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東都アロエ

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箱館に思いを馳せて

昨日、帰府いたしました。

旅行当日、26日は150年前の調印の日。
モノレールから品川沖を眺めて感無量でございました(笑)。

さて、今回の旅はくもりときどき晴れに恵まれ、
(夜中以外は暖かく、歩きまわって汗ばんでしまいました)
新調して持っていった折りたたみ傘を一度も開くことなく終れることができました。
ひとえに持参した上野東照宮のお守りと神田明神の数珠ブレスレット(笑)の
ご加護によるものかと思われます。

今回の旅のテーマは「幕末開港都市・箱館 堀織部正から榎本釜次郎へ」。
なのでちょっと箱館戦争はメインではなく、
幕末開港都市としての箱館を箱館奉行所を柱にしてみてあるきました。

今回印象深かった点は2つ。

ひとつは榎本武揚展がとても充実していたことです!
函館まで足を運んでよかったです。

こーゆー展示会を開催してくださいよ、江戸東京博物館!!!
たしかに大砲は輸送がたいへんそうですけど、
そのほかのものはカンタンに運べてよ!(笑)

あと、2日ですが、
お近くのみなさん、観て損はさせません。
ぜひぜひ、函館博物館の榎本展、行ってくださいませ☆

そして、2点目は堀織部正のがんばりぶりを実感!!
昨年、『幕末外国関係文書』を読んだときに感じた、
織部正個人名で出された上申書の熱さそのままの実行力でした。
行く前の予備学習で、五稜郭、弁天台場など大規模な公共事業、
箱館通宝の(銭座開きでございます)鋳造・流通、
諸術調所(ホントは海軍伝習所もやろうとしていた)開設などを、
ガンガン推進していたのは知っておりましたが、
たとえば箱館焼き(陶器)をはじめたり、刀剣鍛冶の招聘などをおこなったり・・・・。
(箱館焼きは奉行所名での産業育成ですが。つまり村垣&竹下もとても
がんばったわけですね♪)
そこまでやっていたのか、知らなくてすまん!でございました。
箱館という国際都市の産業育成にも力を注いでいたのが伝わってきて、
織部正、ホントに箱館を愛していたのだなぁと思います。

・・・・・そして、これだけ国費つかえば、そりゃ阿部正弘とも衝突するわな、
大喧嘩するわな・・・・・・(笑)、と思いましたが。
北辺の護りにしては出費多いっす、堀さんたち・・・箱館奉行所(笑)。
(そこまで幕府は命じていないっしょ、みたいな当たりまで完全にやってる)

なんですか、函館ではサカモトリョーマで町興すんですか?
なんか十字街駅のところに準備室がありましたが。
行こうと言っててこなかった男より、この奉行の実行力をみてくださいまし。
サカモトの前に、箱館奉行なんじゃないの?なんて思いました。

あらためて堀織部正に惚れ直した旅でもありました。

レポはおいおいにUPしてまいりとうございますが、
函館の坂、そして想定外に雄大な道路の広さに足腰がやられてしまい、
しばらくはスローなリズムでブログ復帰していきたいと思います。

さて、以下はまったく歴史と関係ない「雲」のはなし。
昨日、夕方便で帰府したわけですが、
東北地方の美しい雲海とうってかわって、北関東上空の積乱雲の
大迫力に圧倒されました。
とんでもない上空まで太い柱のようにそびえたつ、グレーの雲。
中央部では雷が光っておりました。
それが2本も3本もあるのですよっっ。
ちょうどその真横を通っていた飛行機が急上昇してその雲をよけていきましたが、
人智の及ばぬ、なんともいえぬ自然の恐ろしさを観させていただきましたです。
(あとでニュースをみたら、その雲の下は豪雨だったとか)
夏の終わりにこんなハイテンションな雲をみようとは。
やはり、ちょっと気象がおかしいのでしょうか?

