東都アロエ

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アジアンエンタメ&お江戸後期。外国奉行や長崎海軍伝習所がご贔屓☆ BYはな。

カテゴリ:江戸城の大旦那( 45 )

まずは、二つの記事を紹介します。

東洋経済 「徳川家康は「日本人に嫌われる性格」の典型だ」→こちら

毎日新聞「家康なぜ嫌われる? 平和主義者、軍部の不評買い」→こちら


そもそも秀吉嫌いな私としては(信長も、家康のさほど好きでもないけど。ダントツで秀吉嫌い。理不尽に他国へ迷惑かけたから!)、
意味がわからないのですが、家康は不人気らしいです(笑)。

やり方は強引だけど、元和偃武を実現しただけで、家康も徳川家も天晴れな政権だと思いますケドねー?
褒めてあげるべきかと……。

清水克行著『喧嘩両成敗の誕生』という本をご存じでしょうか?(アマゾン→こちら

この本によると、中世の日本人はとにかく切れやすく、すぐ命のやりとりまで至ってしまったそうで、戦国時代へなだれこんだのもそうした下地が
あったから。日本人は戦国時代のせいで殺伐としていたわけでなく、その前からやばかったわけです。

その荒ぶる日本人は、江戸時代に江戸を発信源にして、秩序ある平和な世の中と教育の充実のおかげで、驚くほど落ち着いたのではありませんか?
それは徳川家康の政権だったから、実現できたからではないのかしら??
(もっとも、日本の端っこで、江戸発信の平和の風を拒絶し、中世日本人で有り続けた長州とか薩摩とか、そういう荒ぶる人々に「明治」という時代とともに
パクス・トクガワーナはぶっ壊されて、日本はもとの殺伐とした中世に戻されたわけですけどネ(汗))

毎日新聞の記事にあるように、明治という朝鮮やアジアを侵略した時代は、
秀吉の「唐入り」前例を賞賛したわけなので、アジアと平和で良好な関係を結んだ徳川家康は都合悪いし、嫌われていたわけですな。

そんな日本と逆に、現在進行形ですが、韓国や中国では家康さん、すげー人気者ですヨ(笑)。
このギャップ、そろそろ埋まりませんかね~~~~?

というか、今年の真田丸の家康、めちゃめちゃ可愛いのになーーーー。
嫌われる要素が見当たらないんですけどーーーー。

ふと、家康さんについて、いろいろと考えさせられちゃいました。




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by aroe-happyq | 2016-10-11 17:58 | 江戸城の大旦那 | Comments(4)

家斉の良いところ

とうとうドラマの「大奥」で家斉時代が取り上げられたようで、
友人から「家斉について教えて」というリクエストをいただきました。

家斉といいますと、歴代将軍でいちばん大奥を満喫した人で(笑)、
この超子だくさん将軍のおかげで、「大奥三千人」みたいなデカイ話が伝説化して
しまいました。

わたしもそんなに詳しくないのですけど、家斉という人物について
大奥でのエピソード(ま、このエリアが似合う将軍NO.1だし)で、
「やるじゃん、家斉」と見直したポイントがありまして、
それにして書いてみたいと思います。
(たぶん前にもどこかで記事にしている内容の再録の気がします(笑))

①アホではないんですよ

 3年前に国立公文書館で開催された「旗本御家人Ⅲ」展で、
山添宗積という奥医師の日記『朝廷日記』(朝廷って徳川公儀のことを指すらしい(汗)。
後世ならば水戸斉昭に激怒されちゃうような危険なタイトルっす)というのが展示されていました。

家斉の子供たちが次々に病気で死んでいくのですが、その原因について27歳の若き家斉も
いろいろ考えたらしく、「こどもたちの死が早すぎるのは、医師たちの治療が過剰なのが原因では?」
と思ったようなのです。なんでもこどもの容態がかわるたびに新しい薬を投与するとかで、
たしかにそれではこどもの体がもちませんね。
そこで家斉は寛政10年5月6日、満3歳の敦之助が危篤状態となると、「下々之小児」に
施すように治療いたせ、と奥医師たちに「上意」を伝えたそうです。
つまり、市井のこどもと同様の治療をおこなえ、というわけです。
うーむ、なかなかのアイデアです!
(はい左様ですかと、頑固な奥医師会が言うことをきいたかどうかは不明ですが)
女の尻ばかり追いかけていただけの凡庸な好色将軍ではなかった、
こどものことも真面目に考えるパパさんでもあった、
という気がしたエピソードでした。


