東都アロエ

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アジアンエンタメ&お江戸後期。外国奉行や長崎海軍伝習所がご贔屓☆ BYはな。

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歴史のもしも

BS11で放送中の「歴史のもしも
日曜日の11時台にやっているときは毎週のようにみていたのですが、
8時台になってから、録画を忘れるようになっておりました。
で、前回は27時間TVをみていて篤姫さえ忘れる始末、
とうていこの番組の録画など・・・・(涙)。

しかし再放送を録画することができまして。香音里さんありがとう!!>私信

さて、待ちに待っていた今回は・・・・・。

もしも諸外国が五稜郭政府を承認していたら

毎回、歴史の夢を語り合うこの番組に、ついに釜さん登場!パチパチ☆

司会は 麻木久仁子さんと安田清人さん、
ゲストは 富樫倫太郎さん、榎本隆充さん。

富樫氏は函館のかた。こちらの地元には不人気な釜さんであります。
のっけから「(五稜郭政府の存在は)函館にとって災害だった」
「でも今じゃ観光名所」と辛口トーク。
この番組は1時間、頭のなかを妄想いっぱいの夢畑にするのが常ですが、
なにやら心配に・・・・(笑)。

恒例の履歴書コーナーからはじまりました。もちろん榎本釜次郎の履歴書です。

趣味    米のスープ(酒)

自己PR  愛妻家 ヨーロッパ留学経験有り

ニックネーム 万能人


ゲストの榎本氏の「趣味(お酒好き)だけは受け継ぎました」という発言に、
なんだかめちゃめちゃ受けました(爆)。

それから榎本氏が持参された
榎本釜次郎の獄中詩、文章などなどのコピーが披露されました。
(いつか本になったら、嬉しいのになぁぁぁぁぁ)
獄中詩は講演でも有名なあの詩(「国為」に・・・横書きのある)でしたが、
石鹸の作り方論文(きれいなアルファベットの綴りですね)のなかの、
石鹸をつくる図???みたいな絵がありまして、それがめちゃ可愛い絵でした(笑)。
この絵をみて、司会の麻木さん「親類のために書いたこの石鹸の作り方が
、のちに某化粧品会社にいったという話もありますが・・・」って、
さすが雑学王~~~~!!!(笑)
「榎本武揚は一説では日本のダビンチと言われていると・・・・」
などなど楽しい話、そして簡単な戊辰戦争のおさらい、
そして五稜郭政府の顔ぶれ紹介などの前半戦が終わりまして。

さて、本題の「もしも~だったら」。

○ロシアなどの協力のもと、五稜郭軍は勝利!
              ↓
○五稜郭政府は大日本帝国と友好条約を結び、隣国として発展。
              ↓
○アジア初の共和国として東アジアの盟主となる


・・・・今回の「もしも」はいつになく、ザ・大風呂敷~~~~っっ!!!!
日本だけじゃなく、アジアをも巻き込んでいるーーーっっ(笑)

さてさて、以上のテーマでドリーム・トークが始まりました。

富樫倫太郎さんは、「イギリスは薩長、アメリカは南北戦争、フランスも自国のことで
忙しい。ロシアなら領土的野心むき出しの国なので喜んで五稜郭政府に協力したとも
考えられる」と。
榎本隆充さんは「そもそも旧幕臣は戦うために箱館にいったのではない。
失業武士の蝦夷への入植が目的で、新天地を目指した。
旧幕臣に蝦夷を開拓させてくれと明治新政府に数度も嘆願書を出していた。
また徳川艦隊を率いていったのは、ロシアの南下を防ぐためであり、ロシアと協力
というのは危険。また独立国家をつくるつもりもなかった。
もしも(今回のみっつ)・・・・のような条件がそろったら、津軽海峡を封鎖するなど、
戦争を回避するほうへ外交もやったはずなので、「勝利」するしないは関係ない」

