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東都アロエ

クリスマスよりも、忠臣蔵関連の話が出てくると、ああ・・・年末ねと感じる
はな。でございます(笑)。

というわけで、今年もそういう季節になったようですね♪

ええと、タイトルの内容は、本日の読売新聞(ネット)の記事です。

皇室に代々伝わる古文書や絵巻物などを所蔵する宮内庁図書課図書寮文庫が、
赤穂事件に関する資料を12月2日から初めて一般公開することになった。

とのことです。

読売新聞の記事→こちら

明治元年、江戸へやってきた帝(というか朝廷)は江戸っ子の人気を得ようと、
真っ先に赤穂浪士の名誉回復をした・・・・ということで、実は赤穂浪士とは
浅からぬ縁があるらしい。
でもでも、まさか、宮内庁の図書寮文庫に「浅野内匠頭家来口上書等」とか、
「吉良家日記」や「大石内蔵之助屋敷図」があろうとは。

宮内庁図書課図書寮文庫画像公開システム→こちら



しかし、宮内庁書陵部といえば・・・・・。

井上清直の日記があるんですよねぇぇ


上記のサイトで調べたら出てきたぁぁぁ~~~~~(感涙)

函架番号415・38

井上清直日記 (弘化3年3月4日―嘉永5年8月11日)

自筆  3冊


前にこの日記に関して叫んだ記事→こちら
(函架番号が一致している~~~~♪←と当たり前のことで感激している)

誰か翻刻してくれないでしょうかねぇぇぇ(他力本願)と、もう一度つぶやいてみる(笑)。
(兄貴の川路聖謨関連史料はうなるぐらい、ありますネ。でもそちらは『川路聖謨文書』に
かなりの量が翻刻済です♡)


と、それはさておいて。

忠臣蔵関連の公開もとっても嬉しいです☆

とくに、吉良さんに関する史料が目にとまりやすくなるのは、本当に有り難いです!
(あたくし、120%吉良贔屓でございますゆえ)
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by aroe-happyq | 2013-11-27 17:56 | ちょっと元禄・正徳 | Comments(4)


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(これ、本日の写真でーす)


またまた本行寺の変ぱーと2です!!


前日の記事を書いたときはまったくその気がなかったのに、
なんか急にドームショコラが食べたいなと思って(笑)、
谷中に行ってみたわけです。


で、日暮里駅に降りたち、最初に永井ファミリーにご挨拶をと……。



ん?



永井尚志の墓の東側に、新しいお墓の分譲区画が出来ている・・・・・。


それに尚志の説明版に英語バージョンが増えている。


いや、それよりも、なんか尚志&尚徳ファミリーのお墓の位置が変わってる。


「永井家累代の墓」なる、新しいのが増えたかわりに、
なんかが減ってる。


で、すべてを確認すると。


じぇじぇじぇじぇじぇじぇじぇじぇじぇじぇじぇじぇじぇじぇ~~~~~~~~~~っっ
(↑あまりにショックだったのか、生まれてはじめて自然にこれが出たゾ!大事件だ!(笑))

永井の実子の謹之助尚信くんと、
永井尚徳(尚志の義父)の娘の節子さんの、
二人の若夫婦の墓が消え失せているではないか〜っ


永井尚志のお墓の前にあったのに~~~っ
(真向かいにですね、父子の墓があるのが微笑ましかったのだが)

な・・・・・なーーーーーいーーーっっ!!!!!!!


↓これが~~~~~、ないーーっっ

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(在りし日の謹之助&節子のお墓)


オーーーマイガーーーーーッッッ!!!!!!



たしかに側面が痛んでいたんですよ。
でも、そこには紙の記録には一切ない、
たいへん貴重な謹之助くんと節子さんの人生の記録が刻まれており、
はじめてこの二人について詳しく知ることができたのです。

きっと二人のお骨は新しいほうに一緒に入って、
墓石を撤去しちゃったのね。
(と信じよう!)


