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アジアンエンタメ&お江戸後期。外国奉行や長崎海軍伝習所がご贔屓☆ BYはな。

カテゴリ:幕臣系( 35 )

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公式サイト→こちら

今週の週末まで開催している「川村清雄」展に
ギリギリでいってまいりました。

どちらかというと、代々のお庭番の「川村家」や
初代新潟奉行や長崎奉行を歴任した清雄の祖父にあたる修就さんに
興味があって、旗本「川村」家の史料が楽しみで行ったのですが、
清雄さん人物のオモシロイさ、そして美しい絵の数々に魅了されてしまいました(笑)。

幼いころから画才を開花させた清雄(嘉永5年生まれ)は、
祖父の大坂町奉行就任時には大坂へ付いていって絵の修行をしたそうですが、
徳川家瓦解とともに家督を継ぎ、駿府へ移る徳川宗家当主家達の奥詰に
抜擢されます。明治4年に徳川家派遣の留学生としてアメリカへわたりますが、
徳川家の「官費」留学生の手前、絵を習いたいという気持ちを抑えていたところ、
大久保一翁に「絵をやりなさい」と言われたとか。結局、アメリカで画才を見いだされて
フランス、イタリアへ絵の勉強へ行くことになります。
帰国後、大蔵省造幣局の紙幣のデザイン係となりますが、イタリアお雇い技師と意見
が合わないとかで、すぐに辞めてしまいます。
(一説には、印刷局の女工さんと053.gifして辞職したとか・・・。さすが
イタリア帰り・・・・といっておきましょう)
その後は、勝海舟夫妻に可愛がられて、赤坂勝邸に住み、ひたすら画業に専念。
ただ、おそろしく筆が遅く、納期に間に合わないことがしばしばで(汗)、
絵画を商売にするにはちょっと不器用なひとだったようです。
フランス派全盛の明治画壇では、
イタリア伝統派の清雄はいまいち注目されませんでしたが、
しかし勝海舟や徳川家達というすばらしき庇護者に恵まれ、
また旗本や江戸趣味の人々に愛されて、「油絵師」として、また挿絵師として
江戸の伝統を描き続けたそうです。

近年、清雄の絵と断定される絵画がいくつも発見され、
「幻の洋画家」とまでいわれていた川村清雄の名が静かに注目されています。
江戸博での展示のほか、目黒区美術館でも「もうひとつの川村清雄展」を開催中。
目黒区美術館サイト→こちら
(江戸博の半券を持っていくと、割引されるそーです!)

わたしは後期展示にいったので、惜しいことに家茂公像(前期展示)
をみることは叶わず、なぜか篤姫をみるハメになりましたが(笑)、
この有名な篤姫像も、実物をみると、背景の模様の美しさ、細かさにびっくり!
何度みても西太后にしかみえない人物部分はさておき(←これは川村さんのせいにあらず・笑)
ホントにキレイな素晴らしい肖像画でした。
「筆が遅い」川村清雄さんは、どうやら完璧主義者らしく、
細かい装飾にもたいへんなこだわりをもって、描いたようです。

家茂、家達、篤姫(天璋院)、慶喜、福沢諭吉、勝海舟・・・・・・等々がお好きなかた
には特にオススメの川村さんの絵です。よく似てますよ!
(思えば、わたしの贔屓すじとはまったく接点のない人だったらしい。残念!)

そうそう!展示で気になったのが、
静岡移住者の美男美女番付という、手書きの史料。
川村清雄は前頭に書かれるぐらい、整った顔でした(笑)。
でもわたしが気になったのは、大関に名があった「堀 〇之丞(か助)」。
堀家もいろいろあるので、決めつけられませんが、堀利煕の老父も息子も
静岡に行っておりますので、その息子とかなにかだったらいいな♪と思った次第。

ここには書ききれませんが、お庭番だった清雄の父の護身用の「手鎖」とか、
勝家でのエピソードとか、留学中の清雄と徳川家達とのかわいい手紙(英文です!)の
やりとりとか、いろいろと旗本ファンには「おお!」と思う展示があって、
楽しかったです☆

なによりも、江戸後期の爛熟した「江戸絵画」界の流れを受け継ぎ、
それを洋画で表現した旗本出身の画家の名が復活しているというのは
嬉しいかぎりです!