飛行機って最近は事前予約で即、席も選べますが、
わたしはいっつも窓側です(笑)。
昨日は外をガン見すぎて、首が痛くなってしまいました(汗)。
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by aroe-happyq | 2008-08-29 10:50 | 箱館または釜さん | Comments(6)

帰ってきました

d0080566_22415676.jpg

本来ならちゃんとパソコンから投稿すべきところですが、携帯から失礼します。
思いがけず得られた戦利品でーす(笑)。

ビバ☆箱館奉行所!

……背景については後日また!!
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by aroe-happyq | 2008-08-28 22:41 | Comments(6)

甲板にいます

d0080566_1531819.jpg

江差に着いたらだんだん晴れてきて、開陽と楽しんでいますが、ちょっと暑いです。

実はこの写真は二時間前のもの(笑)。
ずっと開陽付近にいて…横川家にいったけど、その他の江差観光をほとんどしないままになりそうです。
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by aroe-happyq | 2008-08-27 15:03 | Comments(0)

函館です

d0080566_13403825.jpg

携帯から投稿してます。
くもりですが、雨っぽさはありません。
これから博物館にいってきます☆
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by aroe-happyq | 2008-08-26 13:40 | Comments(2)

8月26日(1858)
安政5年7月18日 晴天 江戸(品川)

いよいよフィナーレです!
おそらく日英交流史のなかでもっとも幸福だった一日ではないでしょうか。
(日英同盟時代よりも、です(笑))

すっかり日本に酔っ払ったオリファントの筆はますます滑らかです。
『エルギン卿遣日使節録』によれば、英国人たちはすっかり西応寺の僧侶や、
警固の役人たちと親しくなり、いつまでの思い出の品の交換が続いたとか(笑)。
互いに寂しい、また会おうと言い合っていたようです。
(この後の攘夷ブームの世の中を思うと、嘘のような光景であります)

さてオズボーン艦長もこの日のことは、いろいろ書き残しております。

栄之助に言わせれば、イギリス使節団はロシアやオランダ、
アメリカの使節団を、はるかに凌駕する品行ぶりだったそうで、気をよくした。
日本では外国人にお世辞を言うようになったのでなければよいが! 

(新異国叢書4『スポルディング 日本遠征記/オズボーン 日本への航海』(雄松堂)227P)


まったくのお世辞です!(断言)

さて、調印の日ということで、
恒例となった将軍からの饗応料理が西応寺に運ばれました。
こんな賑やかな最中、思いがけないゲストが登場。ジョン万次郎だ。
ところが彼の評判が英国使節に悪いのなんの・・・・。
「ああ!もちろん月だって測れたさ!」といって計測器が使えなかったり、
日本から出たことがないなどなど、オリファントいわく「嘘つき」だとのこと。

出遭った日本人の中でもよりによってただ一人好きになれない人間が、
キリスト教徒の中で生活したことがあったとは、憂鬱に思われることだった。
               (『エルギン卿遣日使節録』230P)

さて調印の様子はというと、以下のとおり。

条約の調印は厳粛にまた慎重に行なわれた。…(略)……
しかも委員たちの中には、とりわけ几帳面にきれいな署名を書き、その名を表わす
象形文字(花押のこと)をきわめて念入りに塗り上げる者もいた。
ある人々は、たとえば友人の肥後のように、
イギリスで誰かが彼の手蹟をそっくりまねて書こうなどという
懸念は全然持たず、筆で書きなぐった。
    
       (『エルギン卿遣日使節録』214P)

性格が出るものです(笑)。
この几帳面な人は水野かはたまた永井だろうか??
この調印の最中、品川沖からなにやら礼砲が発せられておりました。
この日はビクトリア女王の夫アルバート公の誕生日とか。
そのため、英国船はすべて旗で飾られ、それは華やかな様子だったようです。
この正午の礼砲で、江戸の人々が活気づき、これからはじまる贈呈式をひと目
みようと、品川の海岸はとんでもない騒ぎになりました(笑)。