・・・・・榎本さんのお説にいちいち頷いてしまいました。
旧幕臣・・・・とくに榎本周辺(陸軍には詳しくないですが海軍関係はきっと)は、
内戦は×、「避戦」あるべし、でしたから、資金(涙)と軍艦開陽と外交さえついてくれば、
この流れはあったかもしれません。
こういうあたりに、この番組の楽しさがあるんですよね♪(妄想トークですけどね)

だが、番組のトーンは夢畑から嵐が丘へ・・・・。

富樫倫太郎さんが「(今回のもしもが実現していれば)西南戦争もなかったかも」
と言い出すと・・・・。以下、トーク内容を簡単にまとめてみました。
戊辰戦争が意外にもあっけなく終わったので、明治維新の革命エネルギー
が放出しきれず、対外へとむかった。西南戦争でも終わらず、
日清、日露と戦って、日露戦争に勝利してしまったため、ついには太平洋戦争まで
流れができてしまった。
薩長は北進論、榎本は南進論だったので、五稜郭政府が存在しブレーキ役に
なってもらえていたら、大陸侵略はなかったかもしれない。


夢というよりは愚痴に・・・・(笑)。

そのまま〆となりまして、ゲストはそれぞれフリップを出して。
富樫倫太郎さんが「80」という数字を書いて、
「五稜郭政府があれば、明治から80年の日本の歴史が違っていたのでは」と。

榎本隆充さんは「蝦夷の夢」と書きました。
「蝦夷の夢、武揚の夢が叶えば、太平洋戦争も回避できたかもしれず、
平和のままの繁栄があったかもしれない」

最後まで夢と希望でいっぱいの戦国武将系の「もしも」と違い、
近代の「もしも」って近い時代だけに、現代の実生活に直結することもあってか、
なぜかブルーなままで終わりました(笑)。
ちょうどこの録画を見終わって、ビデオ画面からTV画面にスイッチを切り替えると
NHKの「兵士たちの証言」やってたりして。泣きたい気分になりましたです、はい。

大陸侵略や太平洋戦争の回避・・・・・という日本の命運を左右する
とんでもない使命を課せられてしまった五稜郭政府(笑)。
釜さんや太郎さんが「そんなことまで責任おえない」とあの世で笑っていそうです☆

ただ最後にひとつ。
よくいわれている、榎本が総裁になるのに入れ札(選挙)を行った事は
近代的だ・・・・とありますけど、
徳川時代の柳営の人事ではけっこう古くから入れ札やってたのです。
アメリカの大統領選挙を模さなくても、日本には投票制が近世からあったわけで
入れ札=近代民主的という説はいかがなものかと思います。
・・・今回も何度かこういう話が出てきたので、ちょっと付け加えてみました。


以上でレポ終わります。
ホントはこんな手間をかけず、録画したものをお貸しできればよいのですが
うちのレコーダー・・・。1回録画&ビデオモードダビング不可能(VRモードのみ)という
使えないやつでしたので、レポってみました。
つたない記事でしたが、どうかお許しを~~~~。
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by aroe-happyq | 2008-07-31 11:16 | 箱館または釜さん | Comments(4)

西郷どんて

幕末の知識は、すーっかり、西低東高の気圧配置のままの私。
天領を除いて、箱根の関から西の情報は極めて一般常識程度しか
持ち合わせておりません。
いずれはちゃんと調べるつもりではあるのですが・・・・、
江戸の濃い情報の渦に巻き込まれたままでござんす。

さて、本日は朝からたいそう暑い日でしたが、
それ以上に頭のなかがHOTになる気になるものをTVでみてしまいました。

チャンネルをぱっぱと変えていて、偶然みつけたのですが。
テレ朝の朝の情報番組で、西郷どんの本当の顔を探す、みたいな企画でして。
そこに出てこられた南州記念館?の方が・・・・・・

「西郷さんは美男子でしたから」

と事もなげに、至極当たり前といった感じで、おっしゃっていたのですが、
なにせ、一般知識しかないんで、

えええええええええーーーーー!?そうなの?????

