東都アロエ

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アジアンエンタメ&お江戸後期。外国奉行や長崎海軍伝習所がご贔屓☆ BYはな。

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今日二回目の更新になってしまった・・・・。
なぜかアマゾンの自分用のおススメコーナーにこのお知らせがあったので、
いちおうメモっておきます(爆)。

名刀コレクションモデル 武外伝 新撰組 第弐弾
(このサイトの『武』のところデス)

でもこの旗、ちょっといいなぁ(笑)。←名刀シリーズだというのに


実は。
自分はこのシリーズの番外編?の
「帆」シリーズの第二弾をずーーーーーっと待っているのです。
第一弾は出遅れて、黒船をわずかに入手したにとどまりましたが。
二弾目はぬかりなく、チェックするつもりですっっ。
(ちなみに「倒幕」シリーズではアームストロング砲をゲットしてしまいました。
どこへいこうとしているのだ、自分は・・・・・・・・)

もしも。
「帆」の第二弾で、
もしかして、もしかして軍艦開陽とかあったら箱買いでもなんでもしちゃう所存!(笑)

「帆」シリーズの第二弾、どうかよろしく!
(スイマセン、タイトルと趣旨の違う叫びで終わってしまって)
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by aroe-happyq | 2007-02-28 14:20 | 広く幕末ネタ | Comments(0)
先月の末に手に入れた松山藩主板倉勝静の家臣辻七郎左衛門の回想録「艱難実録
をちゃんと読もうと、収納してあるハコダテファイルをめくったら、
それよりずっと前にコピってあった維新日乗纂輯四に収録の「酒井孫八郎の日記」
(コピーは箱館前後の部分のみ)が目に入った。
酒井孫八郎さんは桑名藩の家老首席。
主君の松平定敬サマを連れ戻すために、ひそかに箱館に入って、数ヶ月の説得によって
官軍が上陸してギリギリのところで主君を連れ戻した苦労の人だ。
手元にあるのはその涙と汗の明治元年~2年の記録(日記自体はもっと長い)デス。
・・・・・実は、箱館脱走軍のみなさんのひと冬の暮らしのなにかの手がかりになるかと
手元に一部置いてあったのを、なんとなく読んでしまった。
それも酒井孫八郎目線で。
箱館にたどり着いたのは12月後半。数日のあいだ禁錮になって、それが緩んだ28日から
藩主への拝謁の許可を請う嘆願書を榎本総裁に出したり、
29日には「新撰組隊長土方敏三」(原文のまま)がやってきて面談など始めた。
あけて明治2年正月になってからは、この榎本、土方と頻繁に「面談」している。
榎本は責任者だから当たり前としても、なぜに土方さん?(爆)。
(桑名藩士が24名も新選組にいるので当然といえば当然ではありますが)
面談内容は、とにかく主君には帰還いただきたいので、その協力を願う内容のはず。
でも、こんなことをいってはなんですが、そういう人事的な根回しっぽいお仕事って、
土方という人はあまり得意ではないような気がするのですが(というか無理?(滝汗))。
誰かほかに知り合いとかいないのでしょうかね???読んでてハラハラするのですけど(笑)。
気の毒なことに1月は榎本・土方双方との面談に明け暮れ、話はあまり進展なく、
二月にはいると、6日の項に「榎本 御座所に来り便船之談アリ」とあるので、いよいよかと
おもいきや、結局は4月13日までかかる。この日にようやく酒井の説得に折れ、
桑名侯は箱館を離れた(その後、東京で出頭して明治5年に赦されている)。
すでに3月後半には、脱走軍は回天で官軍と宮古で戦ったりしているわけで、
空気が不穏な感じになってきただろうし、土方との面談もぜんぜんなくなっているので
それどころではない状態になったことを示している。
(実は2月4日以降ナシ。やっぱりあんまり面談のメリットはなかったのでは?(爆))
そんななかで、孫八郎はどんなに焦ったでしょうか。
でも、4月5日のところに、
「山ノ上十升之花園見物ニ罷越草木色々有之梅花盛櫻微開」とある。
もともと酒井さんは藩校で優秀な成績を修めるばかりではなく、和歌や絵画に通じた風流人。
切羽詰ったなかでも花を愛でることは忘れようもないらしい(笑)。
兎にも角にも、無事に使命を果たしたので、よかったよかった。
(すっかり酒井目線のまんまなもので)

