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東都アロエ

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リンクを少しずつ・・・

初心者にはちょっとわかりにくくて、なかなかリンクコーナーを作れず半ば放置(汗)
していたのですが、その方法がわかったので、このたびちょいちょい作業を始めました。

おそらく解説をつけるべきなのは、風俗博物館ではないでしょうか。
源氏物語を前面にどーんと打ち出してはいますが、
ページの下のほう・・・・・・・・の日本風俗史のコーナーの、
江戸時代や近代の服装というところがツボでして。
最近は行っていませんが、以前はこの博物館では時代ごとに特集をしていて、
京都へ行ったときに寄ったりして、運がよいと自分の興味ある時代の風俗人形が
たくさん出迎えてくれたのです。
(ま、最近は源氏というか平安絵巻がどーんと・・・・・・・・)

そんなわけでまだまだつたないばかりのブログではありますが、
あいかわらずのマニア心で、こつこつと進めてまいりたいと思いますので
よろしくお願いいたします☆
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by aroe-happyq | 2007-01-30 11:03 | お知らせ | Comments(0)

国会図書館に行く。

仕事の調べもの・・・・・・という理由をつけて、今年初の国会図書館にいってまいりました。
調べものをしながら、本を請求し、雑誌を請求し、コピーにいき、雑誌はオンラインコピー
したり・・・・・・といつものごとく、落ち着いたかとおもうと動く!の繰り返しでしたが、
今日はとっても空いていて♪、サクサクと作業が進みました。
(論文シーズンはそういえばほぼ終わり?のはずなので、それもそうかと・・・・)

本日のメインの獲物(爆)は、『岡山県史』26巻に収録されている、
「艱難実録」というもの。

木村宛書簡の史料をコピーした際、同じ『横浜開港記念館紀要11号』のなかに、
西山武臣 「松山藩士の見た戊辰戦争」
という史料紹介があり、興味津々でこちらもコピらせてもらったわけで、
そこで紹介していたのが「艱難実録」だったのです。

これは松山藩主板倉勝静の家臣辻七郎左衛門の回想録。
朝敵となり北へ北へとむかう板倉の、箱館、そして蝦夷地脱出、自首を傍らでつぶさに
みていた回想で、当事者でない分客観的にみているので興味深い。
だけど板倉&小笠原は、「大名はいらない」榎本たちに冷遇され(爆)、そこのあたりは
忠実な家臣として涙涙の・・・・軽い恨み節が入っていて、厳しい榎本発言なども楽しめる。
で、その「艱難実録」の原文が読みたくなったわけでした。
(おいおいこちらも紹介していくつもりです)

それから、昌平坂学問所に関する論文4本などなど、なかなかの収穫でした。

自分で昔からささやかながら不思議な能力というのがあって(笑)、
ぱっと本をひらくと、探そうとしている項目にバッチリ当たること。
今日も寛政譜で、とある元禄時代のある人を探そうと、まずは索引で巻数を確認し、
その巻を適当に開くと、その名前の人にピンポイントで当たりました。よっしゃ!
ということで仕事の調べものがスムーズに進んだ分、趣味に時間を費やせました。

ただ、ひとつだけ失敗したのは、請求した紀要がまだ国会図書館に未納だったこと・・・・。
この紀要、たしか2004年なのですけど・・・・京都大学さん、もう何年たっているのでしょう。
待ってます・・・・。
だって、論文の後半(つまり(下)というやつです)が収録されているのに!

都立図書館も、なかったし(あるのですが途中で停止になったまま)。
ちょっとほかのところもいったら、2002年でとまっていた・・・・・・・。
国会図書館は2003年で止まっている。←なので(上)だけがうちにあるのだ!
かならず探してみせよう、ホトトギス!(爆)

*追記*
探していた紀要は、あっけなく
京都大学で電子無料公開していたので、PDFで保存しました。ホッ。
だけど93P・・・。プリントアウト・・・・。
(上)はB4コピー済なのに、こっちはA4。嗚呼、我的コピー収集美学が・・・。

