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アジアンエンタメ&お江戸後期。外国奉行や長崎海軍伝習所がご贔屓☆ BYはな。

<   2007年 06月 ( 32 )   > この月の画像一覧

妻との微妙な関係(笑)についてレポしたからには、
こんな状況で同居している岩瀬家当主の市兵衛さんはどう思っているの?
ということで・・・・。

家事取締向宜敷とハ難申よし、
乍然養父市兵衛儀ハ、物ニ頓着無之氣質故一向不相構、
都テ肥後守ニ任せ置、父子之中合ハ宜敷、
乗馬ニテ同行致し候を見請候もの有之、


物に頓着しない養父の市兵衛はまったくそんな状況もお構いなしで、
家のなかのことはぜーんぶ婿さんの忠震に任せっぱなしだという。
こうした市兵衛&忠震の義理の父子はとてもなかよしで、
登城するときも轡を並べて、一緒に出勤することもあったらしい。

できた養父というよりは「頓着しない」人の市兵衛さん。
当時先手弓頭だった市兵衛(岩瀬家当主)は、部屋住みの婿よりも、
仕事の地位は上ではないという、徳川時代的に世にも稀な逆転現象が
おきているのだけど(これも幕末ゆえか?)、そういう事も気にしないらしい。
こういうあたりは借金ばかりこさえるダメ養父にぶつかった水野忠徳や、
「おれは隠居して遊ぶからあとよろしく」と全責任を放棄する養父の
世話をし続けた川路聖謨に比べたら、のんびりしていても
仕事はちゃんとやってくれる(つまりお給料を稼いでくれる)市兵衛さんの
養子になった忠震はラッキーだったかもしれない(笑)。


さていよいよ金銭スキャンダル????登場か。


勝手向之儀ハ、素々不如意之上、
肥後守度々遠國御用相勤彌不如意相成、當時別差支、
學問所ニ罷在候比不計手ニ入候明人之晝巻金百両程ニテ
本所邊之町人伊勢屋某ニ賣拂、
右を以當春中抱屋敷買入候得共、
未手入も不行届其儘ニ致し置候なとと自身致物語候よし之処、


養父もそれほど高官ではないため、岩瀬家はあまりお金がない(笑)。
忠震が京都や長崎などの遠国出張が続いて(けっこう自腹なんです、当時の出張)
さらに金銭に困ったようだ(と報告)。
それでも忠震が学問所時代に入手していた明人の書画を本所の伊勢屋に
百両で売って、そのお金でこの春には抱え屋敷を購入した。
まだ手入れもできていないのだ、・・・・とこれはすべて忠震本人が語ったお話だ。

しかし!徒目付の探索の鋭い眼は容赦なく真実を暴くのだ????

實ハ左ニ無之、
・・・・・・と以下続く。

實ハ左ニ無之、
明人之晝巻ハ長崎御用之節手ニ入候歟ニ相聞、
去年夏比鐙・馬柄■・鐵炮三品を松平土佐守に金三百両ニ相譲、
松平右京亮ヘ奇巧之筒百五拾両ニテ賣渡し、
伊達遠江守ヘも奇巧之筒相譲、其外ニも有之候趣、


岩瀬自身が語った話は真っ赤な嘘で(爆)、明の書画は、
長崎に出張に行った際に手に入れたものである。
(別にどっちだっていいじゃん、な指摘だ・・・・・・)
ほかにもある・・・・・・ということで、漢字のなかった馬柄■をはじめ、
同じく長崎で外国使節からもらった馬具?とか、奇巧之筒を
西洋大好き大名の山内容堂や宇和島の伊達さんなどに売却したのだ、とのこと。

むむ~~残念ですが、これも不正には当たりません。
出張費が全額支給ではないので、旅の途中でもらう贈り物は
賄賂にあらず。これで経費をやりくりするので、暗黙の了解事項です。
とくに岩瀬さんの場合は、目付だったので格別にさまざまなお土産が
贈られたはず。でももらってもいらないものは誰かに売り払う・・・・・・。
そして奇巧之筒でもほしい人はいるわけで・・・。
これは現代のヤフオクとかわりましぇん(笑)。

いまいち不正の証拠までたどり着けない徒目付レポなのだ!
(職責をまっとうできていない永坂為蔵たちが妙に気の毒になってきた)

そしてまたまたこんなレポを夜中に(←あくまでイメージ)
読み続けさせられている井伊一派(別名:忠震におちょくられた連)としては、
本当にいたたまれないぞ・・・・・。