その後も桑名藩に尽くした酒井孫八郎さんは明治12年に亡くなっている。
享年35歳・・・・・・。ずいぶんと若い家老だったのですね・・。
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by aroe-happyq | 2007-02-28 10:55 | 箱館または釜さん | Comments(0)
なかなかブログを整備していくことができないので読んでくださるみなさまには、
見にくい&不自由をおかけしております。

最近ハマッたサイトを、リンクに加える作業がやっとできました(汗)。

長崎県文化財調査報告書というサイトです。
長崎の学芸課が作られているサイトですが、
ちょっと開くのも重い・・・・のですが、長崎とオランダの交流に興味のある方には
かなりお勧めです。

そうでない方にも、日蘭関係史料目録のなかの絵図のコーナーは、
円山応挙の長崎港図などが拝めますし。


これからも幕末維新のいろいろなお役立ちサイトをリンクに加えていくつもりですので、
どうぞ気長におつきあいくださいませ。
(いつもいつも作業が遅くて申し訳ないっす・・・・・)
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by aroe-happyq | 2007-02-27 10:23 | お知らせ | Comments(0)

今日は226事件の日

うちの老父はこの日、まだ子供だったけどなんか覚えている、という。

当時、御府外のとある街で大きめの商店を営んでいたうちの先祖だが、
その日は雪が降っていて、とんでもなく寒い日だったとか。
店のなかで老父(子供)が遊んでいると、煙草や雑貨を買いにくる馴染み客が、

「なぜだか知らないけど、四谷見附からむこうへは行けないんだよ」
と店番と話しているのを聞いたそうな。

店番は、
「へえ」

「なんかあったらしいよ」

「ほう」

・・・・・・・・・・・・・これだけだったそうです(爆)。

そしてとっても静かな一日だったらしい。

もちろん報道管制が敷かれていたというのもあるけれど、
速報性においてはテレビに勝るものはないようだ。
当時は新聞がメインだから、事件の全貌(真相ではないけれど)が
庶民に知れたのは二日、三日、もっとたってからだったという。

昭和史の一大転換点の大事件も当日はそんなものなのだろう。

だけどその静かさがかえって怖いという気もする。
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by aroe-happyq | 2007-02-26 19:55 | 江戸東京あれこれ | Comments(0)
本日は目付好きには周知というか、基本の知識といえそうですがちょっとお付き合いのほどを。

目付は江戸城内で廊下の真ん中を歩く、そういう規則があるのです。
角を曲がるときは、弧を描かずに直角に曲がるのでまるでロボコップのよう?
きっとそんな様子を観たら「ぷっ」と笑ってしまうだろう。
そしたら、「ぶっ」どころか、このネタで「ゲラゲラ」笑った人がいたのです。
その人とは、岩瀬肥後守です(爆)。←やっぱり?

『旧幕府』一号(合本巻一)の木村芥舟「旧幕監察の勤向」より、
(今日は引用をサボりませんっ)

ここに一笑あり、岡部長常(駿河守)本番登城の時
城内内百人番所の邊より俄に雨降出しが、
折悪敷雨傘用意なかりしかば主従皆濡れながら、
例の通り四角に徐歩してやかて部屋に入り、
一應挨拶終りし後岩瀬忠震(修理)云ふ
過刻駿河殿の本番登城を側らより見たりしが、
雨に濡れながら悠々と突袖をして四角に歩行むさま、
其心中如何と思ひやられて、實に笑を忍ぶに堪へざりしとて
彼此大笑となりしことあり。


