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アジアンエンタメ&お江戸後期。外国奉行や長崎海軍伝習所がご贔屓☆ BYはな。

<   2008年 04月 ( 24 )   > この月の画像一覧

すでに慶喜たちも城から脱出し、浅野美作守も大阪城を離れます。
彼の場合、リストでは「随意」だったので残るか江戸へ帰るかを選べる立場でしたが、
迷うことなく江戸へ帰ることを選びました(笑)。
そして「供 平山図書頭」とあった同僚の平山の宿舎を訪ねます。
平山図書頭敬忠という人は、かつて平山謙二郎といって、
学問所時代から永井や岩瀬と知り合いで、その後は徒目付として活躍。
ペリーとの交渉に始まり、幕末外交の生き証人のような人です。
岩瀬忠震とはつねに同心であったため、安政の大獄時期には書物奉行に左遷、
甲府に飛ばされるなど苦労も重ねました(汗)。
明治後は官職に就かず、平山省斎として、さまざまな著書を残しました。

さらに今話題のあの人物が登場です。

余は去留随意との命もあれば、御供して東帰せんと欲し、平山図書の旅宿に至り、
同船にて天保山へ行かんとことを促し、同家にて午餐を喫し居たるが、
榎本和泉もまた来合わせたり。是より先き同氏は開陽艦にて薩摩の軍船を追い駈け、
淡路沖においてその二隻を打ち沈め、余勇を帯びて城中に来たり、
大に為すあらんを欲せしに、何ぞ計らん、君上にはすでに御退城の後ならんとは。
其の事意外なるより、雄志も遂に空しくなり、遺憾に堪えられずとて、
腕をさすりて嘆息したれど、事及ばねば、そのまま富士艦へ帰りたり。


榎本和泉守武揚(このとき軍艦頭並)です。祝・没後100周年!
永井・岩瀬・堀の開明派&初期外国奉行ラインに目をかけられていた釜さんは
もちろん平山図書とも懇意です。伝記本などの、
大阪城における御用金運搬などの活躍ぶりとはうってかわって、
雄志も遂に空しくなり、遺憾に堪えられずとて、
腕をさすりて嘆息したれど
」という珍しくブルーな釜次郎氏の姿は貴重!?

先に進みましょう。

余は平山と共に天保山へは行きたれど、この日も又風波殊にあらく、
和船にては開陽の御座船まで行くことを得ずというにぞ、やむを得ざれば、
余は一旦紀州へ退くことに決心したり、平山は如何せしにや、此処にて見失いたり。


開陽に乗船できずガッカリの様子ですが、乗らなくて正解でした。
このあと江戸までろくに飯も食えない飢餓の旅になるのですから・・・。
それより平山はどこへ!?(爆)
アーネストサトウの『遠い崖』に「平山老人は天保山の堡塁に来ていたが、
この老人は自分のからだを隠すことばかりに汲々としていた

・・・老人て年齢でもありませんが(怒)、とにかく平山さんはこのように
砦にはいたようです(その後、手段は不明ですが江戸へ戻りました)

さて紀州へ下りてみれば、端なくも富士山艦は同所加太浦へ寄せ来れり、
榎本の招きもあれば、これに同乗して横浜へ入港したり。
直ちに上陸して神奈川奉行に打ち合わせ、多くの船舶を雇い上げ、
紀州に残れる兵隊負傷者など呼迎うべき手筈をなし、やがて江戸へ帰りたり。


浅野氏の大阪出張物語はここで終わりますが、
彼は加太浦で起きた悲喜劇をも語ってくれております。このまま続けます。

加太浦にて乗船の時、塚原但馬守も同乗を頼みしが、
艦中の新徴組(※もちろん新選組のまつがいです)・会・桑等の負傷者、
塚原の名前を聞きて、敗軍の大将なんの面目ありて乗船するやと口々に罵りければ、
再び紀州へ戻り行きたり。