そしてもう少しで「忠震さんの別荘はどうやって購入したか!衝撃レポ編 BY徒目付」
のコーナーの終わりなのですが、力尽きたのでこのへんでまた次回!!!
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by aroe-happyq | 2007-06-30 10:18 | 外国奉行ズ | Comments(0)
前回の「・・・・養子に罷越」の続きを。

忰修理ハ十四五才ニ相成、
女子三人有之、内壹人者一色山城守忰に縁付、
御蔵奉行篠山金次郎ハ兄之よし、堀織部正ハ従弟之續、
別ノ親戚、林大學頭、御船手頭庄田金之助も續合有之、
小普請奉行浅野備前守ハ續合如何候歟至ノ懇意相交り候よし、


新城市設楽原歴史資料館発行の図録『開国の星 岩瀬忠震』の家系図によると、
全部で、男3人(二人は夭折)、女6人(か7人?)の子がいる。
修理はのちの忠斌のこと。数年後、16歳の若さで没する。

篠山金次郎とは設楽貞丈次男で忠震からすると、養子にいった兄のこと。
堀織部正は母親同士が姉妹という間柄のいとこ同士。
そのほかの親戚には庄田金之助、そして忠震母の弟に、林(復斎)大学頭がいる。

ここでは友人として浅野備前守長祚が上がっている。この人は浅野梅堂として文人と
しても有名。長い間京都町奉行を勤めたが、条約の勅許をもらいに老中堀田や岩瀬が
上洛した際に、勅許を得ようとする堀田たちのサポートに務めた結果、「一橋派」として
井伊派に睨まれ、この時は小普請奉行に飛ばされ中・・・・・・。

続いて探索書は、岩瀬の不正を探すため(笑)、養父岩瀬市兵衛の弟の不行状を
書き連ねているが(金にこまってコソ泥したとかそういう話)、そこは割愛。

ここらでパンチある一言を入れたかったのか?唐突に、

當時嫌疑有之、

嫌疑があるということで~~~、と
こんな感じで岩瀬忠震のプライベート報告が始まるのですが。

何事も質素之體ニ致し候得共、持前之才気故、
卻頓着無之體を見聞可為致反覆之計策も相加り候歟、
更ニ書見等ハ不致、囲碁ならびに謡等相樂ミ罷在候由、

(途中、読みやすくひらがなにした箇所ありマス)

行状についてはいちおうおとなしくしている様子・・・・・・・・。

当時の趣味は、囲碁ならびに謡だったらしい(爆)。

でも「持前の才気ゆえ、かえって頓着これ無き体を見聞致さるべく」と、
なかなか岩瀬氏の特徴を突いている???かもしれません。

妻ハ家之娘ニ候処、病死後寄合津田龜菊方より致再縁候処、
靈嚴嶋白金町荒物屋之娘腰元奉公ニ参り居候ニ手を附、
四年已前より妾ニ致し、當年二十一才ニテ出生位壹人有之、
此婦人を寵愛致し候より平生居合不宜、近邊とハ乍申、
妻儀夜中缺出し里方ニ参候儀兩三度有之、引戻し候後右を宥め候為ニハ
出入り船宿より家内一同船ニて向嶋邊遊山ニ遣し候儀も有之候段ハ
右船宿肥後守中番足輕等参雑話之趣慥ニ相聞


かた~い漢字が並んでおりますが、内容は三面記事です(爆)。
最後の文章にあるように、徒目付さんは岩瀬家懇意の船宿で聞き込みを実施して
「これは事実です」ということで記されたようなのですが・・・・・。

岩瀬家の娘さん(忠震さんは婿養子)が最初の奥様でしたが、
多くの子を生してその後病死しました。幼い子をたくさん抱えて忠震さん不憫だと
ご近所が思ったのか?後妻さんがやってきた。岩瀬家から二軒となりの
津田家の当主龜菊の伯母さんだ。当主の伯母さんということは、
さほど若い後妻ではない???
そのためか、岩瀬さんは武家奉公にきていた若い腰元をお妾にしちゃった(笑)。
それもただ手をつけちゃったのではなく、惚れていたらしい。
白野仁著『白野夏雲』で長崎の主張先から岩瀬がおせんという女にせっせと
手紙を書いた・・・・と出てくるが、このおせんが荒物屋さんちの娘さんだとすると
マジ惚れっぽいです・・・・(爆笑)。
・・・・・いろいろな記録に「自分に正直」「開放的」なことが書かれている岩瀬さんなので、
(ついでにいうとけっこうなハンサムだったそうです(笑))
好きなものは好き、ということで、お妾さんへの愛を今の奥様の前で
隠せなかったと思われます。仲良しっぷりを見せ付けられて、
悔しい~~~ッと切れた後妻さんが夜中、二軒となりの実家へ駆け出し帰ったことも
2,3回あったよし。・・・・・発作的に「実家に帰らせていただきます」と飛び出すには
二軒ぐらい先なら、おあつらえ向きというとこでしょうか(爆)。
ここで面白いのは、なんとか実家から連れ帰って(って、忠震さんが行ったんですかね?)
「そうだ、旅でもいこうっか!」と張り切って??子供もみーんなで
船で向島遊山なんていう、家族サービスをやってしまう岩瀬という人です!
(幕末の三俊の一俊ですが、こういうあたりすんごくかわいい人だと思います☆)