②臨機応変に対応できます

これは勝海舟のエピソードでもあります。
(勝部真長『勝海舟』335P~)
ご存じとおり、放蕩三昧の父勝小吉のために、旗本勝家は御家人同様の貧しい暮らしを
していました。勝麟太郎は子供のころ、満足に三食の飯にもありつけなかったとか。
勝小吉の兄の娘婿の伯母に、お茶の局という大奥呉服之間に勤める人がいました。
ドラマの大奥では「男子禁制」になっていますが、昼間は柳営官吏(エライ人)や
御三家御三卿などはOKですし、男児は大奥に住むことも可能でした。
で、大奥勤めの人は外の親類の子をよく大奥に遊びにこさせて、寂しさを紛らわせます。
お茶の局も6歳の勝麟太郎を遊びに大奥へ招きます。
するとわんぱく盛りの麟太郎がはしゃいで大騒ぎしている様子が、
大御所の家斉の眼にとまってしまいます。
「初之丞の遊び相手にちょうどよい。お茶の部屋へあげよ」
初之丞は家斉の孫、将軍家慶の子。その遊び相手として大奥で暮させよという。
お茶の局は、しかし辞退しようとします。
「有り難き仰せにございますが、いたって貧しく、本日の衣服も実は親類より借用いたしたもの。
行き届かないことも多いかと」
つまり、麟太郎が貧しく、服も大奥の生活に見合ったレベルのものを着せることができかねるので、
という理由で断ろうとしたのです。
すると、家斉は「苦しからず」と。
かくして、麟太郎はのちに一橋家に入る、初之丞の学友として数年間、大奥で暮しました。
(勝さん、初之丞が死ななければ一橋家用人やってかも(笑))

で、ここで家斉を見直したのは、人を身なりで判断しない、という点。

ふつう、古今東西、みすぼらしい衣服を着ているだけで、宮殿から叩き出されるのが常ですよね。
よくそういうシーンをみます。海外ドラマでも、日本でも。
ところが家斉はなかなか合理的なおっさんで、多少小汚くても(ま、洗えばいいわけだし)、
麟太郎のなかにほかの男児にない元気で賢いところを見出して、
それを可愛い孫のそばにおきたいと思ったわけです。
先見性があったかどうかわかりませんが、あの勝海舟を選んだわけですから、
なかなか人物鑑定眼があったんじゃないの?とさえ思ってしまいます。

以上、駆け足で家斉さんの良いところを2つあげてみました☆
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by aroe-happyq | 2016-01-23 11:53 | 江戸城の大旦那 | Comments(2)
慶喜公に関して師匠とあがめるお方より、教えていただいた展覧会のお知らせです☆
(つまり行ってはいないので、ただのお知らせ記事であります)

茨城県立歴史館サイト→こちら

さすが水戸!だと思いましたのは、
展示解説のタイトルが慶喜を表現するのに的を射ている以上に、
超カッコ良すぎる点です!!!

①「動乱の貴公子」
②「異形の将軍」
③「官賊交錯」


さらに公式サイト内でPDFでみられる、チラシの言葉も素晴らしい!!!

最後の将軍は正統なる英傑(カリスマ)か。
異形の異端児(アウトサイダー)か。


おお~~!!どっちもそうだといえる慶喜公な気がいたしますっっ(笑)。

とにもかくにも、武家政権といえば、鎌倉政権、足利政権の最期がしょぼしょぼで終わったなか、
その総仕舞いの徳川政権ラストに、
こんなに聡明でユニークな人物がトップに立ったというのは、
実に世界史的にも珍しく、まだまだ研究の余地ありまくりな出来事だったと思うのは、
わたしだけでしょうか??

ちょうど前回の記事が信長なのでからめると(彼も天下人だったから)、
日本人にたくさんのファンを持つ信長公ですが、
最期は全幅の信頼を寄せていた部下(爆)に裏切られ、殺されるという結末を迎えてしまいます。
慶喜の場合、どんなに嫌われようと(笑)、暗殺もされず、天寿をまっとうしている点で、
トップに立った人間としては、信さんよりも上だな、と思うのですが、
その割には人気がないのが、ホントに悔しゅうございます。

というわけで、昨年に続き、慶喜公の展覧会が、しかも水戸で開催中ということで、
嬉しいかぎりですが、さてはてわたしは期間中に行けるでしょうかっっ(汗)。
・・・・なんていう情けないぼやきをこめつつ、お知らせがてら、記事にしてみました♡
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by aroe-happyq | 2015-02-11 09:54 | 江戸城の大旦那 | Comments(4)
うっかり、記事にしわすれていた些細な件です。

昨年の11月、松本良順の慶喜への治療時期について。
では、松本良順の上洛時期について、拙ブログでは軍艦奉行の木村摂津守日記を使って
確認をとりました次第ですが、
勝さん祭り中にじっくりと勝海舟日記を眺めた流れもあって、
だめ押し的に、勝海舟日記のほうも引用しておきたいと思います☆


文久3年1月22日
  午後、春嶽殿御乗船、従属八拾余人、
  監察杉浦正一郎、奥御右筆西尾錦之助、松平太郎外(ほか)、
  便船奥医師石川玄貞、松本良順、徒目付弐人、小目四人

