ブログトップ

東都アロエ

<   2007年 05月 ( 29 )   > この月の画像一覧

地図を貼ってみました☆

旅レポなどで地図を貼りたいなぁと思っていたのですが、
ようやく見つけました。

ちず窓というサイト。


長崎旅レポでは、西役所、目付屋敷跡に、
それから井伊さん家レポ、昨日の八百松にそれぞれ追記しました♪
クリックしていただくと、大きい地図が出ます。


ブログ初心者なので、ひとつひとつ進むのがのろいですが(笑)、
(もう少し本でも読んで学べば早いのだけど、記事UPのほうが忙しくてっ)
これからもどうぞよろしくです~~!

目付屋敷のところ、興福寺の岩瀬さんの「海外行きたい~っ!」の叫びの漢詩を
やっと探し出せたので(爆笑)、追記しました。

先日10年ぶりにパスポートの更新にいったんですけど、
自分はこんなに簡単に行けるので、
岩瀬や吉田サン(松陰先生ノコト)に済まないなぁ・・・・・と思いました、マジで。
[PR]
by aroe-happyq | 2007-05-31 10:29 | お知らせ | Comments(0)

明治期のいろいろな人(といっても旧徳川家臣系ばかりですけど)の日記を
みていると、「八百松」という料亭の名前がときおり登場します。

で、ちょっと調べてみたら、八百松は有名な料亭で、
江戸期から水神に一軒あり、
更に枕橋には明治になって支店が、できたそうです。

気になる枕橋店のほうは・・・・・・

d0080566_17391654.jpg



当時の名所絵葉書にも登場するぐらい、風流なお店です。
(写真では手前の大きな建物が八百松です)

しかしいい景色ですっっっーーーー。

料亭 八百松跡?

現在だとこのあたりになりますか????



この八百松、なぜ気になったかというと、
明治24年、永井介堂が亡くなる二ヶ月前に、
岩瀬忠震の三十年忌会を開催した場所なのです。

木村芥舟と永井が発起人となって(伝習所総監ツートップズ(笑))、
二人でいろいろ手紙でやりとりしながら決めていったようです。

永井から木村への手紙に、

壱円位と御打合申上げ候処、
少々増し壱円弐拾銭ツ々と致
候而は如何、尤も仰之通り本月
廿日頃迄ニ来會人名も相分り
候ハバ、八百松方江老拙より
談置可申候也


とあるように、永井介堂さん張り切っておりました。
八百松は向島の永井邸(元岩瀬邸)から近いので、
店に出向いて費用などの交渉を担当したようです。
ただ、この会費・・・・けっこうなお値段なので、
八百松がかなりグレードの高いお店だということがわかります。

ちなみに当日、4月25日に集まったメンバーは、
23日に木村に十円も渡して当日は来なかった
勝安芳さんも入れてあげるとして(笑)、
(あいかわらず素直ではない人です)

白野夏雲(岩瀬の用人太田耕作)、
榎本子(武揚)、向山黄村、一色直温、
杉浦誠、宮本小一、中村敬宇・・・・・(その外は省略)などなど。
(荒井郁之助も、かもしれないが確認できず)
&幹事の木村と永井サン・・・・でした。

当時の新聞に出るほどの宴だったようです。
永井の漢詩が掲載されていたり・・・・。
なんだか勝サンのもあるらしい(漢詩だけ寄せたの?)。
宴で漢詩なんて、まったくもう、お武家サマご一行ったら(笑)。
やっぱり都都逸よりは謡などやっちゃいましたか。
(岩瀬は謡もたいそう得意だったそうな)
いやまったく、江戸の名残・・・・・風流でございます。


それにしてもみなさん外国奉行系の人で、
なかには明治になっても外交畑で活躍した人も多い。

死後三十年も経ってこんなに大勢に集まってもらえる岩瀬って、
幸せな人だ、とつくづく思います。
(後輩に対して本当に面倒見の良い人だったので、
長く慕われる兄貴的存在という感じでしょうか)