・・・・・・・・・・・・・って、これ探索書に書く内容っすか??徒目付さん???
これをですね、「さーてどんなふうに断罪材料が上がってきたかな♪」と
わくわくして読んだ井伊さんの「なんだよこれ~~」という落胆が目に見えるようです。

井伊さんはこんな岩瀬家の痴情のもつれを知りたくて、調査させているのではないのだ!(笑)


・・・・この続きはまた次回!
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by aroe-happyq | 2007-06-29 14:49 | 外国奉行ズ | Comments(0)
実は気がつくのが遅かったのですが、おとといあたりから
月別タグ表示が全部表示されない仕様にされておりました。

いろいろすったもんだの結果、現在は元に戻ったようなのですが、
昨日自分がPCをいじっている時間には不便なままでしたので、
こうもよくわからない事をされると、さすがに不便だけでは済まされない、
いっそ別のブログへ引っ越そうかとマジで考えておりました。
ま、無料開設なのであまり文句はいえませんが☆ははは。

なにせ突然思いつきではじめたブログなので、
よく選ばないで、シンプルだから♪とこちらで開設したら、
あとで調べたら引越しがたいへんみたいで・・・・・・・。
ちょっとそこまで考えなかったなぁ(汗)と反省の日々(爆)。
引越しはできるにはできるのですが、画像は引っ越せないというので、
過去ログとして、こちらを残すにしても、
せっかく観に来てくだすった皆さんにあっちだのこっちだの手間を
おかけするのも心苦しいっっ・・・・・・・ということでちょっと打開策を模索中デス。

もうじきまた画像をがんがん掲載する企画もあるし・・・・・(笑)。
早いところ引っ越すべきなのか、このまま様子をみるべきか・・・・・。
(基本的にはやっと機能に慣れたので引っ越したいとは思ってないっす・・・・・)
珍しくプチハムレット状態です。


エキサイトブログが安定さえしてくれれば、それでいいのですけどねっっ~っっ。
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by aroe-happyq | 2007-06-28 09:56 | お知らせ | Comments(0)
前日のブログの予告?のとおり、岩瀬さん特集第一弾です(笑)。

職務中のかっこいい姿は後日に譲るとして、
この第一弾では、岩瀬さんのプライベートな情報を、
井伊家史料幕末風聞探索書からみてみようという企画です。

以前にもこの井伊家史料については、ここなどで取り上げたことがありますので、説明は割愛させていただきます。

今回の史料は、以下のとおりです☆

『井伊家史料幕末風聞探索書』(中) 安政6年編の、
 357 江戸風聞  御作事奉行 岩瀬肥後守

(『井伊家史料』20巻 151 徒目付届書 にも同様の史料あり)


作成者・・・・・つまりスパイして情報を集めた人の名前は書かれていませんが、

京都町奉行所組与力 加納繁三郎
徒目付          永坂為蔵
小吏           松永半六

の三名が関わっているとの事です。
なぜ京都町奉行所かというと、井伊大老の腹心の長野主膳が京都に人脈を持ち、
配下に組み入れていたためです。この人はよいとして、
永坂為蔵はこの後に大手門の番屋の厠で、また松永半六は桜田門外上杉家の辻番所の
厠のなかで自殺している。いずれも桜田門の変直後らしい。
この三人、井伊大老にたいそう寵愛されていたそうで、主人を守れなかった責任を
感じたのだろうか?
(以上は『江戸』巻2 鳥の跡 P425  岩瀬鷗所書翰 より)

なかでも徒目付の永坂為蔵は死んだとき55歳で、徒目付でも古参の、いわばプロ中の
プロだったよし。そのプロが「岩瀬の不正をさぐれ」と御主人に命じられたとあっては、
それはそれは腕によりをかけて、探索に当たったことと思われる。