29日 湊川江御上陸、午後大坂に到る。
  ○本日春嶽公御上陸 ○我輩上陸。

(『勝海舟関係資料 海舟日記(一)』 東京都江戸東京博物館都市歴史研究室編 45P)

この春嶽公を乗せた順動丸は勝サンが船将(艦長)として乗船していたので、
それはもう、詳しいわけです。
(この『勝日記』、毎回図書館でチェックしているわけですが、江戸博・・・再版してくれないものか・・・・)

で、この船旅に目付杉浦が同行していたのなら、
ということでダメダメ押し的に杉浦の日記もチェック。
(松本の名は出てこないですが、日程だけでもということで)

正月22日順動丸乗組、23日品川出航、同29日着坂。

2月3日夜於伏見、春嶽御下ケ・・・・・・・


(『杉浦梅潭 目付日記』 89P、90P)


1月29日に大坂到着(勝はここから神戸へ行ってしまう)、杉浦日記では2月3日夜に伏見着いているので
前の記事で紹介いたしました、yu-さんの検証の裏はさらに確実にとれましてございます♡
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by aroe-happyq | 2014-08-29 17:33 | 江戸城の大旦那 | Comments(0)
書店の幕末コーナーをうろついていたら、こんな本が目に入りました☆

3月に出ていた本のようなので、今さらですけど、
ちょっと記事にしてみました。


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あの世からの徳川慶喜の反論  
           鳥羽伏見の戦いの真相を語る

佐藤 泰史 著


東洋出版

アマゾン→こちら






店頭で本を開いて、衝撃だったのは、
ほぼ全編、慶喜さんのインタビュー本だということです!(笑)

たしかに、ここまで思い切った「インタビュー形式」本って、今までみたことありません。
なかなか斬新~~~~!!

しかも、内容が鳥羽伏見前後のみ。

これはなかなか・・・・『昔夢会筆記』でも突っ込んで聞けない、
慶喜公的にはタブーに近いあたりです。


著者の方は、元は公安にお勤めだったようですが、
この本のほかにも、鳥羽伏見の戦いについての本を出されて
いらっしゃるようなので、鳥羽伏見について、
かなり、いえ、相当にこだわっておられる。
なので、今回の本でも、かなり細かいやりとりが展開されています。


ちょっと面白かったので、じっくり読んでみたいのですが、
いろいろ読まなくてはならない本がたまっているので、泣く泣く本を元の位置に
戻しましたが、いずれポチるか、書店でゲットしようと存じます♪

パラパラ~っと読んでいたなかに、
『徳川慶喜公伝 史料編』の浅野氏祐の談話のなかの、
慶喜さんが大坂城を脱出する日前後について、永井尚志の語った内容が
紹介されていまして、その内容が信じられると思う・・・・的な文章が出てきますが、
永井はいつの時でも真面目で、でたらめを言わぬ男ですから、
本気で信じていいと思います!!ということをここでひっそりと太鼓判を
押させていただきます☆
※ちなみにうちのブログで紹介した浅野談話記事はこちらから。
(パート3まであります(笑))


というわけで、ちょっと気になった本を紹介させていただきました。
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by aroe-happyq | 2014-04-24 14:21 | 江戸城の大旦那 | Comments(2)
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家近 良樹 著

人物叢書 新装版『徳川慶喜 』

吉川弘文館 1月8日発売


アマゾン→こちら
吉川弘文館のこの本の紹介ページ→こちら







吉川弘文館の人物叢書シリーズには昔からお世話になってきましたが、
あれ・・・・!??
慶喜公って・・・・・・まだだったっけ!??(笑)
島津斉彬とか、松平春嶽とか、井伊直弼とか、勝海舟とか、荒井郁之助(以下省略)とか、
わたしがお世話になった幕末の叢書だけでもこーんなにいましたけど、
意外にも、徳川慶喜の本は今までなかったんだ!ということに
この新刊案内をみて、気がつきました(笑)。

ただ、内容説明をみていると「鳥羽伏見戦争後、江戸に逃げ帰り」とあるので、
どう~~~なんでしょ、って感じ(笑)。
「逃げた」のか、「大坂城戦争を回避した、東帰」なのか。
意見は分かれるところですが、新しい研究をもとに書くのなら、
安易に「逃げ帰り」と書いたら客は逃げちまうんだけど(って自分か!?)。

著者の方は九州のお生まれのよし。
この頃、勝海舟について調べていますが、勝海舟のことを深く理解できている本を
書いている方は大抵東京生まれの方だったりしまして(笑)、
しみじみ、地元のことは地元の人が最もよくわかるものだと思うことが多いです。
生まれ育った水と空気が、百年の時を越えて、ツーカーの以心伝心を呼んでくれる、
そういうことって、歴史研究でも大きいように思います。

わたしには西国志士の心がさっぱりわからないのと同じように(笑)、
慶喜をより理解できるのは水戸や東京を含む東国の人のように思います。
できれば、東京を含む関東生まれの研究者さんに慶喜を含む江戸史研究をお願いしたいのですが、
なかなか難しいのでしょうか。
(なので江戸っ子旗本の気持ち、行動を少しでもみなさんに理解していただけるよう、
絶滅危惧種の東京人として、これからも頑張りますっっ!)