もう二度と二人の調査は、出来ませんね(涙)。
(・・・・・・・ずっと前に写真を撮っておいてよかった・・・・・)


うわーーーー、太田家(道灌の分家の名門旗本家)一門がごっそりと消えた、
2011年に続き、・・・・・いやまさか、魔の手が直接永井尚志家に伸びようとわ。

永代供養って言葉は、どうやら仏教界の辞書にはないらしいな(笑)。

はーーっっ、この先、尚志サンは大丈夫にしても、
義父と義母のお墓の行く末が心配です(汗)。


とりあえず、呆然自失のままで本行寺をあとにして、ドームショコラを食べて、
心を落ち着けて・・・・・・・・・・・。

昨日の今日なので、谷中霊園にもいってみました。

それで、慶喜公の墓所へ行こうとして・・・・・・・・・・・・。
ふと、門に閉ざされた、小笠原長行公のお墓のあるあたりをみたら、

重機が入っていて、「工事中」の表示が。

更地になったなかに、
いくつか残されていた大きな墓のなかに、どうか小笠原さんも交ざっていますように(汗)。

そういえば、依田学海さんのお墓のあたりも、なんだか更地に・・・・・・・・・・・・・・。


谷中霊園も、なんかヤバイですなっっ。


いろいろな方のファンのみなさま、お墓にご挨拶&調査は、
早めに行ってみたほうがいいですよ!


いつまで在るか、わかりませんから~~~~~~(号泣)。
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by aroe-happyq | 2013-11-23 19:21 | Comments(10)

慶喜公 没後100年。

朝のニュースをみていたら、今日はケネディ大統領が暗殺されて50年だとか。
いやいや、そうじゃないでしょう、と。
日本にとってもっと大事なことがあるではありませんか(笑)。

本日は、
大正2年(1913年)11月22日、徳川慶喜がこの世を去って100年、という日です。

そういう日なので、おそらく慶喜公が眠る谷中霊園は賑わっていることで
ありましょう☆ (いや、静かだったら、ちと寂しい・・・・)

今年は谷中を通り過ぎたおりにちょっとご挨拶したので、
(その後、とくに慶喜公に関しての研究が進んでおらず、報告する内容がない・笑)
本日は、霊園を訪ねず、
このブログに記事を書いて、偲んでまいりたいと思います。

すでに慶喜公の活躍については色々と記事にしてきたので、
今回は「その人となりと印象」について少し書きたいと思います。

先月の記事では「図書(小笠原のこと)はまだ来ぬか」とか、
茶碗に酒を五杯ほどひっかけて、
中川宮邸では「「私は十万石頂戴仕って居ますから、茶はどうかこうか買って呑み候」のように、なかなかの千両役者ぶりをみせてくれるので、
いろいろ誤解されている向きもあるようです(笑)。

というわけで、ホントはどういう感じだったのか、をちょこっと並べてみたいなと。

今回は100年前の雰囲気を感じていただくべく、引用文は旧字オンパレードでおおくりします。

まずは、慶喜の近臣側近ではない、身贔屓感ゼロという立場の、
大隈重信に、その人となりを語っていただきます。

公は人に接する温和にして襟度の英爽たる、老いて尚ほ然り、
以て壮年の時を想望すべし。
其神姿儁厲にして眼光人を射、犯すべからざる容あり、
静黙にして喜怒を濫りにせず、事情を述べ、事理を判するに當りては、
言語明晰にして人をス服せしむ。是を以て至極至難の際に立って、
名望を集めて失はず、幕府の終局を完結して、
維新の昌運を開かれたるは、決して偶然にあらず。


