自分でぼんやりとしているばかりでなく、
とかくほかの人々の注意をそらしがちだった。
彼が洒落を案じているときは、その目がまたたくのですぐわかった。
それでも業務上の問題についての彼の観測はいつでも鋭く、正鵠を射ていた。
彼はそれを行なうに当っては、いつも謙虚だった。


日本人というより、洒落に命をかけている江戸人・・・・といったほうが正確か?
「彼らがたえまなく耽っている笑い」ってどんだけ楽しそうに仕事をしているのだ、
外国奉行!!!(笑)
そしてまるで「おちつきのない子」と成績表にコメントされてしまいそうな、
岩瀬肥後守。いやいやちゃんと仕事はしているのです、はい!
井上&岩瀬はハリスとの日米通商条約で十分働いたし、
この日英条約もエルギンがなんといおうと、日米通商条約に則したもの
であるかぎりは、とくに口出す必要もなかったわけです。

ハリスとの交渉では「では戦争だ!」「おおいに結構。この条約を調印し、
内戦になるより、アメリカと戦争したほうがましだ(BY岩瀬)」・・・・というような
たいそう剣呑な論戦を戦わせたのとうって代わって、
日英交渉はなぜかムーディな「大人の談判」だったようです。

オリファントはとってつけたようにではありますが、
ほかの委員についても書いてくれています。

提督(永井玄蕃頭の外国使節間でのニックネーム)は一行のうちで、
もっとも聡明で能動的な一員だった。
彼と前長崎奉行(水野筑後のこと)とが同意すれば、
他の者はほとんどその例にならった。


第一全権なのに、またもや外国人の印象に薄いらしい水野さん。
(ゴンチャロフのときと同じような・・・・・・)
そしてここでも「能動的」な男、永井玄蕃頭でありました(笑)。
(彼の前向きなたくましさには岩瀬さえ勝てません)
水野&永井コンビって意外にもしっくりいくようなので、
ほかのみなさんは楽でしたね♪
(影のうすい堀織部正は、
あたまのなかが箱館のことでいっぱいなのでしょう)

(本日引用:新異国叢書9『エルギン卿遣日使節録』(雄松堂)144P~147P)

こうして条約交渉はすすんでいきました☆
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by aroe-happyq | 2008-08-22 10:48 | 五カ国条約150年 | Comments(2)
8月21日(1858)
安政5年7月13日 にわか雨 江戸

日英交渉第2回公式会見。

日本側はオランダ、ロシアとの条約調印で忙しく
中断が多かったのですが、ようやく腰を落ち着けて
交渉がはじまるのですが、
これから3回の会見で通商交渉を終わらせます(笑)。

これについてエルギン伯は本国宛の書簡のなかで、
以下のように報告しています。

私は彼らがてきぱきとその仕事を処理していくのに感銘を受けました。
すなわちきわめて鋭い観測を行ない、実に要領を得た質問を発し、
しかもあらさがしをしたり、とがめ立てをするような気持ちは少しもなかったのです。
もちろん彼らの批判には、外国事務についての知識が不十分の結果によることも
ありました。
そしてときには彼らのためらいを取り除くために、原文を改善するのではなく
変更することも必要でした。
しかし全体からみて、私はこれまでに交渉をもった相手で、
彼らほどその知識の及ぶかぎりで、道理をわきまえていると思われたものは
なかったと断言できます。
 
  (新異国叢書9『エルギン卿遣日使節録』(雄松堂) 267P)

皮肉屋のロンドンっ子のエルギン伯が思わず普通に報告してしまうほど、
日本交渉委員の仕事は迅速かつ、的確だったようです。

さて、この日には英国側の艦長も総出席して、日本側に紹介されました。

フュリアス号艦長 オズボーン大尉
レトリビューション号艦長 バーガー大佐
リー号艦長 グラハム副司令官
エンペラー号艦長 ワード司令官

・・・・でさっそく条約内容の交渉に入るかにみえたのですが、
ぜんぜん違う件で揉めてしまいます(笑)。

調印後、エンペラー号の贈呈式をおこなう際、
国際的慣習に則って、21発の礼砲をそれぞれの国旗に対して撃つ、
ということに対して日本側がこれを拒否したからです。
まだやったことがない(前例がない)ということと、
江戸湾で礼砲をおこなうと、江戸じゅうに響いてやかましいし、
(江戸は世界最大規模の人口を抱えながら、とっても静かな町なのです)
魚がとれなくなると漁業関係からクレームがくるというのがその理由でした。
英国艦長ズは日本の提督永井をしきりに説得(爆)、
「海外に日本海軍が航海される日も近い。今のうちに慣れておくべきだ」
永井としてもその意見に賛成だったが、江戸全体にかかわる件となると
老中の許可が必要だった。
「今すぐには回答できない。後日、あらためて返事する」
とその場をきりぬけたようでしたが・・・・。