ちなみにその論文とは、
高橋秀直「文久二年の政治過程」 京都大学文学部研究紀要42.43号掲載
でして、電子公開は、
こちらです。

岩瀬の史料がそろいつつあるところで、永井さんのことを調べていくと、
このあたり(文久二年)は押さえておかないといかんと思い、
今まで王政復古の論文をいろいろ拝見してきた高橋さんの論文にて教えを乞おうかと思いたった次第。
(上)を読みましたが、とても面白いです。
(さらに41、44にも高橋さんの論文があります!・・・・44号のは今日知りました♪)
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by aroe-happyq | 2007-01-29 19:01 | 広く幕末ネタ | Comments(2)

香港唯一の映画雑誌、電影双周刊が休刊となった。

映画は娯楽であり、ただ消費するもの・・・・という観念の強い街で、
映画論、その芸術性についても真面目に取りくんでいた良心的な雑誌だった。

香港にいくとかならず街の売店で即刻この雑誌と新聞を買い、映画のチェックをしたり、
日本で通販したり、バックナンバーを求めて、この雑誌社にお邪魔したこともあった。
香港映画好きにとっては必須アイテムだったのだ。

確かに90年代の香港の好景気の時代(途中にブラックマンデーがあったとしても)には
相当に厚手だったこの雑誌も、97年の回帰、そしてSARS騒動をはさんで、
香港の不景気、そしてメインチャイナの経済的な台頭のなかで、
映画産業の低迷とともに、ずんずん薄く、内容もさみしくなってはいた。
なにせ香港で映画に投資する企業は、即儲からない映画には投資してくれないし、
そのあたり芸術性など無視、というか、超合理主義であるから、
不景気=映画産業の衰退とわかりやすい構図になっている。
投資がなくては映画は作れない。
香港の映画人もまた合理主義なもので、活路を求めてメインチャイナに、
アメリカに、たまに日本や韓国に・・・・香港以外に活動の拠点を移してしまった。
おかげで香港映画は若手が育つ環境が整わないまま、ここまでの危機を迎えてしまったのだ。
そうした映画界の影響をもろに受けながらも、この雑誌は映画人を支え、かなり努力して存続していたといえるかもしれない。

だけど、なんだかなぁと思うのだ。

映画は芸術!とは思わないにしても、こういう熱意ある雑誌が消えていくのは寂しい。
これから映画の情報を得ていくには、新聞記事のゴシップの隅っこに出る情報を
眼を皿のようにしてチェックしなくてはならないし。
おそらく、こういうものは失われてはじめて、その便利さとか良さがわかるものだろう。
資金繰りの悪化が休刊の理由らしいので、ぜひとも素敵な企業が現れるように、
廃刊ではなく、復活するように、願うばかりである。
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by aroe-happyq | 2007-01-29 10:48 | 香港&アジア映画 | Comments(0)

児玉さんの本はほかにも『宮廷柳営豪商町人の食事誌』などいくつかもっているが、
この『日本の食事様式』はとくに興味深く、何度も何度も読み返している本。

日本には中世からはぐくまれてきた伝統的な日本料理があり、
それは支配層が変わるたびに形をかえて、より豊かに継承され改善されていき、江戸時代に
いたって「本膳料理」という最高の姿となった。
今はなき、その本膳料理がどんなものだったかは、史料も乏しく、幕末に日本にやってきた外国の人々の記録、または外国使節への饗応料理の記録によってかろうじてその姿がわかる。
酒で酔って舌が鈍るのを防ぐため、本膳料理を味わう間は酒はなく、白湯のみで、料理を楽しむ。(酒を飲みながらの料理は別につくり、それは「酒膳料理」といった)
西洋のディナーのように前菜に始まって、次々に料理がでてくる趣向で、あまり量をとりすぎないために白飯を絶妙なタイミングで腹におさめていく。献立の料理は医食同源にかなうもので、現代の栄養学からいっても非常にバランスのとれたものであったらしい。
酒を飲まず、料理のおいしさをじっくり楽しむ・・・・・。なんという風流な!と思う。