川村清雄の油絵は、印刷物だとみえない、絵の具の盛りとか、
木目を大胆に使った持ち味がとってもイイので、
ぜひぜひ実物をご覧になることをオススメしまーす。
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by aroe-happyq | 2012-11-28 18:23 | 幕臣系 | Comments(2)

ザ・徳川慰労金

埋蔵金ではなく、慰労金(笑)。

まだ深いところまで調査はできていませんが、
途中経過として、報告いたします。

高橋泥舟調査の過程で突然出てきたキーワードなので
最初はなんのこっちゃでしたが、よくよく考えるとスゴイんです(笑)。

朝日新聞の明治25年9月27日に、
「徳川慰労金」というタイトルの記事がありまして。
いわく、
「維新の際、徳川家(宗家)のため尽力せし」人々に、
「慰労金として月20圓から100圓を贈与」してきたのだという。

ま、記事的には都合により一時中止する、という内容なんだけど、
そもそもそんな慰労金が発生したこと事態知らなかったので、
(いつからはじまったのか、は現在調査中デス)
それだけで驚いたのだが、さてさて!!

問題はその慰労金リストメンバーなのだ!!

勝海舟、山岡鉄舟、高橋泥舟(おお!幕末三舟揃い踏み♪)
はさておき、

榎本釜次郎、松平太郎、大鳥圭介、
永井尚志をはじめその他の諸氏・・・・・・


ええと、もう一度確認しますと、この慰労金は
維新の際に徳川家に尽力した忠義の人々に支給するってものなんですよね(笑)。

このメンバーをみますとですよ、

徳川家的に、箱館戦争でかした!あっぱれ!!
よくぞ戦った忠義の者たちよ!


って解釈しかとれないんですけど、みたいな(笑)。

箱館戦争は徳川家に迷惑なことだったと長年思っていたもんで、
はぁ~~~そうなんだ、いいのか、アリなのかと。
徳川のための戦いとして認定しているのかと(爆)。
(ま、脱走軍の箱館占領から戦争にいたるまでのあいだの、東京&静岡と箱館と
の通信調査を続行中ですが、これがまた・・・・深い関係性を保っていたよーで。
勝さんをはじめ、なんだかアヤシい動きをみせているのです)

もちろん上記メンバーは、
あくまでも記事の都合でこれだけの人数しか記載されていませんが
けっこうな数にのぼっていたみたいです。
つまり、ご存命だったら中島三郎助さん、土方歳三さん、伊庭八郎さん。甲賀さんなどなども
もちろんこの「でかした!あっぱれ」メンバーのなかにいたはず。

で、この慰労金ですが、出世して慰労金の必要のなくなった、
あるいはすでに死去した人々を除いて、ちょっと困っている人々には支給が続き、
ついに最後は高橋泥舟さんオンリーになったということでした(笑)。

こうした慰労金を出しつつ旧臣を労り、資金もしっかり貯えていき、
そして天皇家とも順調な信頼関係を深めて、明治の世を泳ぎきっていく
静かにしたたかな徳川家を、思わず見直してしまいました☆

ちなみに維新時の功臣大久保一翁の名がないみたいですが、
一翁さんの性格からして「お断りします!」って頑として受け取らなさそう・・・・。
かつて長崎奉行への昇進を蹴ったときのように(笑)。
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by aroe-happyq | 2012-03-20 10:47 | 幕臣系 | Comments(4)

幕末三大伊勢守

すっかりご無沙汰しておりますっっ
江戸&幕臣調査活動に忙しくて、なかなか更新できません。
(オフラインでの同志との交遊活動のほうはがっつりさせていただいているのですが、
こちらのオンラインのほうはついつい放置しがちでして~~~)
で、久々の江戸後期(つか末期)ネタでございます☆

いままで「二大伊勢守」はいたのですが、
このほどキリよく三大伊勢守が揃いましたので、
勝手ながら!?独断的に??認定させていただきました(笑)。


①阿部伊勢守正弘

筆頭は間違いなく、この方!
いわゆる「幕末」における伊勢守の代表でもいらっしゃいます!!!!
家慶・家定二代の将軍のもとで辣腕をふるった、若き「ザ・老中首座」。
というか、ハズせないですよねっっ
とくに徳川政府海軍ファン、海防掛&外国奉行ファンにとっては
この人こそ創設貢献者ですので♪

・・・・で、といってもこれまでうちのブログではさんざん紹介してきたので、
いまさら感があるので、詳しくは「老中」カテゴリーの阿部ちゃんの記事を
探してみてあげてください♪


②大久保伊勢守忠寛

大久保一翁の号のほうで有名な人。
勝海舟を世に出した人でもあり、二人のコンビは至極とさえ言われております。
(つか、仲が良いんだよね。この人たち)
安政初期、岩瀬忠震とともに目付として柳営の改革の先頭を走っていた
人でもあります(詳しくはカテゴリー目付のところへ)。

しかし、なんといっても大久保といえば「大権返上(大政奉還)」論の
生みの親として有名。
幕臣なのに、よくぞ言った!
・・・・・・・・でもおかげで御役御免・・・・・・です(笑)。