わたしのなかで慶喜伝は、史料編も含めて、渋沢栄一著が鉄板ですが、
そろそろ渋沢を超える慶喜伝が読んでみたいのですが・・・・。
今回のはさてはて、いかに!??

しかしなにはともあれ、伝統の人物叢書に、慶喜公が加わったということは、
ひとまず、めでたいことですネ!!!
(昨年発売なら「没後100年」って帯に入れられただろうにのう・・・・・・・)
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by aroe-happyq | 2014-01-07 19:10 | 江戸城の大旦那 | Comments(8)
春のほうは、うっかり行きそびれてしまったので、
今回は数日前に、ちゃんと行ってきましたっっ☆


記念展第一期  11/29〜12/5
「徳川慶喜生誕と終焉の地ぶんきょう」 @文京シビックセンターアートサロン

(入場無料)

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↑ 文京シビックセンターの1階で開催していました
(文京区区役所も入っているわけですが、いやはやゴージャス!うちの区役所なんて
超ボロっちいので、思わず、見上げてしまいました(笑))

徳川慶喜は、水戸藩上屋敷(現:後楽園)で生まれ、
亡くなったのは小石川第六天町なので、いわば、ザ・文京区の人。

今年はいろいろと偲ぶ企画が催されていたようですが、この展示会(二期もあります♪)
がラストスパートといった感じで、会場は小さいけれど、そしてパネル展だけど、
すごく気合いが入っている展示会でした!

内容は生涯を振り返るパネルが並んでいる+御屋敷の模型、資料本等々読み放題スペースなど
があり、これから徳川慶喜を知りたい!という方にオススメの、
とても優しい企画展でした。

そして平日なのに、たいへん混雑していました!

慶喜公、地元で人気があって、よかった~~~~♡

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↑入場者に配布している冊子です。
慶喜年表や美賀子夫人のことなどなど、充実した内容デス!

この展示をみた人のなかには、数分でたどり着ける小石川後楽園(入場料300円)
へとハシゴする人もいました。
(しかし!紅葉シーズンで、後楽園・・・混んでました~~~っ・・・ので私は撤収しました・笑)


今週末からは、二期展示がはじまります。

12/7~12/20 記念展第二期 「徳川慶喜生誕と終焉の地ぶんきょう」
        

会場が変ります→ 国際仏教学大学院大学 春日講堂展示室
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by aroe-happyq | 2013-12-05 18:48 | 江戸城の大旦那 | Comments(11)
毎週欠かさずみている、BS-TBSの番組、
謎とき!江戸のススメ(月曜午後10時~)ですが、

12月2日は「15代将軍 徳川慶喜」です♡

番組サイト→こちら


今まで家康や綱吉、吉宗などが登場してきた将軍シリーズですが、
いよいよ15代さんの登場です♪

没後100年の記念の年にしては、ほとんどTVに登場しなかった慶喜公ですが、
(なにせ命日はケネディ暗殺50年とぶつかっちまったしさ!)
師走に入って、まさに今年ギリギリで「謎とき!江戸のススメ」にご登場です。


ただ、ちょっと不安なのは・・・・・・・・・ゲストさんの布陣ですな。

ゲスト:俳優 三田村邦彦さん
   中央大学教授 松尾正人さん


これって、めちゃめちゃ司馬サイド、西軍サイドじゃん(笑)。

三田村さんは大河「跳ぶが如く」のときの慶喜役、
松尾さんは『木戸孝允』や『廃藩置県』の著書を書かれた方。

つまり、・・・・・ですよね?????(爆)

この布陣ですと、内容は旧来の古くさい解釈メインになるかもしれないので、
あまり期待できませんネ。

せっかくの慶喜番組なのでっっ、
もっと慶喜をメインで研究している方を呼んで欲しかった・・・・・・・・・。

嗚呼、それでも見てしまうんだろうなー、だって毎週みてるから~~~~っっ
この番組の「将軍シリーズ」なんだかんだいっても、けっこう好きだし(笑)。



わたしとしては、いつの日か家宣公が取り上げられたら良いナ、
とは思いつつも、
やはり内容が期待できそうにない・・・・・・・(ため息)。
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by aroe-happyq | 2013-12-01 10:25 | 江戸城の大旦那 | Comments(0)

慶喜公 没後100年。

朝のニュースをみていたら、今日はケネディ大統領が暗殺されて50年だとか。
いやいや、そうじゃないでしょう、と。
日本にとってもっと大事なことがあるではありませんか(笑)。

本日は、
大正2年(1913年)11月22日、徳川慶喜がこの世を去って100年、という日です。

そういう日なので、おそらく慶喜公が眠る谷中霊園は賑わっていることで
ありましょう☆ (いや、静かだったら、ちと寂しい・・・・)

