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東都アロエ

<   2008年 05月 ( 27 )   > この月の画像一覧

今回は「その息子」さん特集です。

引用が長くて、読み辛いかもしれませんが、
サロンパス貼りまくりの努力の成果(爆笑)をお楽しみください☆

温恭院(家定のこと)様、世間にては暗愚の君にて甚だしきまでに諸書に
散見するも、文化文政天保の頃なれば、左まで世説も請させまじき。
・・・・(略)・・・・温廟将軍宣下頃の国難は、非常の英主ならばいざ知らず、
輔弼(ほひつ)の大臣も未曾有の変遷をよく所理するもの乏しきは、
事勢やむおえず次第ならん。温廟御疳癪強く、御挙動の常に意外の感もありし。
嘉永墨夷渡来後、京師の有様、内外の事に格別御配意あられ、
徹夜御寝のなきこともあり、すべて御気詰りのときはなおさらにして、
既に慎廟薨御の後御本丸に御移り、御側の如きも御本丸・西丸等の混し御側に
ありしときは、最初は御小性も御気詰まりにて、御座所を御立ち、御縁・御庭等に御出、
古くよりの西丸御付きの御小性にて、その御挙動を御恥じ御遠慮ありし。


朝比奈のいうように、幕末でなかったら、家定将軍の評価ももっと
高かったのですが、いかんせん非常時になってしまいました。
しかも家定が即位する直前からこうした状態になったので、
苦労するために将軍になったような、本当に気の毒なお方です。
しかし家定は時には徹夜して国事にあたっていたわけで、
彼が暗愚でなかったことはこれだけでもよくわかるはず・・・・ですね。
(暗愚だったら、某朝ドラ大河のヒロインの旦那のように暮らしていれば済みます。
しかし実際の家定は、慣れない本丸御殿でストレスを溜めながらも、
将軍としての責任を果たし、しっかり事にあたっていたわけです)
そうした緊張の空気に、御小性たちも耐えられず、
さまざまな気分転換をしていた様子もまた、可哀相であります・・・・。

実は朝比奈も西丸小性から本丸小性へと移ってきた人でした。
つまりわりと家定とは打ち解けていたみたいでして、
いきなり直接に聞いて、核心へと迫るのでありました。

予不寝番のとき、終夜御寝なき事も度々ありし。
或時は何事なりや御心配の御様子と窺いし事もあり。・・・・・(略)・・・・
或る時、御養君の事密かに窺いしに、
刑部卿様は御気詰りにて御嫌いなりとの御沙汰ありし。


最後の一行、繰り返しますと、

家定公いわく「慶喜は気詰まりで、嫌いだ

だそーです。

さらに小性頭取の竹下という人も、直撃質問をしたとかで。
(この竹下さん、この話を古なじみの、目付の鵜殿にこっそり洩らしたことが
発覚し、その直後、別の役所へ飛ばされたそうです。コワイですなー)←どうでもいい話

この者(竹下のこと)も温廟に密かに御養君の事を窺いしに、
刑部卿様は御いとい(厭い)遊ばされ、紀州様は御幼年にて
丁度御子様の如く思召されば、紀州様の方御好みにて思召さるとの事・・・


家定公いわく「幼い紀州慶福は、年齢的にもわが子のように思えるので、好みである」
とのことでした。

ではなぜそんなに家定公は慶喜が嫌いなのか。
そばに仕えていた朝比奈はみていた、ということで続けて語っていきます。

温廟には刑部卿様を喜び給はず、それのみならず若し刑部卿様御養君ならば、
直に御譲職を行い、温廟御隠居なるべし。それらの事も深く思召されたらんと
推測せし人もあらんなれども、予が親しく御側にありて伺い見れば、
それら深きお考えにはなく、大奥の浸潤もあらんなれども、
又大奥にて刑部卿を賞誉せしものありし。
これは水戸の御育ちの、御賢明のというわけにてはなし、
普通婦女子の口さかしく、御美麗とか何とかの艶言なりし。


朝比奈のぶっちゃけトークがはじまりましたが、
傍に仕えていた朝比奈から見て、家定が慶喜を嫌うのは。
政治的な問題ではまったくなく、大奥の女たちが「慶喜様はハンサムね♪」
とか・・・・ごくごく普通に誉めそやしている有様を、小耳に挟むたび
こみ上げるジェラシーであったと・・・・そういうわけですか。
家定だって、男です。そりゃ・・・・・モテたいでさぁ!