さて調印直後、例の写真が撮影されました。
その様子は、大山瑞代「ナソー・ジョスリン書簡集」
(『横浜開港資料館紀要』17号 1999年)を頼りにみていきたいと思います。

ところで、日本の交渉委員の写真を送りましたよね。ちょうど条約を締結した
直後に、かれらが出てきたところを撮ったものです。
左側で裃を着けているのが「もりやま」という通訳で、非常に知的な好人物でしたが、
気の毒に突然の呼び出しで体調がすぐれなかったらしく、
じっと座っていられなかったため老けてやつれて見えます。
他の六人はわれわれと交渉に当たった委員で、全員が裃を着けず、
絹で銀色のポプリンでできた乗馬用の衣装を着けていました。
・・・・(略)・・・・写真が英国まで無事であることを願っています。
来年条約批准のために、この連中が渡英しますので、彼らが
写真どおりであるかどうか見ることができるでしょう。
      
      (1858年10月4日 付書簡より)

森山多吉郎は英国使節すべての皆さんのお気に入りでしたが、
ジョスリンは殊のほか、森山が好きだったみたいですね☆
写真を家族のもとへ送ったらしくその写真の解説が語られております。
どうやら裃姿を写真に収めたかったらしく、
交渉委員が羽織だったのでちょっとがっかり?したようです(笑)。
(森山だけ裃だったというのも、さらに好感度↑だったかも)
そして私も「来年条約批准のために、
この連中が渡英」してほしかったです、まったく。
さて、この前の手紙に気になる一文がありました。

私は日本人の交渉委員と宿舎に訪ねてきた日本人の大変貴重な写真を撮りました。
それに使った写真機は例の「若い台風」にやられてひどい状態になったのですが、
江戸で使えるように私がなんとか手入れをして間に合わせました。
                (1858年8月末 付書簡より)

どうやら写真機が台風による浸水で壊れていたらしい。
その写真はこのとおりです
それで岩瀬&水野の顔がぼんやりに???(涙)

なんてこった!

・・・さて、そんなわけで調印&写真撮影も終了。
いよいよ、品川海上でおこなわれる、エンペラー号贈呈式がはじまります。

三時頃、女王陛下のフュリアス号の翔将官艇が、イギリス大使と随員たちを乗せて
陸から離れるのが見られ、同時に日本の舟が正装した委員たちを乗せて、
快走船に向った。後者の紳士たちの衣装は普段にもましてりっぱなもので、
特に、海軍司令官卿(外国使節間での永井のニックネーム)の衣装は
みごとだった。

(新異国叢書4『オズボーン 日本への航海』(雄松堂)232P)

永井の意外な一面です。こういう時に気合いれちゃう人なんだ!みたいな(笑)。
(隠れ伊達男だったりしてっっ(汗))
さて岩瀬愛を貫く(笑)、オリファントの記録では、

肥後はまったくカニに覆われていた。その中には、イギリスの海港の記章に
してもいいくらい大きなものもあった。その衣装は、刺繍を施した絹布で、
そのカニは銀糸を重ねて高く浮き出していた。

    (『エルギン卿遣日使節録』219P)

カニに覆われた岩瀬を想像するのは難しいですが(爆)、
外国奉行はみんな、かなりオシャレをしてきたようです(笑)。
品川海岸には群衆が詰めかけ、海上には屋根船はもちろん、大名の仕立てた
大きな見物船が多数出ていたそうです。
そんなすんごいお祭り騒ぎになってしまったので、
これはもうオシャレしなきゃ彼らも男が立ちませんね!