探索書というのは、ウソはかけないものらしい。
どんなに不正がなくても、あったという情報を捏造してはいけないのだ。
そんなことから、この岩瀬の調査報告書というものも永坂ほか二名の職人技(爆)を
信頼して、その内容もほぼ事実だと思っていい出来だと思います。

岩瀬ファンとしては、追い落とそうという報告書を頼りにしないとその人の情報が
得られないのか、とちょっと複雑な気持ちだけど、他に史料がないので、
仕方がないのですっっ。


というわけで、はじめます~~~。


・・・・・・・・冒頭部分は一橋派が誰と誰で・・・・・というお話なので、
それは前にも触れましたので、割愛させていただきます。

肥後守儀は、設楽弾正方より岩瀬家に聟(婿)養子に罷り越、

岩瀬忠震は設楽貞丈の三男で幼名を篤三郎(忠三郎)といった。(弾正というのは兄弟です)
字は善鳴。号は蟾州、後に鷗所。
忠震の父・貞丈は小普請の役職でしたが、どちらかというと博物学者として有名な人。
母親は昌平坂学問所を立て直した林述斎の娘で、こちらは女流歌人として大名の間で
有名だったそうな。アカデミックな家庭に育った忠震ははやくからその俊才ぶりを発揮して
いたらしいです。以下、大まかな経歴(目付になるまで)です。

天保11年(1840)23歳のとき、書院番士の岩瀬市兵衛の娘の婿養子に。
            以来、岩瀬邸のある築地中通りに住みます。
26歳のとき、学問吟味(官吏登用試験)で乙科及第(このとき、堀織部も乙科及第)。
嘉永2年(1849)32歳のとき、西の丸小性(←江戸時代表記)組番士になる。
            岩瀬修理と名乗る。甲府徽典館頭を拝命。
            翌年正月から甲府へ一年赴任。
嘉永4年(1851) 公儀より文学及び砲術教授の労を賞される。
            昌平坂学問所教授方出役。(注→こちら
嘉永6年(1853) 徒頭に任ぜられた。
            この年度の学問吟味取調方(試験官?)をやった。
嘉永7年(1854) 御目付海防掛となる。

                 (一部、飯田虎男『岩瀬忠震の年譜的研究』を参考にしました)

登用試験に受かったものの、この時代の慣例ですが数年間放置され(爆)、
番士になったとたん、学問所の甲府支店に赴任。その後も学問所の臨時教授だったりして、
お城でのお仕事をほとんどしておりません~~~~(笑)。
徒頭(永井尚志の後任です)になっても試験官やっていたり・・・。
学問所に片足つっこんだままでいきなり、目付海防掛っす。びっくり人事です。
ただ「砲術教授(和鉄砲ですけど)」をやっていたというのはちょっと注目???
(小性組番士は砲術訓練をよくやっておりますから、まがいなりにも番士なので、
扱えないとは言わせないぞではありますが。堀織部なんて小性組番士をずっとやって
いたためか、鉄砲撃ちすぎて片耳がよく聞こえない、とプロシア人に語るほどです)


・・・・・ここで、力尽きましたので、続きは次回!
  (一行しか引用してない~~(汗))
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by aroe-happyq | 2007-06-27 19:11 | 外国奉行ズ | Comments(2)

そろそろ岩瀬の特集を

せっかく不具合がおさまりつつあったのに、
なんでもエキサイトは不具合の発端の「つぶろぐ」機能を再開するとか。
・・・・・・・・フツーのブログじゃダメなのでしょうか・・・・。
このまま余計な機能なんていらないのに~~~~~。

・・・・・とぼやきはここまでにして。

ずーーーーっと前に「やる!」と言っていた岩瀬さんをもっと
知ってもらおうキャンペーンですが、
「幕末外国関係文書」でまだ岩瀬が大活躍するトコまで
いたっておらず・・・・・・・なかなか「こんなにさすがの男さ!」
と披露できない状態でして、非常に自分的にもやもやしております(笑)。

今は安政2年春のあたりを読んでいるのですが、
岩瀬氏は下田で川路&水野と一緒にどんどんやってくる西洋の国と
交渉をしているはずなのですが、川路・水野の勘定奉行系が強いのか、
目付系の岩瀬氏、いまいち実力を発揮できておりません。
アメリカ人&ロシア人などとの対話記録でも川路主導で進んでいて、
まだまだ新人扱い?かもしれません。