ペリーに饗応した場合などはお一人様三両というとんでもない値段だが、こうした饗応料理をどこの店に発注するかを応接掛の面々(勘定奉行とか、目付とか外国奉行たち)が決めるあたりをみると、この人たちも三両の最高料理ではなくても、そこそこのお値段で食べにいける本膳料理もあるらしく、ときには自宅に仕出し料理として注文することもあったらしい。旗本の中流クラスなら味わえた日本料理であったとみえる。
そして徳川瓦解とともに、本膳料理は消えてしまった。

明治の新支配層は味オンチが多く(私が言っているのではありませんっ、本に出ているのですっ)、あまり本膳料理には興味がわかず、最初から酒を飲んで食べる(できればそこに芸者もいるとなおうれしい)、酒宴料理、今の料亭料理のような形のものしか欲しなかったというのだ。
またそれまでの政権の移り変わりと違って、明治の支配層は徳川とほとんどかかわりのない人たちであったため、例えば室町の足利将軍から信長、秀吉、家康というような近い関わりの支配者の移行と違って、徳川から明治への政権交代では、日本料理の伝統を継承する流れが途絶えてしまった。
もちろん明治になると西洋料理という新しい文化がはいってきたので、本膳料理の伝統継承はそれだけでもかなり厳しかっただろう。しかしこうした事情で、本膳料理という名の日本料理の伝統は明治をもって消えてしまったのである。

『日本の食事様式』はもちろんその後の日本の食事についても書かれているが、本膳料理などというもの自体を知らなかったので、最初の読んだときは、誰か再現してくださーーい!と叫んだものだが、しっかりとしたレシピがないらしくなかなか難しいものらしい。
でも、ハリスやアーネストサトウやロッシュが知っているのに日本人が知らないのはかなり哀しい。

岩瀬たちが親しんだはずの本膳料理、いつかかならず・・・・せめてテレビ番組で再現した姿をみてみたいものだ。
(もしかすると、長崎の卓袱料理はその流れを受け継いでいるような気がするのだか?)

・・・・永井介堂の、木村宛書簡に書かれていた、岩瀬忠震没後三十年周忌を開催した枕橋の料亭八百松は本膳料理っぽかったのだろうか?参加した木村&永井、そして勝海舟、榎本、荒井、白野・・・・その他諸氏、誰か教えてプリーズ!(笑)
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by aroe-happyq | 2007-01-28 14:09 | 江戸東京あれこれ | Comments(0)

2003年の正月時代劇。
もちろん当時の本放送をみたのですが、
CSの時代劇チャンネルでの再放送を録画して、またまた観てしまいました。

2003年のときは一般的な幕末知識のちょっと毛がはえたぐらいだったのですが、
今回は詳しくなっていた手前、細かいところで突っ込みやら感動やらいたしました。

とはいえいまでも小栗さんに関してはそれほど詳しくなく
(岩瀬たちと接点がないために後回し中・・・・・)、
横須賀のドッグを造ることに心血注いで、またフランス式徳川陸軍の組織の際にも
尽力した優れた幕臣という知識はありますが、自伝など未読なので、
ドラマは素直に拝見しました。
(ただ・・・洋装はまだ早いのでは・・・・などと軽く突っ込みはしましたが・・・・)

そのなかで、
2003年当時にも驚いたのですが、徳川慶喜さんのダメダメな描かれ方に再笑撃・・・・。
いつも勇ましい役を演じられる比留間さんがなんともわがままでトホホな上様を
見事に演じられていて・・・・・・。仮にも大河の主人公になったこともある、慶喜さんが
これほど見事に、ときどきかなり正直(爆)に描かれたこともなかったでしょう。
大阪城から逃げ帰ってくるあたりの慶喜は・・・・素敵でした。
(わたしのなかの慶喜さんは十年以上前からこんな一面を持つ頭の回転のよい人。
頭が回りすぎてたまにショートなさるぼっちゃんなイメージがあります。だからといって嫌いにはなれない感じで、むしろその器用ななかの不器用さがやみつきです)

ですが!
いきなりラストのほうのことで恐縮ですが、
出ていたのです、大鳥圭介&榎本釜次郎さんが!!
慶喜が江戸に戻ってきてからの大評定のシーン。
小栗のうしろに控える、二人が!!
釜さんを演じている若い俳優さんは知らない方でしたが、
圭介さんは長森雅人さん!←男前です!!
ちょんまげで陸軍の黒い制服でした(その前のちょっとしたシーンでは裃でした)。
釜さんはどっちのシーンでも洋装。ひげなし。