塚原但馬守は鳥羽伏見の戦いの責任者でした。
いろいろあったんですね、本当にいろいろ。
まだ最後にひとつ、捨て置けない出来事がありました。

小野内膳正も榎本に用談ありて来りしが、
艦長柴誠一等に奸物奸物と罵倒せられ、是も端舟に乗りて何地へか避けたり。


勘定奉行並小野内膳正広胖とはあの小野友五郎さんであります。
慶応3年前半はアメリカへ出張し、秋10月から勘定奉行並に。
上司の小栗上野介とたいへん馬の合っていた「フランス派」でもありました。
そんなあたりが禍してなのか。
それとも海軍内の、小野VS勝海舟対立ゆえなのか。
いきさつはまったくわかりませんが、
徳川海軍畑まっしぐらの柴船将に「奸物」呼ばわりを
されてしまいました。
みんな同じく長崎海軍伝習所で研鑽に励んだ仲間だったというのに、
さみしいです。
しかも小野は大阪で榎本和泉守と一緒に十八万両の運搬の大活躍をしてきた
ばかりだというのに・・・。

さまざまな人間ドラマが凝縮されていた浅野談話ですが、
これにて紹介終了です。

三回にわたって紹介してきました史料は、下記のとおりです。

767 明治元年正月初旬大阪開城前後の情況に関する
浅野氏祐の談話
(『徳川慶喜公伝 史料編』3巻 287P~)

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by aroe-happyq | 2008-04-30 10:32 | 江戸城の大旦那 | Comments(0)
「供 永井主水正」とあるように慶喜と帰る予定だった永井玄蕃頭。
浅野氏祐の談話はなお続く。
今回も紹介の史料は以下のとおり☆

767 明治元年正月初旬大阪開城前後の情況に関する
浅野氏祐の談話
(『徳川慶喜公伝 史料編』3巻 287P~)


供 酒井雅楽頭      供 板倉伊賀守
残 松平豊前守      供 永井主水正
随意 浅野美作守     供 平山図書頭
残 竹中丹後守      残 塚原但馬守
御供の面々ははやいずれも退出したり。同僚中にても永井氏は恭順論の首魁にて、
深く御東帰を賛し奉りしは勿論にてありつらんに、にわかに御供を辞み奉りて
大阪に居残りしは、深き仔細ありての事か。


途中ですが、ちょっとよろしいでしょうか。
永井玄蕃頭尚志についていろいろな本を読んでまいったわけですが、
恭順派だったという本と同じくらい主戦派だったという本とも出会ってきたのですが。
(ずいぶん長いあいだ、自分も主戦派だと思っていた時期も(爆))

永井氏は恭順論の首魁にて

ですって?!
同僚でありその前から同じ仕事をやってきた浅野美作守が
こんなことで嘘をつくメリットはどこにもありません。
(ただここのところ、浅野は江戸詰めだった・・・・けど)
とはいえ、アーネスト・サトウの日記(『遠い崖』)では、
慶応4年1月4日に板倉邸に行ったところ、
そこに永井玄蕃頭もいて、永井曰く「徳川方の各部隊は昨夜まで両方面とも進撃を
阻止され、目下そのはるか西方に当たる別の道竹田街道を突破しようとしている
」と
鳥羽伏見の戦況について語っている。
そしてサトウも含めて「軍勢は一万で、相手は六千だったから、
何とかもっとうまくやれたはずだ
」と思った、とあります。
つまり、この人(板倉も、慶喜も含めて)の恭順というのは、ただ平伏するものではなく、
複雑な構造の「恭順論」のようであって、まだまだ解明の余地だらけです(笑)。
この後、江戸へ戻って免職・逼塞処分になる永井ですが、
巷説で語られるごとく「主戦派一掃」に含まれたなどとされるので余計にややこしい。
さらにいうと、永井の「恭順論」は江戸の勝安房守&大久保一翁チームの
「恭順」とも違うようなので、ムヅカシイ~~~。
・・・・・・まだまだ「こうだ!」という確証までは遠いのであります。
ただ浅野談話の「永井氏は恭順論の首魁」というのは、
とても大きな手がかりになりそう!ということで有難い記録であります♪

……原文に戻ります(このあたりは以前の記事でも
孫引きした記憶がありますが、改めて)。

其(永井氏)いう所によれば、
伏見・鳥羽の一挙は、何処までも我公の御素志にてなく、
まったく御先駈の行き違いにより生ぜる戦争なり。
故に公には御恐懼の余り御東帰遊ばされしなり。
我公既にこの御城内を退かれし上は、我はここに留りて、
(松平)豊前殿の帰城を待ち、伏見の行違いは其曲何れにあるかを明白にし、
万一その情を達し得ずんば、武門のならいやむおえず、
一同この城を枕に一死あるのみ。御先駈の総大将たる豊前殿を始め、
潔く此処に死果てなば、其にて戦は我が公の本意ならざりし事も判然として
明白なるべし。故に我は御供を辞み奉るなりとの事にて、
板倉閣老の申し残されし豊前殿の決心を諌むることなどは、
相談にもならねば、後事は永井の意に任せ置きて、余は退城したり。