さて舞台は夕暮れ時の江戸湾、品川沖に移ります。
エンペラー号上でエルギンの挨拶があり、それから引渡しとなりました。
(エルギンたちはここでエンペラー号から離れます)
しかし日本の海軍司令官卿(笑)は緊張のなかにいたはず。
これからいよいよ数日間の特訓の成果が試される、礼砲タイムと
受けとったエンペラー号の試運転がはじまります。
まずはイギリス、日本の双方の国旗が掲げられ礼砲となりました。

この国の砲手は、二十一発の礼砲を、きわめて正確に十秒おきに放った。
それからレトリュビューション号とフュリアス号との六十八ポンド砲から
鋭い響きの答礼が聞こえてきた。
そして快走船は、静かに航行を始めた。
日本人司令官が指揮し、日本人の水夫たちが乗り組み、
その機械も日本人の機関士の手で動かされたのである。
同船の機関には、水平シリンダーをはじめ最新の改良の成果が設備されて
いたにもかかわらず、乗組員たちはよくその学業を習得して、実力に確信を
抱いていた。

  (『エルギン卿遣日使節録』221~222P)

おそらく、この日本司令官は矢田堀景蔵で、中島三郎助などもいたはずですし、
機関士のなかに榎本釜次郎がいたと考えてもよいと思います。
実は機関士などは数日前からエンペラー号に通い、この船の機械のクセを
じっくりと学んでいたようです。
英国海軍士官もとても丁寧にいろいろ教えてくれたとか。
そのせいか?はわかりませんが、釜次郎は英国船について
長崎の勝麟太郎宛書簡にて語っております。

○英船も長崎表より罷越候趣に承候間、御登船被遊候哉。
「エムピロム」の立派なる事は、目撃せざれば其美を尽しがたく候。
六十馬力にて、スクルーフ仕掛、「マシーネ」はトロンマに有之候。
余壱艘は所謂ストームスルップにて八十二番船之趣、英人申候。
其神速は驚入申候。高圧のスクルーフマシーネに有之候。
他二艘は「ヲツシルレーレンデ」マシーネに御座候。

(講談社版『勝海舟全集』別巻「来簡と資料」収録の榎本釜次郎勝宛書簡 143P)

オランダ語読みで、軍艦オタ話全開でなんのこっちゃ……ですが、
「英人申候」ということで
榎本釜次郎と海軍士官の間に会話はあった???

ちなみにこのときイギリスからもらった遊覧快走船エンペラー号が、
長崎で改造されて「播龍」となりました。

さて、いよいよ最後の最後となりました。
外国奉行たちとエルギン、そして英国艦隊の艦長たちとお別れの宴です。

バーガー船長は、レトリビューション号上で、委員たちのために
宴会の準備を整えていた。そしてかれらは、多大の興味を抱いて
この美しい船の造作を検分した。ついに訣別の時が訪れ、
双方で大いに親交を示し合いながら、彼らは最後の別れを告げた。

  (『エルギン卿遣日使節録』222P)

この日の深夜、お騒がせ英国使節一行の船は江戸を離れました。
最後はエルギンの報告書簡から、全権使節本人の言葉で締めとまいりましょう。

当日の行事を祝して日本の要塞(御台場のこと)に掲げた華やかな照明が、
碇を揚げて江戸の海域から出航する前に私の目にしみた最後の光景でした。
それはわが国と日本との間の将来の関係にとって吉兆だと私は信じています。

  (『エルギン卿遣日使節録』275P)

……たぶん、御台場では「礼砲成功大慰労宴会」に盛り上がっていた
ことでしょうね(笑)。
(そのための照明だった、なんてイジワルはこの際いいません)
その明るい光を感慨深く眺めながら、
英国ご一行は再び清国での戦場へと戻っていったのでした。

日本委員たちには安政5年7月18日、御公儀から褒詞が出ました。
そのなかに、岩瀬肥後守の名前だけがないのが気になりましたけど。
(サボッてたの、バレてたのかな???(笑))

以上、「150年の今日」シリーズはとりあえず終了とさせていただきます。


函館にいってきます☆
ときどき携帯からなにか送れればと思いますが、
コメント返しはできそうにもないので、どうかお許しを♪
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by aroe-happyq | 2008-08-26 00:01 | 五カ国条約150年 | Comments(2)