実はこの目付VS勘定方の対立はすさまじく・・・・・・。
さらに川路聖謨さんは下田奉行の伊澤美作守と個人的に
仲が悪く、江戸からの重要種類を伊澤にわざとみせないという
ような子供のようなイジワルまでしております(笑)。
岩瀬さんは伊澤さんと気が合うようなので、ちょっとマズイです。

もっとも岩瀬さんは下田関係以外で、
たとえば洋学所の立ち上げなどに関わって活躍はしております。
この洋学所(のちの蕃書調所、開成所)の開設頭取は、
勝麟太郎が抜擢されておりました。
その抜擢も、大久保忠寛(一翁)&岩瀬コンビの賜物です☆
しかし、洋学所はじきに昌平坂学問所の開国派儒者の古賀謹堂の
主導に切り替わるので、その弟子&洋学大好き学生がどっと
学問所から洋学所へなだれこみました。
昌平坂学問所とはソリの合わない勝さんは新天地を求めて、
長崎海軍伝習所へと活路を求めて旅立つのでした。
・・・そして、優秀で先見性のある稽古人がどっと去った昌平坂学問所は
ほどなく尊皇攘夷を愛する、のちの天誅派の稽古人の巣窟と
化していくのであります・・・・・・(汗)。

・・・・岩瀬さんに話を戻すと、人材登用はどんどん始めておりますが、
まだ「開国へのエンジン」はかかわっていないようで、
おかげで特集ができましぇん~~~~。
(ピンチヒッターで堀織部が活躍中ですが(爆))

こうなったら・・・・・やっぱり、
井伊家スパイ報告の重箱のスミでも先につつこうかな(笑)、
なんて思ったりしております。
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by aroe-happyq | 2007-06-26 10:58 | 幕臣系(目付とか) | Comments(2)

憑神 映画バージョン

原作を読んでしまった手前、また妻夫木さんの時代劇を待っていた手前、
早々に観てきちゃいました☆ 

近くのシネコンで、平日の夕方に割引がございまして(爆)。
ふいに「そうだ、観にいこ」とネットでチケをゲット!
(・・・・・公開3日目で・・・・・空いてますた。はは・・・ははは)

(ストーリーのネタバレはありませんが、感想がバリバリ書いているので、
これから観ようという方は先入観防止のため、ここから先は保留をおススメします)





前々から妻夫木という俳優さんは、和装が似合うんですよ、マジで!
と言っても誰も信じてくれませんでした(笑)。
でもほら、似合うんですよ!!!・・・・・・というのがまず第一!

最後の最後で、斬られ職人の福本さんの雄姿がみられてよかった!が第二!

そして、江戸最末期の町の様子を精一杯再現しようと頑張りました!が第三!
(掘割のあたり、とても素敵でした)


以上です!


・・・・・・というのは冗談として(笑)、
原作をよくまとめてあって、たいへん観やすい作品となっておりました。
降旗監督ということで、原作のコメディ調の発展を望むよりは、
人情モノとして、より原作のテーマを見せてくれるはずさ~~♪と
思っていたら、ん!そのとおりでした(笑)。
なのでコメディとして「さーて笑うぞ」と思って行くと微妙かも。
(西田さんの快演だけは別物っす♪かなり好い感じでした!!)

ただ・・・・CGがなんだか微妙に古めかしいのはなぜだろう。
そして、どうしても江口さんが勝海舟にみえないのがなんでだろう・・・・。
(「おまんら、みんなバカじゃきー」って今にもいいそうよ、いいそうよ、みたいな)
そして、釜さん。ファンの贔屓眼なんで、正常な判定ができませんけど(笑)、
ぜんぜん演じられている俳優さんは悪くはなかったのですが、
仮にも彦四郎の「憑神」の発端の男でございます、
いわばストーリーの陰のキーパーソンでもあるわけです。
も・・・・もう少し・・・・ギャラをはずんで・・・その・・・・みんなも知っている・・・・・
キャストでも・・・・・よ・・・・・よかったんじゃ・・・・・・は・・・・はは・・・はははは。

といろいろ好き放題いいましたが、
幕末の映画ってだけで、ホントはすっごく嬉しいです♪

しかも歴史の舞台から置き去りにされた慶応3年の江戸というのが、
なんだかせつなくて、ちょっと立花サンを思い出したりしました(笑)。
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by aroe-happyq | 2007-06-25 20:03 | 広く幕末ネタ | Comments(0)
日曜なので、思い切り脱力するようなネタをおひとつ。