今年は谷中を通り過ぎたおりにちょっとご挨拶したので、
(その後、とくに慶喜公に関しての研究が進んでおらず、報告する内容がない・笑)
本日は、霊園を訪ねず、
このブログに記事を書いて、偲んでまいりたいと思います。

すでに慶喜公の活躍については色々と記事にしてきたので、
今回は「その人となりと印象」について少し書きたいと思います。

先月の記事では「図書(小笠原のこと)はまだ来ぬか」とか、
茶碗に酒を五杯ほどひっかけて、
中川宮邸では「「私は十万石頂戴仕って居ますから、茶はどうかこうか買って呑み候」のように、なかなかの千両役者ぶりをみせてくれるので、
いろいろ誤解されている向きもあるようです(笑)。

というわけで、ホントはどういう感じだったのか、をちょこっと並べてみたいなと。

今回は100年前の雰囲気を感じていただくべく、引用文は旧字オンパレードでおおくりします。

まずは、慶喜の近臣側近ではない、身贔屓感ゼロという立場の、
大隈重信に、その人となりを語っていただきます。

公は人に接する温和にして襟度の英爽たる、老いて尚ほ然り、
以て壮年の時を想望すべし。
其神姿儁厲にして眼光人を射、犯すべからざる容あり、
静黙にして喜怒を濫りにせず、事情を述べ、事理を判するに當りては、
言語明晰にして人をス服せしむ。是を以て至極至難の際に立って、
名望を集めて失はず、幕府の終局を完結して、
維新の昌運を開かれたるは、決して偶然にあらず。


同じ本には、大隈が自分の述べたことを証明するために、
別の人の証言も収録されています。

(貴族議員三浦安氏 元伊予西條藩士)の談
余が知れる人の中に最も雄弁家と思はるるは、噺家の圓朝と
陸奥宗光及び慶喜公なるべし。
公の将軍たりし當時の事を憶jひ起すに、
言語の明晰にして、条理の井然たる、静かに述べて威厳ある雄辯は、
今に尚ほ耳底に存すといへり。


(以上、大隈重信著『開国五十年史』「徳川慶喜回想録 慶喜公の逸話逸事」P110~P111)


まさかの大隈サンとか、西條藩の人とか、徳川直参以外の人々の証言。
しかしだからこそ、贔屓目なしの冷静な「印象」が語られています。
言語明晰というキーワードはよく出てくるポイントですが、
「温和」とか「静黙にして喜怒を濫りにせず」というのは、
あまり語れていない印象のような気がするので、拙ブログでは前にも触れましたが、
このたびもぜひ声を大にして申し上げたいところです(笑)。
(父・斉昭がエキセントリックな切れキャラだったので、この父を反面教師として
育ったことで形成された性格だと、なにかの本に書いてありましたっけ。
まさにそのとおりかも・・・・・という、物静かな人・慶喜公です)
しかし、落語好きの慶喜公なので、噺家の圓朝と並び称される雄弁家とされて、
ご本人も嫌な気持ちはされなかったことでしょう(笑)。

で、次は、大本命!?
『慶喜公伝』を編んで書いた、慶喜公を愛する渋沢栄一(青淵)の演説集から。

この演説は慶喜が亡くなって数週間後のものなので、とても力が入っています。
内容は『慶喜公伝』にも登場しますが、こちらはロングバージョンなので、
ちょっと引用してみます♪

※渋沢は慶喜の弟・民部公子とともにフランスに渡っていましたが、
大政奉還のニュースで急遽帰路につき、明治元年に江戸に戻りました。

(渋沢は)駿河に行って公に御目に懸かった。
其の場所は寶臺院という静岡の極く粗末な寺の一と間に謹慎して御座るのでありました。
日は忘れましたが、十二月の末であった、而も夜陰に三年ばかり拝謁の中絶した身で
御目に懸った時には、負けぬ氣の強い私は公の為され方を眞に不満に感じて
申さば寺院に蟄居して居られる所に、去年以来の将軍に御成りなさったことから
其の以降の御行動が、甚だ其の當を得ぬと云ふ念慮をもって、
頻に既往の愚痴を申し上げた。
其の時に、忘れもしませぬが、公は誠に柔らかな御言葉で、
而も低い聲で、「自分は謹慎中である。斯かる有様にして居るのであるから、
今、例えば京都に居る時又は大坂に於ける既往の事を其の方が如何に愚痴を
言ったとて、それは何等の効能も成さぬではないか。二年間民部に随行して
旅行して来た其の方であるから、なつかしく思ふて面會した。
海外の様子も民部の身の上も聴きたいと思ふ場合に、
去年の私の行動に付いて愚痴を聴かうとは思はぬから、さふ云うことを
言うよりも、寧ろ必要な話をして呉れた方が宜しくはないか」と。
如何にも温和な御言葉で今のやうに承って、私は實に悪かった、成程自分は
愚痴な人間だ、公は斯く思召せなこそ是程の堪忍は出来るのである、
實に堪忍強い御方だと、心竊(ひそ)かに暗涙を催したことを今も能く記憶して居ります。
爾来私はどうぞ公の近所で餘所ながら御奉公をしたいと思った。