この日は夜に老中太田備後守宅でも会見がありました。
「将軍に謁見したい」とごねるエルギンをなだめようと、
急遽きまった会見のようで、
太田さん宅に椅子がなかったので、岩瀬肥後守の機転で寺院から
台子を運ばせたとか(笑)。
(『史談会速記録』200号 福島住一 談より)

会見では、英国側はどうしても礼砲をやりたいらしく(笑)、
(前例がないことをやりたがるクセがあるような?)
直接老中にこの件の許可を求めた。
老中太田があっさり許可した・・・・ので、エンペラー号贈呈式の礼砲が
急遽きまったのでした。
(これから数日間、築地海軍操練所メンバーはエンペラー号の訓練、
そして会津藩は持ち場の御台場で礼砲の秘密特訓を行うのであります(笑))

さて実はこ日までエルギンとしては、外国奉行などという下役(失礼な!)
とではなく、首脳クラス(老中・若年寄)と直接の条約交渉を行いたいと
考えていたようです。
しかし太田老中に会い、条約についてさっぱり理解していない様子を知って、
「実務は外国奉行がすべてになっている」ことに気づき、
これ以後は「老中と交渉したい」といわなくなくりました(笑)。
ちなみに「将軍に謁見したい」という要求のほうはまだやっていたようです。
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by aroe-happyq | 2008-08-21 10:28 | 五カ国条約150年 | Comments(0)
8月20日(1858)
安政5年7月12日 晴天 江戸


前日に通商条約の調印をはたしたロシア使節プチャーチンが、
この日、江戸城で将軍世子慶福に謁見しました。

家定将軍はすでに薨去しているが、
日本政府はこれを外国人には隠し、「病が篤い」といっていました。
プチャーチンはどこかのエルギンと違い(爆)、
日本政府の要請にしたがい、神奈川で軍艦をおり、
陸路で江戸にはいるなどたいへん紳士的な人物で、
また条約内容でも、いつくか日本を対等国とみなそうとする姿勢も
あったことから、
日本側は最大級の配慮ということで、世子との謁見をセッティングしました。
慶福からするとプチャーチンが初外国人???かもです。

今日は、英国使節との交渉はお休みなので、
こんなところです。
エルギン一行は暇だったので、江戸見物に出かけたらしいです(笑)。
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by aroe-happyq | 2008-08-20 09:53 | 五カ国条約150年 | Comments(2)
8月19日(1858)
安政5年7月11日 くもり 江戸


ペリーから遅れる事わずか1ヵ月。
それから6年の歳月をかけて、ロシア全権使節プチャーチンは
長い交渉を続けてきました。
クリミア戦争が勃発し、イギリスやフランスの軍艦にみつからないよう
慎重に何度も来日し、時には下田で大津波に遭い、乗ってきた軍艦が
破壊するなど・・・・・この6年のプチャーチンは
連続ドラマの主人公になれるような苦労を繰り返してきました(笑)。
こうした苦労はプチャーチンと交渉を重ねてきた日本委員も
よくわかっていて、いつしか友情にも似た親しみが双方のあいだに
生まれたような気がします。
その親しみが、この通商条約に込められております。
安政不平等条約といわれるなかで、ロシアとの条約にだけ、
両国平等の最恵国待遇、領事裁判権の総務的規定が盛り込まれたのでした。
「プチャーチンだけは日本を対等に扱おうとした」
(和田春樹『開国 日露国境交渉』NHKブックス 187P)
のかもしれません。
この後、ロシアの対馬占領事件などがおきてしまうので、
つかの間ではありますが、日露の紳士的な友好状態が、150年前のこの頃、
たしかにあったのでした。

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真福寺

愛宕下の真福寺で調印されました。
日本側メンバーはいつものみなさんです(永井とか。←いいかげん)。

d0080566_1092658.jpg


このお寺、オランダ領事クルチウスも滞在し、
こののちフランス使節も滞在します。
クルチウスが滞在したおかげで、写真家ベアドの愛宕山からのパノラマ写真が
実現しました。