温廟には御美麗とは申上げ難く、
御挙動も御自身にても御恥ち遊されし程なれば、外見にては申上ようなし。
大奥御側向の若手女中の如きは、申上げまじき事も申上げし事もありたるは、
予の親しく伺いたる事もあり。
温廟には近年御疳癪にて男女の道も御障りあり、
さりとて御志のまったく絶えさせらるるの事にてはなければ、
大奥女中の、御表の人又は能役者等の男子の評論の如きは、
大いに妬心もあらせられたれば、刑部卿様も又それらの事のありしならん、
その意味筆を下し難し。


家定は自分が慶喜ほどのハンサムではなく、
また自らの「御挙動」をとても恥ずかしいと思っていたのですね。
江戸時代は格式社会です。
将軍にとって儀式を完璧に行なうことは、なにより大切なはず。
しかし彼はそれができない人なので、・・・おそらくこの件に関しては、
彼の父の家慶も憂慮していたのではないでしょうか。
そして近年は「御疳癪にて男女の道も御障りあり」とか。
すると子種がないというわけではないのですね??
(よく物の本にはそう書いてあるのですが、違う事情のようであります)
そんな家定の前に、いかにも健康そうで、まだ若くて、モテ男で(笑)、
賢そうな慶喜が登場したとしたら。ううむ・・・・これは問題です。

しかし・・・・いつの世も若手女中ことギャルズというものは、
天下無敵のようです。大奥を会社に例えるなら、家定は社長なのに
その雇い主のことをぺちゃくちゃと・・・・「やっぱり刑部卿さまはかっこいい。
あの人が上様だったらよかったのに」ぐらいは、平気で噂していそうです。
そんな噂が聞こえてこないはずがない。家定は、
「大奥女中は、いわんでよいこともいうのだ」と朝比奈にこぼしていたと。
で、そういう話は、大奥だけでなく、政庁の役人(すいやせん。鵜殿とか、
岩瀬とか、川路たち一橋派は間違いなく噂してましたよ)もしてたり。
奥に出入りする能役者の評論まで気にするような、
とてもシャイで神経質な家定公はこういう噂に胸を痛めていたわけです。
・・・・・なんだかとてもせつない。


しかし。こうして、家慶に愛され、家定に嫌われていた慶喜のほうも、
せつないと思うのはわたしだけしょうか??

大奥に出入りしたとしても、好きで行ったわけではなく、
将軍の親族としてのご機嫌伺いというだけに過ぎません。
(慶喜って、大奥嫌いですから(笑))
一橋家に養子に入ったので、精一杯がんばっているだけなのです。

つまり彼だって、
この父子のドロ沼愛憎劇に巻き込まれた、被害者ともいえなくない(笑)。


次回は慶喜はどう考えていたのか、を紹介してこの特集の〆といきたいと思います。
・・・・・・・とはいえ、頭痛と肩こりが治るまで数日のご猶予を賜りたいと存じます(笑)
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by aroe-happyq | 2008-05-31 10:16 | 江戸城の大旦那 | Comments(4)

今回は『徳川慶喜公伝史料編』1収録の、
「史料番号68 嘉永安政継嗣問題に関する朝比奈閑水の手記」をもとに
家慶、家定父子と慶喜について、みてまいりたいと思います。

朝比奈閑水は、父の昌壽と二代にわたり、小納戸頭取をつとめました。
奥詰の役人、つまり将軍の側に仕えるは代々世襲ということも多かったようです。
閑水は、のちに田安家家老、長崎奉行、町奉行を歴任。甲斐守と称したとか。
この手記は明治27~8年ごろ、この慶喜公伝編集所の求めに応じて
書いた回想録です。『徳川慶喜公伝史料編』にはこのほか、
父親・昌壽の日記なども収録されております。
(以上、『史料編』1 史料番号12の註より)

※以下の史料は読みやすくカタカナをかな変えるなど、しております。

(慶喜、一橋家への)御相続後、慎廟(家慶)の刑部卿様(慶喜)を御寵愛ありしは、
弘化4年9月初て御対顔ありしとき、よく初之丞(家慶の五男、一橋慶昌。天保9年逝)
に似をれりと。その頃は御覧明だの、往々望みありだのと、六ケ敷(むずかしき)
理屈より、只御一見愛らしきと思し召され、その後段々御成長になり、
御賢明にあらせられ、ここに至りて愛らしきという外、
往々大いに望みありと思召も、一変せしならん。


これで、家慶が慶喜を気に入った理由がわかりました(笑)。
すでに亡くなったわが子に似ていたのですね。
最初は単純に可愛がっていたけれど、次第に慶喜の成長とともに
その賢さがわかってきてはじめて、
家慶は、慶喜の将来に「大いに望みある」と考えるようになったわけですね。