木村と永井は学問所以来の親友ですが、
その外の多くは職場の後輩です。
勝は・・・・最初に岩瀬と大久保(忠寛のちの一翁)に見込まれ
なければ小普請のままだったので、勝にとって岩瀬は大恩人。
また榎本に関しては永井の紹介(←紹介好きだから)で
岩瀬と知り合ったようです。

とはいえこの会に関していえば、
永井と木村の、岩瀬への友情と、
岩瀬の石碑まで建てた白野の主君への忠義心が強くて、
周囲がつき合わされた感もなくはないけど(汗)。


・・・・・向島へ行って、そんな八百松を偲んでみたいと思いましたが、
今はぜんぜん跡形もないようで、ちょっと寂しいです。
[PR]
by aroe-happyq | 2007-05-30 18:32 | 江戸東京あれこれ | Comments(0)


小夜さんがすでにチェックされておられましたが

大河「風林火山」小笠原長時役に、

「組!」の上様こと今井朋彦がーーーーーーっ。

・・・・・・オープニングで名前をみたときはまだ「ぷっ」でしたが、

画面に登場したとたん、なぜか我が家は大爆笑でした。


「組!」の慶喜さん、インパクト強かったから・・・・(汗)。
今井さんのせいではないのだ。


と、
昨日、書こうと思っていて、ついついおととい深夜に読み耽っていた岩瀬さん
にすっかり再々魅了されて(笑)、話題にするのを忘れてました。

・・・・ま、そんなぐらいの存在です、小笠原って(爆)。



風林火山といえば、いよいよ6月には上杉謙信が登場だとか。

いまいち美女にみえない姫さま問題を終わらせて(なんかここ数週、道草しているゾ)、

はやく合戦もってこいやーーー!(だって戦国モノだもの)
[PR]
by aroe-happyq | 2007-05-29 10:00 | ほんの世間話 | Comments(2)


* 今日はこれといって企画ものの記事ではありません(笑)。



先日、川島平蔵さんのところでも触れましたが、
(鬼平長谷川平蔵さんと間違えそうだな、川島さんっっ)

『幕末外国関係文書』を読んでいる今日この頃ですが・・・・・・・・・・。

いや、本当に、もう!!!

嘉永7年1月22日に目付海防掛助になったばかりの新米目付の、
岩瀬修理(忠震)さん37歳。
翌日から出張命令はあるわ、28日あたりにどどどどと出された
黒船再来航に関する江戸警固などの通達の文書にガンガン署名しております。

もちろん、

堀織部
永井岩之丞
岩瀬修理

の三人連名の最後ですけどっっ。
(これもまた、たまりません)

堀織部は前年の嘉永6年5月から、永井は嘉永6年10月からそれぞれ目付なので
まだ一週間のペーペーとしては最後で当たり前、いや、フツーはこんなペーペー
はこんなところに署名なんてさせてもらえませんっ。

これにはちょっと事情があります。

ペリーは「3月ぐらいにまた来るね!」といっていったん去ったのですが、
ペリーは新暦の3月を想定しており、
日本側は旧暦の3月を想定したので、
旧暦の1月中旬に黒船が「約束どおり来たよ!」と現れたので、
日本側は「ええええ。準備まだできてないよ」とぶっちゃけ・・・・焦った(爆)。
しかもそんなときに、使える男岩瀬修理が目付になったら、
やっぱり即戦力扱いですねっっ。

それに、どうやら、修理さんは仕事を難なくこなしているようだし。
(堀&永井という頼もしい親友二人がガッチリとサポートしてあげていることも
大きいと思うけど)
この当時は目付筆頭は鵜殿長悦(くどいようですが、浪士組を京まで引率した
あの鵜殿サンです)で、最古参は戸川安鎮。
目付衆は、この二頭体制でした。
どちらも切れ者でかつ後輩に優しい、よき先輩陣ですから、
岩瀬ってラッキーだったと思います。

そしてまもなくここに、大久保一翁こと大久保忠寛が加わると、
目付部屋の黄金期が始まるのです。
(もうまもなく堀は蝦夷へ、永井は長崎へ行ってしまいますが)
また阿部伊勢守正弘の安政の改革の始まりであり、
徳川時代、最後の「正しい」政治の数年間ともいうべきか(涙)。


