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アジアンエンタメ&お江戸後期。外国奉行や長崎海軍伝習所がご贔屓☆ BYはな。

<   2007年 04月 ( 29 )   > この月の画像一覧

久々の旧暦シリーズです。

今回は元禄14年辛巳3月14日について。
のちに『忠臣蔵』として語りつがれていく大事件の、まさに発端の一日。

忠臣蔵の物語は美しいので、それはそれで置いといて(笑)、
史実とはどういうものだったのでしょう。

『「忠臣蔵事件』の真相』(佐藤孔亮 著 平凡社新書205)に
そのヒントが書かれておりますが、
意外にも松の廊下刃傷事件の史実をさぐるための史料は少なく、
基本的には
『梶川氏日記』と『多門(おかど)伝八郎覚書』の二つなのでした。
(『徳川実記』でさえこれを参考に書いている・・・)

とくに多門のほうは、この人が当日の本番御目付だったため、
描写がこまかい。・・・が、こまかすぎてほとんど小説?のような。
しかも多門本人が大活躍しすぎ(笑)で、ほとんど妄想小説のよう・・・・。
いちばん困るには浅野内匠頭切腹の場面で、辞世などもこの『覚書』に
書かれているけれど、どうも・・・・・・これが多門の創作らしいのです。
(いまだに意見の分かれるところですが、ほかの史料にまったくないので)

風さそふ花よりも猶我ハまた春の名残をいかにとかせん

・・・・映画やドラマですと桜がひらひら・・・なんて素敵な名場面なのですけどね(涙)。
(時期的に桜もむりという話もある・・・・)

でも多門のおかげで仮名手本忠臣蔵が生まれて、美しい物語となりましたので、
それはそれでいいか!みたいな(爆)。

ただ吉良上野介さんだけはなんだか気の毒かもしれません。
というのもどうやら浅野内匠頭をいじめた形跡はなく、
賄賂をとるような強欲な人でもなく、いたって真面目に朝廷と幕府のあいだを
取り持つ役目に励んできた男のようです。

たったひとつ吉良さんが浅野さんに恨まれたとしたら、
それは3月14日当日、この日は朝廷からやってきていた勅使に
将軍綱吉が言葉をかける「勅答の儀」の日だったのですが、
当日朝になって儀式の時間が前倒しになった件を、高家衆(吉良も含む)が
勅使を接待する係の馳走人・浅野内匠頭に伝達ミスしてしまい、
儀式に勅使を送り届ける役目の浅野は儀式に遅刻しそうになったという
・・・・・伝達忘れ?・・・、その一点のようです。

でも間に合った浅野内匠頭は松の大廊下の所定の位置に座り、儀式が
始まるのを待っていたのですが、その廊下で、留守居役の梶川と吉良が
立ち話をし始めた(『梶川氏日記』より)。内容はもちろん時刻は早くなった件。
吉良と梶川は知り合いらしく、話し込んだのち歩き出した。
浅野内匠頭はその歩いている吉良を後ろから斬りつけ、・・・刃傷事件となった。

・・・浅野さんが吉良さんを切ったのはいちおう高家筆頭だったから?
立ち話をきいているうちに、むしょうに腹が立ってきたのかも??

『「忠臣蔵事件』の真相』の佐藤氏は浅野内匠頭は恨んでいたというより、
怒っていたのだといっておりますが、梶川さんの日記を読むと頷けてしまいます。

しかし言ってしまえばこんなことで、浅野家は断絶。藩士は職を失ったのです。
なんだかやるせないお話です。

『多門・・・』も『梶川』の史料もすべて、
『忠臣蔵 3巻』(赤穂市市史編纂室)に収録されております。読みやすいです。
ほかのいくつかの断片的な史料もすべて掲載されておりますので、
物語とは別に、いったい赤穂事件とはなんだったのかを探ってみるのもよいかも。
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by aroe-happyq | 2007-04-30 14:53 | 旧暦シリーズ | Comments(0)

癒されたいときに

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本日のどんたく(ゾンターク)は

ひこにゃんでも眺めてゆっくりしようっと☆

立花サンと仕事の両立は目にクマをつくってしまいましたので休まねば(爆)。



・・・・・というわけで、仕事場のひこにゃんぬいぐるみ、登場(笑)。
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by aroe-happyq | 2007-04-29 09:39 | ほんの世間話 | Comments(0)

綱淵謙錠「島津斉彬」

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綱淵謙錠 『島津斉彬』 
文春文庫 1995年










マイナーさんと向き合う日々が続くと、
やはりほしくなるのが超メジャーさんの本。

・・・・阿部正弘祭り中にひっぱりだして
読み直したこの本ですが、
あらためて心地よい開明派の世界(笑)。
うっとりです。

綱淵さんの本は毎度、わたしのツボだらけで、
(とくに安藤老中、堀織部正をこんなに調べておられる方はほかにはありません)
しかもとてもきちんと調べておられるので、いつも勉強になります。
そして島津斉彬にしても、綱淵さんが本に書かれれば、
なるほどこういう人物なら、西郷どんの生涯の神様だというのも頷けてしまいました。

歴代藩主に暗君がいない島津家というのもすごいですが、
この斉彬さんはそのなかでも群を抜いて名君です。
しかし父に疎まれ、父の側室お由羅一派に呪詛される・・・・、お家の事情がこんなに複雑ではなかったら、この人はもっと活躍しただろうと思うともったいないかぎりです。