ここで朝比奈は家定と家慶の関係についても触れています。

又往々大いに望みありと思召入らせられしも、温廟(家定)の御挙動も
深く思召入らせられたるか。
温廟の御挙動、御礼日表出御の御同座、遠御成御同道のときの如きは、
何となく御側にありても苦々しきことあり。
温廟御成のときは、平常の御疳癪(かんしゃく)に怪しき御振舞あらせられず、
それゆえ慎廟には御能を度々遊さるれば、自ら御身体の御癖も直らせらるるとの
思召にて、しきりに御進め遊されしことは伺いおれり。


家慶が慶喜に期待してしまうのは、わが子家定の「御挙動」が原因であると、
朝比奈は語ります。
ハリスの『日本滞在記』に登場する家定の様子についての一文をみてみましょう。

短い沈黙ののち、大君(家定)は自分の頭を、その左肩をこえて、後方へぐいっと
反らしはじめた。同時に右足をふみ鳴らした。これが三、四回くりかえされた。
それから彼は、よく聞こえる、気持ちのよい、しっかりした声で、
次のような意味のことを言った。
「遠方の国から、使節をもって送られた書簡に満足する。同じく、使節の口上に
満足する。両国の交際は、永久につづくであろう」 
       
               (『ハリス日本滞在記』下 岩波文庫 P75より)

家定は緊張するような場面になると、身体が動いてしまう人だったらしい。
そのため、公式の場では家慶ともよそよそしい感じであった、と朝比奈はいう。
この「御挙動」は能をやるとおさまると信じていた家慶はしきりに家定に
能をすすめたとか。
さて続きをみてみましょう。

温廟には能は好み給わず、却て狂言を好ませらる。然れども狂言は遊ばさるる事
はならぬも、一時狂言の真似をほんの御たわむれに遊さるれば、実に驚き入たる
御手際、これは御舞台にてはなく、人の居ぬ所にてありし。


能より狂言がすきだったみたいです。
この父子、いまいちな愛情のすれ違いが多そうです。
狂言を習うことはなかったようですが、人のいないところでちょこっと
狂言の真似事をした家定はたいそう上手かったようです。
川路聖謨の随筆『遊芸園随筆』の記録によれば、家慶は低くよく通る声だったよし。
家定もハリスのいうように、これまたよく通る声だったそうなので、
家定の狂言、ちょっとみてみたいですね☆

同じく能関連で、家慶に慶喜への評価が語られたエピソードへと続きます。

嘉永5年4月、奥にて御能あり。慎廟御自身も遊され、田安様、一橋様もとの事にて、
楓之間(家慶の御座所の御茶屋)に於いて番組を御調ありて、田安様枕慈童、
一橋様知章、狂言は何々と御番組の出来しと・・・・(略)・・・・・
其時慎廟の御沙汰に、刑部卿は気節もあり、知章が丁度よしと御沙汰ありし。
又この御能のときも、奥舞台に於いて刑部卿様にも一度御稽古ありては如何と
の御沙汰にても、その御寵遇を知る一証なり


あいかわらず家定はいませんが(汗)、田安慶頼は枕慈童、一橋慶喜は知章という
キャスティングに決まりかけたところ、(ここから略しました)御小性頭の誰かが
知章じゃなくてもっと良い役のほうが、と将軍へのおべっかでわざと異論を述べたとか。
(こういう将軍の気持ちをわかっていて、わざとその意に副うような事を将軍に勧める
ことを奥詰業界用語で「やりぬき」というらしい(笑))
すると家慶は「慶喜は気節があるから、このままでよい」といったそうな。
さらに家慶のプライベートな舞台を、慶喜に使わせるなど(田安はダメなのか?)
あいかわらずの可愛がりっぷりであった、という話でした。

さて手記のほうは朝比奈父子からみて、いろいろな人事異動から推察するに、
家慶は慶喜を西の丸に入れるつもりだった(つまり継嗣にするつもりだったのだ)
とする話が延々と続くのですが、あくまでも朝比奈父子の憶測話なので
ここではバッサリと割愛させていただきます。

ということで、ここからは本格的に朝比奈による、家定ウォッチャー話ですが・・・・・、
ここからがまた長いので、明日のぱーと2へ続きます。
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by aroe-happyq | 2008-05-30 09:46 | 江戸城の大旦那 | Comments(2)

カンヌ関連番組で一部が流れていた新たな映像です。

・・・・黄金ミラー作戦とか、

・・・・やっぱり白い鳩が舞うとか、

・・・・・トニーレオン、あんなに北京語がんばったのに
やっぱ吹き替えか? とか、

いろいろありますが、まずはご覧くださひ。

youtube→こちら(英語版)
      →こちら(韓国版)


なんでかな、何度みても腹が痛いほど笑えるのは・・・・・(汗&涙)
これ、コメディ・・・・・じゃないよね????