しかしこの人だけは、ほかの伊勢さまと違って「伊勢守」時代がすんごく短い!
ほかに越中守とかいろいろチェンジしているので、三大伊勢守というのは
どうだろうか、とも思いつつ!
とりあえず、認定いたします~~~~~。


③高橋伊勢守政晃

こちらも高橋泥舟のほうで有名な人。
そして勝海舟・山岡鉄舟とともに「幕末三舟」としても有名。
山岡鉄舟の義兄でもあり、
鉄舟メジャー化のきっかけとなる、駿府の西郷への使者という
お仕事はあくまでも高橋兄の「代理」。
つまり、超有名人になりそこねた人でもあるけど、
高橋伊勢はそういう名声を望まないタイプでしょう(笑)。

うちのブログでは初登場(爆)。
なので、こちらは長いです。

かなり前に『史談会速記禄』237号の信太歌之助の談話を読んだときに
戊辰2月の慶喜が「謹慎恭順」したきっかけは高橋伊勢の進言によるものだ、と
いう熱き主張(信太さんは高橋さんの部下である)を知ってから、気にはなって
いたのですけど、なにせずっと慶喜調査が長引いていたので、よーやく
最近になって、『泥舟遺稿』(国会図書館近代デジタルライブラリーからPCで読めます)
を中心にして高橋伊勢さんを調査。
思えば講武所関係者で、過激な「尊皇攘夷」者(爆)で、槍一本の武芸者な幕臣の
調査は初めてで、未知との出会いはそれは楽しい調査でした☆

で、やっぱり調べていると「謹慎恭順」を慶喜に決定させるに至る過程で
遊撃隊頭(当時)の高橋伊勢守の役割はかなり大きかったようです。
なんでも「俺のおかげ。恭順も俺のおかげ」と公言しちゃう勝海舟さんよりも、
戊辰慶応4年の1~4月期、慶喜の高橋さんへの信頼度ははるかに
大きくて、さもありなん!という感じです。
そもそも、勝さんの「戊辰日記」はアテにならないし(←後で編集した俺さまの日記文学だし・笑)
アテになりそうーな『勝日記』(翻刻アリ:江戸東京博物館編)をみると
おいおいというぐらいに空欄の多い2月期だったりして、勝さんの行動は記録にない。
一方、高橋伊勢守は慶喜の身辺警護にあたっていて、
弁慶はたまた関羽(笑)の如く、ザ・ボディガードしていて、
いろいろ意見をいうチャンスがたくさんある。
しかも慶喜にめちゃめちゃ頼られているし。
高橋伊勢守のすごいところは自分は慶喜に「恭順」を進めた責任が
あるということで、最大限慶喜に寄り添おうとしたところでしょうか。
(もちろん明治になっても世にでようとしませんでした)
最近、こういう責任をとる男が少ないので、なんだかもう
それだけで素敵な人です(笑)。・・・・・たとえ過激な尊攘さんでも(爆)。

「謹慎恭順」を唱えた人は高橋伊勢守であるという部下信太さんの意見は
上司を愛するゆえの虚言ではなく、信用できるのではないかと。
もしそうならば、ですが。
(しかし、そうならば、あまりにもそのことが世に知られていなさすぎ?)

「幕末」の幕を開けた阿部さん、「大権返上」論の大久保さん、
そして慶喜を「恭順謹慎」に導いた高橋さんと、
幕末三大伊勢守たちは、それぞれ江戸時代の終焉への流れを、
陰ながらこっそり演出した、なかなかの人物たちだったのではないかな~と
思いました☆

・・・・・・・・しかし、三人とも、「オレ様」ではないゆえに実に地味・・・・・・。
でもそれがまたわたしにとっては滋味だったりします(笑)。
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by aroe-happyq | 2012-02-24 11:11 | 幕臣系 | Comments(0)

筒井政憲についての論文

うちのブログは江戸後期の開明派官吏&徳川政府海軍の人々について
メインにおっかけているわけですが、
そのなかでもっとも古い位置にどっしりと構えているのが、
筒井政憲サンであります。

長崎奉行、江戸南町奉行、そして川路聖謨との長崎での対露外交という
オフィシャルな面はもちろん、島津斉彬の師父(一説には仙台伊達公の師父でも
あったとか)であるとか、昼の真面目な能吏の顔と夜はおじーちゃんになっても
夜這いは忘れない(んで息子と廊下で鉢合わせする)ちょいイケイケの顔とか、
いろいろな面で凄すぎる筒井なのですが、その実像となると
散らばっている情報はあれど、なかなかその生涯にスポットをあてたもの
がありません。
でも正直、開明派官吏について研究・調査するならこの人からいっとかないと
全体像はみえてこない、という隠れたVIPなのです。
というのも、この人ほど終始一貫して「開国論」と唱えていた人
は見あたらないこと、しかも一番最高齢だということ。
これだけでも研究の価値があります。