老中首座阿部正弘とはとくに親しく、とはいえよくある友情関係ではなく、
互いに利用しあい、それをわかりながら協力しあう、
共犯関係・・・・という間柄がまた素敵です。
ともに日本の近代化を推進しようという信念は一緒だけど、
譜代と外様という微妙な距離感があり、不思議な盟友同士といえます。

とくに斉彬に家督を譲ろうとしない父の斉興を隠居させるための阿部&斉彬の策謀は
ゾクゾクするような展開で(・・・・そこで阿部の腹心の筒井政憲が大活躍するのですが)、
読んでいて「二人ともまったくもう、なんて正しきワルなの♪」と
賞賛の拍手をおくりたくなります。

もし二人があのまま生きていたら、島津斉彬は老中になったようですし、
14代将軍は慶喜だったでしょう(笑)。この二人がいれば間違いなく実現したなぁ・・・・と。
(そうすると、じいさんになるまで生き生きと活躍する初期外国奉行の姿もみられたかも)
そうしたら日本はどういう近代国家になっていたでしょうか。
(なんだかこの二人のいる日本だとあまり悪い想像ができないっっ)

この網淵さんの本にもしっかり書いてありますが、あえてひとこと。
よく世間で知られた書物などで「日の丸は島津斉彬がつくった」といいますが、
斉彬さんは阿部に求められてデザインを提供しただけで、
これを選んで日本の旗に選定したのはあくまでも阿部&柳営閣老。
つまりは著作権的には「共同」、
ということだけはしっかり確認しておきたいと思います(笑)。
(栗本鋤雲の本で永井尚志が日章旗決定に絡んだとありますが・・・、
それもウソです(笑)。彼は長崎に居て、江戸から通達があったので、
日章旗を「スンビン」号に掲げただけです☆)

名君だけにやたらと伝説とか神話化されているので、そういうあたりは取り除いて、
これからも本当の斉彬さんに迫っていきたいものです。

よく考えたら、来年の大河のヒロインの義父でもありますから(笑)、
島津斉彬さんがまたまたブレイクする日も近いかもですね????
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by aroe-happyq | 2007-04-28 10:41 | | Comments(0)
ついに最終章、激動の慶応4年です。

慶応4年戊辰正月元日
晴 麻上下着用 宅祝 且つ表袍一同に受け 十時登城
下部屋にて 大紋に着替 御用部屋へ出ず


江戸城での最後の元日の様子です。

1月2日
晴 今朝 浅野美作守 シヤノアン 並に 兵隊一大隊を率い 順動丸にて上阪


1月3日
晴 阪地より飛脚着・・・(略)・・・・
慶喜公 朝廷の召により 御入京の途次 伏見に於て 前駆 騒擾起り
為に朝敵の名を蒙らる


こんな最中、なんと立花サンに老中格に昇進の話が・・・・

1月5日
余 老中格 被仰付の義 内論有之 強而 御断り申述 大いに論


世が世なら泣いて喜ぶ老中昇進ですが、立花サンは断る!と上司ともめています(笑)。
しかし抵抗むなしく、11日には正式に老中格にされてしまいました。

そして以前にも紹介した1月11日

晴 ・・・(略)・・・ 今夜九時 余 宅居間に独坐せしに 
品海の方に当たりて 大砲一轟す 
余 何となく 開陽艦には非ざるかとの 感を生せしは 奇なり


翌日、1月12日まずは松平周防守から手紙がきて、増上寺代参のお仕事を
終えると急いで江戸城へ!

開陽艦にて 還御 松平肥後守 松平越中守にも 御同艦の由 極秘に申し来る
余 愕然 あきるる事ひさし
・・・(略)・・・・・・登城 営中 湧くが如し 今夕に至り 御浜庭より 御乗馬にて
還御なり 大議論 徹夜 紛々たり


・・・・ここからの大騒動に関しては日記よりも、『旧幕府』4巻8号の立花サンの談話の
ほうが詳しいです。旧幕府以外では『幕末の武家』にも載っておりますし、
この日記の巻末付録でもありますが、このあたりに興味がある方はぜひご一読ください~。
開戦論者の立花サンは慶喜の前に立ちふさがって「どうそお切り遊ばせ」と抵抗し、
恭順ときまると、榎本たちと松の廊下で一緒に泣く(当ブログでしつこく紹介済み)
・・・・・・等々、談話によると、彼も懸命に戦っておりました。
なぜ開戦しないのかと「どうそお切り遊ばせ」と詰め寄ったときのこと、慶喜は、

其方共は 左様申すが 今日の旗本のようすは どうだ
と 御意になったので 私も黙って退きました


ここはちょっとポイントだと思いますので、、『旧幕府』談話を引用してみました。
徳川家として戦うとして、直参が使えない・・・・というのは、もう負けというのと同じ・・・・。
そして立花サンもそれを否定する言葉もなかったのです。
(これが慶喜の本心かどうかはともかく、ですが(笑))

12日から16日あたりまで江戸城では連日連夜の大激論が繰り返されたのですが、
とうとう16日には、立花の同僚の堀内蔵頭が御用部屋で自害するという
事件がおきます。発見した時には手の施しようもなく、
立花サンは同僚にして友人の最後を看取ってやるのでした。