8月25日(1858)
安政5年7月17日 晴天 江戸

通商条約調印を明日にひかえて、本日は午前中に英国使節の老中宅訪問、
それから午後からは西応寺にてエルギン主催のディナーが開催されました。

午後のディナーの前に、日本交渉委員(外国奉行+目付+通訳)たちは早めに
西応寺に現われたのですが、てづま師(手品師)を連れてきました。
エルギン側は相撲をみてみたいと所望していたのですが、それは却下。
「ペリー航海記」に相撲に関して野蛮だの、なんだのと酷評されたのを読んで、
大枚はたいて角界オールスター戦を披露した日本側はすっかり懲りてしまい、
(八百善の正賓と同じです。豚に真珠・猫に小判・ペリーに相撲)
外国使節に相撲をみせるべからず、と閣老衆の決定が出たほどでした(笑)。

今回の手妻(てづま)は、十八番の「胡蝶の舞」。
紙のちょうちょが扇の上でひらひらと舞う、という傑作手妻です☆
英国使節一行(この日は各艦長も揃っていた)はその美しさにかなり
心を奪われたようで、オリファント、オズボーン両者の日本滞在記に
たいへん詳しく書かれました。

その手妻師の口上が面白かったらしい。

その演技を続けている間、奇術師は例の親愛の態度でたえずしゃべり続けていた。
そして委員たちの間に巻き起した爆笑や肥後(岩瀬)を笑わせた限度から
判断して、彼の言葉はよほど滑稽な性質のものだったに違いない。

                 (『エルギン卿遣日使節録』204P)

おそらくあまりの口上の早さにヒュースケンも通訳しきれなかったのか、
日本人だけバカ受けだったみたいですが(笑)。
(彼らは手妻なんて知っているから、口上のほうが楽しいのだ)

そしてディナーがはじまりました。

食事がすむと、エルギン卿は委員たちに向って、忠誠なイギリス人の間では
元首の健康を祝して杯を乾す習慣があるので、
ここでその乾杯を提案したいと告げた。
確かにこのことは、彼らにとってはおよそはじめての慣行だった。
続いて起った騒々しい「敬意(オーナーズ)」の声に耳を驚かされて、
彼らにはすぐにその事の意味が理解できなかった。
しかしわれわれを見習ったので、三度繰り返す唱和が終わらないうちに、
わが客人たちも元気にこれに加わった。
つぎの乾杯は大君陛下の健康を祝うもので、それもやはりにぎやかに答唱された。
このときまでに委員たちは、熱狂もシャンペンも、その極に達していた。


やっぱり最終日のディナーでは酔っぱになっちゃうらしい、日本交渉委員。
(川路さんでさえ、ロシア交渉で、きてましたものね(笑))
仕事終わりで、はじけるのが好きなのだ!

実に謹厳な老人である信濃守が、会話がとぎれて静まり返ったときに、
いきなり立ち上がり、きわめて高い声で歓呼してからおごそかに着席した。
他の参会者はそれを見て耐えきれずにどっと笑い出した。
     
     (『エルギン卿遣日使節録』204~205P)

もうひとり、壊れた人がいた(笑)。

「女王陛下に三、三、の九回」というのが、尊敬すべき津田半三郎の趣味に
大いに適ったので、閣下から適切なスピーチがなされた後で、
「大君陛下のために」同様の乾杯の申し出があると、彼は興奮しきって
胸板が厚いイギリス人のだれにも負けないほどの大声で、万歳、万歳、
万歳のかけ声に加わった。

(『スポルディング 日本遠征記/オズボーン 日本への航海』(雄松堂)221P)