私なりにこの筒井さんの謎について筒井の著書『喎蘭演戯記』や、
上白石 実「筒井政憲--開港前後の幕臣の危機意識について」(『史苑』54 1993年)
や「筒井政憲遺聞」(『森銑三著書集9巻』)、『幕末外交関係文書」に
みえる筒井の上申書等で調べてきましたが、
なにせ素人ですから、「筒井ってこういう人だったんじゃないか」という
結論についても自信がありません(笑)。
そんなとき、失礼ながらまさにドンピシャ!な論文と出会いました。


佐野 真由子
「幕臣筒井政憲における徳川の外交--米国総領事出府問題への対応を中心に」
(『日本研究』39 2009年)


この論文、PDFでダウンロードできます→こちら

(上記ページが開かない方はこちらのページから「筒井」で入ってみてください)

ハリスの出府時期の筒井政憲を追いつつ、その出府について
筒井自身の朝鮮通信使招聘経験が生かされたのではないか、という
斬新な指摘がなされつつ、開明派官吏の思想の揺れ動きに注目し、
さらに筒井の開国論の原点を長崎奉行時代に求めるという大変内容の濃い、
長いけれど読み応えある論文です。

ハリスとの交渉期に目付グループが積極的貿易論に舵を切ることは
さまざまな論文で語れてきており、そのもの自体に異論を挟む動きは
ありませんが、その先頭を切って猛ダッシュしていたのが岩瀬忠震ただ一人
的な論調の強いなか、この論文では「早計ではないか」と指摘しています。
岩瀬ファンではありますが、わたしもそう思うひとりです。
岩瀬が外国人とじっくり話し合い、開港開市論へ傾くのは、
けっこう遅くて(笑)、先頭を走る筒井老人はもちろん、
長崎に3年滞在して蘭人英人と交渉し、海軍伝習所を開いた永井尚志、
(この人は嘉永6年のアメリカ国書取扱に関する答申でも期限付にせよ
貿易はアリとしていた。義父の永井尚徳の「おおらかなる開国論」とともに
もっと注目されるべき)、箱館と往復しつつ、こちらも外国人と交渉して
海外情報に通じていた堀織部正の3人の後塵を完全に拝してるし。
ハリスと付き合いの長い下田奉行井上清直の存在も無視できません。
ただ、頭の回転はめちゃ速いのでこの4人の情報を参考にしつつ、
最終コースに神がかり的な走りをみせるのが岩瀬のすごいところ♪なのですが。
でも、なんでもかんでも岩瀬の意見で目付部屋の貿易論が動いた、
というのは間違いだと思います。
彼の意見の背景に筒井の上申書があり、永井や堀たち友人の経験と意見
があって、井上とハリスのパイプがあって、それが団結した結果なのです♪

そして筒井の貿易論の原点について。

彼の「嗚呼人情之貫乎古今通乎四海」という長崎での感慨が、
約40年を経て、ハリスを江戸に呼び、日本の開国を促進したと
言うことは、あながち大げさではないと思う。


これまたまったく同意、同意!!と拍手喝采でありました。
この「嗚呼人情之貫乎古今通乎四海」というのは、
『喎蘭演戯記』の跋文にみえる筒井の言葉です。
この本については以前にブログに記事にしましたが、
文政3年(1820)、筒井が長崎奉行の任期を終えて江戸に帰るとき、
出島の阿蘭陀人が筒井ともう一人の長崎奉行のために演劇をおこなった、
その台本を江戸で筒井が日本語で(笑)出版したものです。
(この本、当時の江戸の文化人のあいだで人気となったそーです)
『喎蘭演戯記』は『海表叢書2』に収録されていて、随分前に複写して
読んだのですが、台本部分よりも、この跋文がよくて、
とくに嗚呼人情之貫乎古今通乎四海という言葉は、まさに筒井の
その後に対外姿勢をみるとき、とても重要だと感じたものですが、
こうして研究されておられる方に言っていただくと「あっしの
筒井観もあながち間違っていないみたい♪」とホッとします。

詳しくは、ぜひぜひダウンロードして読んでいただければ、
と思います。
ほとんど無名ですけど、
筒井さんを把握することは本当に大切だなぁ
ということをあらためて確認させてくれた素敵な論文でした☆

筒井研究の発展を祈りつつ、紹介させていただきました!
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by aroe-happyq | 2011-07-26 11:50 | 幕臣系 | Comments(10)

筒井政憲と島津斉彬

あるときは停滞していた日蘭貿易を活性化させた長崎奉行、
またあるときは20年も江戸っ子に愛された町奉行、
大学頭の代わりに将軍に侍講してしまう儒者、
出島でみたオランダ芝居の紹介本を出す蘭癖、
阿部正弘の相談役、露西亜との外交交渉人・・・・・・と
いくつもの顔をもつ、スペシャルな旗本・筒井政憲さん。