でも不思議と疲れが癒えます(爆笑)
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by aroe-happyq | 2008-05-29 19:23 | 香港&アジア映画 | Comments(4)

今回は嘉永5年という年について、慶喜と家慶の関係を
みてまいりたいと思います。

嘉永5年、慶喜は16歳。家慶は還暦60歳を迎えております。
ちなみに家定は29歳でありました。

『徳川慶喜公伝』史料編1にある年譜によると。

嘉永5年(1852)
正月21日 将軍に従いて亀有筋に赴く

2月5日  前髪を除く

閏2月18日 将軍一橋邸に臨む

4月11日 奥御能あり。将軍自ら船弁慶を舞い、公(慶喜)には知章を舞はしむ。

7月21日 将軍大川筋に赴き、一橋家の浜町屋敷に臨む。

9月21日 将軍に従い駒場野に赴く

11月14日 将軍鶴御成の時、公を伴はんとす、阿部正弘の言によりて止む。

(11月22日 烈公(水戸斉昭)台命により隠居後始めて登城し、将軍及び世子に見ゆ)


家慶の一橋邸訪問は嘉永元年から三年までほぼ年一回ペースだったのが、
嘉永4年に3回、そして嘉永5年には2回と増えておりました。
これ以外に一緒の外出、江戸城奥にいける「奥御能」等・・・もあって、
家慶の慶喜に対する寵愛は増すばかりだったことがわかります。

慶喜自身も、2月に前髪を剃る儀式もおえて、嘉永6年(翌年)の婚儀の話も
まとまるなど、この嘉永5年は大人としての最初の年でした。

そして、11月14日 鶴御成供奉未遂事件が起きます(笑)。

史料番号17嘉永5年11月鶴御成供奉に関する朝比奈昌壽の日記によると。
                             (『徳川慶喜公伝』史料編1)

11月14日
鶴御成之節、刑部卿様御同道之思召之旨沙汰有之。(御側御用取次 平岡)丹波守
殿江御達申、御用部屋江御談ニ相成候筈


この史料の註をみると、
鶴御成というのは柳営年中行事のなかでもひじょうに重要な儀式で、
その際、「羽合」は代々、世子が行なうものという慣わしになっていたといいます。
それを家慶は慶喜をして「供奉」させたい旨を御側御用取次の平岡丹波守を通して、
老中に沙汰した、という。
家慶の世子家定(当時は家祥)をさしおいて、慶喜を世子に!?と
柳営内のあちこちでたいへんな噂になったと思われます。

11月19日
刑部卿様御同道御羽合之儀は、(老中 阿部)伊勢殿御免被相願候段、
丹波守殿被申聞、入御聴、相止ム


結論を出すのに5日かかったようです(笑)。
結局、阿部正弘によってストップがかかりました。

11月20日
刑部卿様小松川鶴御成御同道可被遊、其節羽合せノ義、伊勢(阿部のこと)へ
承り見候様との御沙汰ニ付、御聞申候處、批評も可有候間、
今少し御見合せ候方可然との事、其段御聴候處、少し早イかと御沙汰有之。


阿部正弘は、密かに13代には家定、14代に慶喜にと考えていたようです。
そのため、今回はストップをかけましたが、「今少し御見合せ候」ということでした(笑)。
これを聞いた家慶も「少し早イか」と言ったとか。
家慶の愛の暴走・・・とも捉えられるこの「鶴御成未遂」事件ですが、
阿部伊勢も家慶も「少し」「少し」・・・・・・というながら、慶喜を世子にする気満々です。
西城(西の丸)でこの成り行きを聞いていた家定の気持ちはいかばかりで
あったでしょうか(汗)。

そして慶喜をすぐではないにせよ世子と担ぎ出すには、
隠居させていた実父水戸斉昭の存在も
無視できなくなり、家慶は斉昭の登城を許します。
やたらとうざったい(爆)斉昭を、家慶は好きではなく、数年前に隠居に追い込んだ
ほどですが、・・・・・・斉昭の子の慶喜のことは別腹だった???(笑)。
(この後の歴史を知っている身としては、隠居したままでいてほしかった人です)

さて、次回はこうした成り行きをじいっとみていた男、
小納戸頭取・朝比奈昌壽の息子、閑水の手記をもとに、
こうした家慶の慶喜可愛がりをみていた家定の本音などをみていきたいと思います。


 ※今回の史料はすべて『徳川慶喜公伝』史料編1収録です。
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by aroe-happyq | 2008-05-28 10:47 | 江戸城の大旦那 | Comments(2)

この早稲田大のデジタルアーカイブが出来た頃、
「岩瀬の日記も公開してほしい・・・・」とぽつりぽつり
ぼやきながら、何度か更新チェックに行っていたのですが、
まったく更新がないので、
すっかり諦めておりました(最後に見に行ったのは2ヶ月前か・・・?)。

いつの間にか公開されていたようです。
(教えていただきました。本当にありがとうございます!)