同じ本には、大隈が自分の述べたことを証明するために、
別の人の証言も収録されています。

(貴族議員三浦安氏 元伊予西條藩士)の談
余が知れる人の中に最も雄弁家と思はるるは、噺家の圓朝と
陸奥宗光及び慶喜公なるべし。
公の将軍たりし當時の事を憶jひ起すに、
言語の明晰にして、条理の井然たる、静かに述べて威厳ある雄辯は、
今に尚ほ耳底に存すといへり。


(以上、大隈重信著『開国五十年史』「徳川慶喜回想録 慶喜公の逸話逸事」P110~P111)


まさかの大隈サンとか、西條藩の人とか、徳川直参以外の人々の証言。
しかしだからこそ、贔屓目なしの冷静な「印象」が語られています。
言語明晰というキーワードはよく出てくるポイントですが、
「温和」とか「静黙にして喜怒を濫りにせず」というのは、
あまり語れていない印象のような気がするので、拙ブログでは前にも触れましたが、
このたびもぜひ声を大にして申し上げたいところです(笑)。
(父・斉昭がエキセントリックな切れキャラだったので、この父を反面教師として
育ったことで形成された性格だと、なにかの本に書いてありましたっけ。
まさにそのとおりかも・・・・・という、物静かな人・慶喜公です)
しかし、落語好きの慶喜公なので、噺家の圓朝と並び称される雄弁家とされて、
ご本人も嫌な気持ちはされなかったことでしょう(笑)。

で、次は、大本命!?
『慶喜公伝』を編んで書いた、慶喜公を愛する渋沢栄一(青淵)の演説集から。

この演説は慶喜が亡くなって数週間後のものなので、とても力が入っています。
内容は『慶喜公伝』にも登場しますが、こちらはロングバージョンなので、
ちょっと引用してみます♪

※渋沢は慶喜の弟・民部公子とともにフランスに渡っていましたが、
大政奉還のニュースで急遽帰路につき、明治元年に江戸に戻りました。

(渋沢は)駿河に行って公に御目に懸かった。
其の場所は寶臺院という静岡の極く粗末な寺の一と間に謹慎して御座るのでありました。
日は忘れましたが、十二月の末であった、而も夜陰に三年ばかり拝謁の中絶した身で
御目に懸った時には、負けぬ氣の強い私は公の為され方を眞に不満に感じて
申さば寺院に蟄居して居られる所に、去年以来の将軍に御成りなさったことから
其の以降の御行動が、甚だ其の當を得ぬと云ふ念慮をもって、
頻に既往の愚痴を申し上げた。
其の時に、忘れもしませぬが、公は誠に柔らかな御言葉で、
而も低い聲で、「自分は謹慎中である。斯かる有様にして居るのであるから、
今、例えば京都に居る時又は大坂に於ける既往の事を其の方が如何に愚痴を
言ったとて、それは何等の効能も成さぬではないか。二年間民部に随行して
旅行して来た其の方であるから、なつかしく思ふて面會した。
海外の様子も民部の身の上も聴きたいと思ふ場合に、
去年の私の行動に付いて愚痴を聴かうとは思はぬから、さふ云うことを
言うよりも、寧ろ必要な話をして呉れた方が宜しくはないか」と。
如何にも温和な御言葉で今のやうに承って、私は實に悪かった、成程自分は
愚痴な人間だ、公は斯く思召せなこそ是程の堪忍は出来るのである、
實に堪忍強い御方だと、心竊(ひそ)かに暗涙を催したことを今も能く記憶して居ります。
爾来私はどうぞ公の近所で餘所ながら御奉公をしたいと思った。


(『青淵先生演説撰集』「徳川慶喜公を懐ふ」P154~P155)

渋沢が言い立てた愚痴は、慶喜にしたら、耳にタコができるぐらい、
散々に聞かされてきたことでしょう(笑)。
それも夜中にやってきたのを、わざわざ会ってやったのに・・・・・・。
凡人なら「いいかげんにしろ」とブチ切れてもおかしくありません。
しかし、慶喜公は違います。低い声で、柔らかな言葉で、静かに返答するのです。
ここまで長々と語っている様子が紹介されるのはけっこう珍しいですが、
内容はごもっとも!という、実に正論で(爆)。しかも言語明晰ですね!
この面会こそ、渋沢が慶喜好きになるきっかけだったのも頷けますネ。


ここまで、慶喜の印象についての証言をみてまいりましたが、
いかがでしたでしょうか?