途中で優秀な徒目付の平山が抜けたり、外国奉行職ができたり、
目付の津田にはさまざまな気苦労があったのでしょう。

その後、日本側からエンペラー号のお礼というのはあまりに申し訳ないが、
と前置きして、たくさんの調度や焼き物、着物などが英国使節に贈呈された。
英国使節側としても、日本交渉委員になにかプレゼントしたくなって、
各軍艦からかきあつめてきて、日本側に差し出した(笑)。
チョコレートや石鹸(ホントに船の日用品だ)のなかに、
カービン銃マスケット銃などがみえると、
外国奉行さんたちは目を輝かせてそれを手にとった・・・とのことです(爆)
(前掲『オズボーン 日本への航海』(雄松堂)222P)より。
……いつのまにかミリタリーおたくにも???なっていたらしい。

さて明日が最終日です。
しかし明日の昼間には函館に居たりします(笑)。
そんなわけで、明日の分は今夜じゅうにUPさせていただきますので
どうぞご了承ください♪
明日にみていただけると、いつものような臨場感があるかと思います☆


おまけでちょっと一言・・・・。
ぺーちん(親雲上ではない)の昨夜の閉まりの会ですが、アンディあれだけかよ!!(笑)
あれ???ニコラスって居た?????(汗)
以上でした。
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by aroe-happyq | 2008-08-25 09:28 | 五カ国条約150年 | Comments(5)

8月24日(1858)
安政5年7月16日 晴天  江戸

享年50歳。
熱中症とも、長崎発九州に拡大し始めていたコレラが原因とも
いわれていますが、いずれにせよ、当時の日本にとって
この人の死は、かなりの痛手でした。


いっぽう本日、英国使節は江戸見物にお出かけです(笑)。
[追記]
実は日本側は態度を軟化させて、エルギンにも
将軍世子慶福との謁見をセッティングしようとしたら、
「将軍以外にはあわない!」
とエルギンが突っぱねたので、
この日は予定ゼロになったのでした(笑)。


・・・・・・なので、今日はこれにておしまい☆

このシリーズも残りあと2日、どうかお付き合いくださいませ♪
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by aroe-happyq | 2008-08-24 09:31 | 五カ国条約150年 | Comments(0)

8月23日(1858)
安政5年7月15日 にわか雨  江戸

日英の公式会見、4回目。
はやくも条約の条項すべてについて合意に達しました。


仕事、はやっ!

結局、天津条約に近い内容にしようとしたエルギンの思惑は外れ、
日本委員の提示した日米通商条約に則した内容になりました。

この件についてちょっとエルギンは本国宛書簡で言い訳しております。

・・・・そこで遅延を避け、また外国人と日本人との間の正式の貿易を
開始するに当っての混乱や紛糾の危険をできるかぎり除くために、
私は大英帝国のために商議した条約の中で、港の開放、貿易の取締り
その他に関する細かい問題については、ハリス氏の条約の規定に、
また多くの場合にその語法さえも、きわめて接近することにしました。
日本側の委員たちは(その名誉のためにいうのですが)
極端に几帳面で、新しい条項を、またはすでに同意したした条項の語句の変更
でさえも、十分に討議し、またそのような変更の意味やそのもたらすべき効果
について熱心に詮索しなければ、それを認めなかったのです。
そのためにこうした方針をとるのがいっそう必要だということがわかりました。
したがって、イギリスの条約に新しい条項をとり入れようとする
私の努力も、貿易上にとりわけ重要と思われるいくつかの点に
制約されてしまったのです。

         (新異国叢書9『エルギン卿遣日使節録』(雄松堂)274P)

主席全権が水野筑後守というのは、英国側にはけっこう厳しかったかも。
几帳面で、細かい・・・・・人で、なおかつ外国人にキツイ。

でもしおらしく書いているエルギンですが、
英国に有益(つまり日本には不利益)な権利はがっつりいただいて
いっちゃいましたので。
十分に満足じゃないのか!というところです(笑)

この日英通商条約がほかの国の条約と違う点は、
税則について五年後に
「もしイギリスまたは日本政府が希望するなら」改訂されるという規定が
盛り込まれたこと、でしょうか。

税制についてド素人な日本交渉委員としては、この5年間に
海外に視察に行き、学んでくるつもりでいたのです。
岩瀬も永井も年内に準備を整えて、条約批准のため欧米にむかうつもり
だったので、そのときにこれらの条約内容が日本にとって不利益か否かを
チェックしてこようと考えていたわけです。
つまりは安政五カ国条約の不平等さはこのときには、
まだまだ改善される余地がたくさんあったのでした。
あーあ、もったいない!