国会図書館の論文検索にせよ、定期的に
更新チェックすることを心がけたいと思いました。
(と・・・・言って、すぐ忘れる・・・・・(汗))


岩瀬の日記→こちら

上記ページに入れない場合は→こちらから(岩瀬で検索してみてくださいね!)


一時は行方不明だとか、いろいろ騒がれた日記ですが、
こうして読めるというのは、まさに感無量です。

・・・・・・ただ岩瀬氏の日記、達筆すぎてどこまで解読できるか、自信はありません(涙)。
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by aroe-happyq | 2008-05-27 09:53 | 外国奉行ズ | Comments(2)

最近思うのは、慶喜という人は幕末スキーで、徳川旗本スキーに
とっては好きとか嫌いとか好みの問題ではなく、
絶対に避けられない「超必須科目 慶喜」のような気がいたします。
ある程度この単位は落とせないといいますか、
この複雑な知恵の輪が解けないと、最終的なドアの向こうには
いけないという・・・・そんな存在であると(笑)。
というわけで、
今回はその複雑な慶喜さんの周辺にせまるシリーズ第一弾。
タイトルどおり、二人目の父・・・・徳川家慶(十二代将軍)と
慶喜の関わりを史料で追ってみたいと思います。

とちょっとその前に。
たいへんな基礎的知識の確認ですが、一橋慶喜は
水戸斉昭の子です(笑)。
天保8年(1837)江戸で生まれた七郎麿(のちの慶喜)は
2歳のとき水戸へ移り、兄弟や家臣の子らとのびのび育つ。
学問が嫌いで、武芸を好み、腕白坊主であったそうな。
11歳のとき、一橋家相続が決定し、江戸に戻りました。
この年、弘化4年(1847)の9月に一橋家を相続し、
12月には従三位左近衛中将となり、
刑部卿と称し、徳川慶喜と改めた。
(以上、『徳川慶喜公伝史料編』年譜より)

一橋家を相続したことで、清水・田安と共に御三卿となり、
将軍家の身内となりました。
ということで、ここにもうひとりの父ともいうべき人ができました(笑)。
一族のゴットファーザーこと徳川家慶です。

実父の斉昭に溺愛されたことで有名な慶喜ですが、
ここにもうひとり、ちょっとヤバイぐらいなおやじが
彼の人生に登場してしまったのであります。

弘化4年10月朔日に、初御目見えとなりました。
この日は儀式なので、家慶と直接に会話などは
できないのですが、家慶はひとめ慶喜をみるなり、
たいそう気に入ったようでした。
その数日後、慶喜は大奥に招かれます。
(表での儀式じゃあんまりおしゃべりできなかったからです)
『昔夢会筆記』によれば、
以下のような様子でした。

奥御登城の時、今日こそは親しく接見し給うこととて、
慎徳公(家慶)は子供珍しく思し召し、殊更優しくものせられ、
「水戸にては書物は何々を読まれしや、城下の風物は如何に、
今年の作毛は豊なりや」など、何くれとなく懇なる仰せ言あり

              (『徳川慶喜公伝史料編』1 史料番号7 昔夢会筆記より)

そもそも一橋家へ慶喜を養子にという工作には、
阿部伊勢守が深く関わっております。伊勢殿が関われば
当然のことながら、大奥の権勢家(当時)の上臈年寄姉小路が
接待のいっさいを取り仕切りました。
史料番号8~9の、弘化四年十月五日大奥登城に関する史料には、
至れり尽くせりの饗応がされ、
慶喜がまだ子供ということで、「御水菓子」などが
ちゃんと用意されていたとあります(爆)。

家慶はハキハキと元気よく答える慶喜を
本気で気に入っていくのでありました。

「史料番号25 弘化嘉永年間慶公の寵遇に関する談話」には
その可愛がりっぷりが余すところなく口述されております(笑)。

慎徳公一日亀有筋に放鷹し給ひし時、
公(慶喜)、田安卿と共に駕に陪せられしが、
慎徳公は公の未だ鷹の事に慣れ給わぬを御覧じ、近く寄り来て、
「拳は斯くせよ、肱は斯くあれ」など、親しく御手を添へて羽合せしめ給ひ
又一橋邸臨御の時などは別けて打ち解け給ひ、
謡曲の催あるに当たりは、公に謡はせて躬ら舞ひ、躬ら謡ひて公に
舞はしめらるることも屢(しばしば)にて、常に例外なる寵遇を蒙らせ給ふ。
其間における一種の温情は、
さながら父子相對するが如きものあらせらりしとかや。