せっかくなので、
この演説にある、渋沢が慶喜に敬服したところ、についても引用してみます。
(ここから、話は脱線いたします・笑)

その一。

私の最も敬服したのは、幾囘御目に懸っても世上の評判には少しも
耳を傾けられぬことであります。始め駿河にござる時には、東京の様子は御分りはないから、
政治上、社會上のことに付いて御尋ねもあるべき筈、又御話したいと思ふて、
兎に角将軍職もなされた御方で、國家の政務に付いては相當なる思慮考案も
あられるから、時の政治の可否得失には多少の御批判もあるであろう、又私も
官途に居た關係から、今の内閣は斯々で困却すると云ふやうなことを
申し上げても、さう云うことには御挨拶なされぬ。・・・・・(略)・・・・
談偶々政治に付いての是非得失になると、一言も批判されたことはございませぬ。

(同書P156)

その二。

仏蘭西のレオンロッスから頻りに御加勢(倒幕軍に對する擧兵の)の事を
御勸め申し上げた時には、多くの人が迷い易い場合であるにも拘わらず、
國家が大切であると云う御觀念から、斷乎としてそれを御拒絶なさったのは、
實に事の輕重を明にして、毅然たる意志を有って御出になったのであります。
・・・・(略)・・・・・當時、若しも公が負惜しみが強くて、瘦我慢を以てなりとも
兵を擧げたならば、それこそ國家は大騒動になる、當時幕臣は皆それを
勸めたけれども、公は一意斷乎として動かれぬ、甚だしきは自己の身體も
風前の塵の如く犠牲に供して惜しまぬという決心であった。
故に明治功臣の中に忠君愛國の人はと云へば、公を第一と言っても
宜しい位である。
(同書P158)

どちらも、渋沢でなくても敬服してしまうところだと思います。
このふたつ、どちらもここまでの徹底は・・・・・できないのではないでしょうか?

それなのに、今まで書かれた小説や評伝などで、やたらと「揺れる慶喜」像が登場します(笑)。
でも渋沢のように近くで慶喜に触れることがなくても、当時の史料を読んでいくと
渋沢の言うように「徹底している」慶喜像に出会えます。
なのに、どうしてあっちこっちに心が揺れる慶喜像が出現するのか?
・・・・・・それは史料を扱う人が「まさかそこまで頑固に徹底できるはずがない」という
凡人たる哀しさ全開の先入観で、己にひき比べてしまい、史料を疑いすぎるのが原因かも(笑)。
読み取るほうが「慶喜の徹底ぶり」についていけない、という現代日本人の劣化こそが
今の世において、慶喜への理解が深まらない、大きな理由なのかもしれません。
(などと、もっともらしく書いてますが、かくいう私もその現代日本人のヘタレのひとりです・汗)

おかげ「卑怯」とか「腰抜け」などと、誤解されがちです。
そのよくない傾向は、なんだか没後100年にしてますます深まるばかりのような、
そんな不安を感じます。

もっとも慶喜公だけでなく、けっこう勝海舟や榎本武揚、そのほか多くの幕臣たちは江戸っ子流で、
本音について多くを語らず、「わかる人だけわかってくれればいい。いつかそういう日もくる」
という人が多いので(笑)、そんな気風を理解できる生粋の東京人がただでさえ
激減している世の中で、ますます理解が難しくなってきています。

なので、渋沢が敬服した「その二」なんて、幕末ファンで徳川寄りという人々にさえ、
「戦わないことを選択する固い意志」の
その素晴らしさが理解してもらえずにおります(笑)。

そして薩長土肥のなかで一人ぐらい欠けても大勢に変化はないでしょうけれど、
慶喜が欠けていたら、明治維新は成ったかどうか、わかりません。
渋沢のいうとおり、明治功臣第一の人こそ、実は徳川慶喜公だったのだと、
いっても過言ではないでしょうネ☆
(今日だからこそ、言っちゃいます!!!)