・・・・・とはいえ、岩瀬も永井もすでにこのとき、
井伊派上層部に厳しく監視されていたので、海外になんか出してくれそうも
なかったのですが。
もし井伊大老が優秀な男で、おのれの感情よりも日本の国益を優先
していたとしたら、もう少し幕末の対外的な混乱も少なかったのでは?と思います。

やっぱり国政のトップには今も昔も柔軟でクレバーな人が必要ですね☆
・・・・・という愚痴はさておき、
条約の調印は26日と決まり、これにて談判は終了しました。
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by aroe-happyq | 2008-08-23 10:39 | 五カ国条約150年 | Comments(0)

8月22日(1858)
安政5年7月14日 雨  江戸

本日、日英公式会見3回目。

談判(交渉)中の記録については、オリファント著の
新異国叢書9『エルギン卿遣日使節録』(雄松堂)に詳しいのですが、
岩瀬がお気に入りで、彼のことばっかりかいてくれた(感謝!(笑))
ので、今回は条約談判中バージョンの岩瀬&ほかの日本交渉委員について
の様子をみていきましょう♪

仕事に入る前に、客人たちは嬉々として昼食の席に着き、
ハムに向って驚くべき攻撃をしかけた。
ハムはほかのその皿にもまして彼らの大好物である。
彼らは遠慮なくシャンペンを飲みふけった。実際のところ、
彼らは用件に入る前に一杯やることに伴う危険を十分意識していたので、
肥後(岩瀬のこと)は、
条約にはハムとシャンペンの味がしないようにしたい、と冗談をいった。


岩瀬とくればこの台詞「条約にはハムとシャンペンの味がしないようにしたい」
はあまりにも有名ですが(笑)、条約交渉前に一杯ひっかけてるあたりが
お江戸のおおらかさですね。
不真面目?いいえ、これが彼らの流儀。
いいんです、結果がちゃんと出せてれば!(爆)

昼食の後、われわれは席をエルギン卿の居間に移した。
ここで閣下と委員たちは、テーブルを囲んでたがいに全権委任状を提示した。
この手続きに含まれるいくつかの必要な細目について協議が行われている間に、
ベッドウィル氏がここに付載(『エルギン卿遣日使節録』)した独特の、
正確な画を描く機会を得た。
肥後はそれに気づくと、さっそく鉛筆と紙をとり上げ、その画家の戯画を
描き始めた。そしてたちまちその手を休めると、見事にでき上がった肖像画を
得意になって示した。


・・・・これは不真面目ですな!(笑)ぶっちゃけ、遊んでます。
ただ若い頃、椿椿山なる絵師(当時の江戸では有名ですた)に絵を
習っていた岩瀬肥後守なので、絵の心得がある。
英国の画家をみてちょっと軽い対抗心が出たのかも。
(そのらくがきは、今いずこ・・・)
ちなみに勝手にエルギンの居間と化しているようですが、
これは芝西応寺、英国使節宿舎の一室でございます。
(どうやらテーブルとか椅子とかはフュリアス号から持ち込んだようですね(笑))

さて実際に仕事にとりかかると、一同は煙管または葉巻に火をつけた。
・・・・・(略)・・・・われわれはいよいよ条約の注文に入ることができた。
委員たちが、細目の要旨を議論するのに最大の英智を示し、
提示されたあらゆる疑点の論理的説明を完全に理解するまでは
決して了承しないことがすぐにわかった。
一度だけきわめてむずかしい問題にぶつかって、誰かが気分転換のために
茶を飲むことにしようと提言したことがあった。
それに対してエルギン卿がチャ=パン(茶とシャンペンをかけた洒落)ではいかが、
といった。この修正は限りない喜びをまきおこして、満場一致で支持された。