亀有(そんな近くに御鷹場が)では、
家慶に手取り足取り、鷹の扱いかたを教えられている慶喜だったり、
ついには一橋家に将軍行っちゃうし!
そして御能のときには一緒に舞う・・・・・・・。
史料の最後にあるように、その姿は、さながら実の父子のようであったらしい。

同じ史料にはこんなエピソードも。

泉水(江戸城の吹上にある)に金魚の数多群れ居たるを、
慎徳公御覧じて、公に命じて、思ひのままにすくひ捕らしめ給ふ。
かかることは公の最も得意とし給ふ所なれば、御免といひつつ、
袴の股立高々と括りあげ、すくひ綱手にして池の辺に臨まれしに、
如何なるはづみなりけん、足踏みすべらして、ざんぶと
水中に陥り給ふ。慎徳公は怪我やしつらんと気遣はせられしが、
公が満身水に濡れながら自若として在すをみそなはし、
却ていたく興じ給ひて、ますます寵遇給へりとなん。


家慶にはのちの家定将軍こと家祥という息子がいるのですが、
(他にたくさん生まれたのですが、みな早世してしまいました)
いろいろ問題があって、内気な人です。
慶喜のような快活さはゼロなわけです。
家慶は一緒に外出して、楽しく狩りをしたり、能を舞ったりできる
そんな当たり前のセレブな父子のふれあいがしたかっただけ
だったのかもしれません。
池に落ちてびしょびしょになったわが子と、笑い合う父子のふれあいというのも
味わいたかったのかもしれません。
ですが、家慶はだんだんエスカレートしていくのであります。
嘉永5年、ちょっとした事件が起きます。

それはまた次回!
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by aroe-happyq | 2008-05-26 11:12 | 江戸城の大旦那 | Comments(6)

『徳川慶喜公伝史料編』を読みすすめております。
いくつか紹介したいものがありますが、
今回は以前にも登場した浅野氏祐による談話のひとつを。

『徳川慶喜公伝史料編』一の史料番号80
文久二年七月(?)諸有司に訓諭せられし事に関する
浅野氏祐等の談話


文久2年7月、謹慎を解かれ、一橋家再相続の許しを得た
一橋慶喜は将軍後見職として、政治に参画することになる。
御三卿は大名ではなく、将軍家の親族という立場上
政治的な発言さえできないので、それまで慶喜が表立って
政治に関与することはありませんでした。
(・・・・・井伊大老に通商条約についてクレームしたことが
ありましたが・・・・。これがきっかけで謹慎しました)
その慶喜が復活し、この史料によればその頃(日時特定できず)
江戸城にて、芙蓉ノ間役人(大小目付、三奉行などなど)をあつめ、
演説をおこなった、というのがこの談話の内容です。
時期を考えると、政治家一橋慶喜のデビューの場ともいえなくもない、
・・・・・かもしれません(笑)。

ちなみに浅野氏祐はこの頃、ちょうど御目付から大目付へ昇進
しており、どのみちこの場に参加しておりました。

橋公の御召出しの人は、芙蓉之間役人大勢にてはなし、
大小目付・三奉行位の事なり。但し御黒書院御入側にて御意あり、
なかなか御懇篤の御演達にて、和漢の故事など御引證にて、
一ト時ばかりも御辣陳あり、・・・・・(略)・・・・・・・・・・・
又小栗は徹頭徹尾橋公崇拝家にて、或は心酔に失する程なりき。


省略箇所は文武に通じて実力のある目付の服部という男が、
慶喜公はよほど学問をされたのだろうと・・・褒めちぎった、というような
内容なので、ま、いいかと省きました(笑)。
なぜなら・・・・・・当時勘定奉行の・・・・・・、

小栗は徹頭徹尾橋公崇拝家

なんかもうこれだけでおなかがいっぱいではありませんか(笑)。


実はこの談話はもうひとつの史料(同談話内で紹介あり)の、
「鈴木大日記」文久二年八月十五日の條に、
慶喜が演説し、役人たちは慶喜の口上に
感激し涙を流すなか、小栗は「一橋公あまりに烈し過ぎ候」と
いって褒めなかった・・・・というような内容があり、
この浅野談話は、松平勘太郎とともにこの日記への反論でした。

ただこの日記から察するに、熱い演説だったことだけは
なんとなく想像がつきそう?です(笑)。

話を戻しましょう。
・・・・・この後の小栗の行動をみていると、
ある時期までは、と限定させていただきますが、
心酔していたとする浅野・松平説のほうが有力かと思います。
(まだまだ小栗さんについては詳しくないので、こうでは?などと
軽々しく語れません~~~(汗))