そんなわけで、やっぱり岩瀬ってスゴイかも、と思いつつ、
『幕末外国関係文書』ますます楽しいデス☆
[PR]
by aroe-happyq | 2007-05-28 10:22 | 幕臣系(目付とか) | Comments(2)

本日2007年5月27日は、
旧暦の、慶応4年(のち明治に改元)4月11日。

江戸城明け渡し、とも江戸無血開城の日、とも申します。

徳川の時代が終わった日でもあります。

3月14日に勝安房守が西郷どんと高輪の薩摩屋敷で話し合った結果、
こういうことになった次第。

勝がこの話し合いのために、どれほど準備を重ねていたかは有名な話ですね。
万が一に交渉決裂の際には江戸のやってきた京軍(西軍)もろとも
江戸を火の海にする「ナポレオン作戦」のため、江戸じゅうの火消し・親分、
町名主などなどと打ち合わせをおこない、自ら足を運んで避難の算段まで
きっちりと段取りを決めたり。
また、英国公使パークスからも西郷に圧力をかけさせるように交渉したり。
それらの努力のおかげで江戸城開城に話は運んだのだが、4月11日に
なるまでだって油断はできない状況だった。

と、・・・・有名すぎる4月11日の話をここであらためて紹介してもなぁ、と
いうことで江戸開城の功労者の勝安房守にふりかかった悲劇(笑)
についてちょっと紹介。

ものすごく端折って書きましたが、2月あたりの慶喜恭順決定からこっち、
勝&大久保体制はフル稼働で働いておりました。
とくに勝安房守サンは徳川方からも敵方からも板ばさみになりながら、
困難を乗り越えて、げっそりやつれながら、よく頑張ったと思います。

そしておそらく勝自身も自分でもよくがんばった、と思っていたし、
4月11日の開城の段取りについても完璧!と自信があった。
そうでなければ、その前日の夕方に、わざわざ「大嫌いな」(爆)慶喜に
報告などに行ったりはしなかっただろう。

勝海舟『断腸の記』より、

十日夕刻、池上本門寺先鋒総督に談判し、直ちに上野大慈院に到り、
その顛末を上言す。


西郷と会って最後の詰めを終えて、すぐに上野の慶喜の元へいったわけです。

主公、当正月以来いまだかつて一日も安眠平食せず、面貌枯痩を見る。
余、その胸裏を思い、少隙を見て顛末を述べたり。



主公、すなわち慶喜は心休まることなく「面貌枯痩」の様子。
さすがに勝も哀れに感じて、安心してもらおうと思って
2月、3月そして、明日、4月11日の開城までの顛末と
段取りを話したのだった。
もしかしたら「よくやってくれた」と暖かい言葉のひとつも期待して(笑)

ところが、

主公、余に向いて仰せに曰く、
嗚呼、危うきかな、危うきかな、もしかくの如くならば災害足下に生ぜん、
如何ぞ諸官に告げ、市民に令し、兵隊に警(いまし)め、人選してその不虞に備えざる、
汝が所置はなはだ粗暴にして大胆なり、


「俺ならこうするのに」という、強烈なダメ出しの嵐だった・・・・。
ぐったりしていても慶喜節は健在だったのだ。

かつ談判その順序を得ず、今にしてまた如何せん、
予が心裏を貫かずして斃(たお)れんか、と血涙雨の如し。



あげくに「お前に任せるべきではなかった・・・・」と嘆き泣かれる始末。

考えに考えて積み重ねてきた策を「粗暴」といわれ、
要するに「お前は全部なっちゃいないな」と言われてしまった勝安房守。

余、これを伺いて心胆ともに砕け、腰足痲痺せり。

さすがの勝さんも大ショックだったのだ。

だがここで引き下がる勝ではなかった。ショックの次にブチッと切れた(笑)。
猛然と慶喜さんに(たぶん早口で)まくし立てた。

嗚呼、君上の言誤れり、二月の御決心の際、大事を任ずる人なく、
臣が微力なすあらざるを以て御受けに及ばず、然るに強いて命ぜられ、
終に今日に及ぶ、


二月に恭順を決めたとき、朝廷との交渉等を引き受ける者がいなくて、
自分も断ったのに無理に命じられて、今日に及んだのです、

その時上言、今日より後、大難事、或いは大変に及ぶとも、決して上言御指令を
用いざるなり、と、君上仰せに曰く、
もとより然り、との御言あり


引き受けるからには今後一切口出しは無用ですよといったら、
もちろんだと仰ったじゃないですか!