こうして1月が混乱のなかで過ぎてゆき、立花サンは頭痛で起き上がれなくなり、
2月1日には退職願いを提出しました。

・・・・つまりはここで老中としての日記は終わりのはずなのですが、
しかし日記は続くのでした(笑)。

この瞬間から、立花サンは徳川の行く末のことではなく、自分の藩の明日と
家来と家族の生活を考えることにのみ集中していきます。
徳川直参のみなさんとは違う、元若年寄だった小藩の藩主として、
彼なりに危険な綱渡りをしなければならないのでした。
そこで、いろいろ考えた立花サンは、

2月16日
家老庵原覚兵衛 用人立花鑒二の二人を上京せしむ。


京都の様子を探らせるが、その一方でこの頃大名は次々に江戸を引き払い、
領国へ帰る状況なので、立花もそのことを考える。

立花種恭の領国は、陸奥国の下手渡と九州の三池にあります。
先祖代々の領地は三池だけど、先代のとき下手渡に転封され、種恭の時代に
ようやく三池(全部ではないらしい)を戻してもらった、という経緯があったので、
さてどっちに行こうか・・・・・みたいな(笑)。だけど、

2月20日になって下手渡より使いがやってきた。
仙台が動いていること、会津討伐の勅命が下るとのことで、領内の人々が
不安に思っているので、ぜひとも下手渡へ下向してほしいと要請されたのだった。
悩んだ立花は、26日になって三池に使いを出したが、家臣と大議論の末、

3月6日
陰晴 今朝七時 在所下手渡へ出立


とりあえず、家族と家臣とで下手渡へ旅立った。13日に無事に到着。
と、ところが、

3月15日
晴風 江戸邸より 飛脚着 柳河と共に 此方 天保山御警衛
京都に於て 被仰付 且 余 病気に付 上京延引


朝廷から命令がきてしまうのですた。
日記には書かれていませんが、実は下手渡藩は奥羽越列藩同盟に加盟しておりました。
いつそうしたのかは不明ですが、いつのまにかそういうことになっていたらしい(笑)。
朝廷の命令に従えば、同盟の裏切り者・・・・・・・。
立花サンは奥羽諸藩へ人をやって状況を探らせることにしました。
その探索人たちが戻ってきて、う~~んと悩んだ立花サンは・・・・

3月25日
・・・・(略)・・・仙台は 大藩なりといえども藩内議論四分五裂にして 
一定の確見なく 而して 慢りに大藩を頼み 奥羽探台の見識を有し
内露にて 論ずるに足らず
・・・・・・(略
・各藩の名を挙げてダメだししている)・・・・羽州の藩々に於けるも
更にみるべきものなし。
余 思慮する処ありて 下手渡に来りしも 如是にては 何のなすべきことやあらん
止みなん やみなん 然る時は徒らに 此地へ止まるべきにあらず
速やかに家族を携帯し上京し 家族は筑後三池御領分に 住せしむるに如かずと
爰(ここ)に思慮を決せり


どうにも奥羽越列藩同盟が信用できなかったらしい。
もうやめたやめた、となかば開き直って、上京することに決めちゃいました。
つまり、朝廷側についちゃおうと(笑)。

天保山御警衛を同じく命じられた柳河藩とも話がついて、事はとんとん拍子に進み、
江戸邸家臣一同議決」・・・大議論にもならず、三月晦日にははやくも江戸へ向けて、出発。

ところが行きと違って、帰りは・・・・・ではないですが、わずか一ヶ月のあいだに、
下手渡と江戸の間といえば、すっかり戦闘地域となっていたのでした。
数々の障害を越えて旅は進むのに、なぜか立花サンも家臣もうきうきなのです。
日記の筆も踊る踊る・・・・・・。
立花サンも家来の多くも、ふるさとは江戸なのですよね。だから?明るいのです。

4月6日
当所より江戸まで十六里。高瀬舟二艘を雇い入れ 之れに乗して
夕三時出船す。 関宿藩 船改め番所あり
惣同勢の名前認め 出すべき由なれば これを出さしめ申し 通過す
舟人等番所を恐るること甚だしく 家臣等大いにこれを笑えり
近臣 若者等 各々船頭を助け 艪を押したり 故に舟足大いに早し


久しぶりに日記に笑い声が戻ってきました。
そしてみんなで心が急くのか、船頭を手伝ってどんどん舟の速度を上げていきます。
翌日7日には江戸へ到着です(笑)。
そして3日ほど深川大工町邸でゆっくりしてから(江戸は江戸城開城間近で緊迫して
おりますが)、数日後、品川から照宝丸にて西へと向かいました。
(ちなみに立花サンの江戸屋敷は仙台藩によって報復的に焼き討ちされたそうです(汗))

その旅の途中、逆風で下田港で足止めをくっていた、4月20日のこと。

余 船上に出て 大洋を見るに 二艘の軍艦東西に分れて戦う勢なり
雷のごとく炮声つらなって 雲の如く弾丸飛びて海水上る
炮発およそ百四五十 やがて 西なる艦は方向を転じて西へ走り
東の艦は これを追うこと急なりしも 程なく艦影 山に隠れて見えずなりぬ
追て 聞く処によれば 西に逃れしは 春日艦にして
追い行きし方は 開陽艦なりしとなり


貴重な、開陽が戦闘している姿です。

立花サン、レアなものをごらんになりました(笑)。
・・・なんとなく開陽とは相性いいかも?