・・・・・そういうわけで、日本史のなかで、もちっと大切にされたらいいな、と
この没後100年の日に思う次第です。


ま、今日という日に限らず、少しでも理解していただけることを願い、
これからもうちのブログはカッコイイところも、可笑しいところも含め(笑)、
慶喜含め、幕臣たちについても紹介してまいります~~~~♡
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by aroe-happyq | 2013-11-22 12:06 | 江戸城の大旦那 | Comments(17)

前の新作では長いあいだ、待たされすぎてグレてしまった、
水曜どうでしょう東京藩士でしたが、今回はこの秋にさくっと
新作が始まりましたね!!!!

TOKYO MX 2013年11月10日(日) 毎週日曜 夜9時30分~  

↑ここが最速ではあるのですが~~~っ。

次は、TVS テレビ埼玉 2013年11月13日(水) 毎週水曜 夜10時~
でしょうか。

ですが、ですが!!!!!!

TVK テレビ神奈川
11月25日(月)~29日(金) 夜7時~
(#1~5まで連日放送
 
12月2日(月)~ 毎週月曜 夜10時~(#6からレギュラー編成)

もしも神奈川テレビで見られるなら、5夜までの連日放送という贅沢を
愉しみたいところでありますね♪


ちなみに群馬テレビで視聴できるなら、

12月30日(月)~1月3日(金) 夜11時~
(#1~10まで連日放送・各日2話段積放送)
2014年1月9日(木) 毎週木曜 夜10時~ (#11からレギュラー編成)

というスケジュールでみるのもいいかもですね!


・・・・・とりあえず、今回の新作、関東だけ取り残されるという悲劇だけは
回避できて、よかったです☆
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by aroe-happyq | 2013-11-20 19:02 | 水曜どうでしょう | Comments(0)

江戸の料理をサンプルとして再現する、という
目に美味しそうな展覧会が東京町田の東京家政学院生活文化博物館で
開催中です♪

平日のみ開館、となかなかハードルが高いですが、
町田のお近くにお住まいのかたはぜひ行ってみてくださいませ☆


<会期> 2013年11月9日(土)~2014年2月14日(金)

<会場> 東京家政学院生活文化博物館  〒194‐0292 東京都町田市相原町2600 東京家政学院大学構内

<開館時間> 9:30-16:30

<観覧できる日>
・平日のみ開館します。ただし11月9日(土)、10日(日)(両日は大学祭)、12月15日(日)(オープンキャンパス)は土日でも開館します。
詳しくは、博物館事務室にお問い合わせください。

<観覧料> 無料


東京家政学院生活文化博物館ブログ→こちら
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by aroe-happyq | 2013-11-20 14:31 | 江戸東京あれこれ | Comments(0)

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現在開催中の虎屋の「和菓子の贈り物」展。
赤坂にいったついでに見てきました♪

「和菓子の贈り物」展サイト→こちら

江戸後期にいろいろな人物が贈った和菓子が再現されていて、
どれもみんな美味しそうでした(笑)。

上記のサイトで紹介されている以外では、
孝明天皇が家茂に贈った虎屋のお菓子、とか
大奥老女瀧山が、家茂から慶喜に代替わりの際に大奥を去って行く
後輩の奥女中たちに自ら焼いて贈った煎餅、
金さんで有名な遠山景元一家の菓子、
6月の嘉祥の日に、江戸城内で配られた菓子などなど、
興味深いものがたくさん。