今日にして言上するものは、君上の御胸裏を恐察し、
黙止する能わずによるが為なり、
府下百万の民、生死の分る、今一日の臨み、
臣、今日、敢て恐懼の念あらんや、と。


今日わざわざここに来て申し上げたのは苦しい胸中をお察しして、
黙っていられなかったからですよ!
江戸百万の生死のかかった明日を前に、
こんな事を言われるためにこのこのやってきたんじゃない!
(最後、かなり意訳。でもきっとホントはこんな感じのはず)


かつ言い、かつ罵し、席を立ちて城外に向う。
この際の愁苦、誰にか告げ、誰にか語せん。


と啖呵を切って飛び出していたらしい(笑)。
むかっ腹をかかえて、・・・・・
「この際の愁苦、誰にか告げ、誰にか語せん」
ってせつないじゃないですか、とっても(涙)。

日頃の言動からついつい鉄の心臓持ちのように思われがちな勝さんですが、
鉄にみえる薄~いメッキの下にはガラスの心臓が隠れているのです。
(慶喜さんは鋼鉄の心臓ですけど(爆))

それにしても、この二人・・・・たぶん似過ぎて気が合わないのだろうが、
慶応4年の4月10日になってもこのとおりです(爆笑)。

慶喜も、ちょっとでも労いの言葉をかけてやればいいのにね。
それができたらたぶん、上野に籠もるような羽目にはなっていないでしょうが。


4月11日。西郷と共に歴史の立役者になった当事者の勝サンは、
たぶん前日からのむかっ腹をかかえて当日をむかえました。

さらにむかっ腹はおさまるどころか、どんどん膨らむばかり(爆)。
なぜなら、榎本率いる徳川海軍が脱走しちゃったのですから。


勝さんにとって、渋い顔で迎えた、とんでもなく散散な日だったようです。
[PR]
by aroe-happyq | 2007-05-27 11:04 | 旧暦シリーズ | Comments(0)

横須賀乾ドック!!!

本日、二回目の投稿でーす。

まずはこの記事をごらんください→こちら

1号乾ドッグ、たいへんに貴重なものなのだそうです☆

・・・・・・・・しかも、榎本武揚さんプロデュースです!!!!

きっちり仕事をなさっていて、さすがだ、釜さん!!!

できれば・・・・・貴重な史跡として、残してもらいたいものです。

来年は安政五カ国条約締結から150年。
横浜横須賀さるく、やってくださーーい!!
で、ここも見学者に解放してほしいな~~~~♪

横須賀造船所こと製鉄所といえば、小栗さんですが、
(発起人は岩瀬氏にまでくだるかもですけど)
明治になって旧幕臣の榎本さんが関わっているのが嬉しいです。

つーか、こんだけ役に立っているのに日本の歴史じゃ無視とわ、
やっぱ、かなすぃーです。

もちろん榎本さんも含めつつ、小栗さんだったり、阿部さんだったり、
岩瀬さんだったりしますけど。
徳川家臣ですよ、みんなね。
勝負でいえば、敗者ですけど、このように
負けてもいい仕事しているわけですよ。
そろそろ彼らを評価ぐらいしてもバチはあたらない気がしますよ、そろそろ。
いまさら「幕末の志士」と明治維新を神格化しなくても政府は壊れないじゃないすか。
それとも未だに明治政府なんですかね?はははは。
(一説には日本はいまだに古代王朝とも言ふが!?(爆))