ちょっと小栗さんが羨ましいのは(って誰の立場になっているのか?)、
知行地をお持ちだったこと。
岩瀬や永井や堀たちは、当主ではないため、ただのサラリーマンなので。
自分の領地があると何度辞めても食べていけていいなぁ・・・・・・(笑)。
でも知行地に隠遁したからあらぬ疑いをかけられてしまったのか?小栗さま。


いけませんね、すっかりマニア観してしまいました。
でも同じく時代劇チャンネルで「燃えよ剣」の最後の二回ほど
なんとなくみてしまい、ここの大鳥さんと榎本さんがビミョーだったので、
小栗ドラマのおかげでスッキリしました。

しかし、幕末物でしかも小栗さんや榎本さんたちがド映像になるだけでも
ほとんど奇跡に近いのですよね。ケチをつけてはバチがあたるかも。
再放送をみてありがたみがさらに増しました。

岩瀬ドラマも出来ないかな・・・・なんて大それた望みは抱いてはいけないのです(涙)。
だって真面目なだけのキャラにされたら、それこそ良さが半減ですから(爆)。
(冗談ばかり言う主人公なんて時代劇コメディーになってしまいますし←むしろ大歓迎)

それにしても、小栗さんも本当に日本にとってもったいない人物。
この人を殺めてしまうなんて、西軍も頭のめぐりが悪いこと・・・・です。
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by aroe-happyq | 2007-01-26 18:57 | 幕臣系 | Comments(0)

江戸城展。

開催を待ちわびて、年始に行くはずが風邪でヘロヘロになり、やっとやっと
行ってきました。だが・・・・・・・・・・苦労して、空いている平日の昼間を狙ったのに、
こ・・・・混んでいた(涙)。
たしかに上野の国立博物館の国宝展のような殺人的な混み具合ではなかったですが、
混んでいると、妄想に耽りながらじっくり展示物と対話(爆)する余裕がないので、
困るのにーーっっ(すいません、ビョーキです)。

江戸氏の発展から始まり、なかなか徳川江戸城にたどり着かない構成でじらされつつ、
いきなり「登城」コーナーから愛しき江戸城ワールド満開となりました。
いろいろあるなかで衝撃だったのは、・・・・無知をあえて告白しますと、
江戸表(行政部分)の建物、いた中奥(将軍居住部分)もですが、二階建てだったこと・・・・・・。
わたしの机に常駐の長年の愛読書、深井雅海著『江戸城をよむ』では城中図はぺたんこ
だったので、まさか二階があるなんて思いもよらず、ショックだったのです(汗)。
で、二階の城内図をみると外国方とか、諸役人の一部が二階に御用部屋(執務部屋)を
持っていたのでした・・・・・・・・。ドラマで階段あがっていく役人なんて見たことなかったのに!
おかけでこの「江戸城に二階があったとは。なんたる己の不覚・・・・」と頭のなかがこれで一杯になってしまい、真ん中あたりでは、展示物をフツーに見られませんでした(爆)。
ですが松の廊下の模型があると、「あ。ここで榎本と矢田堀となぜか若年寄の立花が、戊辰の年に号泣した場所・・・・」と、感慨に耽ってしまいましたが・・・・。
たぶん一般的には松の廊下といえば、赤穂浪士の発端・・・・・・と思うべきでしょう(笑)。
マニアは本当によろしくないです、はい(反省)。

この江戸城展、入場してすぐ家康公の木像にお出迎えいただくのですが、見送りは、
勝海舟の絵でした・・・・・・・・・・。なかなか風流な趣向です(爆)。
でも出口出てからのサプライズ!なんと幕末の江戸城付近の写真パネルが並んでいました。