筒井邸&ご本人紹介記事→こちら

これという評伝がないため、あちらこちらに落ちている情報を
集めているわけですが、
ひょんなところで、またまた驚きの「もうひとつの顔」が浮かび上がりますた。

最近、どっぷりと安政~慶應までの幕府内の党派政争に浸かっている
ところで(収集つかないぐらいの登場人数にクラクラです)、
ちょっと寺師宗徳『贈正一位島津斉彬公記』を国会図書館近代デジタルアーカイブで
読んでましたら。

筒井政憲は、島津斉彬の師父でした。

師父じゃあーーー、そりゃ斉彬の家督相続問題で活躍してあげちゃう
わけです!
なかなか藩主の座を譲ろうとしない島津斉興に再三、幕府の使者として
あるいは脅し、あるいは持ち上げて、ついに引導を渡しましたのは
この筒井じーさまです。

可愛い弟子のため、奔走しちゃったのでしたネ(笑)。

前々から筒井と薩摩屋敷の接点が気になっていたのですが、
こういう間柄であったかと。
筒井の弟に有名な砲術家下曽根金三郎がいますが、
この下曽根と斉彬が昵懇なのも頷けます。

評伝がないと、こんな重要な情報にもなかなか簡単に出会えません。
まったく旗本ファンはつらいよ~~~~~。


斉彬さんについてもいろいろ面白い情報があったので、
この暑さが落ち着いたら(ゆっくりと文章が書ける脳に戻ったら)
記事にしてまいりたいと思います。

今までのオモシロ記事〈これもひとつの順聖公伝説〉→こちらこちら
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by aroe-happyq | 2010-07-28 10:38 | 幕臣系 | Comments(0)
かなり前・・・真冬の頃に紹介した(笑)、
国立公文書館 春の特別展 「旗本御家人」がいよいよ先週からはじまりました。

公文書館公式サイト→こちら

ずっと楽しみにしていたのですが、ようやく見にいってこられました♪

この特別展、基本的に江戸中期メインですので、
どちらかというと幕末ファンにはおススメできません。
ですが!!!!
江戸柳営ファンにはもうシビレまくりの!!興奮の展示です!!!!

のっけから、パンチきました。
文化年間に書かれた、柳営の役職の沿革などを記した〈明良帯録〉。
「地獄箱」・・・・明和・安永年間の奥右筆部屋にあった箱。
         コネもツテもないような願書などの書類が処理もされず、
         放り込まれる箱のコト。
         つまりその書類に書かれた願い出はシカトされるのだ(恐)。
「老衰場」・・・・・高齢な旗本が拝命される御旗奉行(名誉職)のコト。

↑このあまりにもダイレクトな言葉のチョイスが好きです、江戸!

そしてにしても江戸中期ってあまりに泰平なばかりに、ヒドイですよね柳営も。
地獄箱ならまだしも、同輩同士のイジメとか、昇進のイジワルとか
平和すぎるとロクなことをしないものです。
天保以降はそんなヒマはなくなっていたので、幕末の官吏はこういうトラブルに
見舞われなかったようで、ホッとしております。

さて、その江戸中期の旗本のヒーローといえば!?
「鬼平犯科帳」でもおなじみ、長谷川平蔵です。
今回の特別展、鬼平好きな方はどうぞお見逃しなく!というぐらい話題満載でした。
いろいろツボな記録が紹介されているのですが、最大に「キターッ!」のは。
〈諸家系譜〉の展示のところ。
長谷川平蔵宣以サン、通称は「平蔵」「銕(てつ)三郎」が有名です。
「鬼平」のなかで彦十が「銕っつぁん」と呼ぶなどかなり印象的。
ところがこの〈諸家系譜〉に記録された、平蔵の子宣義の提出した先祖書には
「平蔵」「銕三郎」のほかの通称として・・・

鎗次郎とある。

「そうじろう」とか読むのだろうか。まさか「やりじろう」???(笑)。
長谷川鎗次郎。
鬼平的にいうと「本所の鎗」とかいう感じ?
うむむ、どうもイメージがぁぁ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。

最後に幕末関係で印象に残ったのが、明治10年ごろの勝サンの動静探索書。
あいもかわらず、明治になっても「危険人物」として監視されていたみたいです(笑)。

このほかもたくさん楽しい展示がありました。
柳営、そして旗本に興味のある方はぜひぜひ観に行ってくださいましね!