さて、長く続けてまいりました立花種恭の老中日記。

最後に開陽の雄姿をみた、ということでこのあたりでお開きとさせていただきます。


というのも、この後の日記は京都で朝廷側につく手続き、謹慎、、また手続き・・・・・と、
(なんですっけ、勤皇書?とかいう誓書を書かされたりたいへんなのデス)
あまり動きがありません。筆のいきおいもなく、淡々と記録していくような感じでして、
これといって取り上げるネタがございません。

日記は明治2年1月30日・・・・・で終わりますが、
これより少し後に、三池知事になったということで、
立花種恭サンも無事に激動の幕末を乗り切りました。

そしてこの日記と、晩年にはすばらしい談話を残してくださいました。
率直な言葉でつづってくれた立花サンの記録は本当に貴重なものばかり。
ありがとう、立花出雲守!!!!

・・・・・11日もかけてどうしてマイナーな家茂側近の日記をとりあげたかというと、
幕末は、少なくとも幕府側は、ぜんぜん暗くないということを、
知ってもらいたかったということもありますが(笑)、
なによりも、歴史は表舞台だけで動いているのではなく、たくさんの裏方さんが、
支えていて、ともに動かしているということをちょっとでも紹介したかったのでした。
そういう意味ではまさに幕末バックステージもの・・・・・といった感がありますが、
彼らのようなまったく無名の面々がいるからこそ、有名なあの人やこの人が輝くわけです。
(超有名な人はほとんど登場しませんでしたけど(汗))

とはいえ、立花サン、かなりはじけたお方でした!!!(爆)


*提供の史料は、
『立花種恭公の老中日記』(岡本種一郎 編 三池郷土館 昭和56年)でした。
(こちらの巻末に史談会、旧幕府の談話すべて収録されております☆)

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by aroe-happyq | 2007-04-27 10:50 | 幕臣系(老中など) | Comments(0)
この年は、能動的ではない立花サンなので、日記にみえた有名人の記録を中心に
たどってまいります。

慶応3年は正月早々から慌しく始まりました。
1月11日には徳川民部大輔卿(慶喜の弟)がフランスへ留学に旅立ち、
(立花はそれを横浜まで見送りに出張)
そして、京からは孝明天皇が病の報が届き、続いて、

1月14日
晴 主上崩御 去る四日被仰出し以来 月代並に髭共
御免無之処 京都表より 御免の御便り着に付 今日髭を剃る


孝明天皇の死でいよいよ波乱と激動の一年が始まったのでした。
とはいえ、江戸にいる立花サンにはまだまだ激動は伝わってまいりません。
なので、知り人ピックアップをいくつか。

3月10日
晴 大目付永井玄蕃頭 先月晦日 阪地に於て 若年寄格 被仰付し旨 申し来る


旗本初の若年寄が誕生し、
しかもそれがあの因縁の(笑)、永井・・・・・・。

3月26日
開陽 御軍艦出来に付 榎本釜二郎乗組今日 横浜へ着港


とうとう帰ってきました!・・・・・あ、でも字間違えられている(笑)。
正しくは釜次郎さんです。

そしてシャノアンが登場です。

4月晦日
晴風 今朝 佛蘭西陸軍教師惣督シヤノアン 余が邸へ来訪す
・・・(略)・・・・・シヤノアン独行して来るこごときは 当時の珍事なり
故に 未だ椅子等の用意ある事なく 困りて 書院床脇の棚を腰掛に
用いんことを云う 彼 諾せず 坐して語る 菓子をすすめ 且つ
此頃 初而全国に於て 出来の 巻煙草をすすむ 彼 太喜んで 是を喫す
余また同人の仮住居を 問はん事を約す


外国人ら老中宅などへやってくると攘夷志士に襲撃されるかもしれないので、
あまり外国人がふらっと閣老宅へはやってこないことになっていたが、
シャノアンは急にやってきたらしい(笑)。
・・・ここで驚いたのはすでに国産の巻き煙草があることです(それだけかい)。

実はこの頃、横須賀製鉄所(造船所のことです)建設中で、そのことがたまに
日記に出てきますが、立花は6月にかけて再び体調を崩し、歯痛も起こしていて
日記が飛び飛び状態。歯痛は6月10日に松本良順の門人で歯科の千葉玄茂の
手で切開手術の上奥歯を抜いて(これって親知らず?)、完治しました。
これが縁となって、

6月19日
今朝 松本良順 内田九一を余が宅へ招く 写眞す 是 写眞の嚆矢なり
内田九一は 皇国写眞師の 創業者にして 松本良順の誘導による也と。


立花ははじめて写真をとりました。松本良順セールスマンの言によれば、
内田九一は日本初の写真師ということらしい。同時期にはほかに鵜飼玉川という人も
いるのでどっちが最初かは??さてさて。

・・・・・こうして、病で寝付きながら、あっという間に運命の秋がやってきます。

9月に長崎で英人が殺傷される事件があって、10月初旬まで立花サンは
パークスへの応接に忙しくしておりました。

10月3日
英公使パークス 応接 長崎殺傷事件の一條に付 彼 暴論


5日にも各国公使とこの件で話し合うも「同公使一人 暴論に付き 如是」・・・パークスはあいかわらずのようです。
こんなことでストレスがたまり、ふたたび立花は病気になってしまいました。
しかし・・・・・。