『徳川慶喜公伝 史料編』3巻の293Pのこの箇所の上段の小見出しには
「尚志松平正質をして自刃せしめんとす」とある。鳥羽伏見の戦いは
行き違いによって起きたのであり、総大将の松平豊前守には腹を切らせる、
「万一その情を達し得ずんば、武門のならいやむおえず、
一同この城を枕に一死あるのみ」という覚悟もあって永井は残ったという。
……とはいえ、冷徹な政治家ではない永井氏のことなので
これだけで残ったとは思えないですが。
残される大勢の兵を見捨てられないタイプでもあるし(笑)、
彼は大名ではなく旗本初の若年寄という点でも、慶喜&板倉とは違う感覚の人。
徳川海軍や新選組を置いては帰れない男です。
情與義、値千金~♪@陸小鳳←たまたま鄭少秋CDをBGM中なので(爆))

浅野氏は永井の決意に飲まれて、板倉に言われた話をしないまま
(それでも半日ぐらいは永井の残務処理を手伝っていたらしい)、
大阪城を去ったようですが、
このあたりはさてさて永井氏の話術にはめられたかも?(笑)。
(数年間の京都暮らしで鍛えられ、永井氏も随分としたたか者になりましたので)

……ちなみに松平豊前守などの「鳥羽伏見の責任者たち」は誰も死なず、
免職・謹慎などで済んでいるので、浅野が去った大阪城でまた
別のドラマがあったのでしょう。

 さてさて、次回最終回は豪華ゲストの登場もあります☆
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by aroe-happyq | 2008-04-29 10:49 | 江戸城の大旦那 | Comments(6)
『謎とき徳川慶喜』を読んで以来、気になっていた『徳川慶喜公伝 史料編』。
いったんは図書館でコピー作戦をとろうとしたのですが、読みたいところが
膨大すぎて結局は慶喜貯金の末(笑)、古書店にて全3冊入手するハメに。
いろいろ面白いのですが、まずは…最初に読みたかった、

767 明治元年正月初旬大阪開城前後の情況に関する
浅野氏祐の談話
(『徳川慶喜公伝 史料編』3巻 287P~)


から紹介したいと思います。

以前『謎とき…』の感想で記事に引用した、永井玄蕃頭の「大阪城に残ったその理由」
の原文が含まれていたのがきっかけで真っ先に読み出したのですが、
別の箇所も含めて、これがとても面白い!っっ。
全文はとても載せられないので、冒頭部分省略&分割してお伝えいたしますが、
さまざまな人物がカメオ出演してくれるので、ちょっとお楽しみに!

慶応3年末、若年並・陸軍奉行だった浅野美作守氏祐は江戸にいましたが、
12月27日に大阪出張を命じられ、歩兵奉行向井豊前守やシャノワンらと
順動丸で上阪。翌慶応4年正月6日に天保沖に着船。上陸してすぐ
「伏見・鳥羽で御味方大勝利の趣なり」という話を聞いたが、大阪城のすぐ
近くまでやってきたとき、老中板倉の使いがやってきて「戦争は恐れながら
御敗北なり」と聞かされ、慌てて登城。
そしてまさに慶喜大阪城脱出当日の現場に足を踏み入れました。

以下、原文で・・・
(※なるべく常用漢字に直しておおくりします)

急ぎて御用部屋に詣れば、板倉閣老は憮然として、
さて美作殿、時態は救うべからざるの難局に陥りて、聞かるる如き大変動は起りたり。
ここに至りてはもはや議論も術計も尽き果てたり。抑も頃日城中の議論は、
硬軟二派に分かれ、閣老にては松平豊前殿、参政にては竹中丹後、塚原但馬、
平山図書等をはじめとして、陸軍部内は勿論、会津・桑名の藩士は異口同音に
硬説を唱え、中にも近藤勇の配下などに至りては、劇烈もまた甚だしく、
其の極終に、むしろ君上を退け奉りても、徳川氏の家名に対し、彼れ薩長の
制御に屈すべけんやというに至り、戦論の熾(さ)かんなることあたかも
狂瀾怒涛の如き勢いなれば、君上の御趣意をうけて、始終の恭順を貫かんと
するものは、自分(板倉)をはじめとして、酒井雅楽頭、これに次ぎ参政にては
永井主水正(玄蕃頭)等、そのほか二三子の少数にて、
なかなかに彼が暴威には抵抗し得られず、ついに今日の極難に陥りたり。
返す返すも……