常設展示もほうも行ってきました。しかしマニア魂をあおるかのように、なぜか
「徳川家茂とその時代展」を開催中で・・・・・・・・・・・・・。
こ、こっちのほうがよ、よかったです(おいおい)。
家茂くんのファンとしては、ちょっとたまらない展示がひっそりとありました。
(前期展示は今週までで、後期が来週からだとか!。入れ替えとはっ。ええい、また来なくちゃ!!)
11歳から21歳まで、それも一番たいへんな時期に将軍で、はっきりいってお気の毒な方ですが、ひじょうに優れたる資質をお持ちで、惜しむらくはもうちょっと大人であったなら・・・・と思える将軍です。大人の家茂とその傍で宮廷政治を操る慶喜さんがいて、岩瀬忠震が存命であったなら、戊辰もかなり違った展開をみせたかも・・・なんてぼやいてはいけませんね。

その家茂の言葉集(こんな記録があるのですね)とか、松平春嶽への書状とか。これは政治総裁職に就いた春嶽が思い通りにならないため拗ねて出仕してこないので、顔を出してほしい旨伝えた内容。困らせているのは御自分なのに、手紙をもらって嬉しかったらしい(あいかわらず勝手な男、春嶽さん(笑))。
そのほか、いろいろ良かったです。北斎展もやっています(常設展示内)。すごく美味しいです。
(その他、こまごましたレポはまたいずれ☆)

さて、図録や・・・江戸城DVD(爆笑)で散財してしまい、とぼとぼ幸せな帰り道。
両国のこのあたりといえば、ちょっと北上すると阿部伊勢守下屋敷があります。
ご母堂が住んでいた手前、阿部正弘は激務の合間を縫って、ちょくちょくこの下屋敷に顔を出したそうで。おそらく両国橋を通ったのではないでしょうか。
(宮廷政治家として名をはせる彼ですがこういう庶民を忘れないあたりが素敵なのです)

そして総武線で都心へ向かったのですが、よーく考えれば両国の隣は、浅草橋駅。
そうです、三味線堀そばといえば、榎本釜次郎さんの育った町です。
そのとなり、秋葉原駅。・・・・ここから御茶ノ水駅までの間はかなり近い。

そこで気がつきました。
先日行った湯島聖堂のとなりの町は、萌えタウンアキハバラなのですね。
オタクの街と聖堂が隣同士。なんかすごく深いです。
日本のサブカルチャーの殿堂は今も昔もこのあたり。

お後がよろしいようで(ん?そんな終わり方か!?)。
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by aroe-happyq | 2007-01-25 18:50 | 江戸東京あれこれ | Comments(0)

中根雪江の「昨夢紀事」3,4巻を読んでおります。

その途中、かねてより気になっていた水野筑後守の一件について
岩瀬が橋本左内に面白いことを語っておりました。

(水野は)忠赤餘りあって確實なる事當世無双とも可稱由
去年墨使初而備中殿と應接の時、
御席に連なり居しかハルリスの英夷の事を説きしを虚喝として更に
承引せず固く執て極論に及ひ殆と評定一坐の面々を動揺する勢いにて
當前の事機に於て支吾せし故止事を得ずして當役へ轉せしなり。
                   (『昨夢紀事』3巻 353P)

「忠赤餘りあって確實なる事が当世無双な」水野さんは、
ハリスと堀田備中守が初めて会った席上、ハリスがイギリス(英夷)について説き始めると
「それは虚喝だ!」と非常に熱く論じてしまい、応接掛みんなでびっくりしてしまった。
このように談判の席上でいきなり応接掛が進行に支障をきたしてしまうのはよろしくないので
(田安家家老へ)役替になった・・・・・ということでした。

でも岩瀬さん、水野をけして否定してはおりません。
「当世無双」・・・・・・これってそれなりに褒めていると思います(笑)。
だから橋本さんに語って聞かせちゃうのです。
「困った人なんだけどさぁ、ははは」という感じでしょうか。
というのも、あいかわらず、「信念の人」水野さんは一橋派官吏として大活躍しております。
彼の頑張りがあるからこそ、岩瀬たちは条約の勅許のほうに集中できるのですから。

でもこの史料からみると、カモフラージュ作戦は偶然の産物!?(爆)
役替になって暇になった水野はたまたま一橋派の運動に夢中になれる環境になっただけ
ということかも。むむむ、予測が外れた。