幕末とは関係のない江戸中~後期のことを調べていて、
その時代の武士の風俗を知るのにもってこい、ということで、
森山孝盛のエッセイ「賤のをだ巻」(『日本随筆大成 第三期4巻』)を読みました。

そこには、天保よりずっと前の、延享年間の泰平に酔いしれて
優雅に暮らす江戸城のもののふのどうしようもない堕落ライフが
記録されていました(笑)。

煙管のデザインに凝り、髪型やファッション全般についても贅沢な流行ぶり。
幕末の大名よりも豪華な生活をしている旗本の世界・・・・・。

そこに森山の同役の被った悲喜劇の記録があります。

当時の旗本は相当に舌がこえていて、グルメなサムライがわんさかおりました。
そんな彼らが、味としても、またステイタスとしても認めていたお菓子が、
日本でもっとも高価な菓子屋、鈴木越後のお菓子でした。

この時代、旗本は同役を集めて「寄合」という宴を成功させなくては
生きていけなかった(笑)。
失敗すれば後々まで語り草にされ、昇進にも響く。だけど失敗を恐れて、
開催しないわけにはゆかなかった。
「寄合」とはたとえば新入りが同役を招いて、ご馳走を饗し、飲んで騒いで、
そして最後にお菓子を出して終わる、というのがだいたいのコースメニュー。
これだけみると、たいしたことがなさそうだが、料理もそれなりの料亭のものを
出さなくてはまずいし、そして、菓子は鈴木越後が定番であった。
どちらもべらぼうに金がかかる。鈴木越後は10~20名ほどに出したとして、
数十両もしてしまう! 
森山曰く、23人の寄合で45両かかり、そしてその半分が菓子代だったという。
ありえない金銭感覚だ・・・・・・。

で、森山の同役で、小普請与頭になった永井求馬(もとめ)という男がいた。
新しくこの役職についた求馬は「初寄合」を開催することになった。
だが、金銭的にどうしても定番フルコース(有名料亭+鈴木越後の菓子)
は饗することが難しいので、小普請与頭師匠番の船田に相談した。
(こういう新人の場合、師匠番という先輩の能力で明暗がわかれるらしい)
船田は「どうせわかりゃしないのだ、似た味の金沢丹後でよろし」という。
金沢丹後は御城御用もつとめる銘菓だが、鈴木越後より安価だった。
永井求馬は師匠番の意見に従い、こっそり金沢丹後の菓子を出すことに決めて、
初寄合を催した。・・・・内心ヒヤヒヤしながら(笑)。
同役たちは料理に満足し、大成功のうちにその日は過ぎた。

別の寄合のとき、永井の寄合のことが話題になった。
すると誰かが「そういえば、永井の出した菓子、あれは鈴木越後ではないと思う」
と言い出すと「おれもそう思った!」と他のものもいい、
「はっきりさせよう」ということになって、永井と船田が呼び出された。
23人の同役の前に引き据えられ(笑)、詰め寄られると船田が、
「鈴木越後は高価なので、長年の付き合いのある金沢丹後であつらえた」と白状した。
すると「ああ、やっぱり。金沢丹後のようかんはキメが粗い。鈴木越後とは
違うからなぁ」と皆、すっきりした様子。
永井と船田はあらためて同役に手をついて謝罪したのであった。

端からみていた森山は、身分ある役人が菓子如きで土下座なんて・・・・と
嘆息している。

てゆーか、ようかんのキメの細かさの違いまでわかる旗本って・・・・・・、
どれだけグルメだよ!(爆笑)。

かわいそうな求馬。
ご馳走してやって、なんで謝っているのだ~~(涙)。
泰平の世っていいんだが、悪いんだか、です。

・・・・・・そして、もう皆さまのなかにはお気づきの方もおられるかと
思いますが、この悲劇の主人公、永井求馬は、のちの永井能登守尚徳さん。
そうです、永井尚志の御舅さんです!(笑)

・・・・・・・と書きましたが、

*追記

かなり大幅な訂正です☆
ブログにUPしてからちょっと調べなおしましたところ、

永井求馬は、のちの永井能登守尚徳さんではなく、
その尚徳さんの祖父世代にあたる人でした!!!(大汗)


永井求馬(もとめ)さんというは複数いて、しかも同じ仕事についていたので
ん~~~こっちの求馬だろ、と昨日チョイスしたのが尚徳さん。
でもなんかひっかかっていたので、再調査したら・・・・。