ここからは板倉伊賀守の愚痴が続くのですが(ついには泣き出す始末)、
割愛させていただき先に進みたいと思います。
浅野美作守は続いて慶喜に会いにゆきます。
以下、慶喜語れり、です。

 公(慶喜)の仰せに、
委細の事は(板倉)伊賀に聞きつらん、時態日々に切迫して、過激論者暴威を極め、
制御の道もあらばこそ、ついに先供の間違いより伏見の開戦となり、
錦旗に発砲せりと誣られて、今は朝敵の汚名さえ蒙りたれば、
余が素志はまったく齟齬して、又如何ともする能わず、
さればとてこの上なお滞城するときは、ますます過激輩の余勢を激成して、
如何なる大事を牽(ひ)き出さんと計られず、余なくば彼等の激論も鎮まりなん、
故に余は速に東帰して、素志の恭順を貫き、謹みて朝命を待ち奉らんと欲するなり、
秘めよ秘めよ、との仰せなれば、始終を聞き奉りて、胸先ず塞がり、
一言の申し上げ様もなき次第なれども、仰せのほど実にごもっとも、
恐れながら一先ず御東帰のこと、愚臣美作においても然るべう奉存と御請申し上げ、
力なくも御前を退出して、詰所に帰らんとせしに、美作殿と呼び留めるものあり、
顧みれば板倉閣老なり。一通の書を手にして、これは御親筆ぞかし、
よろしく頼みいる、かつまた(松平)豊前殿にはいまだ帰城せられねど、
或いは屠腹して申し訳せんなどと言わるるも計られず、若し然らんには、
十分に諌止せられよとて、足早に出て行かれたり。
さて御親書は何事ならんと拝見し奉りしに、すなわち御東帰に付き、
参政以上の進退を直命し給えるものにて、御文面は左の如くありしかと覚えたり。

供 酒井雅楽頭      供 板倉伊賀守
残 松平豊前守      供 永井主水正
随意 浅野美作守     供 平山図書頭
残 竹中丹後守      残 塚原但馬守


さてこのリストをみて「供 永井主水正」に驚きました。
(※浅野美作守はなぜか主水正としておりますが、ホントは玄蕃頭です。
少し前に玄蕃頭にあらためたのですが、浅野さんは江戸詰めでご存知なかった?)

永井は慶喜と帰る人リストの中にはいっていた。でもなぜ残ったか。
それは次回のお楽しみに(笑)。

しかしこのリストをみていると、残留組は永井以外、
鳥羽・伏見の戦いの責任者のみです。慶喜はもちろん意図してのことでしょう。
ここで少し話を戻しましょう。
この時の慶喜の状態について、ちょっと捕捉。
慶喜の回想談『昔夢会筆記』に、

(鳥羽伏見以後も主戦派論のなかで大阪城にいて)
……私は不快(具合が悪いこと)で、其の前から風(風邪)を引いて臥せって居た。
もういかぬというので、寝衣のままで始終居た。
するなら勝手にしろというような少し考えもあった。
…名が大切なもので、名が悪いととどうも兵は振わない。


とあります。大阪城内には主戦論が充満し、それに乗れずにいた、
過労で風邪引きの慶喜と恭順派の面々だったようです。
ちなみに慶喜の鳥羽伏見の戦いの見解については
それはつまり喧嘩だ。まあそういう塩梅で、ただ無茶苦茶にやったのだ
(『昔夢会筆記』)」というようなところ。
その喧嘩の敗戦の報を聞き、さらに主戦論を抑えるのに彼はうんざりしていた。
板倉伊賀の話にある、近藤勇配下等(この過激さは…誰?(爆))の
むしろ君上を退け奉りても、徳川氏の家名に対し、彼れ薩長の制御に屈すべけんや
という声もあったりして、
ちょっと「するなら勝手にしろ」的なやけっぱちモードもあって、
そのまま即日大阪城離に繋がったようです。
兵を見捨てた、といわれる慶喜ですが大阪城から離脱前に制御不能であり、
「すでに彼のほうが兵に捨てられていた」と考えることもできそうです。
慶喜が逃げなくても、どのみち総崩れの予感はあったのかもしれません
(そしてそんな自分を嫌いな面々とは死にたくない彼である(笑))。
どうも慶応3年末の大阪城徳川方についてはまだまだ研究の余地がありそうですし、
大阪脱走についても慶喜ひとりを責めることはできないのでは?と、
この談話を読むだけでも疑問が沸々とわきあがるのですが・・・。