(ウチの近所、本日祭りにて、すでにお流れを頂戴したため
いささか酔っており候(笑)日本語が崩れ気味なのはどうぞご勘弁)。

とまぁ、珍しく管巻きたくなるぐらい、素敵な記事でした♪
[PR]
by aroe-happyq | 2007-05-26 19:07 | 箱館または釜さん | Comments(0)

タイトルをみた瞬間、以前こちらでも取り上げた疑問が一気に解決できそうな、
嬉しい予感のした一冊。
でもちょっと厚くて、お高いので二の足を踏んでおりましたが、
古書店でみつけちゃいました☆

d0080566_9501744.jpg

眞壁 仁 著
徳川後期の学問と政治 昌平坂学問所儒者と幕末外交変容

名古屋大学出版会







やっと読み始めたところなのですが、
ジャンルでいえば「思想」と「史学」とどちらの方向からもつぶさに調べられていて、
(ちょっと想像しただけでも、とんでもなく苦労された事と思います)
しかも素人のワタシにもわかりやすく書かれていて、本当に有難き一冊です。

幕末初期外交(勝手に命名。ペリー来航から安政6年ごろまで)を担った
海防掛は老中・若年寄を除けばほぼ全員が昌平坂学問所出身者。
その彼らは幕末外国関係文書を読んでいても、慎重、積極などの違いはあっても
「開国」を強く意識しており、ペリー騒動で慌てて・・・というよりはそのずっと前から
しっかりと心の準備ができていたように思われていたので、
それらの源泉は昌平坂学問所にあるのだろうなぁ・・・・とは漠然と考えていたのですが、
答えはなかなかみつかりませんでした。
この本にはちゃんとワタシのほしかった答えが書かれています。

梅澤先生の論文を読んだぐらいでは初心者にはとうてい理解できるものではなく、
マジで困っておりましたから、どんなに嬉しいか(涙)。

そして、岩瀬や永井などのとんでもなくさばけた江戸っ子侍たちが
より立派な大人(爆笑)になれた学問所の秘密もわかったらなお嬉しい。
(この本では岩瀬蟾州と号のほうで表記されているのも、ちょっと嬉し♪
ちなみに蟾州(せんしゅう)の「蟾」とはカエル・・・・・・号までおちゃめな男)

学問所出身者で占めていた外交部門が、安政の大獄で彼らが
一掃されちゃってからの外交は・・・・立花日記をみただけでも、たいへんマズイ。
おかげで安政五カ国条約は不平等条約にまで堕ち、
今にいたるまで語られ続けております(涙)。
学問所出身か否かの差はたいへんに大きかったわけですが、
なにがどう違うのか、もこの本でわかりそうです♪


・・・とまぁ、まだ読み始めですが、我慢できなくて紹介いたしました(笑)。
[PR]
by aroe-happyq | 2007-05-26 10:47 | | Comments(0)

前々からはじめようと思っていたこのシリーズ。

どうしたわけか、第一回ゲストは井伊直弼さんです。パチパチ。

・・・実をいうと、旧江戸城(皇居の周辺)散策のついでだっただけ(爆)。

d0080566_14402942.jpg


今や高速道路の出口の上にぽつーんとあるのです。
加藤清正邸でもあったとか。
それにしても排気ガスだらけで、さみしいところにあります。



江戸の頃はまさに超一等地でした。


d0080566_14433165.jpg



こんなに近くに桜田門があります。
通勤時間5分?(乗物でいくからもう少しかかるかな?)

ち、近い・・・・!!

ワタシの贔屓の旗本さんがどれほど時間をかけて通勤しているかと
思うと、ちょっと「ズルイ~」とか思ってしまうほどです。


だがこんなに近い自宅と仕事場の途中で、
暗殺されてしまったのだから、運命なんてわかりません。

d0080566_1447625.jpg



そして桜田門。
いつ来ても美しいです。

d0080566_14534756.jpg


桜田門から逆に、井伊家方向を眺めると・・・・・国会もみえたりして。

このループ、きれいだなぁ。


・・・・と、
このシリーズ、こんな感じでゆる~~く始まりました☆
[PR]
by aroe-happyq | 2007-05-25 14:50 | お宅探訪シリーズ | Comments(0)