(『青淵先生演説撰集』「徳川慶喜公を懐ふ」P154~P155)

渋沢が言い立てた愚痴は、慶喜にしたら、耳にタコができるぐらい、
散々に聞かされてきたことでしょう(笑)。
それも夜中にやってきたのを、わざわざ会ってやったのに・・・・・・。
凡人なら「いいかげんにしろ」とブチ切れてもおかしくありません。
しかし、慶喜公は違います。低い声で、柔らかな言葉で、静かに返答するのです。
ここまで長々と語っている様子が紹介されるのはけっこう珍しいですが、
内容はごもっとも!という、実に正論で(爆)。しかも言語明晰ですね!
この面会こそ、渋沢が慶喜好きになるきっかけだったのも頷けますネ。


ここまで、慶喜の印象についての証言をみてまいりましたが、
いかがでしたでしょうか?


せっかくなので、
この演説にある、渋沢が慶喜に敬服したところ、についても引用してみます。
(ここから、話は脱線いたします・笑)

その一。

私の最も敬服したのは、幾囘御目に懸っても世上の評判には少しも
耳を傾けられぬことであります。始め駿河にござる時には、東京の様子は御分りはないから、
政治上、社會上のことに付いて御尋ねもあるべき筈、又御話したいと思ふて、
兎に角将軍職もなされた御方で、國家の政務に付いては相當なる思慮考案も
あられるから、時の政治の可否得失には多少の御批判もあるであろう、又私も
官途に居た關係から、今の内閣は斯々で困却すると云ふやうなことを
申し上げても、さう云うことには御挨拶なされぬ。・・・・・(略)・・・・
談偶々政治に付いての是非得失になると、一言も批判されたことはございませぬ。

(同書P156)

その二。

仏蘭西のレオンロッスから頻りに御加勢(倒幕軍に對する擧兵の)の事を
御勸め申し上げた時には、多くの人が迷い易い場合であるにも拘わらず、
國家が大切であると云う御觀念から、斷乎としてそれを御拒絶なさったのは、
實に事の輕重を明にして、毅然たる意志を有って御出になったのであります。
・・・・(略)・・・・・當時、若しも公が負惜しみが強くて、瘦我慢を以てなりとも
兵を擧げたならば、それこそ國家は大騒動になる、當時幕臣は皆それを
勸めたけれども、公は一意斷乎として動かれぬ、甚だしきは自己の身體も
風前の塵の如く犠牲に供して惜しまぬという決心であった。
故に明治功臣の中に忠君愛國の人はと云へば、公を第一と言っても
宜しい位である。
(同書P158)

どちらも、渋沢でなくても敬服してしまうところだと思います。
このふたつ、どちらもここまでの徹底は・・・・・できないのではないでしょうか?

それなのに、今まで書かれた小説や評伝などで、やたらと「揺れる慶喜」像が登場します(笑)。
でも渋沢のように近くで慶喜に触れることがなくても、当時の史料を読んでいくと
渋沢の言うように「徹底している」慶喜像に出会えます。
なのに、どうしてあっちこっちに心が揺れる慶喜像が出現するのか?
・・・・・・それは史料を扱う人が「まさかそこまで頑固に徹底できるはずがない」という
凡人たる哀しさ全開の先入観で、己にひき比べてしまい、史料を疑いすぎるのが原因かも(笑)。
読み取るほうが「慶喜の徹底ぶり」についていけない、という現代日本人の劣化こそが
今の世において、慶喜への理解が深まらない、大きな理由なのかもしれません。
(などと、もっともらしく書いてますが、かくいう私もその現代日本人のヘタレのひとりです・汗)

おかげ「卑怯」とか「腰抜け」などと、誤解されがちです。
そのよくない傾向は、なんだか没後100年にしてますます深まるばかりのような、
そんな不安を感じます。

もっとも慶喜公だけでなく、けっこう勝海舟や榎本武揚、そのほか多くの幕臣たちは江戸っ子流で、
本音について多くを語らず、「わかる人だけわかってくれればいい。いつかそういう日もくる」
という人が多いので(笑)、そんな気風を理解できる生粋の東京人がただでさえ
激減している世の中で、ますます理解が難しくなってきています。

なので、渋沢が敬服した「その二」なんて、幕末ファンで徳川寄りという人々にさえ、
「戦わないことを選択する固い意志」の
その素晴らしさが理解してもらえずにおります(笑)。

そして薩長土肥のなかで一人ぐらい欠けても大勢に変化はないでしょうけれど、
慶喜が欠けていたら、明治維新は成ったかどうか、わかりません。
渋沢のいうとおり、明治功臣第一の人こそ、実は徳川慶喜公だったのだと、
いっても過言ではないでしょうネ☆
(今日だからこそ、言っちゃいます!!!)