と本気で驚いてしまいました。

たしかに大奥向きの工作をしている男は、
上野の銅像のような濃ゆい系よりは、端整なお顔のほうがいいに決まっております。
御殿様の御目にも止まりましょう。

・・・・・・・だけど、なんだかびっくりでした。
すごいカルチャーショックでございますよ!
西郷さんの背景に薔薇が咲いちゃうようなイメージが一ミリもなかったので。
それとも最近では「西郷さんてハンサムなんだよね」はジョーシキなんですか???
それとも地元だけの秘密???

だって、それなら・・・・今映像で氾濫している、あの顔は、
天の西郷どん的には「不合格」なんじゃないの????みたいな(笑)。

こうして一日が過ぎていきました(笑)。
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by aroe-happyq | 2008-07-29 20:06 | 広く幕末ネタ | Comments(2)
安政5年6月19日(グレゴリオ暦1858年7月29日)、
神奈川沖軍艦ポーハタン上で、日本側全権井上信濃守清直・岩瀬肥後守忠震と、
アメリカ側全権タウンゼント・ハリスのあいだで日米通商条約が調印されました。

なんだか最近も紹介しましたが(笑)、あらためてリピート。
当日の様子はNYタイムズによる記事を紹介したこことか
こちらをご覧くださいませ。

この後、ぞくぞくと各国使節がやってきて、
通商条約調印ラッシュがはじまります。
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by aroe-happyq | 2008-07-29 10:00 | 五カ国条約150年 | Comments(0)
阿部正弘さんというと、老中在任中に住んでいた辰の口屋敷が有名です。
(老中・若年寄が屋敷を与えられている大名小路の官邸)

今回は阿部正弘が6歳から25歳まで住んでいた、
小川淡路町の屋敷のほうを探訪してまいりました。

年譜(『阿部正弘事蹟』)を確認すると。

文政2年(1819) 正弘、江戸西丸下官邸に生まれる。

文政6年(1833) 阿部正精(正弘の父)老中を辞す。
            西丸下官邸を環納し、小川町邸を給せらる(11月)。
   7年(1834) 正弘6歳、正月、父に従いて小川町邸に移る。

天保14年(1843) 正弘、老中に列せらる。
             辰口官邸(堀田邸)を給せられ、小川町邸の納付を命ぜらる。

とあるように、正弘の引越し歴は官邸→小川町屋敷→官邸が基本でした。
(このほか、火事や災害で一時避難して住んだ屋敷もありますが)
官邸とは違った小川町邸は、阿部伊勢さんにとって、
とても思い出深い屋敷ではなかったのではないでしょうか。


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いきなりですが、ここは淡路広場です。

ここが阿部家屋敷のほぼど真ん中であります。

広場に「淡路町二丁目」の由来についての説明版があったので、
これを目印に行ってみてくださいね!

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現在地については、↓を参照ください。

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この酒井修理大夫屋敷の前が阿部邸でした(その後もまた阿部邸になったらしい)。
大名も旗本も引越し多いです・・・・。


古地図をみると、阿部邸の横の道は坂になっていて、
「幽霊坂」という名前だったのですが、この坂現存しておりました。

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この坂と淡路広場・・・・それなりに距離があります。
阿部邸の大きさがよーくわかりました(笑)。

さて、この場を借りて阿部正弘の知り方、についておさらいをしたいと思います。

接ブログへお越しの方々の検索ワードでも上位ランクインしている阿部伊勢守、
ということで恐らく阿部さんをもっと知りたい方もこの記事をご覧になって
いらっしゃるはず!
いままでちょこちょこ書いてきたのですが、まとめてみました。

いちばんの近道は『阿部正弘事蹟』を読む!これにつきます♪
いろいろな巷説本の本ネタの99%はこの本からの引用だと
申上げても過言ではありません!
が!!!・・・・・買うと目が飛び出るほど高い本なのです(涙)。