23日までです☆(入場は無料デス)
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by aroe-happyq | 2009-04-14 14:47 | 幕臣系 | Comments(2)

設楽弾正の嘉永6年 

設楽弾正って誰!?くらい久しぶりの登場です。

岩瀬忠震の兄の子、つまり甥ですが・・・・・、
設楽家を継いでいた岩瀬兄設楽温之助が領地関係のトラブルで廃嫡となり、
幼い貞晋が、温之助の父の養子という形になって、設楽家を継ぎました。
(戸籍上では岩瀬と兄弟ということになります)

今まで、こことかここ前島密の下宿先になったりとか、こんな意外な人脈のある人として、紹介してまいりました。

先日、『江戸』2巻の「昌平学科名録」という、学問吟味合格者名簿を
読み直していたところ、

嘉永6年 甲科三人、乙科35人及第のなか、

乙科 小普請組 徳永伊予守支配 設楽弾正

・・・・いました。だいたい二十歳くらいです、弾正さん。

もしかして、できる男??(爆)

この嘉永6年度の学問吟味では榎本釜次郎、
そしてひょっとすると荒井郁之助(次回の安政3年かもですが)
が撃沈していたようですが・・・・。


さらに同じく嘉永6年、『藤岡屋日記』5巻417Pをみると、

○十一月十八日

大目付、伊豆守総領 御目付
                    堀織部娘

小普請組 徳永伊予守支配  設楽弾正江


御公儀から婚儀の許可が出ておりまして、
つまりこの頃、弾正は堀織部の娘と結婚したようです。

つまり、嘉永6年という一年は、ペリーが来て幕末のはじまりですが、
二十歳の設楽弾正にとっては、学問吟味に及第、そして結婚という
素晴らしくもめでたい一年だったようです☆
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by aroe-happyq | 2008-07-15 10:55 | 幕臣系 | Comments(2)
ちょっとご無沙汰しておりました。
ひと仕事おえて、戻ってまいりました。

さてさて。
小麦・バターが高騰のおり、小さい街のパン屋さんの広告か!?
というようなタイトルですが、
この伊澤さんは、幕末の浦賀奉行・大目付の伊澤美作守政義さんのこと。
幕府海軍ファンには、伊澤謹吾のお父さんとして有名で、
川路聖謨ファンには、川路さんがたいへん嫌っている人として有名です。
ペリー&ハリス展のあんま器も忘れられません(笑)。

今回の記事のきっかけは、『海将 荒井郁之助』収録の「荒井家伝記」に
あった一節でした(P173)。

或る日の事なりし、伊澤氏に招かれて三河台の伊澤氏の邸に集り、
伊澤氏の父君は亜米利加使節の応接掛なるを以て、
この時初めてパンを食し、葡萄酒三鞭酒等を呑みし。
今より見ればちょっとしたる西洋料理なり。パンは邸内にて焼きたるものにて、
あたたかく焼きたてなりし。
来会者は矢田堀の伯父君、武川五郎三郎、塚原重五郎、
田辺太一、塚本桓輔等の人にてありし。


荒井郁之助20歳前後のお話として、本人が語っております。
・・・・というと、安政初年~2年ぐらい???

伊澤さんちにいったら、焼きたてパンが出て、ワイン(って呑めたのか?荒井)
も饗されたとか。
矢田掘などは長崎海軍伝習へ行く前にすでにパンの味を知っていたのですね!

伊澤美作守はペリーとの交渉で活躍した人物で、
『杉亨二自叙伝』によれば、アメリカ交渉委員と舟遊び・・・・をしたり、
実にサバけた対応をした「開明的」なおじさまでありました。
『杉亨二自叙伝』に、伊澤が杉に語った言葉がありまして、

伊澤は亜米利加人などと云って、訳の分らぬものの様なことを
人が言うが、どうして世間で言う様なものではない、などと言っていた。


当時の日本人が西洋人をまともな人間扱いしていない様子も
わかって面白い一文です(爆)。

・・・・でそのとき、食べたアメリカンディナーの味にはまった????(爆)

しかし、川路殿がこれを聞いたら「ありえない!」と騒ぐでしょう。
なぜなら、この伊澤さんこそ、天保改革前後、長崎奉行として、
鳥居甲斐守と組んで、洋軍学者高島秋帆の弾圧に一役も二役も買った男
だったのです。
当時の彼は西洋風のディナー宴会「おらんだ正月」を嫌い、
出島のオランダ人の言葉をまったく信じない・・・・というような、
西洋嫌いだったのです。
(こういう長崎奉行もけっこういたそうです・・・)

その彼が、・・・・パンを屋敷で焼かせているなんて!笑撃です。

伊澤について、人物評に定評のある、
木村芥舟の幕臣小伝(『江戸』5巻収録)には・・・。

美作守伊澤政義
風格高邁学識あり。
天保十三年長崎奉行に任ず。
積弊を矯制し大に従前貿易の面目を改正
(略)・・・・・・・・・・・
晩年酒々落々時と依違し深く前日の英気を鞱晦し
ほとんど別人の如しといえり。