ふーーーっっ。誤報し続けるところでした!
この場をお借りして手をついてあやまりまする~~~~。
(求馬さんみたい♪←って喜んでいる場合かーーっっ)

実は、なんかホッとしたような。
だって尚徳パパのひそかなファンなんですもの~~~。
土下座なんてかわいそうで・・・・書いていて辛かったのだ(笑)。
尚徳パパについては「先手組である」「笙をたしなみ、雅楽サークルに入っている」
「鼻がガイジンのように大きい」という個人情報とともに、
胸を打ったのは、永蟄居となった婿の尚志のために、自分の屋敷を
譲って、自分は隣の本家の居候になったという「藤岡屋日記」の記録です。
前にもブログに書きましたが、尚志が養子を解除してほしいといったところ、
実家に戻るにしても両親も兄弟もいない尚志が困るだろうと、
尚徳パパは養子のままにして、こういう行動に出た。
血の繋がらない親子なのに、婿は舅の名誉を考えて身を引こうとし、
お舅さんは婿のくらしを心配する・・・。
なんて思いやり深い二人なんだ~~と
じーんとしたものでした。
身から出たさびの婿のほうはいいとして(笑)、
これを読んで以来、仏のような尚徳さんのファンなのです。


江戸時代のなかでもっとも泰平だった中~後期。
美味しいものを食べ、おしゃれをして、花をいけて(男がですよ!サムライがです)、
・・・・・・でもお城勤めの旗本のあいだには陰湿ないじめが横行し、
自殺や私闘(いじめに逆ギレして相手を討つパターン)も多かったそうな。

一方、銭はなし、職もままならない、清貧な暮らしをしていて、
自分の屋敷で育てた野菜を近所でおすそわけし合う。
贅沢といえば、たまーにリーズナブルな料亭に仲間と食べに行く。
黒船来航や地震もあって、いじめあっている暇もなく、能力があれば出世はするが、
過労死の危機もある・・・・・・・の幕末。

生まれ変わるなら、どっちの時代がいい?
というのはあまりにも、究極の選択でしょうか?(笑)
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by aroe-happyq | 2007-06-24 19:00 | 広く幕末ネタ | Comments(0)

くどいようですが、あらためて、お知らせ。


放映は今夜です☆



6月25日 深夜2:35~4:25
テレビ朝日   
Gコードは65420944


予約録画もバッチリ!セットしました♪
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by aroe-happyq | 2007-06-24 09:31 | 水曜どうでしょう | Comments(0)
なんとなく断続的に、最近織部さんを取り上げてますが(笑)、
今日もスクープ???をお伝えします。

というのも、本当に偶然、堀織部傳をみつけてしまったのです。
・・・・・今まで木村芥舟さんの幕府名士小傳、幕末三俊の岩瀬のコーナーに
ほんの少し・・・・だけ堀さんの事が書かれているのをみつけましたが、
「この元ネタってどこから来たのか?」がわからなくて、しかもあまり有名では
ないのでその事がいろいろな本でも話題にもされず(爆笑)、
確かにワタシもそれほど探求してきたわけでもないのですが、
まるで堀さん側から「これをみろ!」(なぜか織部さんは「!」が多い?)
と教えてくれたかのように、それは現われました。
(国会図書館でコピー2Pを、40分待ちのあいだに参考室で出会いました(爆笑))

『事実文編』4 (ゆまに書房) に掲載。

「爽烈院堀君墓表」林晃

「堀織部傳」川口翯



『幕末五人の外国奉行』に284Pに「爽烈院堀君墓表」から引用・・・・みたいなことが
書かれていたのですが、それはどこに・・・がわからなかったので、
やったーー!あったーーーーー!!というわけです。

しかしあらためてみてみると、岩瀬さんの諡号は「爽快」で、同じ爽という字を使うのに
「爽烈」ってすごく激しそう・・・・と思うのはワタシだけでしょうか?
(この二つの諡号、ともに林晃さんがつけたそうです。一説には岩瀬の諡号を永井さんが
つけたという話もありまして、ワタシもそう思っていたのですが、よく考えると、
その当時永井はまだ永蟄居中だったので・・・残念ながら不可能かと)

というわけで、ここでは以前紹介したプロフィールの訂正と加筆を
したいと思います(おもにどうでもいい部分で)。


堀さんの名は利煕、字は公績、号は有梅。通称は省三郎。
文政元年6月19日生まれ(岩瀬忠震とは同年生まれのいとこ)。
4男坊の彼は若い頃、ちょっと放蕩三昧をしていたようですが、
3人の兄が亡くなり跡取りとなった頃には昌平坂学問所で学問に励み、
25歳で学問吟味乙科合格。小性組番士として勤務。のち徒頭をへて、
目付となり、蝦夷地・樺太検分をおこなう。のち箱館奉行兼外国奉行。