そこで便利なのが国会図書館の近代デジタルライブラリー
阿部正弘事蹟もしくは阿部正弘と入力するだけで、
今では全文が公開されておりますので、ここでじっくり読めます☆

この『阿部正弘事蹟』には正弘氏の個人的エピソードもたくさん収録されておりますので、
功績だけではなく、その人間像も垣間見られるかと思います。

活字だけではなくビジュアルを楽しみたいという場合には、

d0080566_149121.jpg
広島県立歴史博物館の発行した図録『阿部正弘と日米和親条約』→
がおススメです。

正弘は父の正精のように絵画(洋画まで!)好きというわけでもないので、
直筆の「字」ぐらいしか作品はありませんが、それを眺めても楽しそう♪という
ファン道まっしぐらの方には必須の図録です(笑)。
古本屋さんまたは、
こちら博物館のサイト、
ミュージアムショップの「その他の商品/企画展示図録」をクリックして、
購入方法を確認してみてくださいまし。

最後に口直し?に、阿部邸の近所の有名な坂をもうひとつ。

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・・・・・ここらあたりも坂が多いです・・・・。
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by aroe-happyq | 2008-07-28 14:50 | お宅探訪シリーズ | Comments(2)
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今では道路の真ん中・・・・・です(笑)。
かつては小川町雉子橋通とよばれた一帯です。



戸川って誰?・・・・・というくらい現代では知られておりませんが、
戸川中務少輔安鎮という人のお屋敷です。

正確にはこの人は部屋住のまま亡くなったので、
名義は父親の戸川播磨守屋敷、となっております。

これまでもなにかのついでに紹介してきた戸川安鎮でしたが、
今回は多少以前の重複もありつつ、まとめて紹介したいと思います。

安積艮斎の門人で、たいそうな切れ者だったそうですが、
慢性の持病(脚気との噂)があって、才能を活かしきれなかった人です。

文政8年(1825) 西丸書院番から小納戸へ
天保3年(1832)西丸目付
天保8年(1837) 本丸目付
天保10年(1839) ニ丸御留守居
弘化2年(1845) 西丸目付
弘化3年(1846)本丸目付 海防掛 勝手掛
嘉永6年(1853) 6月 海防掛辞
嘉永7年(1854)5月 辞

(小川恭一著『寛政譜以降旗本家百科事典』より 少々付け加え有)

本丸目付→ニ丸御留守居のときは、
病気が悪化して一時期、仕事を休んでいたのですが、
彼の才能を惜しむ、阿部伊勢守がちょっと強引に
激職の本丸目付復帰、それどころか、海防掛に
勝手掛・・・つまり目付筆頭(首座)にしてしまいました。
その後、鵜殿甚左衛門が首座になるまでの数年間、
目付衆を仕切っておりました。

「嘉永6年(1853) 6月 海防掛辞」というのは、
そうです、あのペリー来航の最中でした。

『藤岡屋日記』5巻、P477には、
6月8日に御目付堀織部が急に浦賀附近へ見分にいくように
命じられておりますが、その横に

但、昨夜七日、戸川中務少輔江被仰付候処、急病ニ而歩行不叶(かなわず)
右ニ付代り被仰付之。


戸川が急病で歩行さえ困難ということで、堀が代役で行くことが
書かれております。
このすぐ後、海防掛を辞めております。

この件については『川路聖謨文書』6の「房総海岸巡見日記」にも

廿八日 ○戸川中書脚気不宜(よろしからず)其上吐血也。
       この人難得(えがたき)人物に付
       左衛門尉(川路のこと)殊之外に心配いたす


と川路聖謨も出張日記の最後で触れております。
戸川は脚気のうえ吐血したとのことで、本来なら目付そのものを
辞めて治療に専念したかったのかもしれませんが、
「難得(えがたき)人物」ということで、辞職はさせてもらえなかったようです。
実はこうしたなか、自分の代わりにと阿部伊勢守に推薦していたのが、
堀織部、永井尚志、岩瀬忠震でした(『江戸』5巻 木村芥舟「燭籥記」)。