一説には浦賀奉行時代になにか、大きな心境の変化が
あったようなのですが、


ほとんど別人の如しといえり

・・・・・・・って凄すぎですね(笑)。

『杉亨二自叙伝』に語られている伊澤美作守はすんごくひょうきんで、
おもしろおじさんですが、鳥居一派と言われていた頃(10年ほど前ということになる)
はもっと鋭いおじさまだったようです。
天保改革後、この人も出世コースからハズレて失脚し、人生の悲哀を知って
まあるい性格(っても、ひょうきんになるって???)になったのでしょうか。

でもこの伊澤さん、安政元年のペリー応接で、
西洋料理ファンになったとしても、あっという間にパンを屋敷で焼かせている・・・
なんてすごく素早いです!(笑)。
でもおかげで、荒井くん、矢田堀さんたち、日本人でも早めにパン&ワインを
楽しめましたね!
(文政年間のオランダブームで、蘭学者のみなさんはすでに賞味しておりますが、
一端途絶えたので、嘉永の若者にとっては新鮮な経験だったことでしょう)

ちなみにこの伊澤家には、岩瀬などもちょくちょく訪れていたよし(『杉亨二自叙伝』)。
鳥居の親戚の岩瀬なので、洋学大嫌い時代の伊澤のこともよく知っていそうですが、
そんな古いことはどーでもいいのでしょう(笑)。
「今」を生きるのが、江戸人です。
で、安政年間には「どーやってヨーロッパにいこうか」というような密談(笑)相手に
なっていたようです。
(伊澤は阿部正弘にもたいへん信用されていたので、岩瀬としては
伊澤ルートで阿部にねじ込むこともあったようです(爆))

知らないうちは警戒して、嫌ったりするものの、触れてみればなんてことはない。
この当時の日本人にはまさにそういう新しい経験との出会いの場がたくさん
あったわけですね☆
そして早く体験したものが、この後、とても活躍していることも見逃せません。

そういう意味では、伊澤さんちのパンは幸せを呼ぶパンといえるかも???(笑)
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by aroe-happyq | 2008-06-25 11:13 | 幕臣系 | Comments(6)
『徳川慶喜公伝史料編』を読みすすめております。
いくつか紹介したいものがありますが、
今回は以前にも登場した浅野氏祐による談話のひとつを。

『徳川慶喜公伝史料編』一の史料番号80
文久二年七月(?)諸有司に訓諭せられし事に関する
浅野氏祐等の談話


文久2年7月、謹慎を解かれ、一橋家再相続の許しを得た
一橋慶喜は将軍後見職として、政治に参画することになる。
御三卿は大名ではなく、将軍家の親族という立場上
政治的な発言さえできないので、それまで慶喜が表立って
政治に関与することはありませんでした。
(・・・・・井伊大老に通商条約についてクレームしたことが
ありましたが・・・・。これがきっかけで謹慎しました)
その慶喜が復活し、この史料によればその頃(日時特定できず)
江戸城にて、芙蓉ノ間役人(大小目付、三奉行などなど)をあつめ、
演説をおこなった、というのがこの談話の内容です。
時期を考えると、政治家一橋慶喜のデビューの場ともいえなくもない、
・・・・・かもしれません(笑)。

ちなみに浅野氏祐はこの頃、ちょうど御目付から大目付へ昇進
しており、どのみちこの場に参加しておりました。

橋公の御召出しの人は、芙蓉之間役人大勢にてはなし、
大小目付・三奉行位の事なり。但し御黒書院御入側にて御意あり、
なかなか御懇篤の御演達にて、和漢の故事など御引證にて、
一ト時ばかりも御辣陳あり、・・・・・(略)・・・・・・・・・・・
又小栗は徹頭徹尾橋公崇拝家にて、或は心酔に失する程なりき。


省略箇所は文武に通じて実力のある目付の服部という男が、
慶喜公はよほど学問をされたのだろうと・・・褒めちぎった、というような
内容なので、ま、いいかと省きました(笑)。
なぜなら・・・・・・当時勘定奉行の・・・・・・、

小栗は徹頭徹尾橋公崇拝家

なんかもうこれだけでおなかがいっぱいではありませんか(笑)。


実はこの談話はもうひとつの史料(同談話内で紹介あり)の、
「鈴木大日記」文久二年八月十五日の條に、
慶喜が演説し、役人たちは慶喜の口上に
感激し涙を流すなか、小栗は「一橋公あまりに烈し過ぎ候」と
いって褒めなかった・・・・というような内容があり、
この浅野談話は、松平勘太郎とともにこの日記への反論でした。