目付の岡部駿河守が本番(その日の当番のこと。いろいろ役割があってたいへんなのだ)
の目付で、登城してきたら雨が降ってきた。傘の用意がなかったので傘もささず、
主従で玄関まで雨宿りすることもなく濡れながら道の真ん中をしゃきしゃき歩いていた。
その岡部が部屋にたどり着いて同僚に挨拶した・・・・・までを、岩瀬忠震は、
どうやら脇からその様子を観察していたらしく、しゃきしゃき歩く岡部の心中を思うと
笑うのをこらえるのが辛くてさ、と後輩の木村(この人も目付)に語って
二人で爆笑した、という話。

・・・・・・そもそも、岩瀬も同じ御目付なんですけど(笑)。
でもきっと自分が本番のときはおのれに対して笑うのをこらえつつ
四角にしゃきしゃき歩いていそうな男ではある。

この木村さんの目付の記録は、目付研究にはなくてはならない貴重なものなのに、
なぜかこの一文だけ「一笑」ネタだ。
たぶん、目付になった人はみーんな「ヘンだよね」と思っていたけどあえて爆笑
しなかったのに、恐れをしらない岩瀬だけは語ったことが木村には強く印象に残ったのかも。
木村にはお茶目な一面をみせまくる岩瀬なので、このときも気軽に話したのだろう。

これ以外でも、木村が目付に選ばれるにあたっての身辺調査の書類(小人目付の探索書)を
木村本人にみせて「勘助は実に親孝行である」だってさ、
といって二人で大爆笑する場面もある。
もっとすんごいのは目付選任の入れ札というものがあるのだけれど、その最中の速報を
木村に手紙しているし。「難航しているが、呼ばれるのは君一人らしい」とか、機密洩らしすぎ?
そもそも木村と岩瀬が学問所時代から親しく、気心が知れているのでこういうのもアリ
なのだろうけれど・・・・・・・ちょっと読んでいて(バレたらどーするの?)とヒヤヒヤします。

そんなわけで本日は、目付が四角に歩くのは同僚からみてもやっぱりヘンだった、
というお話で終わりまーす。
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by aroe-happyq | 2007-02-26 14:58 | 幕臣系(目付とか) | Comments(0)
不定期にお届けしている旧暦シリーズです。

本日は慶応4年1月6日、大阪城が舞台。

夜半に及び松平太郎(組頭)は戎服に容を改めて来り余輩一同が悠然として落付き
たるを見て余と西に向ひて君たちは何で落付て居るか(と親指を出して)、
モウ疾にお立退に成りましたぞ早く落る用意を仕たまへと告げたり、
西は此語を聞て怪しめる色を偽したるに余は早く語を発して太郎殿そんな不吉な戯言
は仰せられぬもので御座ると一本やり込て見たれば松平はどつちが戯言だ嘘と思ふ
なら御用部屋なり御座の間へなり往て見たまへ御老若方も奉行衆も皆お供で
立退かれたぜ僕は今遽に陸軍の歩兵頭に転じて是から出陣する所だ君たちは
早く立退たまへと云捨て急ぎ役所を出往きたり。
                
            
                           ~『懐往事談』 福地源一郎 第十七章より

長い引用になってしまいました(笑)。
1月6日、徳川慶喜が内緒で東帰していて、まだそれをしらない福地や西周たち役人が
大阪城の一室でのんびりしているところへ、洋装軍服の松平太郎がやってきた。
(以下、我流現代語訳(爆))
「君たちはなんで落ち着いているんだ。(親指を出して)もうとっくに立ち退かれたのだぞ、
早く落ち延びる準備をしたまえ」
といってきたのだった。親指を立てるのは、旗本のあいだの隠語で「上様」を指す。そのほか、
「旦那」と言ったりする隠語もあるが、このときはチッチキチーで慶喜を示したのだった。
西周は旗本ではないので、なんのことやらさっぱり・・・・だが、福地は(ホントは彼も旗本では
ないがきっと江戸での遊蕩三昧の日々に学習したのだろう)隠語を理解して、
「不吉な冗談はやめてください」
とかえすと、
「どっちが冗談だ。嘘だと思うなら御用部屋(老中執務室)や御座之間(上様の部屋)へいって
見て来りゃいい。老中・若年寄方、奉行衆もみんな上様のお供で立ち退いた後だぜ(以下、訳は略)」
と衝撃的なことをいうのであった。
その後ホントに御用部屋などをみてきたら誰もいなくて(涙)、一同で大騒ぎになったそうな。気の毒に。
(でも若年寄は残ってましたよー(笑))

松平太郎がなんともかっこよくて、読んだ人はきっとみんなこのくだりの太郎さんは大好きなのではないでしょうか(笑)。
いや、かっこいいだけでなく、わざわざ知らせにきてくれて、親切!