三巻にはいると、永井玄蕃頭が鵜殿にかわって活躍をはじめ、3~4巻はだいたい、
水野、永井、岩瀬が一橋派として、また開国派として奮闘しております。
ただ、かれらは宮廷政治には向きません。大奥への工作は薩摩の西郷さんたちが
担当してはいますが、そのあたりのツメが一橋派全体的に足りないぞ、と素人眼にも明らかです。大奥の影響力を侮ってはいけませんのに(笑)。
・・・・・などと、ぼやきながら読み進み中です。
でも結果を知っているからこんなぼやきも出るわけで、それは彼らからすればズルイですよね。明日を知らないから探りながら走っているわけで、知っていたらちゃんとツメていますもの・・・・・。
歴史をみるとき、結果(未来の出来事)を時には忘れないと判断を誤ってしまいます。
王政復古~明治維新の流れから逆算するから、攘夷志士が正義で、その反対勢力が
だらしない過去の遺物扱い(爆)されてしまうわけです。
当時の記録をみると、相当・・・・・攘夷志士なぞただのワルですからね。
味方が勝ったからこそ、英雄呼ばわりなわけです。
『昨夢紀事』の一橋派も敗れたからいまいち忘れられた存在ですが、結末のまだ知れないこの本のなかでは(この書物はずっと後になってから編まれた本ですけど)、彼らは江戸を、天下を動かしているわけですから、そのあたりを踏まえて、冷静にひとつずつ調べていきたいと思います。
(井伊さんだってまさか数年後、自宅出てすぐ駕籠を襲われた挙句、首をとられちゃうなんてそんな未来は想像だにしなかったに違いあるまい)。
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by aroe-happyq | 2007-01-24 19:34 | 外国奉行ズ | Comments(0)

『同方会誌』(又は『同方会報告』ともいう)27号に、
「詞遣ひ」というコーナーがあり、「江戸言葉」「江戸と田舎の言葉」について紹介している。
このなかから、旗本ぐらいの武家が使った言葉についての項を拾ってみる。

○「~なさい」というのは「~遊ばせ」という。
○朝「起きる」ことを、「おひんなる」とういう。寝るは「げしなる」という。
○衣服をきるは、「衣服をめす」という。ふんどしも下駄もみんな「めす」を使う。
○人を呼ぶときも「人をめす」という。
○放っておく→「うっちゃっておく」
○来い、とかお出でなさいは、「いらっしゃい」。

そして、おはよう、こんにちは、こんばんわ、さようならは一切使わず、
すべて「御機嫌よう」を使う。

・・・・・・・御機嫌ようといえば、ざーます山の手夫人の言葉かと思いきや、元は江戸侍言葉!?

なんとまぁ、風雅な世界(爆)。

「風邪をめされたかとか。どうぞお気をつけ遊ばせ」
「かたじけない。では拙者これにて」
「では、御機嫌よう」
「ご機嫌よう」

・・・・・・・・・こんな感じでしょうか???
御自分」につづき、なんだか軽いカルチャーショックです(笑)。


さらにこのコーナーは指摘する。
明治の官吏が「どうだい、暑いじゃねぇか。達者か。うん忙しくって困らァ。(略)・・・暇があったらどっかに行こうじゃねぇか」・・・・・・などと使っている、乱暴な言葉遣いを武家はしない、そうです(爆)。

ということは、江戸侍のべらんめいはなんかまた違うリズムの言葉なのか・・・・・。
(確かに榎本釜次郎さんのべらんめぇは↑この明治官吏とは違う流れのような気が)
なお、調査はつづく!
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by aroe-happyq | 2007-01-23 10:40 | 幕臣系 | Comments(2)

自由業をやっていて、仕事の保障もなにもないけれど、
ちょっとだけいいことは時間さえ許せば
たとえ午後5時だろうが、テレビを見られてしまうことです。

というわけで、仕事は置いといて、見ちゃいました。第一話。

偶然、最近デジタルケーブルTVがみられるようになったばかりなので、
ハイビジョンが見られると思うと、ついつい・・・・・(DVD持っているくせに!)。
本放送も全話逃さずにみたはずなのですが、やはり見たくなってしまったのです。