本日はここまで。その2につづく☆
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by aroe-happyq | 2008-04-28 10:29 | 江戸城の大旦那 | Comments(6)
きました!きました!!ついに・・・きた!(爆)

うちのブログでこの話題をしたのは相当・・・昔ですが、
ウォン・カーウァイに関することでこのぐらいはフツーです。

しかし、いきなりカンヌ特別上映ですって!!!

ニュース→こちら(日本語です)

音楽がヨーヨーマ???
なんだかすごく贅沢な変身を遂げているようですが、
はやく観てみたーーい!!

日本でも上映&DVDリリースを、プリーズ!!!
(とかいいつつ、また特典映像満載のフランス版DVDの通販をしちゃいそうですが)

・・・・まずは、カンヌ期間中のムービープラスのカンヌ番組総チェックか・・・・・・。
(ちょっと面倒・・・(笑))
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by aroe-happyq | 2008-04-26 10:13 | 香港&アジア映画 | Comments(4)
先週は金曜日にUPできませんでしたが、
今週はいつものように金曜日です。

今回も全文です。


函館新聞大正7年5月9日 第12回

◇連蔵の居住地
 ◇実は佐々木辧(弁)蔵

函館戦争と因縁の浅からぬと云うのは、弁天砲台の砲門に釘を打ち込んだ功労によって、
総督からも、参謀からも、兵部省からも、莫大の恩賞に与った上に苗字、
帯刀を許されて三人扶持を得たのは鍛冶連蔵と云って、
ソノ遺族が谷地頭町に居ると云う事を知ると共に、
◆遺族
佐々木サダの住居を訪れると、どうした間違いなのでしょう、
実は自分の父は佐々木弁蔵と云って、幼少の頃に台場の話をした事を聞いていたと
、……弁蔵は安政年間に弁天に砲台を築く時、
秋田の鉄砲鍛冶であった父が抱えられて来たそうですが、多分その関係上
◆親く
台場の様子を知って居たので、政府の役に立つ様な事をしたものか、
私(サダ)が二十歳の時、即ち明治十七年九月廿八日父は五十七歳で歿したけれど、
長男に重吉、二男重太郎、三男運蔵、長女サダ、二女トメという五人の子はあったが、
男は残らず早世してしまい、現存者はサダ、トメのみにて、
◆長女
サダは弁蔵(連蔵)の孫にあたる友太郎(二三)と居る。
当時の記録らしいものが種々あった様だが、近所でごく親しくした故大塚老人が持って行って、
ツマリ賞状の如きも五島軒さんの手に入り、そして招魂社に納まったわけでしょうと。
◆父は
酒が好きで頑固な人で、負けるのが嫌いな人で、子供の折に聞いたようで、
詳しくは分からないが、谷地の銭坐にも居た、今の公園のブランコのある上に
大きな工場をこしらえて、大砲をこしらえたとか、今の摺鉢山の所にも久しく住み、
函館通宝を鋳たものだそうです。
墓は稱名寺にあって、戒名は『受法聴善信士』だと位牌に示された。



かの弁天砲台の砲門に釘を打ち込んだ男に迫る気迫ある記事かと思うと、
今回も肩透かしっっ。
連蔵は弁蔵だったと、そういうわけですな(笑)。
現代の編集長なら「招魂社まで確認とってこーい」とかいいそうなものですが、
約90年前ですと、このようにゆるーい感じです。
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by aroe-happyq | 2008-04-25 09:51 | 箱館または釜さん | Comments(0)
スーパードラマTVにて毎週とっても楽しみに見てきた
「バトルスターギャラクティカ シーズン1」が終わってしまいますた。
とても最終回とは思えない、すぐにも次回がみたくなるような
どえらいところで終わってしまいました(涙)。
(なにひとつ、解決していない!!ところがスゴイ(笑))
贔屓キャラの艦長と大統領が揉めたままだしーーっっ。
(この二人+アポロの会話の掛け合いが無上の喜びの自分にとって
けっこうキツイシーズン1の終わりでした・・・)