長崎レポ最終回です。

長崎伝習所と直接関係はありませんが、
のちに一時期外交顧問にもなったシーボルトさんの鳴滝塾跡へも
まいりました。

d0080566_1091641.jpg


こちら鳴滝にあるシーボルト邸跡。

実は隣にシーボルト記念館がありまして。
そちらを訪れるのが目的です。
シーボルトさんは日本にさまざまな西洋の知識(医学などがおもですね)
をもたらしてくれた人でもありますが、彼が日本の地図を海外へ
持ち出したことで、蘭学者が多数弾圧されてしまったこともあり、
(渡邊崋山などが有名ですが、江川太郎左衛門、川路聖謨、
高島秋帆もたいへんだったんです)
ちょっと複雑です。

○シーボルト記念館

開館時間 9時から5時まで(入場は4時30分まで)
入館料 100円

路面電車「新中川町」下車 歩いて7~8分



それからこちらも伝習所とは関係がほとんどありませんが、
江戸期~近代の長崎を知るためには、
長崎市歴史民俗資料館も欠かせません。
それほど展示物はありませんが(汗)、立山の博物館にはないものが
ちょこちょこありますので、行ってよかった♪と思いました。

○長崎市歴史民俗資料館

開館時間 9時~5時(入場は4時30分まで)
入場料 無料

路面電車「浜口町」下車歩いて5~6分。



写真がないのは、電車の駅あたりからずっと修学旅行生で
溢れかえっておりまして、人ごみにぐったりしたためです(笑)。
実はこの資料館のとなりは原爆資料館でして、
そちらへ行く生徒さんがわんさか・・・・・・でした。
長崎にきて行かないのはどうだろうか、と原爆資料館にも
寄るつもりでしたが、きゃーきゃーとにぎやかな若人の声に
とてもそんな雰囲気ではないので、パスしちゃいました。

そのかわりといったらなんですが、
平和を祈る千羽鶴だけはしっかりと折らせていただきました、家族分。
(そういうキャンペーンをやっていたので、便乗しちゃいました)
ほんの数日歩いただけですが、坂はキツイながらも、
長崎は本当に穏やかで美しい街でした。
幕末にやってきた外国人ほぼ100%が「もう一度来たい」と
いろいろな記録に書いている、そのとおりの美しさなのです。
ペリーの国はまったく、とんでもないものを落としてくれたものです。
二度とこんなことがないように、せめて祈るしかないです。



さてさて。
1日目はクルーズ&オランダ坂、グラバー園方面に行きましたが、
2日目は、3日目の出島以外の全部を回りまして、路面電車大活躍でした。
(1日乗車券フル活用☆)

d0080566_1053523.jpg


トラム大好きな自分としては香港に次いでたくさん乗った感じで、
大満足(笑)でした。



ラストはちょっと寄ったお店を紹介します。


d0080566_10404849.jpg

長崎駅前の
飛龍園。
皿うどんを
いただきました。









d0080566_10432991.jpg

ひと口餃子のお店
雲龍亭

こちらは支店のほうです。

目の前で作った餃子が
出てくるのです♪






そのほかはだいたい、ホテルからすぐの新地中華街にて食べておりました(笑)。
本当は有名な卓袱料理やトルコライスなども食べてみたかったのですが。

いやいや欲張ってはいけませんね。


慌しい短期旅行でしたが、
調べたかったものはだいたい任務完了♪できましたし、
充実の旅でありました。
[PR]
by aroe-happyq | 2007-05-24 10:55 | 長崎伝習所系 | Comments(0)

実はまったく行く予定になかったグラバー邸。
(もっと移動に時間がかかるかとおもっていたので。
ここまでは無理だと思ってました)

湾内クルーズで海から見えたので、今度はグラバー邸から海を
みるのもオツね、とまたまた坂を登って行きました。

d0080566_9295814.jpg


浦上天主堂です。

観光しているな~~♪とわくわくしていると・・・・・・・・。
天主堂からグラバー邸までの急な坂には土産店がずらーっと並んでいて、
まさにここが最大級?の観光地であることをそこではじめて知りました(爆)。
(あんまりびっくりして、写真に撮影し忘れた)
夕方にもかかわらず、修学旅行生もたくさんいる!