しかしなんとキレイなのでしょう!
とくに光がいろいろな表情をみせてくれて・・・・・・・本放送の頃は
ざらざらでゴーストいっぱいの画面で見ていたので、
まるで別のドラマのようでした(涙)。

いろいろ「史実と違~~う」な面はありますが、
これは三谷ドラマとして最後まで楽しめちゃう、そんなひじょうに出来のいい物語です。
長年大河をみてきたなかで、最後までちゃんと物語の糸がすべてたゆまず、
ひとつに集約していく構成の見事さもたまらない感じで、
ちゃんと江戸の雰囲気が伝わってくる、不思議なゆるい空気感も好みでした。
(なんだかやたら偉そうですが・・・・・・・・)
なので細かい突っ込みはせずに、笑い転げ、ときには泣いて楽しみたいと思います。

これから2ヶ月、打ち合わせは夕方をなるべくはずさなくては・・・・・(汗)
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by aroe-happyq | 2007-01-22 19:34 | 新選組! | Comments(0)

川路聖謨という人。

幕末の能吏で、かつ戊辰の徳川瓦解のおり、壮絶な最後を遂げられた、
徳川家臣の鑑のような人。
渡辺崋山たちと交流し、開明的な幕臣だが「蛮社の獄」で奈良奉行に左遷。
のち、勘定奉行に復帰し、海防掛としてプチャーチンとの交渉を、筒井との絶妙な
コンビネーションで乗り切った(後半は水野、岩瀬とのチームだったが)優秀な外交家。
そののち、一橋派として退けられてしまったが・・・・・・、
なにせ切腹の末拳銃自殺というその最後が鮮烈で、
古武士のような頑健な人、というイメージがあった。

吉村さんの本を読むと、まさにそのとおりという、非常に凛とした川路に会える。

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ところが、次にこの↓を読んだとき、
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「ん?」と思った。
この日記にはなにげないユーモアがちりばめられていたのだ。
もしかして、川路聖謨も・・・・江戸ッ児侍のひとりとして、岩瀬たちのように愉快な人では
ないのだろうか。
その疑問を解消してくれたのが、
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この本だった。さすが氏家さん!!!
氏家さんが思わず、溺れた(爆)川路家の世界・・・・・その気持ちがよくわかりました。
やっぱり・・・・・・川路もフツーの江戸侍と同じく、下ネタOKさんだし、
なにより家族(家来のファミリーも含む)がみんな可笑しい!
なかでも報復絶倒なのが家来の娘のお栄ちゃん。天才少女です。
(あまりここでは例にあげられない××ネタなので名前だけ紹介します)
三歳のお栄ちゃんに、なんと川路は「お前の両親はむらむらきてどう抱き合うかい?」
というとんでもない質問をすると、「・・・・ま、それはおいといて」と話題を
さらっとかわすのです!三歳の児が~~~っっ(爆)。
(でもそれを家来一同と爆笑してみている川路お奉行の屋敷ってあったかで楽しそう♪)
さらに、「ゲロゲロ病」と川路命名の奇病・・・・現代でいえばちょっと自律神経失調症な川路の奥方は知識が豊富で、夫を理論的にやりこめることもしばしば。
それも、とても正論で、読んでいてすがすがしい。
江戸旗本の家庭ってみんなこんなに夫婦はフランクなんでしょうか?
すでに封建時代っぽくない、近代的な会話もあるのです。
そして、やはりその家庭の中心にいる川路さんが誰よりも可笑しいのだ。
星一徹のような父に育てられ(このあたりは新井白石のよう)、かなりのマザコンで、
川路の養父は絵に描いたようなぐうたらな江戸侍で、本人は四回も結婚をし、
そしてひたすら家族へむけて日記を描く家庭人・・・・それが川路の一面である。
(全部ではない。仕事面ではかなりの切れ味がある(爆))
おそらくこの本と「落日」と両方を読むと、さらに奥行きのある川路像に出会えることだろう。

*一日考えて、川路さんの不名誉ギリギリ部分をちょっと補足しました(汗)。(1月23日)
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by aroe-happyq | 2007-01-22 10:15 | 幕臣系 | Comments(0)