エルギンが洒落をいっている、というだけで衝撃です。
この人というと、清国での強硬な交渉者というイメージが強いので、
いつもガミガミいっているような、パークスちっくなキャラ系なのに。
陽気でラテンな幕末お江戸の雰囲気のなかで一週間も滞在して、
つい開放的になってしまったのか?(笑)

日本人は滑稽を鋭く感じとる力を持っている。
そして多くの困難な点を秀句で解決する。
まったく彼らがたえまなく耽っている笑いから判断すると、
いつも洒落をつくっているらしい。
肥後は一行の才人だった。その結果しばしば自分でぼんやりとしているばかりでなく、
とかくほかの人々の注意をそらしがちだった。
彼が洒落を案じているときは、その目がまたたくのですぐわかった。
それでも業務上の問題についての彼の観測はいつでも鋭く、正鵠を射ていた。
彼はそれを行なうに当っては、いつも謙虚だった。


日本人というより、洒落に命をかけている江戸人・・・・といったほうが正確か?
「彼らがたえまなく耽っている笑い」ってどんだけ楽しそうに仕事をしているのだ、
外国奉行!!!(笑)
そしてまるで「おちつきのない子」と成績表にコメントされてしまいそうな、
岩瀬肥後守。いやいやちゃんと仕事はしているのです、はい!
井上&岩瀬はハリスとの日米通商条約で十分働いたし、
この日英条約もエルギンがなんといおうと、日米通商条約に則したもの
であるかぎりは、とくに口出す必要もなかったわけです。

ハリスとの交渉では「では戦争だ!」「おおいに結構。この条約を調印し、
内戦になるより、アメリカと戦争したほうがましだ(BY岩瀬)」・・・・というような
たいそう剣呑な論戦を戦わせたのとうって代わって、
日英交渉はなぜかムーディな「大人の談判」だったようです。

オリファントはとってつけたようにではありますが、
ほかの委員についても書いてくれています。

提督(永井玄蕃頭の外国使節間でのニックネーム)は一行のうちで、
もっとも聡明で能動的な一員だった。
彼と前長崎奉行(水野筑後のこと)とが同意すれば、
他の者はほとんどその例にならった。


第一全権なのに、またもや外国人の印象に薄いらしい水野さん。
(ゴンチャロフのときと同じような・・・・・・)
そしてここでも「能動的」な男、永井玄蕃頭でありました(笑)。
(彼の前向きなたくましさには岩瀬さえ勝てません)
水野&永井コンビって意外にもしっくりいくようなので、
ほかのみなさんは楽でしたね♪
(影のうすい堀織部正は、
あたまのなかが箱館のことでいっぱいなのでしょう)

(本日引用:新異国叢書9『エルギン卿遣日使節録』(雄松堂)144P~147P)

こうして条約交渉はすすんでいきました☆
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by aroe-happyq | 2008-08-22 10:48 | 五カ国条約150年 | Comments(2)




本日ニ投目はお試しyoutube。

なぜかレッドクリフ日本版予告編でスイマセン・・・・・・・・・(笑)。
テレ朝でガンガンCMをはじめたけれど、
11月の公開なのに早すぎじゃないのか?????


この予告編でわかったこと。
やはり黄金ミラー作戦は劉備軍(じゃないか?(爆)連合軍???)
の諸葛亮のアイデアらしい・・・・。
なぜなら黄金ミラーの前に関羽が立っている・・・・・・・・(爆笑)。


この当時つーたら、
まだ全体的に後漢帝国なんすけど・・・。
魏とか蜀とか呉とかに分かれる前なんすけど・・・・。
ふたつの小国とか・・・いってたなぁ。
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by aroe-happyq | 2008-08-21 14:02 | 香港&アジア映画 | Comments(2)