さて、やはり気になるのは慶喜、どうちしゃったの、という問題でしょうか。
戦いが嫌になって逃げちゃった、とか江戸で軍備を整えて再起をはかったとか
諸説ありますが、いろいろな史料をみていると、このときの慶喜はバリバリ抗戦の構えで
東帰したような気がします。
東帰に関しては、老中の板倉や若年寄の永井、また医者の松本良順の勧めがあったようで
すが、もちろん慶喜は全部自分で決める人だから、自分の意志で東帰したのだと思います。
そして江戸に残している精鋭を率いて小競り合いではなく、ちゃんと戦う気で、板倉や永井と
打ち合わせた結果、さっさと帰る作戦をとったのでしょう(残された人には迷惑な奇策)。
残留組の永井たちが篭城せず、急いで東帰したのも、そういう打ち合わせがあったようにも
みえます。永井は置いてゆかれたというより、ちょっと一枚噛んでいたっぽいし(笑)。
(大政奉還の頃も、その後も、永井の言動をみると、かなり慶喜にハッパをかけまくっている。
彼こそは超抗戦派といえるのでは(笑))
そうして考えると、慶喜は江戸に帰ってからいつ弱気になるのか。恭順派になるのか。
そのほうが問題のような気がします・・・・。

とはいえ、そんな問題は大阪城に取り残されてパニクっている福地や西たちにはどうでもいい
ことで、1月6日時点では、本当に彼らがかわいそうでありますっっ。
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by aroe-happyq | 2007-02-23 10:32 | 旧暦シリーズ | Comments(0)

ザ・外国奉行

近所の図書館で少しずつ借りて読んでいる『幕末維新論集』(全12巻)もとうとう後半。
そして7巻目、『幕末維新と外交』にたどり着き、
とうとう外国方の詳細な解説&論文があった。
もうほとんどこれは自分へのご褒美のような待ってました!の一本っっ。

加藤英明 「徳川幕府外国方:近代的対外事務担当者の先駆 -その機構と人ー」                      (吉川弘文館『幕末維新論集7 幕末維新と外交』収録)

外国奉行、外国方についてはあまり研究をされる方がおられないようで、有名なところでは
土居良三『幕末 五人の外国奉行』があるにしても、これも初期の五人に限っての本で、
全体的に調べ上げて、まとめた論文、レポ、本は自分が調べた限りではほぼゼロに近い。
岩瀬肥後守に限っては彼に焦点をあてた本や論文はかなりあるので、
初期外国奉行の仕事の一端が垣間見られるのはありがたいことだが、
でも外国奉行の機構全体が知りたいときには加藤さんの論文しかないような気がするので、
ここに紹介したい。

とはいえ、紹介といっても、内容は外国奉行の成り立ちとその変遷なので、
ブログで話題にできる愉快なネタがあるわけではなく、
外国奉行ファンの水先案内(笑)としてなくてはならないが、
そうではない方には面白くもなんともないといえる。
ただ、特色的なのは外国奉行といえば岩瀬という本の多いなか、
この論文がフューチャーして いるのが水野筑後守忠徳だということ!
確かに新設の外国奉行に筆頭で任命されたのは水野であり、
(ま、永井と井上も実は同日に任命されてはいるが、日記も記録も残ってない!
水野には「幕末外国関係文書」の附録に「水野忠徳雑録」があるのだ)
さらに後に再任されたりしている手前、在任期間も長いので、
彼こそはザ・外国奉行といえるかもしれない。
岩瀬・永井など主力を大獄で欠いた後、堀織部正とともに外交をささえたのは水野であった。
そして、堀も切腹しちゃって、一人で後輩を支え続け、外交に携わった。
それから数年して急に箱館奉行に転任命令が下ると、
わずか数ヶ月で隠居してしまったのだ。
(実は隠居後のほうがまた水野さん、クーデーター計画の黒幕とかすんごく活躍されるのですが)