御目付というのは選ばれる際、目付衆内で入れ札によって候補者を絞るので
戸川のような目付キャリアが推薦すれば大抜擢も可能でした。
・・・・・つまり、この3人のファンとしては戸川安鎮は恩人のなかの恩人(笑)
なのです☆

しかしこうして若い目付を入れても、辞めさせてもらえなかったようで(汗)、
ペリーとの和親条約のときも病身をおして、激務をこなしていたようです。

木村芥舟の「燭籥記」には、

当時海防の議、大に起り鋳砲製艦諸工事輻湊し日夜奔走督責して
安眠するの暇なきにより宿痾まさに大に発して終に起□□
人皆之を惜しめり


・・・・・今でいう過労死でございます。
嘉永7年(1854)5月に辞職して、その年の秋には亡くなられたよし。

ところで、戸川安鎮は木村芥舟家と親しく、
ことにかなり上級の刀剣マニア同士・・・・・趣味の友人だったようです。

『横浜開港資料館紀要』11号「幕臣木村喜穀あて書簡」のなかに、
戸川安鎮から木村喜彦宛書簡が収録されております。
木村喜彦とは木村芥舟(喜穀)の父。御浜奉行をやっていた人です。
書簡の内容も、ひたすらに刀の話。なんだか虎徹の話題も出てきます(笑)。
(この書簡だけ読んだら、戸川安鎮はとんでもない刀好きの道楽旗本
だと思われてしまうかも・・・です)


最後に、新参目付の頃、世話になったはずの永井尚志による戸川評です。

目付役之首坐ニ居、性質正直ニ而、人才登庸を重んし、目付役ニ者適当之人物、
中年ニ而死去致候て、可惜事也。


(河内八郎「伊達宗城とその周辺ー続ー岩瀬忠震・永井尚志ほか」 『人文学科論集』
23号 1990.3)
この書簡について詳しくはこちらへ

どうも目付という仕事は「性質正直」な人が適任のようです。
鵜殿も、堀も、永井も、岩瀬も、木村も、みんなまっすぐな人ばかり(笑)。
書類を懐中に入れてはならない、手に持て!というような公明正大さを
求められる職場だけに、それは当たり前のことなのかもしれませんが。
・・・裏工作好きな鳥居甲斐守のようなタイプは×ですね。

川路や木村、永井が惜しむように、
戸川安鎮がもしも健康な人だったら、ひょっとしたら幕末の柳営も
少し違っていたかもしれません。
世間的には無名な戸川は史料もすくなく、実態を捉えることが
できそうもありませんが、それでもなぜかファンの幕臣のひとりなのです。
(私の場合、贔屓の幕臣が多すぎる・・・・・・んですけどね)
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by aroe-happyq | 2008-07-26 11:39 | お宅探訪シリーズ | Comments(0)

アクセス解析

昨夜の地震、東北地方のみなさん、大丈夫でしたか???
東京もちょっと揺れました。
たまたまNHKをつけていたので、緊急地震速報をはじめて経験しました。
これって、TVのみられない位置できくと、ものすごくビビリますっっ。
かくいうわたしめは風呂場にいたわけですが、
「強い揺れがきます ご注意ください」みたいなことを連呼されるだけで、
どの地域とかは画面表示みられないとわからない!!
思わず、自分とこかと思って覚悟しちゃいました(涙)。

そしてこの暑さで、史料ものの記事をUPする気力がなく、
またもや世間話でございます(汗)。


さて。
画像の要容量を増やしたくて、2ヶ月前にネームカードというーもの
を作ってみたのですが、ついでにアクセス解析もできるようになりました。

んで、・・・・・なんでかわかりませんが。

検索ワード、ぶっちぎりの1位、2ヶ月不動の1位がですね、

「ラストコーション」

なんですよ(笑)。ひとケタもちがうんです・・・。

以下、今日現在は・・・・・
「阿部正弘」
「家茂」
「釜次郎」
「榎本武揚」
「小野友五郎」

・・・・・・となっております。
(一時期、「岩瀬忠震」がランクインしたのですが、すぐに消えてしまいました(涙))