しかし、なかでも衝撃・・・いえ、笑撃的だったのは、
坂本龍馬グッズだらけといっても過言ではないのだ、という土産街・・・・・。
なかには一店舗ほぼ坂本龍馬状態(爆)なお店もあり。
写真がアイドルブロマイドにように売られておりました。
・・・・・こんなところに龍馬さんの聖地があったとは!驚きでした。

と妙な感動をしていると、長崎グラバー園に着きました。

初日に行ったので、
グラバー&出島と歴史文化博物館入場券+路面電車一日無料券
のお得な「さるくパスポート」を購入。

d0080566_1003556.jpg


旧三菱第2ドッグハウスです。

グラバー園のなかでもっとも高い場所にあって、この洋館の前の庭から
眺める景色は最高です!

d0080566_1024180.jpg


ドッグハウス2階からの眺め。正面の写真はボケボケでしたので(汗)、
こんな写真でスイマセン。

きっともっと夕闇になるか、夜景がみえる時間になったら
もっと素晴らしい眺めになることでしょう。
(夏は夜も開園しているそうです。園内にレストランもありますヨ)

d0080566_1043167.jpg
d0080566_1044381.jpg


庭にはいろんなものが展示されています。

d0080566_1053428.jpg
d0080566_105459.jpg


こんなものまで。
おお!高島さんのだーー!!と興奮(笑)。

いろいろ洋館がありまして、なかなか楽しいです、グラバー園!!

途中、フリーメイソン・ロッジの門というものがあった。
(写真に撮るのを忘れてしまいました)

これですかね??坂本龍馬、フリーメイソン説の証拠????

d0080566_1015146.jpg


さてやっと真打ち登場、グラバー邸です。

・・・・・ここって、最近オペラ「蝶々夫人」のロケで使われておりましたっけ。
蝶々さんのモデルがグラバー夫人らしいというところから、
ここグラバー園にはオペラの作者のプッチーニの石像や、マリアカラスの植樹した
オリーブの木があります。
でも別にグラバー夫人は旦那さまに捨てられておりませんし(爆)、
単にお客さまがきたとき、よく蝶々の柄の着物をきていた・・・・・ことから、
小説「蝶々夫人」の作者がイメージを借りただけのことらしいです。

などということを考えていたら、頭のなかに蝶々夫人の曲が
回り始めてしまいました(汗)。
(プッチーニ、かなり好きです。ストーリーは別として(笑))

頭が蝶々さんのまんま、グラバー邸を後にしました。

d0080566_10255380.jpg


ちょっと山を降りてきて、ちゃんぽん発祥で有名な四海楼へ向かう途中、
ボウリングの発祥の地だったようです。

d0080566_10272762.jpg


四海楼のレストランは5階?(だったかな)にあって、
ここがまた海がみえて素晴らしい眺めでした。

大浦海岸通りを出島方向へぶらぶら歩きました。

d0080566_10322940.jpg
d0080566_1032391.jpg


英国領事館跡です。

どこのガイドにも書かれていないこういう場所に出会うのはけっこう
嬉しいものです。

d0080566_1035886.jpg

d0080566_10352436.jpg


運上所跡も大切ですが、鉄道発祥の地がこんなにひっそりと!!
なんだか、もったいない~~~っっ。

大浦海岸通り、なかなかポイント高かったです♪


ずっーーっとプッチーニの曲が頭で流れ、とうとうヤケになって
鼻歌を歌いながら長崎を歩きました☆


次回は長崎伝習の旅レポ最終回です。


○長崎グラバー園

入場料 600円(「さるくパスポート」などで割引あり)
詳しくは→ここ

*グラバー園に関しては、
どこのガイドブックにも出ております☆
開園時間が季節によって違うので、要注意です。

[PR]
by aroe-happyq | 2007-05-22 10:45 | 長崎伝習所系 | Comments(0)