そして外国奉行の権限が次第に弱くなり、仕舞いにはただの外国人接待係のように
なってしまうという過程もこれを読むとよくわかる。
とはいえいちばん活躍できたのは外国奉行の前身ともいうべき、目付海防掛という
役職だと思う。この目付であるかぎり、将軍の目代という大きな権限を有し、そのうえで
外国使節との応接の全権委員であったりするので、ときには勘定方も老中も大老も
彼らに従わなければならない場面さえあったほどだ。
それがすでに外国奉行とされた瞬間から、実は権限は大幅に狭められ、
単なる外交の専門職とされたきらいがある。それがさらに、老中首座安藤や、
将軍慶喜のように自分で外交をやりたがる上役が登場すると、もはやただの接待人
となるしかなかった・・・・のである。
(そういう意味では、岩瀬や永井たちは自分の才能が発揮できるもっとも良い時期に
海防掛であり、外国奉行であった)
水野は外国奉行を務めながら、権限を奪われる過程をみつめていたし、
最後には我慢ならなかったと思われ、左遷のち引退という道筋をたどった。
実は永井は慶応年間になって外国奉行を大目付と兼ねたが、すでに慶喜が登場し始めて
いたし、陰のアドバイザーでしかなかったものと思われる。
・・・・・というあれこれはこの論文を読んでいくと、ただの妄想・憶測でなく、
裏づけをとれていくので、とてーもありがたいのだ。

それはさておき(笑)、そういうわけで福地源一郎の著書以外では、
ちょっと珍しく、水野目線、メインの、しかも外国奉行全般を扱った論文に出会えたことに乾杯!
・・・意外にも水野さんをプッシュしているのには、彼こそは長崎海軍伝習所を作りましょうと
最初に上申した人、つまり「海軍伝習所」ファンとしては恩人!?というわけがあるのだ(笑)。
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by aroe-happyq | 2007-02-22 18:23 | 外国奉行ズ | Comments(4)

墨攻

厳密にいうとぜんぜん香港映画ではないのだが、監督さんと主演俳優さんが香港ということで。

原作は難解だけど好きな、酒見賢一さんの小説をもとに漫画化された原作(ややこしい)
をもとにしたスペクタクル映画。

墨家は「非戦」を説く平和を理想とする一派で、中国古代史にさっと咲いて消えていった思想だ。
なぜ消えたかといえば、それがあまりにも理想に過ぎたからだ。
そして乞われればどこの国にも出かけていき、その国が他国から受ける侵略の脅威から
救うため、無償の協力をする。どう考ええても割りにあわないから、彼らの思想は潰えた。

今回の映画は大国の趙国が燕国を攻めるついでに襲いかかられた小国梁国に
救援を依頼された墨家のひとりの革離という男がたったひとりでやってきて、
大軍を前になんとか梁国を守ろうとする物語だ。

*ネタバレをしないためにこれ以上のあらすじはいわないのでご安心!

この映画は墨家と梁の人々とが大軍を相手に善戦して、めでたし!
とはいかない。ひじょうに人間心理の深いところをついていて、
ただ「非戦」ですよ、ではなく、
それぞれの立場の違い、思惑の違いが交錯して人は怖い、戦場はもっと怖いという
考えさせられるテーマが横たわる面白い映画だった。

そもそも梁王ははじめ、戦わずして降伏しようとしていた。
それが誇りのため、意地のため、抗戦する方向に気持ちが揺らいで、
とうとう戦争に突入してしまうのだが(そうでないと主人公が活躍できないけど(笑))。
では最初から降伏すべきだったのか、100%の「非戦」でいくべきだったのか。
そうすれば誰も傷つかずにすむのか。これがすまないから困るのだ。

できうるかぎり戦いは避けるべきだが攻めてこられたらそれは・・・・・。
もーどうしましょうね。←こたえはでません!