また江戸初期ですが、酒井侯が家光に贈った「塩昆布」という菓子。
甘い物好きの家光に「しょっぱかった」って言われてしまい、
国許に甘さを調整するよう、指示を出したなどのエピソードも
面白かったです。


11月30日まで。無料です☆



ところで、その前に行っていた、
都立中央図書館で開催していた「最後の江戸城」展もすごく面白かったのですが、
それを会期中にお伝えしようとしたところ、
先週末、エキサイトのブログで投稿できないトラブルがあって、
更新できませんでした~~~~(涙)。

なので、今さらの感想ですが、超ダイジェストをここに紹介します。

やはり都立中央図書館といえば、豊富な江戸図&江戸城図面の所蔵。
江戸城の図面は、以前江戸東京博物館の「江戸城展」でみてはいたのですが、
とんでもなく混雑していて、じっくりと眺めることができず・・・・。
今回はほぼ貸しきり状態でじっくりと細部までみることができました☆
弘化度、万延度と本丸御殿は建てられましたが、
政庁部分だけでも、すごく細かいところで部屋の配置が違っていて、
うーむ、勉強になりました(笑)。
(あまりに図面に長く張り付いていたので、係員の方にヘンな奴だと思われた
に違いないけれど・・・・・汗)

このほかの感想も含め、展覧会の会期中にブログをUPするつもりでしたが、
・・・・・・できませんでしたっっ。スイマセン~~~っ。
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by aroe-happyq | 2013-11-14 11:10 | Comments(2)

「レッドクリフ」で盛上がっていた2009年に、
幸か不幸か河南省安陽県で発見された陵墓の埋葬者は
「すわ、曹操か!?」・・・・・どころではなく、なんとなく「曹操に決定」にされつつ
ありました(笑)。

あれから4年。

読売新聞の記事によれば、このほど、
「三国志」の英雄、曹操(155~220年)の子孫の遺伝子染色体を特定したと発表されたよし。

読売新聞記事→こちら

でもこの記事、よく読んでいくと・・・・・・・・・・。

曹操一族に特有の型であると断定した。

のであって、「曹操である」とはまだ決着はついていないらしい。

ということは、あの遺骨さんは、曹家の誰かではあるけど、
まだ曹操でないかもしれない???(笑)


いや、それよりも、今回判明した、

曹操と曹参、夏侯一族とはともに血縁はないことが立証可能という。

というほうに目が釘付けに・・・・・・。

夏侯淵、君はこれでいいのか!?(爆)
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by aroe-happyq | 2013-11-13 13:56 | 香港&アジア映画 | Comments(4)

2011年2月15日の記事、「幕末慶喜とザ・ドクター 【追記あり】」で紹介した、
京で神経衰弱に陥った一橋慶喜を松本良順が阿片を用いて治療した一件。

この記事で【追記】までして、良順センセに依頼したのは大目付岡部駿河守じゃないのか!?
どうなんだ問題は、結局未解決の迷宮入りとなっておりました(笑)。
(というか、放置しっぱなしだった・・・・)

あれから2年余・・・・・・。

拙ブログを見てくださったyu-さんからメールをいただきました。

その内容は、読んだ瞬間、雷に打たれたように「ああ!そうだ~~!」と
眼から鱗が滝のように落ちるぐらい(笑)、素晴らしゅうございました。
迷宮入り問題が一挙に解決!まさに、救世主が現る!!とはげしく興奮し、
これを拙ブログを覗いていただいている慶喜ファン&松本良順ファンの方々に
お知らせしたい!!!と強く思いました。
それで、いきなり不躾にもyu-さんにこの内容を拙ブログに
掲載させてくださいとお願いしたところ、
お許しいただきましたので、この記事が出来上がりました☆
yu-さん、本当にありがとうございます!!!!

で、その迷宮入り問題のみならず、この一件のちょっと「?」な部分がすべて
クリアになってしまう、yu-さんが導き出された結論とは!