ただこの日記から察するに、熱い演説だったことだけは
なんとなく想像がつきそう?です(笑)。

話を戻しましょう。
・・・・・この後の小栗の行動をみていると、
ある時期までは、と限定させていただきますが、
心酔していたとする浅野・松平説のほうが有力かと思います。
(まだまだ小栗さんについては詳しくないので、こうでは?などと
軽々しく語れません~~~(汗))

しかし・・・・・政治家デビュー当時から、
慶喜(26歳)は話術だけはすんごく冴えていたことだけは確かですね。


さてさて。
近々『徳川慶喜公伝史料編』にみる、慶喜少年をとりまく物語を
紹介したいと思います。
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by aroe-happyq | 2008-05-25 10:44 | 幕臣系 | Comments(6)
永井能登守尚徳というのは、永井玄蕃頭尚志のお舅さんです。
生まれも育ちも日本橋浜町という、生粋の江戸ッ児系武士(もののふ)。

史料が乏しく、家系図は藤岡屋日記や永井尚志関連としてしか情報がなく、
就いた役職とか、没年(こちらはお墓情報)とか・・・たいしたことはわかりません。
趣味も、晩年の記録(藤岡屋日記)に尚歯会(敬老グループ)の発表会で、
雅楽を披露し、笙を担当した・・・・・・ぐらいしか判明せず。
(文化文政の頃から雅楽は江戸武家のあいだでとてもブームでした)

もちろん交遊関係もわかりません(涙)。

そんななかです。かつて川路聖謨『長崎日記』を読んでいたおり、

使節(プチャーチンのこと)は・・・・(省略)・・・・
永井能登守に似たる男也。


とあったのです。いきなり登場、能登守!
それもプチャーチン似????(笑)

しかし川路さんはこの日記を江戸のお母上と実弟の井上信濃守清直さんご一家に
宛てて書いているわけなので、川路はもちろん、川路グランマおよび井上さん夫婦も
永井尚徳の顔を知らないと「ああ、プチャーチンてああいう顔なんだ」
ってわからないので・・・・・・・永井能登守は川路家とは昵懇の可能性が出てきたの
です・・・・が。
なにせ、江戸ではほとんど日記をつけない川路さんなので、
江戸での交遊録はあまり残されておりません。
貴重な江戸日記である「浪花日記」にはついに登場せず、書簡も永井尚志のものは
ありますが、尚徳パパのものはみたことがありませんでした。

仕事の接点も、川路が奈良奉行の頃、永井尚徳は大阪町奉行・・・・ぐらいしか
なかったりして(1年に一度以上は京都所司代屋敷で顔は合わせているぐらい?)
本当に仲がいいのか、わからないっっ。

と思っていたら・・・・・・・・来たんです、ついに(笑)。

『川路聖謨文書7』収録の「座右日記」に、

万延元年7月16日   永井能登守来る。

7月18日  永井能登守より後三年之書巻物三巻来る
        これはふるく家に傳るよし



「ヤッターーーーーーーーーーーーーー!!!」(ヒロ@HEROES)

能登殿、遊びにきたみたいです。
(尚徳さんはすでに70歳すぎておりますし、川路さんも還暦デス)
それで話がいろいろ盛り上がって、おそらく歴史&巻物談義???になり、
「うちの蔵に後三年のがあるよ」という流れができて、
2日後に貴重なコレクションが永井邸から川路さんちに届けられたようです。

川路さんの日記にはこのほかに大事な本の貸し借りはあるにはありますが、
縁戚の浅野美作守(梅堂)さんなど、けっこう限定されているので、
※【追記】↑梅堂さんは「中務少輔」とか「和泉守」ですた。美作守(別人)のほうは
慶応年間、永井尚志と若年寄になったほう。慎んで訂正させていただきます

永井能登さんとは、それなりに知り合いの仲???かもしれないことが
これでようやく・・・・・・判明しました(涙)。

とはいえ、文久2年に能登さんが亡くなったときには日記には
まったく記録ないんですけどね(笑)。
・・・・・岩瀬さんとかよほど政治向きで重要、または親族以外の
記録がないので仕方がないのかもしれませんが。

ちなみに、川路とは仕事仲間であり同じく一橋派だった尚志さんのほうは、
この当時は「永蟄居」中で、名も尚志と名乗ることが禁じられ、「介堂」と
して、自宅(もちろん日本橋浜町)でじっとしておりました。
同じく「座右日記」にはときおり、介堂と川路敬斎(この人も聖謨ではない)
のあいだで、漢詩のやりとりがされていることが記録されております。

こんなことでも役にたつ、素晴らしい川路日記です!
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by aroe-happyq | 2008-02-15 10:47 | 幕臣系 | Comments(4)

アジアンエンタメ&お江戸後期。外国奉行や長崎海軍伝習所がご贔屓☆ BYはな。


by aroe-happyq