10月19日
晴 今夕 永井肥前守きたる 余 病臥のまま 面会 京地に於て
王政復古の義に付 将軍慶喜公 御直命をもって 過る十三日
十万石以上家来 京地詰の者共へ 王政え御戻し思召に付 銘々
存慮可申出様 並に 御封書御渡しの由・・・・(略)・・・・・
老中一人 若年寄ニ、三人 上京の義 仰せ越され
よりて廟堂 大議論 ・・・・(略)・・・・


同僚の永井肥前守(永井尚志の本家)が京都の情勢を伝えにきた。
王政が復古する件につき、慶喜が在京の面々に意見を述べるよう
いっているので、江戸からも老中や若年寄を上京させることになったが、
柳営じゅうで大議論になっている
・・・・ということを立花は知った。

10月21日 
晴 今日 在府万石以上の面々 四つ時登城 王政復古之義
見込みお尋ねある


江戸在府の閣老に不安が広がり、立花の病床に面会してくる同僚が増えた。
24日には、
堀内蔵頭きたる 無二の精神を話し 感慨す


しかし、不安は現実のものとなった。慶喜が大政奉還をしたのだった。

10月26日
今朝 御目付滝沢喜太郎招く 今般 御政権御返上に付 即今
外様大名御取扱向き 且つ 遊撃隊をして 生殺の権を与へ
町人共難義 相抜けざる様御取締向き等の義 申し含め 老衆へ傳言す


大政奉還が成ってしまった今、大暴れする外様(って薩摩ね?)対策として
遊撃隊を投入し、江戸の町の混乱を乗り切るよう目付に伝言を頼んだ。

10月晦日
晴 二三の藩 暴動に及ばんとするの説 一二の藩より 内告ある


まったくの蚊帳の外に置かれながら、
こうした事態に江戸在府諸役人は必死に対応しつつ、また毎日のように激論を
戦わせていた。実はこのあたりさまざまな出来事があるのだけど、ひとつだけとも
ゆかずに、・・・すべて割愛(笑)。

12月14日
大雨 京地 塚原但馬守より 来状 
三条実美はじめ 執政と成り 九門 薩 土 芸 尾 越 の藩に固め
他人一切入れず 大炮いずれも玉込め 薩 悉皆 抜刀
一両日には 必らず 暴発有之べきに付 此の表 兵隊早々上京の様
且つ 迫る八日朝より 薩 長 御所固め 二條御城 遠巻き 甚だ切迫


王政復古のクーデターの情報を手紙で知るのでした。
歴史の大転換だというのに、お江戸も立花も蚊帳の外のまま・・・。

12月17日
晴 遠山修理亮 京地より着 幕府並びに 攝政 御廃絶 被仰出し由申開ける
右に付 諸奉行 諸役人 徹夜大議論


12月20日には岡部肥前守が京より戻ってきて状況を報せてくれた。

実はこの20日のところに「阪地御日記」からの書き写しがあり、
そこになぜか近藤勇が伏見街道で撃たれた一件が詳しく書かれている。

兼而 伏見へ御警衞のため 新撰組 並に 歩兵一中隊 御集合屯置候処
本日近藤勇 用事有之上京 帰路の途中 四條木屋町にて
右左空屋より 薩人小銃にて狙撃す 初発弾丸にて 肩下より 脊通り打抜かれ
続いて七八弾丸連発 従僕 両人即死 勇儀は 深手のまま
伏見へ立ち帰り候処 会藩より申出し 即刻 平塚久海 被遣
療治いたし候ところ 平人に候はば 無論 落命に及ぶべき所
剛強の人物故 療治相届すべき由 久海申聞ける


即時情報なので、いくつか事実と違うところがありますが、これが江戸への第一報
だったのかもしれません。・・・・・最初は薩摩の人が犯人だと思われたのか・・・・とか、
ちょっと興味深いので引用してみました。

12月23日、江戸城二の丸が炎上したり、
江戸じゅうで薩摩がさんざんに暴れまくり、放火、強盗、殺人・・・・・と
収拾のつかない事態へ発展していきます。
同じ、23日には、

今夜 酒井左衛門尉人数 芝屯所へ 薩藩襲う

この件をふまえて、翌日24日は、これまで耐えに耐えてきた柳営ですが。

・・・・(略)・・・大議論 沸騰 営中 戦争の如く 終に薩邸の賊 揖捕の事に定まり

とうとう薩摩にお仕置きをすることが決まり、そして25日

晴 今朝七時 各所の薩邸へ 庄内人数 並に 撤兵歩兵襲撃
余は 堀内蔵頭とともに 早登城 御高屋へいたり 遠望するに
各所に火の手上り 炮声ひびく 昇平ほとんど三百年 今日に至る
この形勢を見ること 概歎止まず


なんだかせつない場面です。
江戸の町のあちこちから火の手が上がり、
炮声が聞こえる様子を城内の火の見櫓からみているなんて。
これが映画のワンシーンならワタシは泣きますね、確実に。号泣です。
(BGMはゴラン・ブレゴヴィッチ『アリゾナドリーム』の「ドリーム」あたりかな(笑))
実はこの頃から堀内蔵頭は神経を痛めてしまい、
やがて悲劇的な最後を迎えてしまうのです。 