しかし・・・・・政治家デビュー当時から、
慶喜(26歳)は話術だけはすんごく冴えていたことだけは確かですね。


さてさて。
近々『徳川慶喜公伝史料編』にみる、慶喜少年をとりまく物語を
紹介したいと思います。
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by aroe-happyq | 2008-05-25 10:44 | 幕臣系 | Comments(6)

函館新聞大正7年5月13日 第16回


◇平定後の函館
官軍の人、幕軍の人、区内より郡部へかけ、
いわゆる古戦場という関係の物語りは多々あるが、
その函館戦争忠魂碑五十年祭も済んだので、また他日機会をみて、
興味ある種々の物語も紹介しようが、
今度はこれをもってひとまず終わりを告ぐると共に、
一老人の物語られた『平定後の函館』にて、この終わりを結ぼう。
◆最初
徳川の一隊がやってきて福山と戦い、
遂に松前志摩守が津軽へ逃れたのであるが、
同時に永井玄蕃を函館奉行、人見勝太郎を松前奉行に、
松岡四郎次郎を江戸奉行として、
また沢太郎左衛門を開拓奉行に政治を執ることにしたが、
◆横暴は
すこぶる凄まじく、まず密売女の運上(課税)を取立て、
その他博奕よりも運上というの為、博奕は公然に途上に開かれた。
函館だけ通用する金を吹きたて、
一般の難渋をいう事を顧みなかったのみではない、
在家(市中の町家)へは
◆田楽
差しの侍入り来たり、押し借り、乱暴は言語に尽くすべからざるものであった。
それが明治二年の春の戦争となり、
数度の戦いに相互幾多の人を傷つけた結果、
五月七日の撃合と同十一日の大激戦によって徳川方の運命決し、
◆五月
晴れの十九日、榎本釜次郎より諸方へ相談の上、
いよいよ降伏を決した願書が官軍方へ来たので徳川方は榎本を始め、
篭城をした都合六百人は、諸藩の千五百人に前後を護衛されて、
函館へ行列が来たが、大将分だけ十名は駕籠にて
◆一同
大小を取り上られ、称名寺へ三百人、会津屋敷へ二百人、
実行寺と淨玄寺へ百人、都合六百人は今日でいう捕虜となったが、
一度津軽落ちをした清水侍従は、五月二十日雨の降る日ながら、
前後を調練で有川より函館へ着されると、
◆碇泊
をし官軍の軍艦を始め、英吉利、亜米利加の軍艦は勝軍の祝儀と
大砲二十一発を打って、人々の喜びの声と相和し、
翌二十一日は晴の上天気、陽春艦が米や石炭を運んだ。
◆船を
回艘港内へ引いて来ると、その時に居合わせた蒸気船は十五艘、
大和船百艘余り居て町中非常の賑わい、二十ニ日は大森浜へ
八幡宮を飾り立て、諸藩の大調練があった。二十三日は榎本等の
六百人を津軽へ送り、その年限り諸運上(諸税)取立て御免という上に
◆六月
に入ってからであったが、市中を騒がせたとあって、
急場の手当てに米百六十石二斗と、金が四万匹下付され、
一軒について一両三朱と米二升宛配付され、また怪我人へ
手当金十一万二千匹下り、特に困る人へ米五升宛交付された。



以上で全16回、終了です。
せっかくの古老の懐古談ですが、この連載担当者と私のツボが合わず、
もどかしい~~~~~ことの多い記事でしたが(笑)、
箱館戦争の側面を地元の言葉で
語っている一史料として、活字にするほどではなくとも、
ブログで扱うくらいでなら有効かなと思い、取り上げてみました。


とはいえ、最後の回までやられました。
「平定後を語る」と始めたのに、なぜか事のはじまりから語るし(笑)、
占領軍がいいとはちっともいいませんが、平定後は新政府の米と金ばら撒きという、
わかりやすい懐柔策の数字をあげるだけで終わるとわ
(物資ばら撒きは古今東西どこの占領軍もがやる当たり前のお話。
脱走軍も箱館入るなり、永井玄蕃がやりましたっけ(笑))。
……それとも他になにも新政府はしてくれなかった?(笑)
50年たっていい具合に中央集権な政府側の教育(洗脳?)が効いている
……そんな大正の日本人が見え隠れして、近代日本の行く先を知っているだけに、
いろいろ考えさせられる連載記事でした。

これで当ブログの戊辰戦争140年企画はとりあえず終了です。
次は、というよりはこちらがメインですが、安政五カ国条約150周年企画です。
現在8月にむけて、複数の史料を検証しながら、準備中です。
こちらのほうは、↑この記事のようにほろ苦い味わいではなく、
ちょっと幸せな気分になれるような、
面白いドキュメントになればいいな♪と思っております。
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by aroe-happyq | 2008-05-23 09:51 | 箱館または釜さん | Comments(0)