・・・・・そういうわけで、日本史のなかで、もちっと大切にされたらいいな、と
この没後100年の日に思う次第です。


ま、今日という日に限らず、少しでも理解していただけることを願い、
これからもうちのブログはカッコイイところも、可笑しいところも含め(笑)、
慶喜含め、幕臣たちについても紹介してまいります~~~~♡
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by aroe-happyq | 2013-11-22 12:06 | 江戸城の大旦那 | Comments(17)
2011年2月15日の記事、「幕末慶喜とザ・ドクター 【追記あり】」で紹介した、
京で神経衰弱に陥った一橋慶喜を松本良順が阿片を用いて治療した一件。

この記事で【追記】までして、良順センセに依頼したのは大目付岡部駿河守じゃないのか!?
どうなんだ問題は、結局未解決の迷宮入りとなっておりました(笑)。
(というか、放置しっぱなしだった・・・・)

あれから2年余・・・・・・。

拙ブログを見てくださったyu-さんからメールをいただきました。

その内容は、読んだ瞬間、雷に打たれたように「ああ!そうだ~~!」と
眼から鱗が滝のように落ちるぐらい(笑)、素晴らしゅうございました。
迷宮入り問題が一挙に解決!まさに、救世主が現る!!とはげしく興奮し、
これを拙ブログを覗いていただいている慶喜ファン&松本良順ファンの方々に
お知らせしたい!!!と強く思いました。
それで、いきなり不躾にもyu-さんにこの内容を拙ブログに
掲載させてくださいとお願いしたところ、
お許しいただきましたので、この記事が出来上がりました☆
yu-さん、本当にありがとうございます!!!!

で、その迷宮入り問題のみならず、この一件のちょっと「?」な部分がすべて
クリアになってしまう、yu-さんが導き出された結論とは!

慶喜が阿片を服用したのは
元治元年ではなく文久三年


つまり、前の記事の史料のメインになっていた、
鈴木要吾『蘭学全盛時代と蘭畴の生涯 伝記・松本順』 において、
松本良順が自ら語った、「京の本願寺(慶喜宿舎)に入ったのは
元治元年2月4日
」は、

良順センセの記憶違い

で、実際にはその前年の文久3年だった☆

のではないか、という事をyu-さんは詳細な検証により、導き出されたのです!

岡部駿河守問題も確かに良順の記憶違いを疑ったわけですが、
上洛を依頼した人物ではなく、「年」そのものを間違えて記憶していたわけ(笑)。

以下、yu-さんからいただいたメールより引用させていただいますと♪

「松本順自伝・長与専斎自伝」に
・春嶽に同行して品川沖から順同丸に乗船して京に入る
・ただちに東本願寺の慶喜に会った
・将軍が上洛してくるまで1ケ月ほどあって暇だった
という記述があります。


この松本良順の「春嶽に同行して品川沖から順同丸に乗船」したというのは、
『木村摂津守喜穀日記』の文久3年1月22日(に品川より順動丸で出発)前後に
春嶽と良順が木村の日記に登場することで、裏がとれております☆
(木村喜穀の日記は文久年間の品川発の人物の乗船情報を調べるにはもってこい
だったりします。だって、木村サン、軍艦奉行なんですもの(笑))

続いてyu-さんの検証を引用させていただきます。

春嶽は文久三年品川沖から順同丸に乗船し、二月四日に京都に到着し、即日慶喜を訪問しています(続再夢紀事)。
そして家茂の入京は一ケ月後の三月四日です。また当時の慶喜の宿舎は東本願寺です。

元治元年二月とすると、春嶽の二度目の上洛は文久三年十月十八日で、
品川からではなく国元の福井から入京しています。また春嶽が入京した当日、
慶喜はまだ江戸にいます。さらに将軍の上洛は元治元年一月十五日で、
元治元年二月の慶喜の宿舎は小浜藩邸です。(文久三年の年末に本願寺から引っ越した)


おお!!まさにそのとおりですよねーーっ(笑)
わたしなどはすっかり、良順センセイの語るところの「元治元年」に
とらわれまくっていて、そればかり信用しておりましたが、
yu-さんの鋭い観察眼は良順センセイの記憶違いの罠にはまることなく、
ひとつひとつ史料にあたられて、調べていらっしゃる!!
海よりも深く尊敬の念を抱くとともに、
我が身の史料検証の足りなさを反省しますっっ(汗)。

で・・・・話を戻しますと、
文久3年ですと、岡部駿河守は大目付で、しかも前年末に慶喜に随従して入京するよう、
命じられており、慶喜の傍にいるのですよね~~~~!
これだと、わたしの疑問もまたすべてクリアされるんです☆