しかし12月晦日の項には、

藩邸の賊 逮捕となりしは 江戸市中一般 歓喜の情況なりと云へり

江戸のみなさんが薩摩の横暴のかぎりを尽くす様に、
よほど腹を据えかねていたのですね。
スッキリした気分で慶応3年は過ぎていったようです・・・・。

明日はついに最終回・・・・。運命のの慶応4年こと明治元年の立花サンです。
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by aroe-happyq | 2007-04-26 10:49 | 幕臣系(老中など) | Comments(0)
横浜応接をおえて江戸へ寄った(出張の途中なので)立花サンですが、
それからも横浜、江戸を往復する日々が続き、
疲れがでてしまったのか、とうとう重い風邪にかかってしまった。

慶応元年12月7日
晴 余 今日 風邪 発熱


この時代、風邪をひいても長くは公務を休めないので無理をして仕事をしては
風邪をぶり返す・・・という繰り返しになるケースがままある。
ワタシの贔屓筋でも(笑)、
阿部正弘の顧問役でもあった江川太郎左衛門英龍さんや
初期外国奉行で江戸町奉行を務めた井上信濃守清直さんも
公務を休めず風邪で亡くなっている。
(将軍だと6代将軍家宣がこのケース・・・・・・)
風邪をバカにしてはいけないのだが、長期休暇をとるときは休職ではなく、
退職しなくてならないので、どうしてもこういう最悪の結果になりやすい。

で、立花種恭サンも若いので命に別状はないが、
このあとずるずる風邪→体調悪化と長く付き合うことになってしまう。

11日には松平伯耆守一行が上阪していくなか、立花は同行できず、
のちに別の船で大阪に向かったが、船が高波と強風でとんでもなく揺れて、
ぐったりしてしまい、大阪に戻っても、

病気にて引入 今日押して登城

をくりかえすことになる。こんな状態で慶応2年は
春まで過ごし、ようやく回復してきたころ、
今度はまだ21歳の若さの将軍家茂が寝付くようになってしまった・・・・。
(日記ではあまり触れておりませんが・・・・)

こちらは脚気とも虫歯とも・・・・どっちもだったともいわれていますが、
通常の若者がかかって命をおとすような病ではなく、たび重なるストレスのため
免疫が弱っていたことが、病気を悪化させる要因だったと思われます。
(一説には初期段階での西洋医師団の診断ミスとか、本草系医師団との
互いの連携がとれなかったなど・・・・医療ミス疑惑もあります)

将軍の病というトップシークレットを日記に記すわけにはいかなかったのか、
夏までは妙によそよそしい文章が続きます。

家茂の病の様子については『松本良順伝・長与専斎伝』(平凡社東洋文庫)を
御参照くださいませ。←医療ミスに関する記述はありませんケド

9月になって家茂の薨去を公表しますが、実際には7月のうちに亡くなっていたので、
公表後はすみやかに江戸へ、立花もまた戻っていくのでした。

この後、一橋慶喜は徳川家の相続だけを了承し、将軍職は空位のまま冬になり、
ようやく12月14日に京にて将軍宣下をおこないました。

慶喜はあらたに自分の側近を選んでいったので、
立花出雲守をはじめとする旧家茂系側近閣老が留守を守る江戸と、
慶喜系側近閣老の仕切る京都と、徳川柳営は完全に分裂してしまいました。

結局はペリー来航のショックで亡くなった12代家慶の時代からえんえんと
徳川政権が引きずっていた一橋派VS紀州派の対立がここまで続き、
それが徳川公儀を弱らせるだけでなく、そのものを食い尽くしてしまったようで・・・・・。

この分裂が一年後の大瓦解を決定づけてしまったといっても過言ではないのダ☆
(・・・・今だと時効警察風にしか読めないかもっっ!?(笑))

・・・・ぶっちゃけ、政権からはみだしてしまった立花サンにとってここからは、
時代の傍観者目線日記であり、受難者の記録のようで胸が痛みますが、
絶妙な語り口でやっぱり面白かったりするので、
あと2回ほどお付き合いくださいませ。
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by aroe-happyq | 2007-04-25 10:58 | 幕臣系(老中など) | Comments(0)

鎧直垂陣羽織とは

二度目の更新でーす。
でもちょっと自分用のメモです~~。

松平容保公や長州へいくときの永井の写真などでみる、幕末当時の戦陣服って
写真だとよくわからないなぁと思っていたら、
たまに見に行っている風俗博物館のサイトに全身像がありました。
ここです。

鎧をつける人なんて、もういない時代なのですね・・・(しみじみ)。
つけても鉄砲よけにはならないからでしょうか???
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by aroe-happyq | 2007-04-24 14:39 | 広く幕末ネタ | Comments(0)
日記によれば、慶応元年11月24日

21日に軍艦「翔鶴」に乗り込んだ一行。
松平伯耆守を筆頭に立花をはじめ、目付・祐筆・・・・・が同行し、
この船で江戸から出張してきていた田沼玄蕃頭は同じ船でとんぼ帰りで同行。
・・・・船は天候が悪くて、揺れにゆれて、「打臥者多」かったようです。
24日に横浜港に入って、さっそく各国公使との応接開始です。
まずはアメリカ公使と会ったようですが、日記には内容は書かれていません。
あまり印象に残らなかったようです。
次にフランス公使ロッシュのもとへ。