どーでもいいから、

・・・・・はやくシーズン2みたいです(笑)。



そして今夜深夜(日付的には明日)から、
地上波日本テレビでは「HEROES」がはじまります!
ヤッターーー!!!!(爆)←お約束ということで

日テレ公式サイト→こちら

字幕&二ヶ国語ということは、切り替えれば英語音声&字幕で
楽しめるわけですね!

これからHEROESを観られる皆さま、
ぜひとも英語原声&字幕でみてくださいまし。

ヒロ&アンドウ君の世界を堪能していただきたい!(笑)

これは日本語吹き替えでは味わえないHEROESの大きな魅力のひとつ!
と言っても過言ではないでしょう(笑)。

まずは第一話、みてやってくださいまし。おススメのドラマです☆
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by aroe-happyq | 2008-04-24 10:14 | ほんの世間話 | Comments(2)
随分前にbk1に予約としてUPされて以来、
いつ発売なのかよくわからなかったこの本。

明日発売、とアマゾンに出てました☆


近代日本の万能人 榎本武揚

榎本隆充  高成田享 著
出版 : 藤原書店




予約受付中だそーです♪

アマゾン→こちら


取寄せ受付中♪

セブンアンドワイ→こちら
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by aroe-happyq | 2008-04-22 14:33 | | Comments(0)

江戸をCGで味わう

本日、二投目です(笑)。

今の東京を歩いても、脳内CGをフルで稼動しても
なかなか江戸が味わえません。

そんななか、最近わたしがはまっているのが江戸のCGを紹介したサイトです☆


江戸暦→こちら


江戸暦さんと同じく、江戸CGムック本を数々手がけている方のサイト☆
江戸 →こちら


実は「江戸の風景」を持っていたりするのですが(笑)、
サイトで一部を拝見できるのが嬉しいです♪


週末にこんな感じで江戸に浸ってみるのもよいのではないでしょうか(笑)
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by aroe-happyq | 2008-04-20 11:08 | 江戸東京あれこれ | Comments(0)
先日伝記本を紹介した松崎慊堂からするとずっと若手で、
しかも天保~安政にかけての大人気学者が安積艮齋です。
門人の数は二千人余。
私塾は神田駿河台小栗屋敷内にあり、二本松藩儒者、昌平坂学問所教授
と大忙しの人生でした☆

今回図書館で読んだのは、安積艮斎顕彰会編『安積艮斎門人帳』。
以前、田中正能「安積艮斎門人帳」(『郡山地方史研究』16号~21号)で
天保11年までの門人はチェックしたのですが、私が知りたいのはそれ以降の
時代なので、今回改めて書籍となったものをチェックしたのでした。
門人帳は天保11年以降は現在のところないようで、
やむおえず授業録というもので安政までをみてみたのですが。


今回は安積塾に出入りする意外な人物を紹介したいと思います。

○安政元年 (月日は不明)

  久留米在古飯村
  与吉次男      高松勝次郎



箱館のドクトル高松凌雲の兄、
衝鋒隊隊長 歩兵差図役頭取の古屋佐久左衛門さんです。
英学を学ぶ前の勝次郎さん、漢学の基礎を固めておられたようです。


○安政三年 七月廿日

  牛込門外
  川路左衛門尉嫡孫
              川路太郎
              同 敬次郎
  川路氏用人
   松村量右衛門忰
              松村健之丞



太郎ちゃん・・・・弟と共に、超英才教育中???
まだ幼いし、学問塾への出入りは早くないですか??(笑)
でも用人の息子付きなら川路聖謨じいじ(←と太郎ちゃんに呼ばれている)も
安心なのか・・・・。


○安政五年 十月十八日

    長州藩士
           高杉晋作
             書生寮


珍しいところでビッグネーム登場です。
このころは江戸に遊学中でしょうか。
「書生寮」というのは昌平坂学問所書生寮のこと。
ここは旗本以外の諸国から江戸へ学びにやってきた秀才たちの寮。
ただこの当時、この書生寮こそが若者の攘夷論者生産拠点で、
ここに所属するとほぼもれなく過激な攘夷論者になってしまうという
困った場所でした。学問所自体が洋学所(蕃書調所)にごっそりと
人材をもって行かれて以来、弱体化していたので書生寮のこうした
動きを取り締まることができなかったようです。