それにしても趙だの、梁だのって春秋戦国時代ってとんでもなく昔から、
基本的には戦ってばっかりなのよね、人間は。
平和に飽きては戦い、戦いに飽きては平和に過ごす。その繰り返しが人間の歴史・・・・と
思ったらいろいろと哀しくなりました。

それはさておき。
大陸で撮影する映画は、広~い空き地に、人民解放軍の皆さんの全面協力で、
(たしか映画エキストラ専門の部隊がいるんですよね、ここの軍隊って)
あいかわらずスケールの大きい映像をお作りになる。
今回はなぜか日本の漫画が原作ですが、中国はこういう映画のネタだって歴史が長いから(史料もふんだんにある)、いくらでもあるし、うらやましいかぎりデス・・・・(笑)。
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by aroe-happyq | 2007-02-21 19:17 | 香港&アジア映画 | Comments(0)

榎本武揚護送の記録

先日仕事にかこつけて、ふたたび国会図書館にいったとき、
コピーとか請求待ちの時間に端末をいじっていたら、岩瀬の論文で
知らないものを発見し、どんどん更新されているのか!と気がついて、
榎本さんも検索してみたら、去年の論文(または史料紹介)をいくつかみつけた。

『出羽路』139号 (2006年7月)に掲載された、
伊藤正 「大鳥圭介野稿「流落日記」-榎本武揚護送の記録ー」

実はそのときあと1個しか、しかもオンラインコピしかできない状況だったので
これをゲットしてきた(涙)。

大鳥さんの書かれた「流落日記」というタイトルはなんだかどこかで聞いたような気が
しますが(でも近年の新発見史料なのだそうです)、
横手市でおこなわれた研究会での榎本隆充氏の講演はきけなかったので、
その講演をもとにまとめられたこの史料紹介はとても有難いです。

大鳥さんの記録は、明治2年5月18日の五稜郭出発から、
6月29日の千住まで(入獄前日)の簡潔な道中日記。
5月20日には台場メンバーの永井や相馬たちと合流して、以後青森から徳川の駅亭制度の
定める宿場に泊りつつ、無事に進んでいくという平穏な旅の記録だが、
こうして史料という形で、しっかり日程がわかるとちょっとスッキリしました。
たとえば台場ズとの合流も、読み物だと20日といったり、その後、で済まされたりして
ちょっと「正確」な記録が知りたいなと思っていたので(すっかり永井おっかけ)っっ。

とにかくこうした史料が出現すると、そのほかの断片的なの史料(どこどこで詠んだ漢詩とか)とこの正確な日程の史料を照らし合わせながら読んでゆけばさらに検証がすすみますね☆

大鳥圭介さん、貴重な記録を残してくれてありがとう!
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by aroe-happyq | 2007-02-20 10:44 | 箱館または釜さん | Comments(4)
ちょっと前に行った気がするけれど、ちょうど聖堂に本を購入しにいったついでに
旧暦初詣にいってきました。
やはり、「江戸総鎮守 神田明神」ですので!
(日枝神社とどっちにするか悩んだのだけど)

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*写真は、神田明神から聖堂をのぞむ*

お守りでも買おうかなと思ったら、面白いお守りをみつけました。
勾玉守というもの。腕輪デス。

勾玉好きの自分にはたまらない!ということで、衝動買いしてしまいました。

身につけていると幸福を招くそうです(笑)。
(すいません、笑っちゃって。実はあんまりそういうのを信じないタチでして)

とはいえ、とりあえず、今年はいいことがありますように☆
(あくまで旧暦シリーズですので(爆)。2月の終わりになにほざくと思わないでくださいね)

ところで聖堂の講座受付案内書に、「古文書講座」があった。
江戸文人の文章で古文書(くずし文字など)を学ぶのか・・・・・。
どうしようかな・・・・・・ちょっと、いきたいかもしれません(爆)。
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by aroe-happyq | 2007-02-19 16:43 | 旧暦シリーズ | Comments(0)

アジアンエンタメ&お江戸後期。外国奉行や長崎海軍伝習所がご贔屓☆ BYはな。


by aroe-happyq