松本良順は『蘭学全盛時代と蘭畴の生涯 伝記・松本順』と『松本順自伝・長与専斎自伝』
のどちらでも、岡部駿河守から手紙をもらって入京したと語っておりますが、
松本は岡部(前に長崎奉行でした)とは長崎以来の旧知。
彼等江戸っ子が遠い長崎で共に過ごした間柄の絆って、とっても深いので、
誰か別の人と記憶違いはしていないハズ・・・・・とずっとひっかかっておりました。
なので、文久3年だと、その点もスッキリするのであります。

さらにyu-さんは慶喜の治療時期についても調査されて、具体的な日程についても
見当をつけていらっしゃいます。

文久三年二月四日に春嶽(と、良順たち)の訪問を受けた後、
二月五日に鷹司関白邸を訪問してから、九日の容保、容堂を春嶽の宿舎に集めて
会議を行っている記録まで慶喜の行動が不明(慶喜公伝、京都守護職始末、七年史、
伊達宗城在京日記、続再夢紀事、安達清風日記を確認)なので、
眠ったのは二月六日、七日、八日のどれかではないかと見当をつけております。


『安達清風日記』まで確認されているとは、スゴイですっっ。
(最初にメールを拝見したときは興奮して「キャーキャー」言ってました・笑)
わたしなりに手元にある史料で急ぎ確認してみましたが、
治療に必要と思われる3日以上の慶喜公のスケジュールの空白は
文久3年2月5日~8日ぐらいしかありません。
そこからさらに多くの史料から日程を絞り込んだyu-さんには
ホントに脱帽です!!!

以上ここまでyu-さんの導き出された「文久3年」説を紹介してまいりましたが、
もちろん障害がないわけではありません。
それは、入京して日の浅い慶喜がもう神経衰弱になってしまったのか、という
若干の打たれ弱さを認めざるおえない点であります(笑)。

この問題に関して、もちろんyu-さんも憂慮されておりましたが、
それはですね・・・・・・江戸から入京した人は1ヶ月以内にけっこう精神をやられて
体調を崩す人が多い!というわたしのデータでフォローできるのではないかと思います。
拙ブログをよくご覧くださっている皆さま、思い出してくださいませ。
安政5年、条約の勅許をもらいに老中堀田に随行した、川路聖謨並びに岩瀬忠震は
京でどうなっちゃってましたっけ(笑)???
どちらも進捗状況がかんばしくないばかりに(てか、朝廷の理不尽な抵抗やいろんな人
の暗躍)疲れ果てて極度のストレス状態となり、川路はひどい耳鳴りに苦しみ、
岩瀬は痔瘻が悪化して橋本左内に心配をかけまくりでした(爆)。
(拙ブログでこの一件を扱った記事→こちら
柳営のはえぬきといわれるこの二人をもってしても、この有様です。

母親が宮家出身としても、一橋慶喜だって初の京都。江戸ではありえないストレス・・・
とくに朝廷に漂う攘夷主義の頑固さに、完全無欠の開国主義者のこの方が耐えられましょうか?
そういうわけで、慶喜が京へいってほどなく神経衰弱にかかってしまっても、
仕方がないじゃないか・・・・・・と思うのでありますヨ。
(そうなると、元治元年2月に酒の勢いの暴言事件は、いっさい阿片と無関係になるわけですが・笑)

と最後にちょこっとフォローでお手伝いさせていただいた点をのぞけば、
そのほかすべて、yu-さんの卓越した考察をお伝えするだけのザ・他力本願110%記事
だったりしますが(笑&汗)、この「文久3年説」はどうしても多くの方々にお伝えしたかったのです。
わたしにいただいたメールだけで一人占めするには、もったいなすぎる情報でした☆

なによりも、今回こうしたメールをいただいて、心底、幕末ブログ冥利に尽きる!
有り難いことだ、としみじみ嬉しかったのです。
細々ながら、偏った幕末情報を中心に発信してきたうちのブログをみてくださって、
そしてご自分でこつこつ調べて積んでこられた検証の大切な結果を、
うちのブログを信用してくださって、お知らせ頂いた。
いろいろあったけど~~~~、ブログ続けてきて良かったなぁぁぁと、
ホントに嬉し涙がちょちょ切れました(笑)。

yu-さんは松平容保公と徳川慶喜公が大好きでいらっしゃって、
ご自分で調べたことを容保公の日記として「yu-@京都守護職日記」というブログに
書きためておられる途中とのことで、今回メールでいただいた内容もブログのほうに
さらに詳細にまとめられておられるそうです。
まだブログのほうはまだ未公開ということですので、今回はリンクをはれませんが、
いつか公開される日を楽しみに待ちたいとおもいます♡

最後に今一度。
yu-さん、ありがとうございました☆
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by aroe-happyq | 2013-11-04 10:17 | 江戸城の大旦那 | Comments(13)

アジアンエンタメ&お江戸後期。外国奉行や長崎海軍伝習所がご贔屓☆ BYはな。


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