さて、エルギン使節のほうはというと。
この日、第一回公式交渉会見がおこなわれました。
全権委任状を交換し、いよいよ談判のゴングが鳴りました(笑)。

ちなみに、日本交渉委員はというと。

第一全権 水野筑後守忠徳
第二全権 永井玄蕃頭尚志
第三全権 岩瀬肥後守忠震
       井上信濃守清直
       堀織部正利煕
       津田半三郎

という構成でした。

水野は安政元年の日英協約のおり、長崎奉行だった彼が
全権主席を担当したこともあり(全権補佐が永井でした)、
その経験を買われての登板だったようです。

全権三人について、オズボーン艦長が語った一文をかつて紹介したのですが、
またまた岩瀬を褒めてます(笑)。

彼はまた機智に富んでいて、
何らかの問題が起こると、会議の席であろうと、他の場所であろうと、
何か大笑いになるようなことを言って、皆の窮地を救ってくれるのだった。


オズボーンの文の一部↑ですが、岩瀬という人をとても簡潔に
語っています。
岩瀬とは、ひじょうにウイットに富んだ、愉快でさわやかな男なのです♪
井伊派がいうような「冷笑」のイヤミな男ではまったくない!
ということをここであらためて申上げたいと思います(爆)。
(君たちが間抜けだから、岩瀬に冷笑されただけなんだって、みたいな(笑))

岩瀬についてのエピソードはオリファントの本にまだまだあるので、
また明日にでも紹介いたしましょう☆
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by aroe-happyq | 2008-08-19 10:27 | 五カ国条約150年 | Comments(0)
どうも「修好」って後から(明治以降)付け足しみたいで好きではないので、
勝手にはずさせていただいてます。


8月18日(1858)
安政5年7月10日 晴天 江戸

元の出島商館長ドゥンケル・クルチウスは安政5年春、
オランダ駐日領事として江戸に参府しました。
通商条約の交渉もこのときから話し合いはあったみたいで、
今回の調印もわりとスムーズに進んだようです。
・・・・・・史料があまりないので、こんなところでしょうか(汗)。
日本側で調印したメンバーは、
永井玄蕃頭、岩瀬肥後守、岡部駿河守でした。

一方の英国使節との交渉ですが、この日も続いていました。
新異国叢書4『スポルディング 日本遠征記/オズボーン 日本への航海』(雄松堂)
によれば(216P)、この日に限らず日本側との交渉は午後1時ごろから(216P)。
始まるのが常だったらしい(笑)。
それもきまってエルギンと昼食をとってから、とのこと。

われわれは家に帰り着き、ちょうど昼食に委員たちを迎えるのにまにあった。
彼らは、いつもわれわれの昼食のときにやって来て、実にきまりが悪いといった。
「彼らは、まったくのところ、今日は何か相伴を与ろうなどとは
思ってもいなかった。まるでハムやシャンパンほしさにやって来たように
思われるところがきわめて大きいかもしれない」しかし、エルギン卿は
そのような疑惑を抱いたことはまったくなかったと答えた。

(新異国叢書9『エルギン卿遣日使節録』(雄松堂)158P)

午前中に城で打ち合わせ→芝まで出かける、とたしかに午後1時くらい
にはなるけれど、「ねらっていない」というのはちょっとウソだと思う(爆)。
だってハムもシャンパンも好きだんね、外国奉行ズ☆

この日の西応寺での会見は外国奉行となってからはじめての会見なので
挨拶程度で済ませたらしい。
本日は外国奉行筆頭水野筑後守忠徳の初登場、です。
5人の外国奉行+目付+書記+通訳(8人)VSエルギン(1人)
という交渉状態には、さすがにエルギンが難色を示した。
そこで書記をはずすことになったが、

エルギン卿は、われわれが聞いたところでは、彼らに対して、
このように人数を減らしても比率では1対5であること、
この状況では日本側の利益が侵害されるはずがないことを指摘した。
これに対して委員たちの答えは、
このように多数の委員が任命されたのは、卿の高名な有能さに対する
最高の敬意の表明であること、彼らは、至らない能力の許す限り
彼の提案を正しく公正に判断することを望んでいるのであるということだった。

        (同上『オズボーン 日本への航海』(雄松堂)216P)

適度にエルギンを持ち上げて、ほどよく良い心持ちにさせるあたり、
外国奉行、なかなかです(爆)。
エルギンも反論できなくなり、そのままで交渉は続きました(笑)。
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by aroe-happyq | 2008-08-18 11:08 | 五カ国条約150年 | Comments(0)

アジアンエンタメ&お江戸後期。外国奉行や長崎海軍伝習所がご贔屓☆ BYはな。


by aroe-happyq