○安政六年 二月廿三日

    長崎     福地源一郎



・・・・たしか福地の懐古談によれば、安積塾に入って、
門人たちに吉原に連れてかれて・・・・どっぷり浸かってしまったとか(笑)。
(大都会の落とし穴ですな・・・・・)

この授業録には福地のプロフィールがあり、
「安政四年 矢田堀景蔵に従って江戸へ出府」となっております。
・・・・・長崎奉行水野忠徳と一緒に安政元年に江戸へ来た、と
聞いていたので、またまた調査が増えました(笑)。



以上でした。
こういう面々が神田駿河台、今の明治大学附近をぶらぶらしていた
のであります☆
(昌平坂学問所とは徒歩6分弱の距離です)

ちなみに永井岩之丞(尚志)や堀省之助(利煕)木村勘助(喜穀)なども
弘化年間にその名がありました。
岩瀬忠震は安積のいわば同僚(学問所教授)なので、
授業は受けにきません(笑)。

今回は授業録の面々を紹介しましたが、門人帳のほうは
さらに華麗な面々が登場します(ただひ天保11年以前の人々)。
いつの日かそちらも紹介できればと思います。
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by aroe-happyq | 2008-04-20 10:37 | 広く幕末ネタ | Comments(2)
ようやく仕事も落ち着き、手から肩、首にかけてすっかり
コリコリにやられてしまいましたが、
そんなことも顧みず、気になっていたアレをやってみました。

アレとはほぼ日の、じぶんでテソーミ~ほんとうのわたし編~のこと。

時間はかかりますが、とにかくすごかったです。
無料とは思えないほどの診断文の長さですが、
すべて「ははーっ、まったくそのとおりでございます」状態(笑)。

ものすごく掻い摘んでいうと、
わたしという人はただのラテンな江戸人でした(笑)。

自覚はあったのですが、普段占いとか手相とかやらないので、
正面きって「お前はそうなのだ」と言われたのは生まれて初めて。

でもラテン系江戸人は21世紀の東京においては
とかく生き辛いです。
実は悩みも大きいのであります。
同じ空気感の人と出会うことはほぼ皆無。
同区内の幼なじみぐらいなものです。
(同窓会でのしゃべる速度&爆笑回数はハンパじゃない!(笑))
基本的に、孤独に生きてゆけというわけでございますな。
それならそれで、理解されない世のなかと
折り合いつけながら、
楽しく生きてまいりましょうともさ!
(妙な啖呵で終わるのはなぜ?)

しかし、やはり似ているものに惹かれる、ということなのですね(笑)。
江戸っ子旗本さん(好奇心丸出しの開明派系)たちを愛してやまないのも、
共感することが多いからなんですよね。
(頭のデキはこの際、比較対象外)
義に篤いけど、すんごく合理的。
泣きたいほど辛い時でも、ついついギャグにしてしまうとか。
最期の覚悟はできているけど、普段は楽天的で、
よくわからないけど、とりあえず前向きだったりとか。
バカをみても正直者であったりとか。
でも江戸庶民ほどのたくましさがないのは、、
>人一倍美意識も強く、繊細な気質を持ったロマンチスト(MY診断文より)
だったりする二面性ゆえ(爆笑)。

日本史上でこんなに共感できる人々とは他の時代・地域では出会えません
でしたから(笑)。
これからもじっくりと自分と似ているお隣さんと愉快にお付き合いして
いこうという覚悟を新たにいたしました☆

ところで、こんな一文もあった↓

>いまは、ご自分の母国に縛られず、
>ワールドワイドなはたらきができていく時期です。

・・・・・江戸って、外国???(爆)
それなら、片足はすでに日本から離れております☆
あのラテンなノリの江戸という国が存在するなら、
行きたいですよ、密航してでも(笑)。


手相ってコワイ(笑)けど、
いやー面白かったです!
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by aroe-happyq | 2008-04-19 10:31 | ほんの世間話 | Comments(0)

アジアンエンタメ&お江戸後期。外国奉行や長崎海軍伝習所がご贔屓☆ BYはな。


by aroe-happyq