しかし松平伯耆守は思い悩んでいた。
条約の勅許が出たものの、兵庫開港の話は止んだまま。
そのまま言うのも、避けて話すのも難しい・・・どう話したものかと、
あれこれ考えこんでいたようだった。
(なにせつい最近、ロッシュにはブチ切れられたばかりだし)
そのもやもやした気持ちのままフランス公使ロッシュのところへいってみると、
ロッシュは「病ありて 床上に臥す」状態だったが、ベッドにはいったまま面会するという。
かくして、面談ははじまったのだが・・・。

伯耆守 曰く
公使は 日本国のために 兼而 厚く力をつくさるるを知るといえども なお問う
公使には 日本国のためのみ 我が国事につくさるや また大君家茂公のため
厚く心を用いられるや と
   

突然、松平伯耆守はロッシュに日本に本気で尽くしてくれるのか、と
無茶な・・いえいえ、古典文学級に直球な話を外国人にし出した。

ロセス 答に曰く
家茂公のためにつくすは すなわち 国につくすなり
故に 予は 大君家茂公のため もっぱら つくす所存なりと


・・・家茂公につくすは国につくすなり。
朝廷ともめ、一会桑と分裂した幕府にある家茂側近衆にとって
この言葉くらい、誰かにいってほしい、求めていたものだったかもしれない。
さ、さすが、全権公使ロッシュ。相手国のハートの掴み方、うまいっす(笑)。
ところが・・・・・・。

伯耆守 これを聞くとひとしく 椅子をはなれ ロセスの臥したる 床下にいたり
膝まづき 叩頭再三


・・・・予想以上にハートを射抜かれた人があらわれたっっ。

かたじけなし その一言さへ聞く時は 何事かこれに如かんや
まことに有難し まことに有難し と頓首敬礼して 諭す
これを見る者 満座一同 流涕せざる者なかりし


どうも伯耆守だけが疲れていたわけではなく、みんなも船旅の疲労か?
めずらしく湿っぽくなって、さめざめと泣いているではないか。

ロセスは これをみて 驚き 書記官カシヨンに命じて 抱き起こし椅子につかしむ
この事 語り傳えて その精神を人々感ぜり


そりゃロッシュもびっくりでしょう。思わずカションに伯耆さんを抱き起こさせちゃいます。

冷静にみればこんな陳腐な三文芝居はないっす。
でも、権謀術数もできない、純情だけが取柄の彼ら(それって政府首脳部としては失格っぽい
ですけど)がやると、ロッシュ側にウソがあっても、なんでしょう、不思議な感動が・・・(笑)。

もう・・・・君たち的には、いっぱいいっぱいなんだよね、みたいな(汗)。

口の悪い歴史家さんはこれをして土下座外交とかいいそうですけど、
これって、外交うんぬん以前のレベルですから。
なんの現実的な事柄でもない、抽象的な「家茂公への忠誠」に関して、
あるのか、ないのかという禅問答みたいな内容です。
これは外交ではありませんね。
しいていうと、・・・・・友情?(爆)のやりとり?

ただ立花とその周辺はひじょうにロッシュに好意的ですが、
ロッシュはフランスの国益のためにわざわざやってきている全権公使。
パークスほどではありませんが、ポイントポイントで脅迫もし、なだめすかして
日本側に取り入って、なるべくフランスのためになるよう働いている人ですから、
そんな相手に友情を感じてはいかんのだですぞ、伯耆守。
・・・ま、台詞のキメ方はパークスより、断然ロッシュのほうが上手ですから
無理もないかもしれませんが☆

こうして、次第に、いやますます・・・徳川とフランスの絆は深まり、
できれば貿易を独占したいな計画が進んでいきますが、
こうなるとほぼ日本貿易独占状態のイギリスの焦りは頂点に。
徳川と仲良くなれないとしたら、・・・・ちと頼りないが、
反対勢力しかないか?と方針転換をはかっていくわけです。

というような深いそれぞれの利権の話は立花さんたちにはわからないことですが。

翌日、11月25日には、またまたロッシュと会談。
午後からパークスから招かれて、イギリス公使館へ。
その際、ロッシュが馬車を手配してくれた。

松平伯耆守 吾 木下大内記 滝沢喜太郎 井上主水正 いずれも同車なり
この時 はじめて馬車にのる(我が国に未だ見かけず)


・・・・・・楽しんだらしいです(笑)。

ちなみにパークスとの会談の内容も書いていません。
印象的なことがなかったのですね。

というかロッシュ以外、興味はないのか!?

なさそうだ・・・・・・・。

さて、次回は少しとんとんと進んでまいります。
というのも、この後の立花、過労がたたって病に臥してしまうもので・・・・・。
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by aroe-happyq | 2007-04-24 10:57 | 幕臣系(老中など) | Comments(0)
前回、腹立ち紛れに、切腹でもなく、辞職でもなく、なぜか脱走という
斬新な「理由ある反抗」計画を思いついた立花種恭、29歳。

11月11日にその計画が持ち上がったのですが、日記をみるとしばらくこれに
触れられていない(普通の公務記録ばかり)。
もしかしたら夜な夜な同志(小野さんと木下さんだけど)と密談してかも
しれないが・・・・・。