そーんなにたくさん「ラストコーション」記事かいてないんですが、
幕末の江戸のみなさん総がかりでも、
1本の映画に勝てないっつーのはどゆことでしょう??(笑)

「幕末お江戸とちょっぴりアジアン。」という看板のブログなのに、
すんごくアジアンな感じじゃないですかっっ。

とはいえ、1本の映画に負けじと、
常に攘夷・・・いえいえ、上位ランクをキープしている
阿部伊勢さまもいたりしますが。
・・・・阿部さん。ひょっとして、なんか↑きてます??
(ほぼ一年前に同じようなことを口走ったような記憶が)

榎本&小野と、海軍組もわりとキープしておりますので、
うちのブログとしては、なんとか面目を保っておりますなぁ・・・・・。

しかし!外国奉行組にももっとがんばってもらわねば。
まずは岩瀬忠震の上位キープ・・・・・・・を目指したいところです☆←ひそかな野望!
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by aroe-happyq | 2008-07-24 09:56 | ほんの世間話 | Comments(2)

本当によかったです☆

ちょっと香港芸能ネタでございます。
昨日はネットを回れなかったので一日遅れではありますが(汗)。
(・・・・10月挙式って情報を鵜呑みにして、チェック甘かったっす)

昨日、無事にトニー・レオン(梁朝偉)とカリーナ・ラウ(劉嘉玲)が
ブータンで挙式をあげたよし。

ようやく!!!!ですが、めでたい♪♪♪

ニュース記事(日本語)→ここ

ニュース動画(中国語)→ここ

なぜブータンで、さらに僧侶のまえでウェディングドレス!?
・・・・・と記事のほうの写真をみると、かなり????なところもありますが、
動画のほうをみると、ブータンの衣装バージョンもあった・・・・・。
(なんだか映画のワンシーンのように美しいですぞ、カリーナ姉御♪)

一部情報ではドレスのデザインはウイリアム・チョン(張叔平)だとか。
・・・・それだけでもじっくり写真を眺めてみたいものです(爆)

王家衛夫妻、王菲、胡軍、林青霞、關錦鵬、張震、狄龍・・・・などなど出席者も多彩で、
このご夫婦のキャリアの長さをしみじみ感じました。

20年来のおしどりカップル(途中、ちょっとゴタゴタもありましたが)でしたけど、
なかなか結婚にまで至らなかったので、本当によかった!!!!!

トニー・レオン(梁朝偉)ファンとしては、カリーナさんのサポートなしでは
不安で仕方がない!ぐらいでしたので、これでようやくホッとできます。
・・・最近はビジネスに忙しいようですが、
たまにはカリーナさんの女優魂もみたいであります!
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by aroe-happyq | 2008-07-23 10:40 | 香港&アジア映画 | Comments(4)
昨日から函館博物館で始まりました。


没後100年「榎本武揚-箱館戦争の光と影-」
2008年7月19日(土)~8月31日(日)



この特別展のポスターはまたすんごくかっこいい!!!
香音里さん宅でみられますヨ♪
(博物館でもUPしてくれればいいのにっっ)
【追記】こちらで記事&ポスターみられます☆

d0080566_17471318.jpg



この展示会期間中の夏の北海道は旅費がかさみますが、
(シーズンオフが好きな自分としてはいささか不本意)
この特別展のために(だけじゃないけど(爆))
函館にいくことになりそうです。
小樽がムリだった分、こちらで釜さん祭りしてこようと思います(笑)。
(しかし。函館つーと、どちらかというと堀織部正&村垣祭り???)
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by aroe-happyq | 2008-07-20 09:44 | 箱館または釜さん | Comments(10)
ナショナルジオグラフィックというチャンネルで、
ユアン・マクレガー大陸縦断~バイクの旅」という番組があります。