慶喜が阿片を服用したのは
元治元年ではなく文久三年


つまり、前の記事の史料のメインになっていた、
鈴木要吾『蘭学全盛時代と蘭畴の生涯 伝記・松本順』 において、
松本良順が自ら語った、「京の本願寺(慶喜宿舎)に入ったのは
元治元年2月4日
」は、

良順センセの記憶違い

で、実際にはその前年の文久3年だった☆

のではないか、という事をyu-さんは詳細な検証により、導き出されたのです!

岡部駿河守問題も確かに良順の記憶違いを疑ったわけですが、
上洛を依頼した人物ではなく、「年」そのものを間違えて記憶していたわけ(笑)。

以下、yu-さんからいただいたメールより引用させていただいますと♪

「松本順自伝・長与専斎自伝」に
・春嶽に同行して品川沖から順同丸に乗船して京に入る
・ただちに東本願寺の慶喜に会った
・将軍が上洛してくるまで1ケ月ほどあって暇だった
という記述があります。


この松本良順の「春嶽に同行して品川沖から順同丸に乗船」したというのは、
『木村摂津守喜穀日記』の文久3年1月22日(に品川より順動丸で出発)前後に
春嶽と良順が木村の日記に登場することで、裏がとれております☆
(木村喜穀の日記は文久年間の品川発の人物の乗船情報を調べるにはもってこい
だったりします。だって、木村サン、軍艦奉行なんですもの(笑))

続いてyu-さんの検証を引用させていただきます。

春嶽は文久三年品川沖から順同丸に乗船し、二月四日に京都に到着し、即日慶喜を訪問しています(続再夢紀事)。
そして家茂の入京は一ケ月後の三月四日です。また当時の慶喜の宿舎は東本願寺です。

元治元年二月とすると、春嶽の二度目の上洛は文久三年十月十八日で、
品川からではなく国元の福井から入京しています。また春嶽が入京した当日、
慶喜はまだ江戸にいます。さらに将軍の上洛は元治元年一月十五日で、
元治元年二月の慶喜の宿舎は小浜藩邸です。(文久三年の年末に本願寺から引っ越した)


おお!!まさにそのとおりですよねーーっ(笑)
わたしなどはすっかり、良順センセイの語るところの「元治元年」に
とらわれまくっていて、そればかり信用しておりましたが、
yu-さんの鋭い観察眼は良順センセイの記憶違いの罠にはまることなく、
ひとつひとつ史料にあたられて、調べていらっしゃる!!
海よりも深く尊敬の念を抱くとともに、
我が身の史料検証の足りなさを反省しますっっ(汗)。

で・・・・話を戻しますと、
文久3年ですと、岡部駿河守は大目付で、しかも前年末に慶喜に随従して入京するよう、
命じられており、慶喜の傍にいるのですよね~~~~!
これだと、わたしの疑問もまたすべてクリアされるんです☆

松本良順は『蘭学全盛時代と蘭畴の生涯 伝記・松本順』と『松本順自伝・長与専斎自伝』
のどちらでも、岡部駿河守から手紙をもらって入京したと語っておりますが、
松本は岡部(前に長崎奉行でした)とは長崎以来の旧知。
彼等江戸っ子が遠い長崎で共に過ごした間柄の絆って、とっても深いので、
誰か別の人と記憶違いはしていないハズ・・・・・とずっとひっかかっておりました。
なので、文久3年だと、その点もスッキリするのであります。

さらにyu-さんは慶喜の治療時期についても調査されて、具体的な日程についても
見当をつけていらっしゃいます。

文久三年二月四日に春嶽(と、良順たち)の訪問を受けた後、
二月五日に鷹司関白邸を訪問してから、九日の容保、容堂を春嶽の宿舎に集めて
会議を行っている記録まで慶喜の行動が不明(慶喜公伝、京都守護職始末、七年史、
伊達宗城在京日記、続再夢紀事、安達清風日記を確認)なので、
眠ったのは二月六日、七日、八日のどれかではないかと見当をつけております。