動きがあったのは、慶応元年11月19日

今朝 木下大内記きたる 御軍艦の義にて談ず 

やってます、やってます。・・・ところが登城してみると。

大小目付 その外 数十人別席面会の申入あり
瀧川播磨守はじめ一同云う
この度 松平伯耆守殿 横浜応接御用として 出張の命を蒙られたり
よりては吾等にも 是非 一同に出張の様 有り度し


瀧川播磨守ほか大勢から、横浜へ外国応接御用をいわれてしまった。
「吾等にも 是非」というわけで当然、そこに立花もいれられている。
これは困った・・・・。

吾は兼而 板倉 小笠原 両所へ申し立ておきたる芸州その他へ 脱走の密意あり
然れども 是は 機密の事なれば 今その事を述ぶる能はずといえども
事に託して断を述る数回に及ぶも 一同強いて談数時に及び遂に談決せずして別る


・・・・・んん??
脱走計画を板倉&小笠原に話ちゃっているってか??
それって脱走とはいわないのじゃないか??(笑)
脱走とは上司に黙ってこっそりやるから脱走とはいわんのか、立花サン???

しかしさすがに「脱走計画があるんで、横浜にはいけましぇん」とはいえず、
適当に断り続けてみたところ、瀧川たちには「是非にも横浜にいってくだされ」と
押されつづけ、とうとう数時間も話し合うが、話は決着せず。

その後、板倉&小笠原に呼び出され、

二閣老より懇々説諭有之 不得止(やむおえず)して 御請けに及ぶべき旨 申し述ぶ

二人に説得されて、とうとう横浜出張を承諾した。
横浜へいけば脱走はできなくなるので、ここで脱走計画は潰えた・・・・・。

勝手な推理を働かせると、脱走計画を打ち明けられていた板倉&小笠原は
横浜へ行かせることで脱走をやめさせようと考えた。
まずは大目付・小目付数十人から横浜出張の相談というかたちをとった。
次に自分たち老中からの説得、のちに正式出張命令・・・・・という、
前回の立花が望んだとおりの「若年寄の出張の段取り」を丁寧にやってみせて、
・・・・わざわざこんな面倒なことをしても、脱走を阻止してやろうという
部下へのいたわりを感じてしまいます。

この後、板倉伊賀守から正式に辞令が出て、横浜出張が決定となった。

そして、この「立花をなだめる作戦」はこれだけにとどまらなかった。

夜に入って家茂の御前に召された。

大切の御用につき 精々盡(尽)力いたすべし
且つ折角 船中いとう様 御ねんごろの上意あり その外 しばらく
御咄(はなし)有之。御前を退出す その節 御手ずから
吉野 竜田蒔絵つき 御さげの御印籠をとられ
これを遣わすとの上意にて賜う


日本史上随一の「気遣い」将軍、家茂クンです。
脱走計画については耳に入っていたかどうかはわかりませんが、
そんな情報がなくても、辛いとき自分を励ましてくれた立花に対して心から、
船中もからだをいとえよ、などなどあたたかい言葉をかけ、
自分のしていた印籠までくださるのです。
家茂クンはそういう青年です。

もっと泰平の江戸に将軍だったら、こんなに思いやりのある真面目な青年は
さぞかし柳営のみながらず、庶民にも愛される将軍になったでしょうに(涙)。


そしてあらためて思うのは、立花って上司に愛されているじゃん、ということです。
いわゆる紀州派系でかためた家茂幕閣ですが、結束力はなかなかのもの。
(結束力と、能力は別物ではありますが・・・・・・)
そのなかで、立花サンは確実にみなに好かれる存在なのでした。

これですっかり気が済んだのか、意気揚々と(上方から)横浜へ出かけていきます。
(軍艦奉行の木下はこの出張に同行しております(笑))

実現していれば、新選組の山南さんにならんで幕末の二大脱走・・・・・(爆)として、
歴史にその名を刻んだかもしれないが、妄想(計画)しても実行しないのが
立花流。これまでも「酒井大老刺殺妄想未遂事件」、
「パークス刺殺、および割腹妄想未遂事件」がありました。

でも「いつも妄想未遂の男、立花」でいいじゃないかと思います。
そうでなかったら、こうして楽しい日記とも出会えなかったわけですし・・・・(笑)。

そして、そして横浜で・・・・・・・。またまた次回!

*立花①と③に本日、追記しました。
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by aroe-happyq | 2007-04-23 11:52 | 幕臣系(老中など) | Comments(0)
ここ数日、立花サーガ(爆笑)にお付き合いくださいまして、
まことにありがとうございます♪

幕末史ではほぼ無名の立花サンの日記をえんえんととりあげて、
さぞかし訪問者数も激減するだろうとおもっていたところ(笑)、
あたたかいみなさまには立花ワールドを楽しんでいただいているようで、
とっても有難いことです☆

幕末の英雄でもなんでもないですが、
そういう有名人ではないからこその、脚色のない、リアルな青年の日々の記録を
味わっていただければさいわいです。

あと数回(まだそんなにあるのか!・・みたいな)ほどですが、
もうしばらくおつきあいくださいませ。


でも本日はちょっとお休みさせていただきます~~~~。
・・・・時効警察の録画などいろいろたまっているのをみなくちゃ(汗)。
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by aroe-happyq | 2007-04-22 10:04 | お知らせ | Comments(0)

アジアンエンタメ&お江戸後期。外国奉行や長崎海軍伝習所がご贔屓☆ BYはな。


by aroe-happyq