ASHES OF TIME REDUX 予告編

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別バージョンのポスターです。


さてようやくyou tubeで予告編みつけました。
5分以上もありまふ☆


youtube→こちら


いろいろな報道を読みましたが、
再編集といっても、ストーリーの流れは、
前のものとそれほど違いはないらしい(笑)。
増えたシーンはレスリーの戦っている場面ぐらいという噂が。
大きく変わったのは、音楽や、効果音など音響部分、
そして映像の色合い調整などなどらしいです。

たしかにこの予告をみると、ヨーヨーマのチェロが加わっているような♪

しかし・・・・そもそもシネスコサイズ(横長のサイズ)ではなく、
ビスタサイズを無理してシネスコにしているので、
アップシーンの多い、レスリーやマギーの顔が横に膨張しております・・・。
これって予告だけ・・・・・よね??(汗)
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by aroe-happyq | 2008-05-21 17:56 | 香港&アジア映画 | Comments(0)



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群青 日本海軍の礎を築いた男
植松三十里/著
文芸春秋

アマゾン→こちら



「群青」とってもよかったです。
誠実な小説です。内容も濃いです。
読みごたえがあって、まさに徳川海軍好き必須図書であります!

矢田堀景蔵が主人公なので、彼の人生を描いた作品ですが、
彼の周辺人物こと甥の荒井郁之助、榎本釜次郎、勝さん、木村摂津守など
みーんなが私にとってツボツボだらけですので、
全体的に楽しめました♪♪
嬉しいことにこの小説の矢田堀さんの心の師は岩瀬忠震!
なので前半たくさんかっこよく登場いたします(笑)。
初期外国奉行は海軍と関係も深いので、このストーリーでも
堀織部正を除き、みんな登場します♪♪
なかでも永井尚志がここでは水野忠徳をしのぐキレキャラで、
とっても新鮮な永井像でありました。
(わたしの頭のなかの永井さんも岩瀬さんも煙管ぽっぽっやって、
真面目な話にもギャグを入れちゃうような、ややしだらもない系なので
こうして燐とした彼らをみると、あらためて惚れ直します(爆))
榎本ファンにとっては、いろいろ物足りないところもあるでしょうが、
釜さんが主役張ってる小説はいっぱいあるんだし(笑)、
たまには矢田堀先輩に花を持たせてやってくださいっっ☆
徳川海軍ファンからのお願いです♪♪

物語は最期の幕府海軍総裁・矢田堀の歩んだ人生ということで、
この物語は矢田堀の物語であると同時に、
長崎海軍伝習所、築地操練所を含め、徳川海軍の創成期から、
その終焉までを追った徳川海軍の物語でもあります。
大きな組織でもあるので、物語上とはいえ扱うには
相当な調査が必要です。
榎本を主人公にした小説は、途中4年も留学してしまうことから
そのあたりはけっこうぼかして書いているものばかりですが(笑)、
(ちゃんと調べろよといつも思わずにいられないっす)
矢田掘を主人公にするということは、そこから逃げられません。
勝海舟著『海軍歴史』だけを鵜呑みにもできません(爆)。
ということで、相当に困難な作業を経て、書かれた小説だと
思われるのですが、そうした細かい調査と組み立てなどにも、
この小説は誠実さで溢れております。

それにしてもこの小説の主人公は、怜悧な男です。
史実でも「眉目秀麗」な人であり、優等生でもあるので、
設定的にはかなりリアルだと思いました。
こういうタイプの主人公はなかなか動かし辛いかと思うのですが、
この物語ではしっかり成立しておりました。
とくに後半、明治になってから史実でもあるとおり、不遇な日々を
過ごしていく様子は読んでいて、すごくせつなかったです。
徳川時代の職歴を思えば、
もっと活躍できたはず・・・・・と他人もおそらく自分も思ったに違いない。
思えば、矢田堀という人は学問所時代から優秀で、いつも周囲には
できて当たり前の人で、期待されている人でした。
それが働き盛りの頃に、新政府ではうまくいかなかった
(その理由などはネタばれになるので、ここでは触れません。
知りたい方は読んでみてくださいね!)というのは、相当にキビシイですよね。
ちょっと小説で描かれる以上に、いろいろ考えてしまって
涙がにじんでしまいました。

・・・・・本当はいろいろ語りたいのですが、ネタばれ回避ということで、
抑えに抑えてみました(笑)。

正直・・・・幕末小説でお気に入りは少なく、さらに徳川海軍を扱ったものでは
まったくゼロでしたので、やっと徳川海軍もので楽しめる作品がみつかって
ホッとしました。

小説はそれぞれ好みがあると思いますが、私にとっては感動の一冊でした。
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by aroe-happyq | 2008-05-21 10:39 | | Comments(2)