『安達清風日記』まで確認されているとは、スゴイですっっ。
(最初にメールを拝見したときは興奮して「キャーキャー」言ってました・笑)
わたしなりに手元にある史料で急ぎ確認してみましたが、
治療に必要と思われる3日以上の慶喜公のスケジュールの空白は
文久3年2月5日~8日ぐらいしかありません。
そこからさらに多くの史料から日程を絞り込んだyu-さんには
ホントに脱帽です!!!

以上ここまでyu-さんの導き出された「文久3年」説を紹介してまいりましたが、
もちろん障害がないわけではありません。
それは、入京して日の浅い慶喜がもう神経衰弱になってしまったのか、という
若干の打たれ弱さを認めざるおえない点であります(笑)。

この問題に関して、もちろんyu-さんも憂慮されておりましたが、
それはですね・・・・・・江戸から入京した人は1ヶ月以内にけっこう精神をやられて
体調を崩す人が多い!というわたしのデータでフォローできるのではないかと思います。
拙ブログをよくご覧くださっている皆さま、思い出してくださいませ。
安政5年、条約の勅許をもらいに老中堀田に随行した、川路聖謨並びに岩瀬忠震は
京でどうなっちゃってましたっけ(笑)???
どちらも進捗状況がかんばしくないばかりに(てか、朝廷の理不尽な抵抗やいろんな人
の暗躍)疲れ果てて極度のストレス状態となり、川路はひどい耳鳴りに苦しみ、
岩瀬は痔瘻が悪化して橋本左内に心配をかけまくりでした(爆)。
(拙ブログでこの一件を扱った記事→こちら
柳営のはえぬきといわれるこの二人をもってしても、この有様です。

母親が宮家出身としても、一橋慶喜だって初の京都。江戸ではありえないストレス・・・
とくに朝廷に漂う攘夷主義の頑固さに、完全無欠の開国主義者のこの方が耐えられましょうか?
そういうわけで、慶喜が京へいってほどなく神経衰弱にかかってしまっても、
仕方がないじゃないか・・・・・・と思うのでありますヨ。
(そうなると、元治元年2月に酒の勢いの暴言事件は、いっさい阿片と無関係になるわけですが・笑)

と最後にちょこっとフォローでお手伝いさせていただいた点をのぞけば、
そのほかすべて、yu-さんの卓越した考察をお伝えするだけのザ・他力本願110%記事
だったりしますが(笑&汗)、この「文久3年説」はどうしても多くの方々にお伝えしたかったのです。
わたしにいただいたメールだけで一人占めするには、もったいなすぎる情報でした☆

なによりも、今回こうしたメールをいただいて、心底、幕末ブログ冥利に尽きる!
有り難いことだ、としみじみ嬉しかったのです。
細々ながら、偏った幕末情報を中心に発信してきたうちのブログをみてくださって、
そしてご自分でこつこつ調べて積んでこられた検証の大切な結果を、
うちのブログを信用してくださって、お知らせ頂いた。
いろいろあったけど~~~~、ブログ続けてきて良かったなぁぁぁと、
ホントに嬉し涙がちょちょ切れました(笑)。

yu-さんは松平容保公と徳川慶喜公が大好きでいらっしゃって、
ご自分で調べたことを容保公の日記として「yu-@京都守護職日記」というブログに
書きためておられる途中とのことで、今回メールでいただいた内容もブログのほうに
さらに詳細にまとめられておられるそうです。
まだブログのほうはまだ未公開ということですので、今回はリンクをはれませんが、
いつか公開される日を楽しみに待ちたいとおもいます♡

最後に今一度。
yu-さん、ありがとうございました☆
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by aroe-happyq | 2013-11-04 10:17 | 江戸城の大旦那 | Comments(13)