武芸は、射騎剣槍、すべて「達せずなし」。
詩文をよくし、管弦を弄ぶ。
(『江戸』の「箱館鎮台史料」には箱館で横笛にて王昭君、青楊柳などの曲を
披露した、という記録があります。風流人でもあります)

あこがれの人は諸葛亮孔明、陶淵明。
(一方、任侠肌でもあり、箱館では柳川熊吉と懇意にしていたらしいとの話も)

彼を表現する言葉・・・・・「剛爽雄烈」「英毅果断」

奥方は鳥居家の人(鳥居耀蔵とは親戚っす)。七男五女の父。
長男は利孟(孟太郎)、次男信次郎(夭折)、三男仲次郎(夭折)、四男叔三郎(夭折)、
五男季四郎、六男は並五、七男は並六。
長女は設楽貞晋に、次女は松平清盁に嫁ぐ。一女は夭折、
あとの二人はまだ嫁いでいない(文久当時のことです)。

※「仲次郎」追加しました(2008年8月 記)

任官についてはいろいろな本に書かれているとおりなので、割愛します。
ただ、何かの本でも読んだことがあるのですが、
「堀織部傳」によりますと、蝦夷地のある村で疱瘡が流行の兆しをみせたとき
織部が牛痘種法を伝えて、流行を抑えた、ということが書かれております。
(熱心な箱館奉行だったことは上申書の数々をみてもよくわかりますが、
こういうエピソードもまたかっこいいぞ!という感じです)
前に読んだけど、こうしてネタ元がわかると嬉しいものです。

以上、・・・・・まとめるとこんなところでしょうか。
(興味のある方はぜひ美しい漢文調の原文をお読みください☆)


それにしても五男の並五、六男、並六って、これは?(笑)。
(なにか特別な意味とか、略語とかそういうのなのか????)
それとも、もう名前つけるの面倒だった??

岩瀬さんとこの三男六女にまさる子沢山でびっくりしますた。
(もっとも男子はどちらの家も夭折してしまうことが多いけど)

今回完全版と銘打ちましたが、またなにかわかりましたら、
完璧版として披露したいと思います(笑)。
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by aroe-happyq | 2007-06-22 10:54 | 外国奉行ズ | Comments(8)
最近おサボり気味の旧暦シリーズです。

正確には、昨日が旧暦でいう5月11日。
本日は二日目とあいなります。

昨日といえば土方さんが戦死した日でもありますが、
それは多くの方が追悼されたと思いますので、マイナー一本道の当ブログでは、
官軍(ここではおもに津軽&松前両藩兵)による、箱館病院分院の高龍寺でおきた
虐殺といってよい惨劇で命を失った病院の無抵抗だった患者さん達を
深く心より追悼いたしたく思います。

そして二日目は甲鉄艦による五稜郭への艦砲射撃が始まっておりまして・・・・。
ちょうど堀織部正と五稜郭のはじまりの話を紹介したばかりなので、
もうぶっ壊されたか!と、ちょっとがっくしです。

しかも甲鉄に、というのがまた・・・・・。
(この軍艦というと、友五郎さんの努力を思い出すと共に、そしてなぜか一万円札の顔を指で
デコピンタしたくなるような?(笑)←軽く八つ当たりです)

嘉永7年の史料を読んでいるので、五稜郭だけでなく、
幕末とされる時代のはじまりだらけの世界に浸っていると、
(しかも割と順調なので(笑))
五稜郭で戦うですって? 誰と誰が!?・・・・・とまるで信じられない不思議な感覚です(笑)。
嘉永7年から、明治2年。
わずか15年後のお話なのに、こんなにもあっけなく世の中は変わっていく。
その時生きている人のほとんどがわからないぐらいの、ほんの些細なボタンの掛け違いが
どんどん積もるとこうなるのですよね。
現代に生きていても肝に銘じなくてはならない教訓です。

そういう視点から今年は箱館戦争について考えてしまう感じです。
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by aroe-happyq | 2007-06-21 10:48 | 旧暦シリーズ | Comments(2)

アジアンエンタメ&お江戸後期。外国奉行や長崎海軍伝習所がご贔屓☆ BYはな。


by aroe-happyq