ユアン・マクレガーと親友のチャーリーがバイクに乗って、
(親友のチャーリーって誰って?・・・・つまりは親友のチャーリー(笑))
イギリスからイタリアを経由して、アフリカ大陸を横断しケープタウンを
めざすというドキュメントなのですが・・・・。

基本的な画面は、二人がバイクで道路をぶっ飛ばしている後ろ姿なわけで・・・・

つまりは、「水曜どうでしょう」な番組です(笑)。

しかし!スター・ウォーズにも出ている一流英国人俳優の
ユアン・マクレガーともなるとですね、
カメラは少なくとも3台以上準備され、
伴走の車は二台、専属医師同乗、食事・ホテル・出入国のコーディネーター
などスタッフが万全の体制でサポートしております。

・・・とはいえ、政情不安もあり、野生の王国でもあるアフリカ大陸を横断ともなると
これぐらいの装備をしていかないと、危ないですけどねっっ。
間違っても、4人きりで、カメラ一台・・・・ではムリな話ですねっっ。

しかしそういう環境なので、バイクのユアンと後方のスタッフとの
「スズムシ!」とか「このカブトムシがーっ」とかゆう、
喧嘩・罵り合いなどはまったく起こりません(爆)。

なんか、
それがすごく物足りない自分ってヘン????


でもバイク旅をスタートしたとたん、
「ゴールしたときの事を考えていた・・・」
というあまりにも気の早いユアンのナレーション等々、
けっこう天然系で面白いデス♪

今夜の放映回はまだ3回め。
早くユーラシア大陸を脱し、アフリカ編にならないかな♪というところです。
(なんだかんだといって、楽しんでいるのでした☆)

【追記】
3回目で、ある「旅中法度」が制定・・・・。

ウィリーは禁止!(笑)

チャーリー「ウィリーはダメ?」
スタッフ「危ないから、やめてくれ」

ウィリーという言葉が出てくるだけで爆笑な自分はマジでヤバイです(汗)。
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by aroe-happyq | 2008-07-19 10:50 | ほんの世間話 | Comments(0)

設楽弾正の嘉永6年 

設楽弾正って誰!?くらい久しぶりの登場です。

岩瀬忠震の兄の子、つまり甥ですが・・・・・、
設楽家を継いでいた岩瀬兄設楽温之助が領地関係のトラブルで廃嫡となり、
幼い貞晋が、温之助の父の養子という形になって、設楽家を継ぎました。
(戸籍上では岩瀬と兄弟ということになります)

今まで、こことかここ前島密の下宿先になったりとか、こんな意外な人脈のある人として、紹介してまいりました。

先日、『江戸』2巻の「昌平学科名録」という、学問吟味合格者名簿を
読み直していたところ、

嘉永6年 甲科三人、乙科35人及第のなか、

乙科 小普請組 徳永伊予守支配 設楽弾正

・・・・いました。だいたい二十歳くらいです、弾正さん。

もしかして、できる男??(爆)

この嘉永6年度の学問吟味では榎本釜次郎、
そしてひょっとすると荒井郁之助(次回の安政3年かもですが)
が撃沈していたようですが・・・・。


さらに同じく嘉永6年、『藤岡屋日記』5巻417Pをみると、

○十一月十八日

大目付、伊豆守総領 御目付
                    堀織部娘

小普請組 徳永伊予守支配  設楽弾正江


御公儀から婚儀の許可が出ておりまして、
つまりこの頃、弾正は堀織部の娘と結婚したようです。

つまり、嘉永6年という一年は、ペリーが来て幕末のはじまりですが、
二十歳の設楽弾正にとっては、学問吟味に及第、そして結婚という
素晴らしくもめでたい一年だったようです☆
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by aroe-happyq | 2008-07-15 10:55 | 幕臣系 | Comments(2)

アジアンエンタメ&お江戸後期。外国奉行や長崎海軍伝習所がご贔屓☆ BYはな。


by aroe-happyq